ACT・4... 『学園裏の森』



 斎木学園の裏手には、ちょっとした森が広がっている。
 町と、山とを隔てる形で広がっているその森の一角を開拓して、この学園が創立されたのだ。

 不思議な森であった。

 もともとこの学園の創立者が、星の位置やら、方位学や地相やら様々な悪条件にあることを承知で選んだのだから、その周りを囲むこの森も、少なからずまともな場所であるはずもない。
 面積で言えば、さほど広くないにも関わらず、たまに道に迷って遭難する人が出るという、一種のオカルトゾーンである。
 その他にも、夜、人気がないのに光が見えたとか、絶滅したはずの日本オオカミの遠吠えを聞いたとか、あやしい話題のネタは尽きない。
 学園創立以降は何の開発もされていないため、ほとんど手つかずの自然が残っている事から、そんな噂が出るのかもしれないが、現代の日本で絶滅しつつある、原始のままの森であるという点では、とても貴重な場所であると言えよう。

 その中の、獣道のような道ともいえない道を、ずんずん乱丸が歩いていく。

「ちょっと、もう少しゆっくり歩きなさいよ」
 その後を、よたよたと弥生と和美がついていく。
 袴とスカート姿の二人である、こんな道は当然歩きづらい。

「うるせえな、ついて来なけりゃいいだろうが」
 ぶつぶつ言いながらも、それでも彼なりにスローペースで歩いているらしかった。
 静寂に包まれていた森が、三人の少年少女の出現で、急ににぎやかになっていた。
 原始の森の持つ緑のエネルギーと、十代の彼らのエネルギーが互いに感応し合っているのだろうか。三人の若さが周囲の木々にまで刺激を与えて、葉ずれのざわめきを増やしているような気さえするほどであった。

 歩きながら、乱丸と弥生が一言ふた言やりとりする。
 湿った足場のため、滑ったりつまずいたりする度に和美が小さく悲鳴をあげる。
 高いところで木の枝がこすれ、ざわめく。

 まるで三人の様子を見て、森の木が笑い声をあげているようだ。

 この辺まで森に入り込めば、もう町の音は聞こえない。
 そろそろ、人が普通生活している空間とは切り離された、別世界のような独特の雰囲気が流れ始めてきた。

「弥生さん、あたしこの森にこんなに入り込んだの初めてです」
 慣れない森の中の道に、悪戦苦闘しながら汗びっしょりの和美がつぶやく。
「そうねえ、あたしもこんな所まで来たことないわ。乱丸、あんた自殺志願者じゃあるまいし、一体どこまで行くつもりよ?」
 弥生も、一旦足を止めて袴の袖で顔の汗を拭った。
 片手で箱を持ち、片手で頭をばりばり掻きながら、乱丸が振り向く。

「あのなあ、勝手について来てて、ぶつぶつ小言を言ってんじゃねえ。オレは観光ガイドじゃねえんだぞ」
 こめかみに、青スジが浮いている。
「今からオレは、自分の命に関わるような大仕事をやろうとしてるんだ、期限つきのな。のろのろしてるヒマはねえんだよ!」
 そう言って、くわっと牙を剥いてみせ、再び乱丸はずんずん歩きだした。

 弥生は、ふん、と鼻を鳴らし、
「だからって、説明もなしに人の頭ん中いじられたんじゃたまんないのよ。何をしようとしてるのか、しっかり見届けさせてもらうからね」
 と、弥生も早足で乱丸の後を追い始めたので、和美は「ひー」と言いながらあわててついていく。

 そこからさらに深く森の中に分け入っていき、ようやく乱丸は立ち止まった。

「おい、着いたぜ」
 ほとんど汗もかかず、乱丸は平然としているが、後ろの二人は蒸し暑さに全身汗だくだ。八月末の、ジャングルみたいな森の中を歩いてきたのだから、これが当然だろう。
 ひいひい言いながら、顔を上げる。
 すると、そこにはぽっかりと不思議な空間が広がっていた。

「うわあ……」
「すごい」
 思わず少女たちはため息をついた。

 そこに、一本の巨木がどっしりと根を張っているのだった。

 道なき道がそこで途切れて、円形の広場になっている。まるで、その巨木に遠慮するかのように、周りの木が場所を空けている。
 そんな感じの空き地であった。
 立派な木である。

 太くて、大きい。

 一体、樹齢何年を経れば、これだけ大きな木が育つのか、弥生と和美には想像もつかなかった。

 呆けたように口を開けて、高くそびえる頭上の梢を見上げる。
 葉の間から、優しい光がちらちらとこぼれているのを見ているだけで、感動的な気分になる。神々しさのような雰囲気が、この巨木の周囲には存在していた。まるで、別の次元に足を踏み入れたような気になってしまう。

「久しぶりだなあ、『長老』」
 乱丸が近づいていき、苔のはりついた幹をぺちぺち叩く。
 すると、まるであいさつを返すように、頭上の枝が葉ずれの音をさせる。
 目を細めて、乱丸は巨木を見上げた。
「悪ィけど、またひとつ世話になるぜ」
 そうつぶやいて、その太い幹の目の高さぐらいの部分にぽっかり空いた『うろ』の中に、『マリーの箱』をそっと置いた。
「これでよし」
 満足気に言うと、乱丸は振り向いた。

「“これでよし”って……こんな事で何が起こるっていうのよ?」
 鼻歌まじりで巨木から離れる乱丸を追いながら、弥生が口をとがらせる。
「そうですよ、“命に関わる大仕事”ってさっき言ってたじゃないですか、そんなにのんびりしてていいんですか?」
 和美も、乱丸の顔を覗き込む。

 確かに、“のろのろしてるヒマはねえ”とか言った割りには、ここに至って随分のほほんとした態度である。
 二人は乱丸の考えている事、やろうとしている事の予想が全然できずに戸惑った。
 円形広場の端まで来たところで、乱丸はおもむろに座り込み、さらにごろん、と横になってしまった。

「まーな、はた目にはのんびりしてるように見えるかもしれねえけどよ、こいつはまぎれもなく真剣な行為だし、オレの命がかかってるってのもウソじゃねえ」
 この言葉が本気なのか冗談なのか、言いながら乱丸はあくびなどしている。

「その顔のどこに真剣味があるってのよ」
「ま、そう言うなって、こいつはお前からヒントをもらったんだぜ?」
「はあ? あたしが?」
 びっくりして弥生の片眉が上がる。

「おーよ、オレは今ある獲物を追っかけてる最中なんだけどよ、この広い世の中で、どこにいるのかも判らねえ奴を闇雲に探し回ったって合理的じゃねえし体力のムダってもんだ。第一、絶対見つかるって保証はどこにもねえ。そこで、さっきのお前の話だ、お前は気まぐれなあの安芸文太郎が自分から姿を現すまで待つ、って言ってたよな? それを聞いてピンときたのさ、探して見つからねえんだったら、向こうから姿を現すように仕向ければいいってな」

 これこそグッドアイディア、といわんばかりに、乱丸はにやついている。
 弥生は肩をすくめた。その影から和美がおずおずと顔を出す。

「それで、妖しげな箱にあたしたちの頭の中から抜き取った『夏の思い出』を入れて、あの木のうろに置いたっていう一連の行動にはどんな意味があるんです?」

「ああ、ありゃあ要するに獲物をおびき寄せるためのエサさ。待ち伏せを仕掛けるんなら、対象が思わず釣られて顔を出さざるを得ないきっかけが必要だからな。ところでお嬢ちゃん、例えば獣を罠で捕まえるためにはどんな工夫が必要だと思う?」
 からかうような口調で、乱丸が和美に問いかける。
 和美は、不意の質問にどぎまぎしながら、

「え、えーと、おいしそうなエサが必要なんじゃないでしょうか」
 伺うように、思った事を口にしてみた。
 だが、その和美の答えに対して、乱丸はチッチッチッと指を振った。

「確かにうまそうなエサは必要だ、匂いに釣られて引き寄せられるからな。けど、警戒心の強い野生の獣は、それだけじゃなかなか罠にかかっちゃくれねえんだな、これが」
 えらそうに乱丸は、腕まくらのまま講釈をたれはじめた。

「まず、奴らは匂いに敏感だ。これはオレたち人間が想像する以上に、奴らにとっては重要な目印だ。個体の識別を行うのに、人以外のほとんどの動物は、視覚よりも嗅覚が優先する。嗅ぎ慣れない匂いなんかは、たとえごちそうだったとしても、奴らは警戒を解かねえのさ、そんな時は当然罠にもかからない。だから、逆に獲物が安心するような匂いを、罠に染み込ませとけばいいってことになる。例えば、そいつ自身の匂いとか、身内の匂いとかだな」
「へえ……」
 目をぱちくりしながら、和美は乱丸の話を聞いていた。
 弥生は何だか、納得のいかない顔で眉をしかめている。

「で、結局あんたがあの箱を使っておびき寄せたいモノって、何なのよ?」
 気の短い弥生にとって、乱丸の回りくどい説明は、未完のまま中断しているミステリー小説のように、消化不良であるらしい。
 もっと、単純明快に答えが知りたいのだった。
 だが、そんな弥生の性格を知り抜いているのか、乱丸は意地悪くニヤニヤ笑って、

「まあ、とにかく待てよ。首尾よくそいつが姿を現したら、もう少し説明してやるからよ」
 そう言って、両手を頭の後ろに組んで、草の上に完全に寝そべって目をつぶってしまった。

「今、お前らに本当の事を話したって、理解できやしねえよ」
 ぽつりと、二人に聞こえない大きさで、乱丸はつぶやいた。
 と思うや、すぐにすー、すー、と寝息をたて始めたので、弥生と和美は顔を見合わせて、仕方なくその場に座り込んだ。

「まったく、訳判んないヤツねえ」
 ふう、と弥生、大きくため息をつく。
 全然合点のいかない乱丸の行動と態度に、すっかり呆れ返ってしまっている。
 何だか、乱丸に付き合っていると、とてもバカにされているような気がしてくるのだ。

 ただ、それが気に入らないのだったら、昼寝を始めた彼をほっぽって、さっさとこの場を立ち去ることも出来るはずだが、弥生はそれをしそうになかった。

「ま、こいつの周りじゃ、何かしら珍しい物や面白い物が見られるからねえ、ヒマつぶしには丁度いいかもね」
 そう言う弥生の顔を、和美はきょとんとして見つめた。そして、ちらっと巨木のうろに置かれた謎の箱を見る。

 果して、これから何が起ころうとしているのか? それを考えると、軽い期待感が和美の中に満ちてくる。

 とても退屈だった夏休みの午後が、急にときめきに満ちたものに変化していった。

      ☆       ☆       ☆

 乱丸が昼寝に入り、弥生と和美も無言になった。
 ただ、ぼんやりと巨木と箱を眺めているだけである。

 時間だけが、静かに流れていく――――。

 と言っても、森の中の静けさというものは、完全な無音状態という訳ではない。弥生と和美も、この沈黙は別に気にならなかった。 むしろ、心地よさを感じている。

 風が流れていく音。
 どこかで流れるせせらぎの水の音。
 ざわめく木の葉。
 小鳥のさえずり。
 虫の羽音――――。

 我々が『静か』と感じている中に、これだけの音が存在しているが、しかし、それらは決して煩わしい雑音とは感じない。

 また、空気もいい。

 夏後半の、濃い緑色をした植物たちの瑞々しい芳香。そして、それらが生み出す新鮮な酸素。足元には、何十年、何百年と積み重なった腐葉土の、湿りけをを含んだ柔らかな感触と、生々しい土の匂い。
 それら全てが渾然一体となって生まれる涼しさが、森の息づかいとなって、訪れる人間を優しく包んでいく。
 思わずうっとりした気分になってしまうほどだ。

 何か、現代人が忘れているものを、思い出すような感覚が『森』という空間には存在していた。

 考えてみてば当然の事かもしれない。

 人間は、自然の中に生まれた生物である。本来生物は自然の枠の中で生きるものだけれど、人間は自らが生み出した『文明社会』という“不自然”の中で生きる事を選んだ。
 そのことには、元々無理があるのだ。

 生物は、自然界のシステムに従ってしか生きられないのに、自然と切り離された世界に人間は閉じこもろうとしている。それは、生物として孤独な存在に成り果ててしまうことだ。
 だが、ひとたび人間の社会を離れて、ここのような場所へ足を踏み入れてみれば、目からウロコが落ちるような印象を受けるのだ。 即ち、『この世は、生命に満ち溢れている』ことの再認識。

 群生する木々はもちろん、空気の中にも、植物の胞子などの形で生命が存在する。
 また、葉の上に溜まった、たった一滴の水滴や、足元からすくい取った一握りの土の中にすら、無数の微生物が蠢いているのだ。
 それら目に見えないちっぽけな生命が、濃密に我が身を包み、自分も自然の中に生きる生命体の一つである、というごく当たり前の事を再認識し、感動する。

 それは無意識の感覚だが、本来自分が居るべき場所ということを本能が思い出して、心地よさを感じるのである。

 とても長い沈黙は、まだ続いている。

 頬を撫でていく風も、穏やかだ。

 ふと、腕時計を見ると、『午後三時五分』
 一体、どのくらいこうして森の中にいただろうか。

 長い、長い午後であった。

 そう感じつつも、もっとここでぼんやり過ごしてみたいと思う。

……あふ。

 段々と、身体がふわふわしてきた。
 だんだんと、時間の感覚が、あいまいになっていく……。

 まるで、
 自分が、森の空気の一部と化していくような……。

 まるで、
 身体が、森の空気に溶けてしまいそうな……。

眠………。



 と、
 その時、
 目をつぶっていた乱丸の唇が、にやり、とつり上がった。

「来た」
 ぽつりとつぶやき、片目を開ける。
「え……」
 いつの間にかうとうとしていた弥生と和美が、はっとして目を覚ます。
 それを見て乱丸は、人指し指を口元に持っていき、“静かにしていろ”と目配せした。
 二人は、何かとてつもなく張り詰めた気配を乱丸から感じて、息を潜めて身体を緊張させた。

 すると、森の中から、あらゆる音が消えていく――――。

 あたかも、森自体が息を潜めたかのごとく、真の無音になった。
 乱丸たちのいる場所が、不思議なムードに満たされていった。

 そして……、
 現れたのは、チョウであった。

 音もなく、素肌にすら感じないほどのわずかな風に乗るように、一匹のチョウが、ゆっくりと木々の間を舞って来たのだった。

“うわあ……”
 二人の少女は、そのあまりにも優雅な色合いに見とれた。

 『青』であった。

 今まで見た事もないような、完全なる『青』。

 あまりの美しさに、形容する言葉が見つからないほどだ。
 いや、
 そうではない。
 見た事がある。

 それは例えるなら、海の色、空の色、……地球の色だ。

『根源の青』
 最も自然な色であるがゆえに、最も美しい――――。
 そんなきらめきを持つ青色だった。

 その『青』に彩られた羽根を動かし、ゆっくり、ゆっくり、時間をかけてチョウは飛ぶ。
 何かに引きつけられるように、甘い匂いに誘われるように、長老の木へ近寄っていき、そのチョウはやがて『マリーの箱』に辿り着いた。
 箱の表面に舞い降り、羽根をしきりにゆらゆらさせながら、考え込むように歩き回る。

「あっ!」
 その時、和美は思わず叫んでいた。

 『箱』が急にひとりでに開いて、表面を歩いていたチョウを、その中に取り込んでしまったのだ。

「何、今の!」
 弥生も、目をぱちくりさせる。
 今の瞬間、箱の中から白い手がにゅっ、と伸びてチョウを捕らえるのを彼女たちは見ていたのだ。
 がちゃり、と音をさせて、箱は再び閉じてしまった。

――――冗談のような、ワンシーンだった。

「乱丸、あんた要するにあのチョウが目当てだったって事?」
 袴の袖で額の汗を拭いながら、全身の緊張を解いて弥生がため息をつく。

「確かにきれいなチョウだったけど、目の色変えて追いかけ回すほどの価値があるもんなのかしら……」
 やや弥生には拍子抜けだったようである。
 乱丸の身の回りに起こる“面白い事”というのに、彼女は大分期待していたのだろう。
 珍種の、マニアならいくらでも金額を積むような価値を秘めたチョウが現れたとしても、それは弥生の言う面白い事には、値しないらしかった。

 気まずいのか、乱丸はそんな弥生の言葉にも、身じろぎひとつしない。

「やれやれ」
 弥生はひとりごちながら立ち上がり、背伸びをする。
 その時だった。

 ざあっ。

 森が、ざわめいた。
 風ではない。それなのに、木々の葉が音を立てている。

 何か!?

 そう思った途端――――、
 さああああ、と何かがこすれるような音が近づいてきた。

「きゃっ!」
 立っていた弥生が頭を抱える。
 チョウであった。
 さっき箱に捕らえられたのと同じ、青いチョウが、群れをなして集まってきたのだ。

 音をたててチョウたちが、ひとつの流れとなって弥生の脇をすり抜けていく。
 目標は長老の木だ。それを中心にして、無数のチョウが渦を巻くように舞っている。
 それはまるで、つむじ風に巻き上げられた青い花びらのようにも見える。
 その光景の、何と幻想的なことか。

 出現の唐突さに面食らいはしたものの、落ち着いてみれば、このチョウたちが何ともはかなげな存在である事に、弥生と和美は気づいた。
 指先で触れただけでも、淡く消え去ってしまいそうなほど、ぼんやりとしている。

………妖精?

 あるイメージが閃いた途端、和美の内部に不思議なエネルギーが流れ込んだ。
 はっと目を見開く。それを感じた次の瞬間には、もう言葉が口をついて出てきていた。

「乱丸さん! このチョウたちは困っています。あの箱に捕らえられた最初の一匹を助けようとしてるんですよ!」
 地面に膝をついたまま、和美はチョウの群れを指さした。

「可哀相ですよ、早く出してあげて下さい!」
 今度は乱丸が、びっくりしたように目を見開く。

「なんだあ? お前、こいつらの言葉が判るなんていうんじゃないだろうな?」
 そのやり取りを聞いた弥生が、口をはさむ。

「乱丸、初対面だから知らないでしょうけど、この相沢和美ちゃんは超能力者よ、とはいえここんとこ、その力は使えなくなっていたはずだけど……」
「なるほどテレパシーか、それならこいつらと意思が通じ合えてもおかしくはねえな」
 ふうん、と乱丸は頷いた。

 どういう訳か、この場になって突然ESPが復活した和美であった。もともと、飛んでるヘリコプターや、襲ってくる戦車すら叩きつぶすほどの能力を持ちながら、その巨大な能力をコントロールできない不安定さがあったため、使えたり使えなかったりというのはこれまでもよく経験している。
 いつも、何かの拍子に回復するので、今回もたまたまタイミングが合ったという事なのだろう。

「そんな事は、今はどっちでもいいでしょう? 早く助けてあげて下さいよ!」
 精神感応によって、ダイレクトにチョウたちの想いが届くのか、普段はおとなしい彼女の口調が、珍しく強い調子になっている。

 だが、
 さああああ……、と羽音を響かせているチョウの群れをちらっ、と見てから、乱丸は首を横に振った。

「それはできねえ」
 あっさりと言う。
 その態度に、今度は弥生がむっとした。

「ちょっと乱丸いいじゃないの、いくら珍しくたってたかがチョウなんだから、今は自然保護が最も重要な時代よ?」
 指まで突きつけて説教を始めた弥生に、乱丸は苦笑する。
 と、不意に、彼の目が不思議なきらめきを見せた。

「弥生……、お前の言う“面白い事”ってヤツが、今から見れるぜ少しおとなしくしてろよ」
 何か、肉眼では見えないものでも見ているように、乱丸の目の光が強くなる。それと共に、唇が笑いの形にめくれ上がり、たくましい歯をのぞかせていた。

 ごく。

 その迫力に、弥生も和美も黙り込む。
 そして、何かの気配のようなものを背後に感じて、ゆっくり彼女たちは振り向いた。
 乱丸の視線も、そちらを見ていたのだ。

「あ……」
 和美が小さく声をあげる。
 青い光の乱反射のように群れ飛ぶチョウたちの向こうに、静かに一人の少女が立っていたのである。

      ☆       ☆       ☆

 白い大きな帽子に、白い服……。

 少女は無言でこちらを見ていた。

「え……えと……」
 弥生が口ごもる。
 一体いつからそこにいたのか、少しも近づいてきた気配が感じられなかった。
 いや、今こうして見つめていても、本当にそこにいるのか自信がなくなるほど、気配の希薄な少女である。まばたきすれば、次の瞬間にはそこからいなくなってしまいそうな雰囲気を持っている。
 にこりともせず、黒い瞳で見つめ、黙ったままだ。
 その周囲を舞う、おびただしい数の青いチョウたち。
 まるで、シュールなイラストのような光景が、そこに存在していた。

「………」
 夢の中から現れたようなその少女は、無言で『箱』を指さした。

 さささささ……。

 チョウたちの羽音が高くなる。

「あなた……」
 髪を片手で整えながら、弥生がつぶやく。
「そのチョウを助けたいの?」
 弥生の問いには答えず、大きな瞳で少女は弥生の目を見返した。

「………?」
 全て、無言のままであるため、弥生は少女が機嫌を損ねているのかと思った。
 先に気づいたのは和美であった。
「弥生さん、この娘、口が……」
「あ……」
弥生が、はっとして口元に手を持っていった。

 テレパシーを使える和美は、意図して他人の心を覗こうとしなくても、自然にある程度の思考は流れ込んできてしまう。
 相手が、強くあることを念じていればなおさらである。

 今もそうだ。
 物静かな雰囲気とは裏腹に、この少女の内部には様々な想いが渦を巻いていた。
 我知らず、和美は自分の胸元で両手を握りしめていた。

「アノコヲ、返シテ……」
 ひとりでに和美の口が動き、ぽつり、ぽつりと言葉をつむいでいく。
 少女から流れ込む思考を、無意識のうちにダイレクトに通訳しているのだ。
「……行カナクチャ……」

「行く? どこへ?」
 思わず、弥生は聞き返した。
 すると、少女の瞳の光が初めてゆらめいた。彼女の言葉を、和美の口が代弁する。

「ワカラナイ」
 切なく、苦しげな言葉であった。
「……ワカラナイ」

「判らないって、あなた……一体どこから来たの? 名前は?」
 迷い子か、と弥生は思った。
 この森で道に迷うことは珍しくない。この娘もその一人かと思ったのだ。

 だが、

 その雰囲気、群れ飛ぶチョウ……ただ者であるはずが、ない。
 和美が頭を振った。

「だめ、弥生さん、この娘自分が誰なのか判らないみたいです」
 改めて少女の顔を見つめ、片手で胸を押さえる。
「この娘の頭の中には、見た目以上に強い想いが溢れています。何かをおそれ、そして、あせってるみたい」

“……行カナクチャ……”

 無表情な少女の周囲で、ささささ、とチョウが音をたてる。
 弥生と和美の背後で、のっそりと乱丸が立ち上がったのだ。
 ばりばりと頭を掻きながら、にっ、と笑みを浮かべる。

「ようやく会えたな……いや、正直な所、まさかこんなに早く現れるとは思わなかったけどな」
 言いながら、指で鼻の頭を掻く。
「乱丸、あんたこの娘の事知ってるの?」
 という弥生の問いには答えず、乱丸の目は真っ直ぐ少女を見つめていた。
 その視線を、少女はあくまでも表情を変えずに、受け止める。

「ま、考えてみれば、お前らみたいなのが、『こっち側』の世界で行く当てをなくしたら、ここみてえな場所を頼りにやってくるしかねえもんなあ」
 弥生と和美には、まるで判らないことを乱丸は言いはじめる。

――――お前らみたいなの?
――――行く当て?

「乱丸……?」
 覗き込むような弥生に、ようやく乱丸が反応する。

「そうとも、オレはこいつの事を知っている。また、この『箱』もチョウを捕まえたのも、全てこの娘がここへ姿を現すようにするための仕掛けさ」
 ますます判らない。
 するとその時、また和美がぴくん、と身体を震わせて、言葉を紡ぎ出した。

「ワタシヲ、知ッテルノ?」
 無表情な少女の瞳に、光がゆらめく。それに伴い、チョウ達もざわめく。
 乱丸が頷いた。

「オレだけじゃない、お前の正体はこの二人だって知ってるぜ」
 びっくりして、弥生と和美は顔を見合わせた。

「え……?」
「乱丸、私知らないわよ、初対面だと思うけど?」
 ぶんぶんと首を振って否定する二人に、乱丸は、

「そうじゃねえ、お前ら思い出せねえだけさ、彼女をよく見てみろよ。何か感じないか?」
 意味ありげに言う。
 弥生と和美は、言われた通り少女をよく見つめた。

 白い帽子、白い服の清楚な感じの少女……。

 群れ飛ぶ青いチョウ……。

 とても、幻想的である。

 だが、その光景をほんのわずか視線をずらして、……つまり、見
た目の持つ幻想美を取り除いて見てみる。

 すると、
――――感じる。
 潮風を。あの夏の日の、熱い風を。

――――聞こえる。
 緑の中で、やかましく鳴くセミの声。
 照りつける灼熱の太陽。抜けるような青空。でっかい、入道雲。

山盛りのかき氷。海、プール、山、キャンプ場……汗、汗、汗。

 意識を込めて見つめた途端に、こんこんと二人の内部に溢れてくるものがあった。
 弥生と和美は、その瞬間、白い少女の中に大いなるイメージを感じ取ったのであった。

「感じたか、お前ら?」
 夢みるような表情で少女を見つめる二人の背後から、乱丸は近づいていった。
 二人の肩に、ぽん、と手を乗せる。
「こいつはな……」
 乱丸は、二人の耳に息を吹き掛けるような仕種で囁いた。

「『夏』だ」

 と。


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