ACT・8... 『魔界へ』



「あなた、なんて下劣な真似をしてくれるのかしら!」
 ごうごうと、中庭の空を風が渦巻く中、どこからともなく狂男爵の声が響きわたった。

「やっと出やがったな、オカマバロン!」
 してやったりと、乱丸はほくそ笑んだ。かなり乱暴な手続きだったが、まんまと引きずり出すことに成功したのだ。
 怒りに震える狂男爵のきんきん声が、闇の空に響く。

「あたしのハニーが、何したっていうの? 芸術家のハートは、とってもナイーブでガラス細工のように脆く繊細なものなのよ! それを、よくもここまで汚らわしく踏みにじってくれたわね、許さないから、キーッ!」
 狂男爵の声に合わせ、壁の影もゆらゆらと動く。

 それを見て、突然乱丸は頭を下げた。土下座であった。

「その通り、オレはグリューネヴァルトには何の恨みもねえ。それなのに、オレはあいつの作品を・・・・・・取り返しのつかない事をしちまった。実際、それについては、オレが全面的に悪いと思う。この通り、お詫びするぜ」
 地面に額をこすりつけるほど頭を下げて、彼は心から謝った。
 見ている者全てが呆然とする行動であった。
「すまなかった」という一言を聞いて、影はもうくるくる暴れるのを止めた。影の世界の住人ですら、あっけにとられてしまったのかもしれない。

「・・・・・・謝るくらいなら、何であんなことそするのよ? 今更命乞いでもしようって言うのかしら?」
 狂男爵の声が響く。

「乱丸」
「乱丸さん・・・・・・」
 弥生と和美が、とまどったつぶやきをもらす。
 京平も、黙って成り行きを見つめていた。
「何とか、お言い!」
 高い声とともに、ごおっ、と風が乱丸の背中に吹きつける。
 土埃が、ぶわっ、と舞い上がった。

 く、く、く、く・・・・・・
 小さな含み笑いが聞こえてきた。土下座をしながら、乱丸は笑い声をあげているのだ。

「何がおかしいのよ?」
 どこかにいる、狂男爵のカンに触ったらしい。
 空中で、蛇が身もだえするように、吹きつける風がごうごうとうねっている。
 乱丸は、ふてぶてしい表情で顔を上げた。
「命乞いなんざ、しねえよ」
 狂男爵の言葉を鼻でせせら笑い、その場であぐらを組んで、空を見上げた。

「オレを殺してえんなら、今ここへ姿を現せよ。逃げも隠れもしねえぜ、首を洗って待っててやらあ」
 手刀で、首を切る真似をしてみせる。不敵な宣言であった。
 狂男爵たちの実力は、さきほど嫌という程思い知らされたというのに、自信たっぷりの態度であった。
「・・・・・・・・・」
 狂男爵が、黙り込んだ。

「どうした? 憎ったらしいオレをぶち殺して、お抱え画家のご機嫌を直してやっちゃどうだい?」
 小馬鹿にした目つきで、挑発を続ける。
「どうしても、アタシをそこへ引きずり出したいようね、ボーヤ。その手にはのらないわ」
 きっぱりと狂男爵に手の内を見透かされて、乱丸は「あちゃ」と片目をつぶった。

「でもカン違いしないで頂戴、そちらへ行っても、あなたの首をちょん切るくらい訳ないわ。でもアタシ、荒っぽいことキライだし、実は、あなたの首よりも欲しいものがあるのよ・・・・・・」
 意外なことを、バロンは言いだしたので、乱丸は頭をばりばりと掻く。
「それを差し出してくれるなら、アナタの命、助けてあげてもいいわよ?」

「何だ、そりゃ?」
 うふうふ、と狂男爵は笑った。
「青虫を取り込んだ『マリーの箱』、それを差し出せば、あなたの命は取らないでいてあげるわ」
「・・・・・・・・・」
 今度は、乱丸が黙る番であった。

「ね? たかが呪われた箱一個で、大事な命が助かるのよ?」
 きんきん響く声が、校舎と校舎の間にこだました。
 その気色悪さに、思わず弥生と和美は耳を押さえてしゃがみ込んでしまう。
 乱丸と京平は平気な様子で、互いの顔を見た。
「京平、あの箱は?」
「生徒会室です。机の上ですよ」
 静かに京平が言った途端、上空の風が、ごう、と一筋の流れとなり、渡り廊下の入口から校舎の中へと流れ込んで行った。

「ちっ!」
 舌打ちして、乱丸もその後を追いかけ始める。
 へたり込んだ弥生と和美の頭上を飛び越え、校舎の中へ駆け込んでいった。

      ☆       ☆       ☆

 風は、意志ある生き物のように廊下を走り、一気に生徒会室までたどり着いていた。
 止め具ごと吹き飛ばす勢いでドアを開け、室内に風が流れ込む。

 あった。

 机の上に、ちょこん、と『マリーの箱』が置いてある。
 ぐるぐる円を描くつむじ風は、すぐさまその箱を運び去ろうと襲いかかり、そして次の瞬間、目に見えない衝撃を受けて散り散りに霧散していた。

「うう!?」
 どこかで、狂男爵のうめき声が聞こえる。
 彼にも理解不能な力が、風を弾いたのだ。
 見ると、箱の蓋が開き、中からのぞいた青白い手が天に向かって中指を突き立てていた。

「な・・・・・・」
 呆然とした、狂男爵のつぶやきが響く。『手』は箱の中に消えていった。
「残念だったな」
 その時には、もう乱丸が追いついて来ていた。
 何百メートルも全力疾走してきたのに、息も乱していない。

「その箱にとりついているマリーってヤツは、相当気難しいヤツでな。気にいらないと思った相手には、指一本触れさせやしねえぜ」
 つかつか歩く乱丸の頭上で、再び風が渦を巻き始める。
 あっさりと箱を持ち上げて、乱丸は天井を見上げた。

 彼の言うとおり、この箱はまさにジャジャ馬なのだ。
 例えば、一人の勝気でわがままなお嬢さんを、いきなり手を引っ張って、さらおうとしたらどうなるか? 当然大暴れしてついて来てはくれないだろう。おとなしく言うことを聞かせるには、高価なプレゼントをあげたり、面白い話を聞かせて、手なずける事が必要だ、それと同じである。
 乱丸は今日、この箱にいくつもキレイなプレゼントをしている。

 弥生と和美の『思い出』。
 輝くような青い羽根を持った『青虫』。

 とにかく、何か美しいものや宝石などを与えれば、マリーはご機嫌になり、持ち主に少しのラッキーを与えてくれるのである。しかし、一度ヘソを曲げたら、持ち主が破滅するまで不幸を招き寄せるのだ。
 そういった事から、乱丸はまだ今のところ、この箱に気に入られているらしい。逆に、急に持ち去ろうとした狂男爵には、頭にきているらしく、魔力をもって近づくことすら封じたのであった。

「こうなるとこいつは頑固だぜ、ましてや、一度中に取り込んで、彼女のコレクションに加えられた青虫を引っ張りだすなんて、あんたにゃとてもムリだな」
「では、あなたならできるとでも言うのかしら?」
 待ってましたとばかりに、乱丸の口元に会心の笑みが浮かぶ。

「オレに盗めないものなんてねえんだよ。こんな箱を攻略するのなんざ訳ねえぜ」
 自信に満ちたセリフであった。
「どうだ、てめえはこの中の青虫が欲しいんだろ? ここは一つ、冷静に取引といこうじゃねえか」
「取引?」
「おう、お前のさらった『夏』と交換するなら、この中から青虫をうまく取り出してやるぜ」
「・・・・・・・・・」

 この時になって、ようやく弥生、和美、京平の三人が追いついてきた。どかどかと、入口の所へ飛び込んでくる。
「あ、乱丸が箱持ってる」
「どうやら、大丈夫だったみたいですね」
 目に見えない存在と会話をしている乱丸を見て、肩で息をしながら二人はほっとした。
 それに構わず、乱丸は言葉を続けた。

「それがイヤだっていうんなら、オレはこの箱を夏見のスーツケースに放り込むぜ。誰も手の届かない、永遠の混沌の中に封じ込めちまうけど、それでもいいのかよ?」
 ずい、と目の高さの空間にマリーの箱を突きつけて、乱丸は強い口調で問いかけた。
 天井では、まだ小さなつむじ風がぐるぐる回転していた。
「別に、その箱の中の青虫じゃなくても、別のを見つけられればいいんだけど、そいつは精霊界でも幻の生物と言われてるくらい、どこで生まれてどこへ消えていくのか判らないヤツらなのよねえ」
 狂男爵はため息まじりで、悩んだ。

 『闇』のアトリエで待つお抱え画家は、一刻も早く絵の具を手に入れたいと要求しているのである。彼のご機嫌を損ねるのは、狂男爵にとって一番厄介な問題であるのだ。
「困ったわねえ、『夏』と青虫、どちらが欠けても意味がないのよね、アタシは両方欲しいのよ」
 狂男爵は、乱丸の申し出には納得いかないらしかった。
 『夏』を描く絵の具の原料として、青虫が必要なのだ。青虫を手に入れるために、『夏』を手放したら何にもならない。
「なら、オレを殺すがいいさ」
 あっさりと、乱丸は極端な申し出をした。

「この箱は、今のところオレを所有者として認めているから、てめえを認めねえんだよ。オレが死ねば、こいつも新しい所有者を探し始める。その時が、チャンスだぜ」

「乱丸、何てことを言いだすのよ!」
「そうですよ、他に何か良い考えが・・・・・・」
 血相変えて騒ぎだした二人を、乱丸は手で遮った。
 ちら、と京平の顔を見る。
 涼しげな瞳で、京平は見返した。まるで、心の中を全て見透かしているように、深い色をたたえた目であった。
 すぐに、乱丸は視線を天井に戻す。
「どうだ!?」
 すると、つむじ風がみるみるうちに消えていった。
 代わりに、うふうふという狂男爵の笑い声が部屋中に響く。

「そんな簡単な方法があるなんてね、アタシもうっかりしていたわ・・・・・・」
 心底嬉しそうであった。
「おう、オレの首が欲しいけりゃここへ来い!」
 開き直りか、乱丸が叫ぶのを、京平は静かに見守っていた。

 しばらく、何も起こらなかった。

「どうした! オカマバロン?」
「ら、乱丸!」
 うわずった弥生の声が、乱丸を振り向かせた。
 すると、油絵の『扉』がわずかに開いて、向こうの世界へ続く廊下を隙間から覗かせていた。
 あり得ない空間を。

「ちっ、てめえが来いって言ってんだろ、横着モンめが」
 ぶつぶつ言いながら、乱丸は手に持った箱を、会長卓に置いた。 京平が、じっと見ている。
「おう京平、後は頼むぜ」
 右手の人指し指と中指を立てて、にやっ、と笑ってみせ、扉のノブに手をかけた。

「ちょっと、乱丸、本当に行くの?」
 青い顔をして弥生が聞いた。
「あん? オレがいなくなると、そんなに寂しいかよ」
「茶化してる場合じゃないですよ、せめて皆で行けば・・・・・・弥生さんは強いし、あたしも超能力者だし、少しは役に立つと思いますよ」
 和美も訴える。その肩に、そっとあたたかい手が置かれた。
 はっとして顔を上げると、京平の美しい顔がそこにあった。

「生徒会長さん・・・・・・」
「行かせてあげなさい、彼は天才ドロボウですからね、必ず狙った獲物を手に入れるはずですよ」
「でもね!」
 まだ弥生が何か言おうとしたが、すっ、と京平の目が細まったのを見て黙り込む。
「それに、もし本当に死んでしまっても大丈夫、ボクが生き返らせてあげますから・・・・・・」
 低い声で、冗談とも本気ともつかぬ事を、京平は口走った。

「そりゃ心強いや! 頼りにしてるぜ、魔法使い」
 こちらも、同じ調子で乱丸が答える。
「じゃあな」
 と、言い残して、乱丸はためらうこと無く扉の向こう側へ身を滑り込ませて行った。

      ☆       ☆       ☆

 薄暗い空間が広がっていた。

 日の当たる昼の明るさでも、月明かりの無い夜の闇でもない。言うなればその中間、明け方や夕暮れ時のぼんやりとした感じ、そんな雰囲気の広大な空間が、目の前に広がっている。

「さて、と、どこに行けってんだよ」
 乱丸は大きくため息をついた。
 目を凝らせば、はるか彼方に地平線らしきものが見えるだけで、他には何もない、ただ真っ平らな地面が四方に広がっている。
 これが例えば砂漠なら、砂の盛り上がりで風景に変化が見られるが、ここにはそれすらも無い。
 砂漠よりも寒々しい、空虚さを持った場所であった。
 ぽつん、と乱丸は一人で立ち尽くす。狂男爵も何も、彼意外の何者も存在しないのであった。

 いや、と乱丸は思う。
 いる。

 無造作に立っていても、彼の精神はぴんと張り詰めていた。
 すると、少し離れた前方の空間が、もやもやと陽炎のように揺らめくのが見えた。
 周囲の空気に含まれる、『闇』の粒子の一粒一粒が、その一点に集まっていくようであった。

 『闇』がやがて人の形になっていく。

 黒騎士が、甲冑の表面をぬらぬらと輝かせながら、その巨体を出現させていた。
 がちゃり、と金属のこすれる音をさせて、巨大な剣を構える。
 それを見た乱丸は、牙を剥いて獰猛な笑みを浮かべていた。

「へっ、荒事はボディガードにお任せかよ? ご主人様に伝えな、自分で汗を流さねえ怠け者は、どんな事でも最後に報われる事はねえってよ」
 乱丸の説教に黒騎士は答えず、無言で乱丸に襲いかかってきた。 飛燕の速さで、巨大な刃を真上から叩きつけて来る。
 切れ味プラス無双の怪力が合わさっている究極の斬撃であった。人間の身体など、あっさりと両断するに違いない。

 しかし、乱丸はその攻撃に臆すること無く、一歩踏み込んで、するりと黒騎士の懐へもぐり込んでいた。

「てめえ、特別に本当の『神威』ってヤツを見せてやるよ」
 そう言った乱丸は牙を剥いて、獰猛に笑っていた。
 虚空のもとで、戦いが始まっていた。

      ☆       ☆       ☆


「行っちゃった」
 呆然と、和美がつぶやく。

「一体、この絵はどんな仕組みになってるのよ?」
 弥生が、恐る恐る『扉』の絵に手を伸ばすが、指先が触れた感じは、単なる油絵でしかなかった。
「普通の人間に、その扉を通り抜ける事はできませんよ」
 のんびり京平が声をかけ、どこから準備してきたのか、冷たいアイスティを満たしたグラスを、ソファの前のテーブルに並べた。

「じゃ、何で乱丸は通れたのよ」
 どうも、と言いながら、弥生はグラスに手を伸ばした。
「今言ったとおりです。彼はちょっと普通じゃないんですよ」
「確かに普通の人間は、あんなに手クセが悪くないわよねえ」
 うんうんと納得する弥生に、京平は困ったように顔をしかめて、

「いや・・・・・・そういう事じゃなくて、乱丸くんは、現代人では珍しく『あちら側』で暮らした事があるんですよ」
「ええ! 何よそれ?」
「彼は子供のころ、『神隠し』に逢っているんですよ。本人はあまり話したがらないですけど、ある仙人に助けられて、無事『こちら側』へ送り届けてもらったということです」

 空白の十日間だったという。

 怪我ひとつしないで帰ってきたが、異世界でどんな目に逢ってきたのか、すっかり性格が変わり、ちょっとした神通力を身につけていたという。
「もしかして、助けたその仙人が彼に何か教育を施したのかもしれませんね。『あちら側』に住む仙人の多くは、ありあまる時間をもてあまして、退屈しきってますから」
 ふふ、と愉快そうに京平は微笑んだ。
 もしその想像通りなら、今の乱丸の無茶苦茶な行動と、盗みグセは、その仙人にせいではないか。

「何て迷惑なコトをしてくれたのかしらねえ」
 こめかみを指で押さえ、弥生はうーむとうなった。
「でも、彼といると楽しいでしょう」
 京平の何気ない言葉を聞いて、和美の目が見開いた。
「ねえ?」

「あ・・・・・・はい」
 京平の美しい顔が、気障にウインクしてみせたので、胸をどぎまぎさせながら、こくこくとうなずく。
 鼓動を鎮めようと、手にしたアイスティをごくごく飲み干した。「おかわり、いかがですか?」
 いつの間にか右手にティーポットを持って、京平が聞く。
「あ、ありがとうございます」

「あたしにも、一杯いただけるかしら?」
 不意に、部屋の奥の暗がりからきんきん声が聞こえてきて、和美と弥生は跳ね上がって驚いた。
「狂男爵!」
「あなた何でここにいるのよ! 乱丸はどうしたの?」
 うふうふ、と縦ロールの髪をいじりながら、狂男爵がそこに立っていた。

「彼ならアタシのボディガードが相手をしているわ。それとも、もう首がちょん切れてる頃かしらね」
 にいい、と三日月を横にしたような口の両端がつり上がる。
 おぞましい、魔性の笑みだった。

「お生憎さま、あのしぶとい男がそう簡単にくたばるもんですか!逆に、ヨロイ男の方がひっくり返ってるんじゃないの?」
 言いながら、弥生は背中に仕込んだ木刀を、ゆっくり抜き出していた。
「おや、そんなものを持ち出して、何をするつもり?」
 殺気をみなぎらせ、中段に構えた弥生の姿を、狂男爵は馬鹿にした目つきでながめる。

「決まってるでしょ、保健室でうんうん唸ってる夏見さんの仇よ!乱丸が戻ってくるまでに、あんたをやっつけて、でかい顔してやるんだから!」
「まあ」
 と、狂男爵はびっくりしたようだった。

「女のくせになんて野蛮な事を言うのかしら! 美しくないわねえ・・・・・・」
 おおやだやだ、と狂男爵は首を振り、胸ポケットから一輪のバラを抜き出して口元へ持っていく。

「好きなこと言えばいいわ、いざ!」
 気合を迸らせて、弥生は木刀を上段に振り上げた。
 と、その瞬間、狂男爵は手首の動きだけで、バラの花を弥生の足元へ投げつけた。
 すとん、と手裏剣のようにそれが床に刺さる。すると、
「ううっ!」
 金縛りにかかったように、弥生は動けなくなってしまった。

「何よ・・・・・・これ」
「まさか」
 和美は見た、バラの花は弥生の影を縫い止めていることを。
「騒がしいのはキライよ」
 こともなげに、狂男爵はつぶやく。

「狂男爵、ボディガードが乱丸君を殺すのを疑ってないなら、なぜ早々と姿を現したのです? 今来たとしてもまだ『マリーの箱』に触れる事もできないでしょうに」
 落ち着いた声で、京平がたずねた。
 うふうふ、と笑いながら、狂男爵は振り向いた。

「アタシって、結構欲張りなのよねえ」
 何か邪な企みを秘めて、メガネの奥がいやらしく光っている。
「『夏』を手に入れた、青虫も目の前にある・・・・・・でもそれだけじゃ満足できないのよ」

「まだ何か、気に入った物でもあるのですか?」
「ええ、一目惚れしたわ。『マリーの箱』と一緒に、その小娘もいただいていくつもりよ」
 にゅっ、とかぎ爪のついた指で指し示したのは、目を見開いて立ち尽くす和美であった。

「な・・・・・・」
 突然の指名に、一瞬和美は全身が縮み上がった。
「なぜ、彼女までさらおうと言うのです?」
 低く、京平は問いかけた。嬉しそうに狂男爵は身をくねらせる。

「この小娘が、とても珍しい存在だからよ、『こちら側』ではめったに見つけられない力を持っているし、何よりあの青く輝く髪が素晴らしいじゃない? 『あちら側』ならともかく、こちらの住人でそんな特徴を持っているなんて、まさに生きた宝石と呼ぶに相応しいわ。稀少価値はとんでもないことになるわね♪」
 好事家特有の、収集品に対する偏執的な目つきで、べろりと舌なめずりをする。
「では、彼女も生きたまま保存しようというのですね?」
 低く低くつぶやく京平の目は、糸のように細められていた。
 静かな口調の中に、魔気とでもいうようなものが、滲み出てきている。
 和美は、自分を巡って二人の魔人がやりとりをしている現実に怯えた。膝が、いつの間にかがくがく震え出している。

「それは、とても名誉な事だと思わない? この世の全てのものは『永遠』に憧れるわ、変わらない自分、老いない自分、消え行く命や、滅んでいくその身を悲しんで、誰もが不変でありたいと望んでいるのよ。私たちコレクターは、そんな彼らの叫びに応えて、望みを叶えてやる訳よ、そうすれば、彼らはもう孤独感も感じる事がなくなるわ。コレクターが愛情を込めて管理を続けるのだから・・・・・・、ねえ、喜ばしいことだと思わないかしら?」
 そう言って狂男爵は高笑いした。
 耳を塞ぎたくなるその笑い声を聞きながら、和美は思わず叫んでいた。

「それは、違うと思います!」
 ぴたりと、狂男爵の声が止む。
「和美ちゃん・・・・・・」
 固まったまま、弥生がつぶやいた。
 震えながらも小柄な少女は、健気な表情で異世界からの訪問者を見つめていた。

「生は自分のものです。・・・・・・他人にモノ扱いされて、自分の運命の全てを握られながら、それで永遠を生きたとしても、その人生に何の意味があるのでしょうか」
 胸元で、ぎゅっ、と拳を握りしめて、勇気を振り絞り和美が訴える。
「もし、そんなかりそめの生を自ら選んだ人は、生きながら死んでしまった人だと思います。誰も自ら保存されることを望んだ人などいなかったはずです。そうでしょう? 名誉な事とか、喜ぶべきだとか、それは貴方たちの傲慢なエゴイズムにすぎないと思います」
 言葉を紡いでいくうちに、段々と勇気が湧いてきたのか、和美の瞳に、力強い光が宿っていた。
 髪が、ESPを使う時のように青く輝き出す。
 狂男爵ににらみつけられても、もう怯む事はない、正面から堂々と見つめ返す。

 狂男爵のこめかみは、ぴくぴく痙攣していた。
「キレイだけど、生意気ねえ」
 ぎりっ、と奥歯を軋らせる。
「不愉快だわ、生きたまま保存してやろうと思ったけど、二度とその口を聞けないようにしてあげる」
 言いざま、その口元がすぼまった。
 ブフウ、と強く吐息を和美に吹きつける。

「きゃっ!」
 身の危険を感じて、彼女はとっさにESPでシールドを張りめぐらせた。しかし、驚いたことには、シールドは何の役にも立たなかった。狂男爵の吐息は、あっさりと素通りしてきたのだ。
「置物になるがいい!」
 吐息を浴びた和美に、呪いの言葉を投げかける。と、本当に和美の手足が石に変化していった。

「ひ・・・・・・」
 苦しむ間もなかった。
 ヘリや、戦車すら叩き潰す彼女の超能力が、この魔性のものには一切通じないまま、和美は石と化してしまっていた。

「和美ちゃん!」
 こちらも石のように動けない弥生が、叫び声をあげる。
 狂男爵はのけぞって大笑いした。
「いい気味よ、魔界で爵位を持つ魔王のアタシに、人間風情が説教するなんて無礼にも程があるわ!」
 よほど気に入らなかったのだろう、顔つきまで変化していた。

「あなた、この学園の生徒に、手を出しましたね?」
 異様に静かな声で、京平が口を開いたのはその時だった。

「私の前で、この学園の生徒を傷つけましたね?」
 もう一度、ゆっくり繰り返す。
 狂男爵は、馬鹿にした笑いをあげた。

「だからどうしたっていうのよ、ええ? あなたも、この魔王の中の魔王、狂男爵に逆らおうというの? 痛い目を見るだけじゃ済まないわよ!」
 くわっ、と口を開く。その中に、鋭い牙がぞろりと並んでいた。

 しゃふーっ! と地獄の風のような、腐臭に満ちた瘴気が漏れ出てきて、弥生は息が出来ずに気が遠くなった。
 しかし彼女は見た。
 狂男爵の凄まじいプレッシャーにも、眉一つ動かさないで立っている京平の姿を。

 静かにたたずむその全身に、怒りが満ちていた。

「五等爵の最低位の分際で、魔王の中の魔王とは笑わせる・・・・・・」
 低いつぶやきであったが、それははっきり狂男爵の耳にも届いてきた。

「貴様・・・・・・」
 狂男爵は怒りに震えながら、その時、或る事を思い出していた。
 京平の美しい顔、その深い色をたたえた瞳・・・・・・。
「っ!?」
 何かに気づいて、目に見えて、狂男爵は全身を硬直させた。
「ま、ま、まさか・・・・・・」
 京平を指さすが、その手がぶるぶる震えている。

「私は、斎木学園の生徒会長です。この学園に仇なすものに、容赦するつもりはありませんよ」
 目を閉じて、京平は何かをつぶやき始めた。
「アグロン、ニータグラム、ヴァイケオン、スティヒラマトン・・・・・・」
 長く長く、尾を引いて口にされたそれは、呪文の詠唱であった。『何か』が、遠くから近づいてくるような気配がする。

「貴様・・・・・・いや、あなたは!」
 何かを訴えようとした狂男爵の全身が、その瞬間動きを止めた。
『何者か』の見えない巨大な手で身体を掴まれているような・・・・・・。
 その顔が、恐怖に歪む。

 次の瞬間、弥生は我が目を疑った。

 目を見開いた狂男爵の全身から、一斉に青い血が吹き出したのである。あたかも、目に見えない無数のピラニアが、一気に食らいつき肉を食いちぎったかのようであった。

「ヒイイイイイイッ!」
 今、狂男爵は激しく後悔していた。彼は京平の事を知っていたのだ、気づくのが遅すぎた。
 全身を貫く地獄の責め苦に、恥も外聞もなくわめき散らし、死に物狂いの力を振り絞って、狂男爵は見えざる手の束縛から脱出していた。
 血だらけで、一瞬だけ京平の顔を見る。紅に染まった目と、視線が合った。

「ギャアアアアアアッ!」
 獣のような叫び声を上げて、わき目もふらずに狂男爵は油絵の扉を開き、『あちら側』へ逃げ帰っていった。

 閉じられた後は、普通の油絵となる『扉』の向こうで、恨みと恐れに満ちたうめき声が、いつまでも響いていた。

「せ、生徒会長・・・・・・?」
 あまりの物凄さに、弥生は言葉が出てこない。
 ふ、と柔らかな表情に戻った京平が、ぱちりと指を鳴らすと、全身と捕らえていた束縛が嘘のように消え去っていた。
 ふと足元を見ると、バラの花が一輪、小さく萎れている。

 はああ、と大きく息をつくと、和美も石化が解けて床にへたり込んでいる所だった。

 しばらく無言で見つめ合う。そして、どちらからともなく、闇の力を持った生徒会長の顔を見上げた。
 にこっ、と見るものを安心させる笑みを浮かべて、
「乱丸君、遅いですねえ」
 と、京平は平然とささやいた。

      ☆        ☆       ☆
 青黒い血にまみれた姿で、闇に包まれた広大なアトリエに狂男爵は転がり込んだ。
 両目は恐怖に見開かれ、全身はがたがた震えていた。

「狂男爵よ、青虫とやらは手に入ったのか?」
 キャンバスの前に『夏』を立たせ、椅子に座ったグリューネヴァルトが、腕組みの姿勢で真っ直ぐ彼女を見つめている。
 目だけが、ぎらぎらと異様な光を浮かべていた。
 絵の具さえ手に入れば、即座に描き始めるために、全神経、思考の全てを、目の前のモデルに集中しているのである。
 虫の息でのたうつ狂男爵の姿を見ても、何も感じないようであった。
 乱丸に大事な作品を燃やされた事も、主人が傷ついて苦しんでいる事も、今の彼には関係ないのだ。
“描いてやる”
 暴力的なまでに膨れ上がった創作のイメージが、闇の画家の内部でぱんぱんにはち切れそうな程であった。

「ダメよハニー、青虫はあきらめて頂戴・・・・・・」
 弱々しく、狂男爵は言った。
 くわっ、と画家の目が怒りに見開かれる。

「貴様、私の描く芸術が見たいのではなかったのかっ?」
 怒声をあげた彼の周りで、黒々とした瘴気がもわっ、と渦を巻いた。

「許して頂戴、まさか、あんな所にあの化け物がいるとは思っていなかったのよ・・・・・・」
 がたがたと恐怖におののき、全身を震わせるバロンに、もう一度青虫を手に入れに行ってこいというのは無理な話だった。
「ね? 何か変わりの青でいいじゃない。アナタの才能なら、充分魅力的な作品が描けるわよ?」
 媚を売るように、哀れな声で狂男爵は画家のご機嫌を取る。
 その態度に、グリューネヴァルトの目が、ぐり、とつり上がって凄まじい表情になっていった。

「あははははっ!」
 二人のやりとりの間に、不意に高らかな笑い声が割って入ったのはその時だった。

「“代わりの物で充分”だと? それでよく芸術の理解者を名乗れたもんだな、オカマバロン!」
「その声は・・・・・・!?」
 青い血をまき散らして、狂男爵は周りを見回した。
 『闇』のアトリエの中には、誰も侵入してくるはずがなかった。しかし、モデルである白い少女の横に、あちこち傷だらけになった御咲乱丸が現れていた。

      ☆       ☆       ☆

「皆さん、どうやら乱丸さんは『夏』の所へたどり着く事に成功したようですよ」
 血の気の失せた顔で、夏見が生徒会室のドアにもたれかかっていた。
「あ、あんた」
「動いて大丈夫なんですか?」
 今にも力尽きてしまいそうな足取りで立っている彼に、和美が慌てて駆け寄っていく。
「そうですか、やはり『神威の乱丸』の実力は大したものですね」 京平が嬉しそうにつぶやく。
 たった今、魔界の化け物を、不可思議な力で撃退したばかりとは思えないほど、冷静で落ち着いた口調であった。

「と、いうことは」
 と京平はあごに指を添えた。
「夏はもう取り返したも同じですね。夏見さん、あなたも行かねばならない訳ですか?」
 夏見は、和美に支えられながら、小さくうなずいた。
「私は、『シーズン・マネージャー』ですから」
 とつぶやいた。

「でも、もう少し休んでからの方がいいんじゃない?」
 弥生が言う。確かに夏見はふらふらで、まともに立つことすら、怪しい状態である。
 しかし、夏見は力なく笑いながら、精一杯胸を張った。
「私は私の使命を全うしなくてはなりません。自分の受けた生が輝くものであるように、・・・・・・『夏』が夏を生み出す所を見届けて、初めて私の存在は意味あるものとなるのですよ」
 真っ青な顔で、なんとかウインクしてみせる事に彼は成功した。

「彼女のため、そして他ならぬ自分自身のため、一秒でも早く『夏』の誕生を促し、一秒でも長く今年の夏を見ていたい・・・・・・」
「夏見さん・・・・・・」
 支えている和美の手から、そっと身を離し、夏見は『扉』の絵の前に立ち、三人の方へ振り向いた。

「皆さん、本当にお世話になりました。願わくは、今年の『夏』があなた方の心の片隅に、思い出を刻みつけられるように・・・・・・」
 深々とおじぎをして、黒服、黒縁メガネの『あちら側』の紳士は『扉』の向こうの、あり得ない世界へ消えていった・・・・・・。

       ☆       ☆       ☆

 『闇』の中に、乱丸のゲラゲラ笑いが響いていた。

「何がおかしいのよ!」
 きんきんした叫びを、狂男爵があげる。
 それを聞いて、さらに乱丸はのけぞった。

「何がおかしいかだと? てめえの程度の低さを公表してるクセにいばるんじゃねえよ。芸術の事を何にも理解してねえ俗物めが!」 そう言って、片手に持った黒い刃の大剣を、びしっ、と突きつける。
「その剣は!?・・・・・・あなたアタシのナイトを倒したの? 人間にそんな真似できるはずないのに・・・・・・」
 ぎょっとして、狂男爵は目を見開いた。

「うるせえ、今は芸術の話をしてるんだろうが!」
 ぐわっ、と牙を剥いて、狂男爵を黙らせる。
「いいか、てめえはさっき代わりの物で済まそうとした。そんな考えは、それだけでもうダメだ。根本的に芸術を語る資格がねえよ」
 ぽんぽんと、大剣の腹で肩を叩きながら、乱丸は見下す。
「てめえ、アーティストと一般人の差ってのは何だか知ってるか?例えば、絵を描くだけなら誰にでもできるだろ。じゃ、誰にでもできる事の中で、芸術として認められる作品に仕上げるには、何が必要なんだろうなあ?」
 狂男爵もグリューネヴァルトも、無言で聞いていた。もちろん、少女の表情にも、変化は無い。
 調子に乗って、乱丸は言葉を続けた。

「要するに、これよこれ!」
 どん、と自分の胸を拳で力強く叩いて見せる。

「自分の作品に魂を込める事ができるヤツ、それがアーティストって生きモンって訳だな。少なくとも、オレはそう確信してるぜ。表面だけの絵は、たとえそれが高級なテクニックを使って描かれた物でも、人を腹の底から感動させることはねえ。中身がねえからだ。無機物である『絵』に、生命を吹き込む事が出来たとき、はじめて人を感動させ得る芸術品になり得るのさ。ま、実際にそれを形にするのは、とんでもなく難しいことだけどな」
 と、乱丸は片目をつぶる。

「そして、その境地を目指す奴らが、絶対にしちゃいけない事がある。自分なりのこだわりを捨てる事だ。結局作品ってのは、作者自身の鏡みてえなモンなんだよな。いつの間にか、自分という存在が絵の中に表現されている・・・・・・だからこそ、理想の一品を仕上げるために必要だと感じたものは、全ておろそかにしちゃいけねえんだ。道具の一つ一つから描く時の姿勢など、なんでもいい、こだわり続けて突き詰めた先にしか、納得する傑作は完成しないだろうさ」

「うう・・・・・・」
 狂男爵は、うなるばかりであった。
「判ったか? てめえの考えは、優れた画家の才能を潰してしまうどうしようもなく愚かな思想だってことが!」
 なあ、とグリューネヴァルトに向き直る。
 ずっと無言だった画家が、この時ようやく、
「ああ、その通りだ」
 と言葉を発した。
 その視界の隅で、うなだれた狂男爵が力なく地面にへたり込んでいった。画家は、ちら、と一瞬視線を動かし、すぐ乱丸に戻した。

「しかし、今の説には少し甘い所がある・・・・・・」
 ぼそりと、暗い瞳で下からにらみ上げながら、グリューネヴァルトは言った。
 ぴく、と乱丸の片眉が上がる。

「行き詰まった芸術家は、時にこだわりを捨ててみるのも必要だと思うのだ。こちこちに固まり、柔軟性を欠いた自分のカラをいったんぶち壊し、新たな視点からものを見れるように・・・・・・」
 そう言ったグリューネヴァルトの口調は柔らかく、痩せこけた顔に浮かぶ表情は穏やかであった。
 身の内を吹き抜けていく、さわやかな風を味わうかのような、うっとりとした様子で目を閉じる。
 何か、乱丸の芸術論と、自分が今口にした言葉とで、彼の内部に変化が現れたようであった。

「そう、『新しい視点』だ! 思い出したぞ、あの若き日を! 祭壇画に新風を巻き起こそうと、『光』を描くために私はあえて『闇』を見つめ始めたのだ。相反するものを理解することで、より美しい『光』を表現するために!」

 例えば、光を描こうとして、そのことだけを考えていたとする。すると、やがて自分の感覚がマヒしていることに気づいたのだ。
 そして、ふと思いつく。
 閉め切った窓を、久しぶりに開けた瞬間の、太陽のまぶしさを。それは、ずっと光を見つめていた時よりも、はるかに鮮烈で、衝撃的な一瞬であった事を。

 それ故に、彼は『闇』を描き始めたのであった。

 より強く、美しい『光』を求めるあまり、より暗く、おぞましい『闇』を求め続ける事になったのだ。
 自分でも、何故『闇』にこだわるのか判らなくなる程に・・・・・・。

 グリューネヴァルトは、さっきまでとは違う光をたたえた目で、立ち尽くす白い少女を見た。
 黒一色の世界に現れた、ひとすじの光明。
 この娘が現れなければ、彼は永劫に『闇』をテーマにした作品を描き続けていただろう。『闇』を描くための『闇』を。
 思わず叫んでしまう程、鮮烈な彼女の光のイメージが、忘却の彼方に置き去りにした本来のグリューネヴァルトを目覚めさせる事になったのであった。
 みるみるうちに、彼の姿に劇的な変化が起きていく。
 いや、見かけは変わらないが、その身の持つイメージががらりと一変したのだ。

 『闇』を現すために『闇』を見つめる彼が、『光』を描くためにあえて『闇』を見つめる彼に。

 似ているようで、全く違う。
 最終的に見つめているのは、はるか至高の高みにある光の色であった。
「な・・・・・・」
 呆然と、狂男爵は口を開いた。

「何を言ってるのよハニー! あなたは『闇』を描く天才なのよ、その『闇』を見て、アタシが幸せになる・・・・・・それでいいじゃない、それでやってきたじゃない。アナタを理解するのはアタシだけよ? だったら、アタシの望む作品だけを描いていればいいのよ!」
 狂男爵のきんきん声は、すっかり裏返っていた。
 パートナーの突然の心変わりが、信じきっていた彼に、相当なショックを与えたらしい。
 その様子を、乱丸はニヤニヤしながら見つめていた。

「どーも、おかしな雲行きになってきたなあ。ま、痴話ケンカならいくらでもやってくれ、オレたちはお邪魔のようだから帰らせてもらうわ」
 棒のように立つ『夏』の肩に手を回し、乱丸はグリューネヴァルトと狂男爵にウインクした。
 そのまま、二人の姿が『闇』に滲んでいく。

「あ、待ちなさい! ハニー、あいつらを捕まえて頂戴! 大事なモチーフを盗まれてしまったわ!」
 血を流しすぎた狂男爵は、もはや乱丸を追う力が出ない。しかしそんな主人の懇願にも、お抱え画家は動こうとしなかった。
「ハニー、どうして盗まれるのを黙って見てるのよ? さっきまであんなに描きたがってたじゃない」
 か細い声で、狂男爵は画家の顔を見る。と、画家の目は真っ直ぐ自分を見つめていることに気がついた。
「あの少女なら、もういい。たっぷり目に焼き付けたからな、いつか描く日も来るだろう」
 言いながら、グリューネヴァルトはべろり、と唇を舐め上げた。「それより、ずっと私の心をくすぐる対象が、目前にあるのだよ」
「・・・・・・?」
 グリューネヴァルトの指は、狂男爵を示していた。

「長いこと思っていた・・・・・・最も上手に『闇』を表現するにはどうすればよいか・・・・・・そこへ、ヒントが飛び込んできた。即ち、『光』が人の形をして現れたのだ」
『夏』の事を言ってるらしい。

「なるほど、と思った。後は簡単だ、では『闇』も擬人化したらどうなるのか? すると、その答えが何と身近にいるではないか!」 にいい、と唇が耳まで裂けた笑みを、グリューネヴァルトが浮かべると、狂男爵は身を強張らせた。
「狂男爵、魔界の爵位を持つ『闇』に生まれし魔王よ! 私はこれまでに描いてきた無数の『闇』において宣言する。『闇の中の闇』というものを、貴男をモデルに見事描ききってみせるという事を」

 その宣言を口にした瞬間、墓標のように放置された無数の作品たちが、「おおおおお」、と亡者のような声をあげた。
 何百年もかけて、彼が一枚一枚魂を込めた作品たちである。いわば分身のようなものであった。
 絵たちの歓声が、長く長く『闇』のアトリエにこだまする。

「・・・・・・アタシを、描いてくれるというの?」
 青い血のからんだ目で、狂男爵はグリューネヴァルトの顔を見つめる。
 優しい目つきになって、グリューネヴァルトは言った。
「あの絶望の淵にあった私を、ただ一人、あなただけが理解し、必要と言ってくれた。その上、時を超越して絵に没頭できる場まで提供してくれた・・・・・・画家としての私にできる恩返しは、最高の肖像画をプレゼントすることぐらいです」
 グリューネヴァルトの両目から、涙がこぼれた。
 狂男爵が首を振る。

「いいえ、お礼を言うのはアタシも同じよ! アナタの絵は、アタシの心を癒してくれた・・・・・・アナタの『闇』は、アタシの空虚な部分を埋めてくれるの、愛してるわよ、永遠に!」
「最上級のお誉めの言葉、身にあまる光栄であります」

 主人に対して、敬意を払った挨拶をして、既にグリューネヴァルトは作業に入っていた。
 狂男爵の元での、最後の仕事だ。
 究極の『闇』を描き終えたら、今度は彼の最終目標である、至高の『光』を描く挑戦に入るであろうから・・・・・・。
 狂男爵の理想の画家、闇画家グリューネヴァルトは、主人の元を離れ永遠の別れを告げることになるのである。

「愛してるわ、ハニー」
 殴りつけるように描いているグリューネヴァルトを見つめ、狂男爵はゆっくりと腰のサーベルを抜き放った。
「アナタはアタシだけのもの、どこにもやるもんですか・・・・・・」
「よし」
 筆を走らすのを止め、会心の笑みを浮かべた画家の首が、宙を飛んで地面に転がった。

「『闇』だ・・・・・・」
 その生首が、ぽつりと一言つぶやくと、満足そうに目を閉じた。 途端に、残った胴体の切り口から、音をたてて鮮血が溢れ出る。 しゅうしゅうと降り注ぐ生き血のシャワーの元、狂男爵はお抱え画家の最後の作品を見つめた。
 そこには、吸い込まれそうな闇色が、べったりと描き出されていた。

「・・・・・・これは、アタシ・・・・・・」
 最愛の者を亡くした狂男爵の胸の内には、キャンバスに表現されたのと同じ『闇』と、言いようのない孤独感が満ちていた。



© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: