ACT・7



 男子寮の午前三時。

 何のかんのと騒がしい学生たちも、さすがにこの時刻には全員消灯したらしい。
 どの部屋にも、人が起きている気配はない。
 昼間、ひどい目にあった一郎も、何とか死なずにすんだらしく、しばらく前にようやく落ち着いた寝息をたて始めたようだ。

 草木も眠る丑三つ時、とはよく言ったもの、寮の中庭の植え込みの中で小さく鳴いていた虫の声も今はない。
 そよそよと葉ずれの音を奏でる夜風もぴたりと止んで、真の静けさの中に男子寮は包まれていた。
 その闇の中に息をひそめ、耳をすましていれば、あやかしの声が聞こえそうな程の静寂が存在している。

 すべてのものが眠りにつく時間帯であり、身体機能の働きが最低になる時間でもある。
 今が間違いなく一日の中で、最も静かなひとときであるだろう。

 そよ風が吹いても、

 水道の蛇口から、一滴、水が落ちても、

もう、こわれてしまう────。

それほど、はかなく静かな空間であった───

 が、
 その静かな空間を壊さずに、ふわり、と黒いものが現れた。

 暗い寮の廊下に、ふいに出現したかのような「それ」は、よく目をこらしてみると、全身黒づくめの人影であった。
 す-、と幽霊のように、移動を始める。
 普通なら、ボロくて一歩ごとに音をたてる床のタイルが、何の音もさせない。
 それでいて影のスピ-ドは遅いわけではないのだ。猫のように身軽に影は走っていく。
 四階。
 ぴたり、と影は立ち止まった。
 どうやら、目的の階であるらしい。

 まっすぐ続く廊下の闇の中に目をこらし、耳をすまして何者も動くものの気配がない事を確認すると、再び歩き始める。
 壁には入室者の名札が掛かっているが、灯りもつけないこの状況では、普通の人間では読み取れない。
 しかし、この侵入者には見えているらしい。一部屋ごとに、確認しながら歩いているのが判る。
 再び影は足を止めた。
 最終目的地であるようだ。
 名札入れには、“相沢一郎”“沖 陽平”“宮前明郎”の三人の名が示されている。
 顔の下半分を覆ったマスクのため、表情は見えないが、両目が残忍な色に光りだす。
 いわゆる、殺気のこもった目つきになった。

 影は、腰のベルトに装着していたスプレ-缶を手に取り、ノズルに細いストロ-状のものを取り付け、ドアのカギ穴に差し込んで、部屋の中にガスをたっぷり流し込んだ。
 おそらく催眠ガスなのであろう。
 タ-ゲットをぐっすり眠らせておいて目的を果たし、余計な騒動やそれによるミスを防ぐという手口であるらしい。
 流し込んだガスが部屋中に充満し、中の人間もたっぷり吸い込むであろう時間まで、影は余裕をもって待った。
三十秒・・・四十秒・・・五十秒・・・

 もう充分と見るや、影はドアに手をかけた。カギはかかっていない。
 するりと、部屋の中に身をすべりこませ、ドアは少し開けた状態にしておく。
 閉じきらないことによって、いつでも部屋の外へ飛び出せる様にしておくためである。最悪の場合を考えているのだ。

 見事な手並みであった。
 全ての行動に毛ほどの迷いもなく、手慣れた印象を受ける。なおかつ、その猫のような忍びの身のこなしで、影が”その道”のプロであることは間違いない。
“その道?”
 部屋の中に入り込んだ影は、三人の住人がベッドの中で眠り込んでいるのを見て、腰のベルトから、今度は鋭いサバイバルナイフを抜きはなった。
 目の光が、さらにぎらぎらと輝き始める。
 明確に、影の全身から殺気がこぼれはじめた。
“暗殺者!”
 泥棒やなんかの類ではない。
 殺しを職業とし、それを日常的に繰り返しているプロであった。 多分、影はいつもこの手口を使っているのだろう。
 犠牲者は深い眠りの中で殺されるため、犯人の顔を見ることはない。証拠も一切残さない。
────静かなる殺人。
 眠りの中で殺されたら、人は自分の死を認識できるだろうか?
 この影は、今まで何人の眠りを永遠のものにしてきたのか。
 今また、一郎のベッドに歩み寄る。
 影は、手にしたナイフを振り上げた。

「冗談にしては、物騒でござるな」
 今まさに一郎の胸元にナイフを突きたてんとした時、音もなく陽平が影の背後に立っていた。
 影がそのままのポ-ズで、動きを止める。
 首筋に、陽平の持つ一文字手裏剣があてがわれていたからだ。

「ゆっくりと、そのナイフを床に落とすでござる」
 陽平が命じたが、影はナイフを振りかざしたその姿勢で、動こうとはしなかった。
 この体勢でありながら、反撃の機会を伺っているのだ。恐ろしく冷静な男であった。
「てめえ、FOSか?」
 だが、続いて一郎がフトンの中からむっくり起き上がったのを見て、さすがに男の目が大きく見開かれた。
「貴様ら──なぜガスが効かん?」
 かすれた声で、男がうめく。
「ガス?ああ、悪ィがそんなもんは、エアコン完備のこの寮内では無意味だぜ」

 一郎は平然と言ったが、もちろん市販のエアコンは催眠ガスをあっと言う間に除去する様な能力は持っていない。

「その通り、この電気工作大好き男の、宮前明郎君が改造を施したからね」
 そう言いながら、明郎までもがもそもそ起き上がる。
「いや-、ウチの学校には寮にまで変な薬品とか持ち込む奴がいるんでね。有毒物質なんか撒き散らされても困るんで、オレが寮内の空調設備をいじっといたんだよ」
「およそ電気で動く製品扱わせたら、この明郎の右に出る奴はいないでござるぞ」

体力の一郎、忍術使いの陽平、電気工作の明郎・・・
 単なる高校生の暗殺とたかをくくっていた男は、とんでもない連中のところに忍び込んだことに、ようやく気づきはじめたようであった。
 目論見が外れすぎて男はパニックに陥った。男の持っている常識が、この斎木学園の生徒に当てはまらないためである。
 ごくり、と生唾を飲み込む。

「さ、その物騒なナイフを離すでござる」
 陽平の言葉に、今度こそ男は手にしていたサバイバルナイフを床に落とした。
「よし、本題に入ろうか、てめえがFOSなら聞きたいことは山ほどあるぜ」
 両手の指をボキボキ鳴らしながら、低く一郎がつぶやく。
「じっくりと、話をしようじゃねえか──」

 生きた手がかりが、手元に飛び込んでくるとは思ってもみなかった。拷問してでも和美の行方について、FOSの事について、洗いざらい聞き出すつもりであった。
 が、その時、
「無駄だ、その男は何も知らん」
「っ!?」
 いきなり、窓の外から声をかけられて、思わず三人はそちらへ顔を向けた。
 一瞬のスキ。

「ぐわっ!」
 男はそのスキを逃さなかった。後頭部を陽平の鼻っ柱に叩きつけ、のけ反ったところを一本背負いで投げ飛ばす。
 陽平の身体が、一郎の上へ吹っ飛んでいく。
「どわっ」
「でっ!」
「一郎、陽平っ!」
 明郎が叫んだときには、もう男の姿は廊下へ飛び出していった。
 忍び込む技術もたいしたものだが、逃げっぷりも鮮やかである。 まさに、一瞬の出来事であった。
「くそっ逃がすかよ!」
 折り重なった陽平の身体をどかすのに、もたもたしていた一郎たちも廊下に飛び出す。
「りゃっ!」
 足を止めようと、陽平が手裏剣を放つが、男が角を曲がったため寸前で外れた。
「ちっ!」
 男はぐんぐん廊下を走り、階段を駆け降りていく。
「野郎ォ、待ちやがれっ」
 じれて、一郎が叫ぶ。
 一郎、陽平の足をもってしても差が縮まらず、ついに一階の廊下にまでたどりついてしまった。角を曲がれば、すぐ非常口だ。
 が、
 そこで、急に男は立ち止まってしまった。
「?」
「えらい、素直でござるな」
 走りながら、一郎と陽平は顔を見合わせた。

 まさか、待てと言ったから立ち止まった訳ではあるまい。スピ-ドを落として、二人はゆっくり近づいた。
 そこへ、ようやく明郎が追いついてくる。
「どうしたんだい?」
「いや、何か様子が変だ」
 そういった一郎の目が細まる。すぐに陽平、明郎もその異常に気がついた。

 よく見ると、こちらに背を向けている男の両足が、床についていないのだ。
「な・・・何だ!」
 明郎が、思わず声をあげる。
 その時、

「ばかめ、手を出すなと言ったはずだ──」
 冷たく抑揚のない声が、男の身体の向こうから届いてきた。

 何と、男の身体は何者かの手によって、宙づりにされているのであった。
「しかも仕留め損なうとは──間抜けが」
「ひ・・・ゆ、許・・・し」
 かぼそい声に、肉のつぶれる音が重なる。
 びくびくっと大きくけいれんして、男の身体が動かなくなった。

「どこまでも役に立たんな、クズめ」
 冷たく言い捨てたその声に、一郎は聞き覚えがあった。
 はっと気づく。
 顔は見えなくとも、忘れられない声であったからだ。
「てめえ──」
 一郎が牙をむく。
「兵藤か?」

 明郎が壁に走り寄って、照明のスイッチを入れた。闇に慣れた目に、蛍光灯の光が一瞬まぶしい。
 だが、まばたきをした目に写った相手は、右手一本で男の首を握り、宙づりにしている“山猫・兵藤”の姿であった。
「その男もFOSでござろう、お主仲間を殺したんでござるか?」
 一文字手裏剣を右手で構えた陽平が、声をかける。
「仲間?」
 兵藤は、ちらりと目だけを陽平に向けた。
 相変わらず、感情の読み取れない瞳である。

「本当なら、オレ一人で来るはずだった。そうすれば、何の問題もなく仕事を終えていただろうに、このクズが余計な真似をしたばかりに面倒な事になってしまった。こんな能無しは組織に必要ない」 淡々とした口調で言う。人一人をひねり殺しておきながら、何も感じていないのだ。
「それが、てめえらFOSのやり方かよ──」
 怒りを込めて一郎が言った。
「気にいらねえな」

 くくっ。
 それを聞いて、兵藤が鼻で笑う。
「何がおかしい?」
 一郎は目をつり上げて、兵藤をにらんだ。
 兵藤は、唇のはしをかすかにつり上げ、
「貴様、本当にあの“相沢乱十郎”の息子なのか?」
 と、聞いた。
「だとしたら拍子抜けだな、こんな甘ちゃんだったとは」

「何だとォ、どういう意味だよ」
 くくっ、と兵藤はまた笑う。
「甘ちゃんなど、少しも恐れる必要は無いということだ、判ったか? ガキ」
 その一瞬、ぴりっとした空気が、兵藤と一郎の間に走った。
「・・・ど-やら、少し痛い目に会わせねえと判らねえようだな。このオレが恐れるに足らん奴かどうか、たっぷりと教えてやるぜ」
 小馬鹿にされた一郎、怒りに燃えてつぶやく。
 両手の指を、ボキボキ鳴らしながら、

「陽平、明郎、手を出すなよ、こいつはオレの獲物だ。タコ殴りにした上で、和美の居所吐かせてやる」
「あいよ」 
「存分にやるでござる」
 もとより、一郎が本気で暴れるなら二人は手を出すつもりはさらさら無い。
 すすすっと後ろへ下がって、間を取った。

「──今日は、静かな方法で仕留める予定だったんだが──」
 ぼそり、と兵藤がつぶやく。
 右手一本で男を宙づりにした姿勢は、先程から微動だにしていない。
「結局、力づくで行くしかないか」
 予告もなしに、兵藤は一郎に向かって男の身体を投げつけた。
「くっ!」
 一直線に飛んできた死体を、一郎がかわす。

 だが、飛んできた男の影から、兵藤が同時に襲いかかってきていた!
 それが、戦闘開始の合図であった。

 音をたてて、兵藤の右前蹴りが一郎のみぞおちに突き刺さり、くの字に曲がった一郎の身体が吹っ飛び、壁に叩きつけられる。
 休まず、兵藤は飛び蹴りを仕掛けた。
 かろうじて一郎は、両手をクロスさせて防いだが、背中が壁のコンクリ-トにめり込む程の蹴りであった。
 一郎のブロックした腕を足場にして、兵藤は後ろ宙返りで床に降りた。
 片手を床につき、アメフトの様なポ-ズをとるや、壁にめり込んだ一郎に向け、ダッシュした。
 その細身からは信じられない、ショルダ-タックルだった。
 アメフトの選手になれば、一人でディフェンス四、五人を吹っ飛ばすだろう。
 まともに受けた一郎は、壁をぶち抜いて外へ転がり出ていった。

 男子寮全体が揺れるようなショックと、凄まじい破壊音に、ぐっすり寝ていたはずの生徒たちも目を覚まし、ざわめき始める。

    ☆         ☆         ☆

 その音は、女子寮にも届いた。
「な~によぉ、うるさいわねえ──まあた玉置クン?」
 半分夢の世界にいる由紀がぼやく。
「さあ、何かちょっと違うみたいよ?」
 こちらも、とろんとした目つきで弥生が窓を開ける。
 すると、かすかに何者かが争っている音が聞こえてきた。
「まさか」
 弥生はパジャマ代わりのスウェットのまま、修羅王を片手に廊下へ飛び出していった。

    ☆         ☆         ☆

 しゃっ。
 兵藤の貫手が、一郎の鼻先をかすめた。それをよけると同時に、一郎のボディブロ-が兵藤のみぞおちにめり込む。
 しかし、顔を苦痛にゆがめながらも、兵藤は踏みとどまり、ヒジを一郎の横っ面に叩き込んだ。
 一郎の身体が、大きく横へ飛ぶ。
 吹っ飛ばされたのではない、自ら横へ飛んで、ダメ-ジを無くしたのだ。
 三m程転がって、起き上がる。

「うわっ?」
 その動きに合わせて兵藤も動いていた。一郎の目の前に立ち、起き上がった瞬間のあごを蹴り上げる。
 ごつん、という音が響き、一郎の身体が二mも空中に舞い上がり、半回転して頭から落ちた。
 兵藤は攻撃を止めなかった。ジャンプし、うつ伏せに寝ている一郎の後頭部を、全体重を込めて踏みつけたのだ。にぶい音がした。

「い、一郎っ!」
「一郎どのっ」
 思わず、明郎と陽平が叫び声をあげる。それほどヤバい一撃であった。

────勝負は決まったか?

 ぽん、と兵藤は軽く三m程飛びのいて、静かになった一郎を凝視し身構えていた。
 自信がないのだろうか。それとも、山猫と呼ばれるだけあって、用心深いのか。
 動かない一郎を、じっと兵藤は見つめていたが、
「おい、ずいぶんセコい真似をするじゃないか」
 ぼそり、と一郎に声をかける。すると、

「ちっ」
 と、倒れたままの一郎が舌打ちした。
「バレてたか。近づいてきたら、一発食らわせてやろうと思ったんだがな」
 そう言って、一郎は頭をさすりながら起き上がってきた。

「おお!」
 と陽平、明郎が歓声を上げる。
「さすが、一郎どの」
「普通なら死んでるはずだけどなあ──」
 しかし、一郎は立ち上がり、平気で鼻血をぬぐっている。
 兵藤もまた、そんな一郎の不死身ぶりを、当然のように受け入れているようだった。
 冷やかな目で一郎を見つめる。
「そうだな、相沢乱十郎の血を引いてるなら、このぐらいじゃくたばるまいさ」
「じゃあ、どうする?」
 一郎は問いかけた。ぎらっと兵藤の目がつり上がる。
「奥の手を、出す」

 そう言った兵藤の内部から、目に見えない何かがにじみ出てくるような気配がした。
「?」
 だらり、と兵藤は両手を下ろし、棒立ちになった。
 その時、
 ひいっ。
 兵藤の目が反転して、白目をむいた。崩れるように、地面に膝をつく。
 がはっ。
 口から長いものがぶら下がった、生々しいピンク色をしたそれは、二十センチはある舌であった。
 その舌がべろり、と動き、舌なめずりをする。大きく開いた口の中には、長く鋭い肉食獣の牙が、ぞろりと伸びていた。
 は-、は-、は-、と荒い呼吸をしながら、兵藤は四つんばいになる。
 その間に、ざわざわと剛毛が兵藤の全身を包んでいった。
 一郎たちの目の前で、兵藤は変化したのだ。一匹の巨大な“猫”に。

 獣人化現象!?

 ひきいいいいっ!ひきっ!ひきっ!

 発声器官も変化したのか、人間の発する声でも、普通の猫の発する鳴き声でもない不気味な声で、兵藤は雄叫びをあげた。
 もはや、化け物だ。
 ひきるりっ!
 叫んで、山猫兵藤の身体がだしぬけに動いた。
 一郎に真っ直ぐ突っ込んでいく。
 たわんだバネが弾けたようなスピ-ドに、一郎は横へ転がることでかろうじてよけた。

「ひょおっ!」
 だが、一郎の背中が血を噴いた。すれちがいざまに、山猫兵藤の前足が一郎の背をえぐったのだった。
「イテテッ、この野郎ォ!シャツが破れちまったじゃねえかよ」
 一郎のへらず口を、山猫兵藤は無視した。いや、あるいは言葉が通じなくなったのかもしれない。
 軽々とその身体が舞い上がるや、一郎に抱きつく形で飛びついていった。
 一郎の表情がゆがむ。その両肩に、山猫兵藤のツメが深々と刺さって、さらに喉笛にはかみちぎろうとする牙が迫っているのだ。
 ひゅうひゅうという呼吸音と、がちっがちっと牙をかみ合わす音が不気味だった。

「く・・・なめんなっ」
 一郎はその両前足首をつかみ、強引に肩からひっぺがした。人間の姿でいるときより、今の兵藤の力はずっと強い。引きはがしたツメを、またたてられそうになる。
 力比べでは、一郎が不利であった。
「むん!」
 そう悟るや、一郎は突然後ろへ反った。反動と相手の力を利用して、兵藤を後ろへ思い切り投げ飛ばす。
 しかし、
「やばい!」
 と叫んだのは、投げ飛ばした兵藤がくるりと一回転して音もなく着地した所へ、誰かが走ってきたのを見たからだった。

「一郎、何してるのよ!」
「弥生か?このアホ、来るなっ」
「え?何?きゃあっ!」
 いきなり現れた弥生に、暗がりから山猫兵藤が飛びかかる。その目は赤光を帯びて、まぎれもない狂気を表していた。

 突然の攻撃に面食らい、珍しく女の子らしい悲鳴をあげた弥生だが、身に染みついた剣術が無意識のうちに身体を動かし、身を守った。
 彼女の両手に握られた修羅王が閃き、兵藤の突進を受け止め、その喉に突きをめりこませていた。
 スピ-ド、タイミング、共に申し分がない。
 だが、それで兵藤がノックアウトされると思ったら大間違いだった。

 きしゅうっ!

 不気味な呼気とともに、その前足が振られた。
 横なぎのその一撃を、からくも弥生はスウェ-バックしてかわした。ぴっ、とほっぺたがわずかに切れる。
 その瞬間、ぞっと冷たいものが弥生の背を駆け抜けた。

“次、来る!”
 思考が閃く間にも、二撃目が腹を襲ってきた。これはよけきれない。
“殺られるっ!”
 弥生は死を覚悟した。
 全身から力が抜け、冗談ではなく今までの人生が脳裏を駆け抜けていく。

「ぬおおおおっ!」
 弥生の腹が裂かれる寸前、雄叫びをあげて一郎が山猫兵藤にショルダ-アタックを食らわせていた。

 さっきまでとは、パワ-がまるで違う。
 まるで車にはねとばされたように、山猫兵藤の身体は吹っ飛んでいった。
 一郎、振り返る。

 さすがの弥生も、青ざめた顔でへたり込んでいた。肩で息をしながらほほに触れる。
 浅い切り傷だったが、ぬるっとした血の感触が手にからみつく。 それを見た一郎の目つきが変わった。
 弥生ですら思わずぎょっとする。一郎がこんな顔をするのを見たことがないからだ。
 一郎は、山猫兵藤に向き直る。
 ざっ。
 そこへ、兵藤は飛びついていった。
 一郎は退がりもせず、ただ顔面だけを左手でカバ-した。
 その腕に山猫兵藤は食らいついた。腕の骨がきしみ、ばきん、と枯れ枝が折れるような音が響く。

 その音は二種類した。

 一郎の左腕が折れた音と、一郎が右手でへし折った兵藤の左前足と。

 きひいいいっ!
 絶叫をあげたのは兵藤だけだった。一郎の腕から口を離す。
「兵藤、てめえはオレの最も嫌いな行為をした。それは───」
 つぶやく一郎の髪が、ざわわっと逆立った。
 ぎいっ!
 折れている左前足をつかんで、一郎は兵藤の身体を地面に叩きつけた。
 半円を描いて山猫兵藤は腰から落ち、長い舌を吐いてのたうつ。「オレの友達を傷つけたこと」
 もう一回、兵藤の身体が半円を描いた。
 地面に落ちた時、嫌な音がしてげはっと血を吐く。

「女の、それも顔を傷つけたことだ」
 さらにもう一度地面に叩きつけようとした時、兵藤が力を振り絞って後足で一郎を蹴り飛ばした。
 たまらず、一郎手を離す。
 投げる途中だったので、山猫兵藤の身体は五mも吹っ飛んで寮の壁にぶち当たった。

「ぐう──」
 その身体が、また変化を始めた。いや、元に戻っているのだ、人間の姿に。
 猫の形態をとっている時が、兵藤の最高の戦闘体勢であるならば、それを破られた今、もはや奥の手は存在しないだろう。
 一郎たちの見ている前で、みるみる獣毛が失せ、骨格も人間のそれに戻っていった。

「終わりだな、兵藤、てめえの負けだ」
 完全に元に戻った兵藤を、一郎は見下ろした。

「答えてもらおうか、和美はどこにいる?」
 殺気のこもった低い声で一郎が聞くが、兵藤は答えない。
「言え!和美はどこだ!」
 一郎が怒鳴った時、

 ぽん、ぽん、ぽん、と、暗闇の中から拍手が聞こえてきた。
「誰っ!」
 弥生が声をかける。
 FOSの新手か? 陽平、明郎も身構えた。

「いや-、大したもんだよ、素手で兵藤を倒すとは」
 そう言いながら姿を現したのは、“笑い猫”沖田省吾であった。
 相変わらず笑みを浮かべながら、ひょうひょうと近づいてくる。

「沖田か! てめえ今までどこ行ってた!?」
 一郎が聞く。

「ま、それは後でゆっくりとね。とにかく相沢、兵藤からは何も聞き出せないと思うよ、プロ中のプロだからね、死んでも口は割らないさ。それに、その必要もない」
「と、いうと?」
 こくり、と省吾はうなずいた。
「ああ、オレが和美さんの居所を突き止めてきたからね、もう兵藤に構ってても意味はないんだよ」
「───」
 唇のはしから血を流し、地面に片膝をついた兵藤が、無言で省吾を見上げる。

「ひどくやられたなあ兵藤、敗北の味はどうだい?」
 肩をすくめて、省吾が聞く。

「あれ、ところであんた目が見えるの?」
 不思議に思って弥生が声をかける。
 確かに省吾は失明したはずなのに、周囲のことをよく判別し、すこしも不自由さが感じられないのだ。
「え? いやあ、これでも一応A級エスパ-なんでね、“心の目”で何とかなるんですよ」
 さらりと省吾は言ってのける。

「さて、相沢、この兵藤の扱いは今後どうするつもりだい?」
「そうだな──」
 そこまでは考えていなかった。
「野放しにしたら物騒だからな、和美を助け出すまで、とりあえず地下の独房にでも閉じ込めとくか」
「そんなもんが、あるんですか」
 省吾はあきれた。当然現在は使われていないが、昔は悪さをした生徒の反省室として、よく使用されていたらしい。

「そうと決まれば、さ、兵藤立ってもらおうか。な-に、すぐに事を済ませて帰ってくるからよ、そう長い間待たせやしねえさ」
 一郎、あごをしゃくって兵藤をうながす。
 兵藤は片膝をついた姿勢で、顔を伏せてしまった。

「おいおい」
「大丈夫でござるよ、捕虜になったって、別にゴ-モンするつもりもないでござるから」
 明郎、陽平はこの時兵藤が怯えているものだと思った。
 だが、すぐにそれが間違いであることに気がついた。
 うつむいた兵藤は、小声でクスクス笑っていたのである。

「何がおかしいんだよ?」
 むっとして、一郎がたずねる。
 兵藤は顔を上げた。
「やはり、貴様は甘ちゃんだったな」
「何ィ?」
 一郎は牙をむいた。

「敵の息の根も止めないうちに、勝った気になってるところが甘いと言ってるんだよ」
 ちらりと省吾をにらみつけ、
「省吾、それに気づかないから貴様も詰めが甘いんだ。プロってのはどんな状況下でも逆転可能な切り札を用意しておくもんだ──」 そう言って、ふところからリモコンらしき物を取り出した。

「何よ、それは?」
 弥生が修羅王を構えながら聞く。
「この学校の理科室には、面白い薬品がたっぷりあったな──」
 ぽつり、と兵藤はつぶやく。
 はっと、一郎、陽平、明郎、弥生は、顔を見合わせた。
「まさか」
「そう、その中のいくつかを女子寮のどこかに火薬をセットして置いてきた。このスイッチを押すだけで、ドカンといくぞ」

 火薬だけなら爆発の被害ですむが、それとともに有害な物質が充満するとなれば、それは戦争に使われる科学兵器と同レベルの危険物である。被害は驚くほど広範囲かつ深刻なダメ-ジを与える事になるだろう。
 しかも、女子寮のエアコンは市販のものなので、男子寮のものと違い数秒で毒物を除去するという訳にはいかない。
 玉置の行動だけを恐れていたので、普段彼が近づかない女子寮にまでは、明郎も手を出さなかったのだ。

「大惨事になるな」
 淡々と兵藤は言った。
「ハッタリだ」
 きっぱりと省吾が言い返した。エスパ-である彼なら、人の心を多少読めるのだろう。

「信じる信じないは貴様らの勝手だ」
 しかし、兵藤は平然と受け流す。
 長い沈黙があった。
 黙ったまま、お互いの腹を探り合う。

「行かせてやれ──」
 最初に声を発したのは一郎だった。
「これでおあいこだ。次に出会った時はケリをつけるぜ──」
 そう言う一郎の顔を無言で見つめながら、ゆっくりと兵藤は立ち上がる。
 省吾や弥生、陽平などにも気を配りながら、静かに後ろへ下がっていく。

「待ちなさいよ、そのリモコンを置いていきなさい!」
 弥生が叫ぶと、兵藤は一瞬動きを止めた。
「安心しろ、貴様らがそのまま動かなければ押すつもりはない」

「じゃあ、せめて爆薬と薬品をセットした場所を教えていくでござる!」
 くくっ、と兵藤は笑みを浮かべて、
「自分たちでやることだ」
 そう言い捨てると、出し抜けに兵藤は横へ走った。

「あっ!」
 という間に、寮の中庭にある茂みの中に飛び込んでしまった。
 ざざっ、と数回植え込みが葉を鳴らしただけで、すぐに静けさが戻ってくる。
 中庭の茂みは林へと繋がっている。たとえ今から追っても、この闇の中では到底捜し出すことはできないだろう。
 それにしても、今までここにいたのが冗談に思える程の逃げっぷりであった。
「さすがは、山猫」
 省吾が感心する。
「感心してる場合じゃねえだろ。早いとこ、爆弾を見つけねえと───」
 そう言った一郎、ぐらりと体勢を崩す。
 それを省吾が抱き止めた。
「おっとっと、大丈夫かい相沢? あの兵藤を相手にしたんだ、少し休んでいるといい」
「そうよ、一郎。後はあたしたちに任せておきなさい」
 どん!と弥生、勢いよく一郎の背中を叩く。

「っ!」
 声にならない叫び声をあげ、一郎はぐったりしてしまった。

「弥生・・・お前さん、生命の恩人にそれはないんじゃ・・・」
「全身傷だらけのところへ、とどめを刺したでござるな」
 と、ツッコミを入れる明郎と陽平。
「う、うるさいわねえ、一郎には休んでてもらおうとしたら、つい力が入っちゃったのよ!事故よ事故っ!」
 弥生が叫ぶ。

 正直なところ、危ういところをかばってくれた一郎に対し、一言お礼を言おうと思っていたのだが、照れもあって普段以上に力を込めてしまったらしい。
 顔を真っ赤にして、弥生はふくれてしまった。

    ☆         ☆         ☆

 この後すぐに寝ぼけている学生たちを叩き起こし、女子寮を念入りに調べたが、結局、爆発物は発見されなかった。
 どうやら、省吾が指摘したとおり、あれは兵藤が逃げるためのハッタリだったらしい。
 一番睡眠の深い時間に起こされた学生たちは、ぶつぶつ言いながら部屋へ帰った。

 そしてここ、学校の科学室に一同は集まっていた。

 復活した一郎も一緒に、紙コップのコ-ヒ-で一服しているところであった。
「ま、何はともあれ、でまかせだったんじゃひと安心ね」
 自分の寝泊まりしている建物に、何かあったらたまったもんじゃない。
 しみじみと弥生はつぶやいた。

「ホントでござるな」
「うん、確かに」
 陽平と明郎も、コ-ヒ-をすすりながらあいづちを打つ。
「だから言ったのだ。このボクが管理する薬品庫だぞ、万が一にも間違いがある訳ない」
 コ-ヒ-を飲んでくつろいでいる一郎たちの足元で、ロ-プで縛られ、転がされている玉置がぶつぶつ言っている。

「悪ィな玉置、そんな物騒な薬品を簡単に盗まれるようないい加減な管理をしてやがったら、ブッ飛ばすつもりだったんだけどな」
 一郎、玉置を束縛するロ-プをほどいてやる。
 ずれた眼鏡を直しながら、玉置は立ち上がった。
「まったく、このボクがそんなマヌケだとでも思っているのかね、これを見たまえ」
 そう言って、薬品庫を指さす。

「耐火・耐圧構造の密閉型。ロックは電子式で、8桁の暗証番号はボクと顧問しか知らない。ヘタな銀行の金庫にだってひけをとらない厳重さがウリなのだよ。たとえルパン三世でも金庫破りは無理だと思うね」
 ふん、と鼻息も荒く玉置は語った。「完璧だ」

 その時、目の見えないはずの省吾が、部屋の隅にあるデスクの上に何かを発見した。
「あの-、その机の上にあるのは、何です?」
「ん?」
 つかつかと玉置、近寄っていき、山のように積まれたプリントの下から、茶色のビンを探り出した。
「おっと黄リンだ。二週間程前に失くしたと思っていたのに、ここにあったのか。いや、見つけてくれてありがとう」
「・・・」
 省吾は、返す言葉が見つからなかった。

 黄リンといえば、やたら発火しやすい危険な薬品ではないか。それが山積みのプリントの下に埋もれていたのである。よく今まで────

「あんた、いつか生徒総会で吊るし上げくうわよ」
 どこまでもとぼけた態度の玉置に、弥生がこめかみを押さえながらつぶやく。

「ともあれ、和美の所在がようやく判ったんだ、すぐオレは乗り込むぜ」
 そう言って一郎、ばちん、と右手で左手の平を叩く。
 その様子から、全身にパワ-がみなぎっているのが感じとれる。
 それに今の動作で判るように、先程兵藤にやられた左腕や全身の傷も、もはや気にならないらしいのである。

「ふむ、やはり君は気力が充実するとパワ-アップするようだ。ボクの推論は正しかったといえるね」
 そう言って、玉置は一人でブツブツ言いながらうなずいている。
また、誰も気づいていないが、昼間の強化薬のおかげで──というよりは副作用の強烈な筋肉痛により、確かに一郎の肉体は強くなっているようである。
 あの痛みに耐え抜いたことで、知らぬ間に体力アップがなされたのであろう。

 学園マッドサイエンティスト“玉置克吉”。
 まさしく天才となんとかは紙一重である。


☆ ☆ ☆


メディカルル-ム。

 ベッドには和美が横たわっている。

 その周りで数人の医師や科学者が動き回っているが、和美自身が昏睡状態なので、まだ大したチェックはできていない。
 病室に取り付けられた、防弾ガラスをはめ込んだ窓から、FOS極東支部責任者の田崎がその様子をのぞき込んでいた。

 隣には、背の低い白髪の黒人が立っている。
「ダニ-、あれがティンカ-ベルだ」
 ダニ-と呼ばれたその老人は、開いているのか開いていないのか判らない程細い目で、じっくりと和美の寝顔を見つめる。

「瞬間的に大爆発して再びゼロか、不安定なエスパ-じゃのう」
 しわがれた声で、ダニ-が言う。
「能力的にも、精神的にも、な」
 軽くせきばらいして、田崎が答える。
 ヒッヒッとダニ-が笑う。
「要するに、若い──ヒヨコということよ、どうにでも“すりこめる”わい、わしの能力でなくともな」
 ちらり、と横目で田崎を見上げる。

 ぴりっと、こめかみに青スジをたてて田崎、
「私が無能だと言いたいのかね?」
「そうは言わんがの、上層部が求めるのは結果だけじゃからのう。上の連中の要求に応えることができなければ、組織のル-ルに従うことになるじゃろう」
 にい、とダニ-は笑うが、目は笑っていない。その目の光は不気味な色をしており、何か人以外のもののような視線であった。
 その目で見つめられて、田崎はぐびり、と喉を鳴らす。

「わ、私も全力を尽くして組織のために働いているのだ。もう少し時間をくれ──」
 カラカラに渇いた口で、小さく声を絞り出した。
「安心せい、最良の結果を出すために、わしも日本まで来たんじゃからのう」
 そう言うダニ-の目が、ふと田崎の背後へ移る。

 はっとして田崎が振り向くと、廊下の暗がりにいつの間にか兵藤が立っていた。
しかし、その姿は───

「山猫、どうしたそのケガは?」
「ダニ-、貴様が来たのか」
 質問には答えず、兵藤は小さな老人をにらみつけた。
 その顔を見て、ダニ-はにいっと黄色い歯を見せ、しわがれた声で笑った。
「ヒッヒッヒッ、お主、高校生のガキにケンカを売って負けてきよったのかい? FOSのヒットマンともあろうものが──」
 なぜか、誰も何も言わないうちに、ダニ-は状況を察しているようだった。

 兵藤の目に、殺気がこもる。
「貴様、勝手に人の心をのぞくな」
「何と・・・では、本当に相沢一郎の暗殺に失敗したのか!」
 そこまで言って、田崎は口をつぐんだ。兵藤ににらまれたからである。

「ヒッヒッ、仕方あるまい。これがわしの能力じゃからのう」
 ダニ-の挑発的な笑いに対し、兵藤は怒りに全身が小刻みに震えた。黒目が小さいその独特な瞳に、赤光がギラついている。
 だが、今にもつかみかかりそうだった兵藤の身体から、目つきはともかく、殺気が消えた。
「奴は来るぞ──」
 ちらり、とガラス越しに寝ている和美に視線を向け、
「甘く見るな」
 そうつぶやくと、するりと二人の横をすり抜け、廊下の奥へと歩き始める。
 田崎は緊張したが、ダニ-は笑顔を絶やさない。

「それは面白い。山猫を倒した男、ぜひ見たいものじゃ」
 ヒッヒッとまた、声をあげて笑う。
「ダニ-、そんなに楽観的に考えていて良いのか?お前も資料を見たはずだが、相手はあの相沢乱十郎の息子だぞ。しかも山猫を倒すほどとなれば、その戦闘力も受け継いでいるということに──」
 田崎の言葉に、不意にダニ-の声の質が変わった。
「誰の息子でも関係ないわい。頭の悪いガキには、現実の厳しさをきちんと教えてやるのが大人のつとめじゃ」
 そう言い捨てたダニ-の目は、人外のものの光を放っていた。





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