『夜の散歩で』


1日が終わる。
夕闇が世の中を包んでいくと、ボクの気持ちもだんだん沈み込んでいく。

胸が、痛い。

さみしくて、
たまらなくなり、
ボクは街にでた。

目的なんてない、ただ夜の街を歩くだけだ。

街には色々な人がいる。
たくさんの人がいる。
雑多な、喧噪。

けど、
ボクはその中で孤独だ。ひとり・・・ぼっち・・・

うつむいたまま、歩いた。

冷たい風が吹く、
それより心の中の方が、寒い。

それがせつない、せつなくて苦しい。

さみしい、さみしい、さみしい・・・

夜の街を歩いていく。

道ばたで、ゴミを漁っていたやせ犬が、ボクを見た。

その目。

ボクは立ち止まって見つめ返した。

やせ犬は何も答えてくれない。

沈黙。

ボクの背後で居酒屋の戸が開き、二、三人の客が笑いながら出てくると、沈黙が壊れた。
犬はどこかへ去っていった。

振り向きもしない。

ボクは小さくため息。

ポケットに手を突っ込んで歩き出す。

どこかの店のカラオケの音。
酔っぱらいの笑い声。
明るく照らす看板の電飾。

街の夜は、騒々しくて、明るい。

でもそれはうわべだけ、ボクは冷たいよそよそしさを感じる。

ずず。

鼻水をすすったついでに空を見る。
でも、ああ・・・
ネオンの明るさにじゃまされて、『夜空』と呼べるものがそこにはなかった。

ボクは、無性に『星』が見たくなった。

『夜空』を探して、街をさまよう。

ない。

ない。

夜空が、ない。

どこだ、どこだ、どこだ・・・。

ボクは走り出す。
白い息を吐いて、荒い息を吐いて。
走る。


・・・あった。

小さな公園に入った時、ようやく見つけた。

『夜の空』

息を切らせ肩を上下させながら、ボクは見上げた。

無限に広がる闇を。

星の見えない、・・・都会の夜空だった。

「・・・・・・」

ちがう。
ボクは泣きたくなった。

『星』が見たいんだ。
優しい光でなぐさめてくれる『星』が。
今見ている『これ』は、単なる『虚無』だった・・・。

立ちつくしたボクを、冷たい風が笑っている。
急に、ボクは震え始めた。

公園の闇と静寂が、圧力をもって迫ってくるようだ。

孤独(ひとり)を、
感じる。

寒い。

身体の芯まで冷えて、
たまらなくさみしくて。

さむい、さむい、さむい・・・

誰か。

誰でもイイ。

何でもいいから、ボクを暖めてほしい。

すがりたい。

ああ・・・

そこに、自動販売機の明かりを見つけた。

迷子が、母の姿を見つけたように、ボクはそこへ駆けていった。

自動販売機の光が、闇の中でこんなにも優しいものだとは知らなかった。
たかが缶コーヒーが、こんなにも暖かいものだとは知らなかった。

そのちっぽけなぬくもりを、ボクは両手で握りしめる。

あたたかい。

小さな感動だった。

ぱき。

公園のベンチで、熱いコーヒーを胃に流し込む。
ポケットから煙草を出して、火をつける。
煙が、夜空へと広がり、消えていく。

それを視線で追いながらボクは考えた。

『この夜空はボクの心の中と同じだ』

たいした夢も目標もなく何となく過ごしてる。


星のない夜空だ。


黒く塗りつぶされて、何もない。

これじゃダメだ。何かをしなければならない。

・・・何を?

朝はちゃんと起きて、遅刻せずに学校へ行って、居眠りもせずに講義を聴いて、学校が終わったら友達と話をして、どこかで遊んで、部屋に帰って蒲団に入る。

「・・・・・・」

何かちがう。
ちがうような気がする。

学校での成績は悪くない。借金をしてるわけでもない。友達だっていないわけじゃない。いじめられてることもない。

具体的に、さみしさを感じる要素など、ひとつもないのだ。
しかし、

今、ボクはたまらなくさみしい。胸がつぶれそうなほどに。

何だ? この気持ちは?

缶コーヒーを握る手に力を込める。

はらわたが、締め付けられるように、苦しい。

せつない。

一体何故ナンダロウ・・・

声も出さずにボクは泣いた。
涙の粒だけが、ぽろぽろ、ぽろぽろ、頬を伝わり落ちていく。

ダメだ、止まらない・・・
缶コーヒーを両手で握り、うつむいた。
寒さが原因ではない震えが、全身を包んでいた。

その肩を、誰かが叩いた。
顔をあげると、見知らぬ男がいた。汚れた顔をした浮浪者だ。

「どうした、ぼうず」
ろれつの回らない口調で、男が言った。

さみしいんです。
ボクが答える。

酒臭い息が顔にかかっても、不思議に気にならなかった。

「何でさみしいんだよ、言ってみろや」
黄色い歯を見せて、おじさんは笑った。

わからないんです。

「わからなくて、さみしいのか、おめえ」

はい。

「ふうん」

おじさんはばりばりと頭を掻く。
ボクの隣に座る。
ちん、と手鼻をかみ、懐から出したウイスキーをラッパ飲みにした。

それきり、
おじさんはボクに話しかけてこなかった。
ボクも黙ったままだった。

風が、公園の中を駆けていく。

また、公園の中に動くものが見えた。

ナーォ・・・

野良猫だった。

びくついてるのか、
寒いのか、
小さく震えながらこちらへ歩いてきた。

すがるような目つきでボクを見る。
見返すボクも同じ目をしているのだろうか。

おじさんが、無言で猫をなでた。
かすかに甘い声を出して、野良猫がおじさんに首をこすりつけていく。

その姿の弱々しさ。

さみしいんだよ。

な、

そうだろ?

ボクは、ぎゅうっと手を握りしめる。
缶がつぶれる感触と同時に、いたたまれなくなって、ボクは立ち上がった。

「行くか?」
猫をさすりながら、おじさんが聞いた。

ええ。

「帰るのか?」

いえ、まだ散歩します。
と答えると、おじさんは、良いことを教えてくれるという。

「あのな、この先に面白ぇモンがあるぞ、散歩だってんなら、行ってみな」

面白いもの?

どうせこのまま帰ったって、眠れやしない。
ボクは、おじさんの言うそれに、興味をもった。

行ってみることにした。



--- ☆ --- ☆ --- ☆ ---


ここまでくると、もはやボクの散歩の範疇を超えている距離であった。
一度も足を運んだことのない所まで来ていた。

夜ということもあるが、景色に見覚えがない、下手をすると迷子になるかもしれなかった。

しかし、何かに導かれるようにボクは歩き続ける。

無目的に歩いていたさっきまでとは違い、興味をそそられる何かが、その先に待っているのだ。

「何だろう?」
と思う。

また、

「酔っぱらいの言うことだし・・・」
とも思う。

闇が、濃さを増しているような気がしてきた。

ふと、
ボクの鼻をくすぐるものがあった。

最初、違和感があった。

神社の前。

夜風に、鎮守の林の木々がざわめいている。

「この薫りは・・・」

まさか。
と思った。

小走りに、ボクは石段を登っていった。

暗い境内に、一本だけ外灯が立っている。
その灯りだけが頼りであった。

薄暗いが、しかしそれで充分見通しが利いた。

「う・・・・・・」

息をのんで、ボクはその光景を見つめた。

そこに、
一本の桜の木が、
『満開になって』咲き誇っていたのである。

まさか!?
目にしてなお、ボクはそう思った。

この時期になぜ?

白い息も凍りそうな夜気の中で、

月明かりと、
針のような星明かりと、
わずかな外灯の光に照らされて、

そこに、
見事な桜が咲き誇っていた。

風は止まっていた。


時間も止まったような薄闇の中で、
音もなく花びらだけが重力にしたがい、ひらひらと舞っている。

これは・・・

何と表現したらいいのか・・・

ボクはただその光景に心奪われた。

おじさんの言ってた『面白いもの』とはこれだったか。

心を奪われた挙げ句、我知らず口にした台詞は、
「すごい・・・」
だった。

その時のボクの姿は、はたから見ればものすごく無防備だったに違いない。
無防備な姿とは、無防備な表情だった、という意味も含んでいる。

たとえば、子供のように無邪気な・・・

それは、こんな年齢になって他人に見られたら、ちょっと恥ずかしい、そんな表情であったろう。

その証拠に、「くすくす」という笑い声を、ボクは闇の中に聞いた。

「っ!?」

びっくりした。
満開の桜に目を奪われて、木の下に、誰かがいたことにボクはまるで気づいていなかったのである。

そこに外灯の灯りが届いていなかったせいもあるが・・・

改めて視線を移すと、そこに人が、いた。

幽霊かと思った。


腰までも長い髪。
それは闇でも艶がわかるほど黒い、まっすぐな髪。
切れ長な目元。


白い白い頬を、桜の幹にぴったりとつけ、
愛しいひとを抱きしめるようにしながら、
横目で、
その人はボクを見つめていた。

「・・・・・・」
言葉が出てこないボクは、無言で彼女の視線を受けた。
紅い唇の端が、少し動いて、彼女は微笑を浮かべた。

「こんばんわ?」
桜を抱きしめたまま、彼女はささやいた。

口から白い息がもれている。
よかった、体温のある、生身の女性のようだった。

それを確認して、ようやくボクも言葉が出せた。

「あのう・・・冷たくないですか・・・?」
おずおずと、訊ねると、彼女はのどの奥で「くくくっ」と笑った。

「冷たいわよ、もちろん」
しかし、それでも彼女は、桜の幹から頬を離そうとはしなかった。

いや、

その姿勢は頬ではなく、どうやら耳を幹につけているのだと、ようやくボクは見て取った。
なぜ?
それまでは理解できなかったが。

彼女を加えたその境内の構図に、ボクはまた心を奪われる。

鎮守の林。
闇の境内。
夜空に浮かぶ月。
星々。

サクラ。

満開の桜。

花びら。

風もなく、

舞い、

落ちていく。

音もなく、静かに、ひらりひらり。

雪のように。

その木の下に、

『彼女』。


動かない彼女の頭上で、桜の花びらたちだけが動いている。

じっと見てると、この身体の方が夜空に吸い込まれていくような、シュールな構図。

なんて幻想的な・・・


その幻想美の中で、彼女はじっとボクを見ている。
その肩や、長い髪に、舞い降りてきた花びらが何枚か乗っている。

「きれいだ・・・」
ぽつりと、ボクは言葉を出した。

「散るからね」
彼女も、ぽつりとささやいた。

「・・・え?」

「散っていくから、ここに美しさがあるのよ」

「・・・・・・」

「だから、この瞬間を手放したくない」
そう言って彼女は目をつぶり、幹を抱きしめる腕に力を込めなおした。

「ね? あなたはどうして今夜ここへ来たの?」

彼女が聞いてきた。

「どうしてって・・・」

たまたまさ。
たまたま、部屋に一人でいるのがいたたまれなくなって、外へ出て、歩いて、歩いて、
ここへ辿り着いただけさ・・・

「理由なんかないよ。最初から、ここを目指して歩いていたわけじゃ、ないしね。」
そう答えた。

「あら、そう」
ぱち、と目を開いて、どきどきするような視線で、彼女はボクを見る。

「あたしはね、ずっと、呼ばれているの・・・」

「呼ばれてる? 誰に?」
ボクがそう問うと、彼女はようやく幹から身を離した。
でもまだ、右手の指先は、木の肌にそっと触れたまま、

「サクラの木・・・」
と、つぶやく。

「サクラに?」

彼女が、こく、とうなずく。

「夢を見るのよ、ずっと昔から・・・」

少し、さみしそうに頭上を見上げ、舞い降りてくる花びらを額や、頬でうける。
彼女の白い肌の上に、それらはとどまることなく、さらさら滑り落ちていく。

「いつも、同じ夢なの。一本の桜が立ってるわ、紅い、紅い花を満開にさせて、その花びらを吹雪のように舞い踊らせて・・・。そして呼ぶの、『ここへおいで』って。その夢の中の呼び声が、あたしを動かすのよ。そこへ行かずにはおれない・・・。そこにあるのは何かしら? 何があたしを待っているのかしら?」

彼女は言葉を切った。

「多分、そこにはあたしに欠けているものを埋める。何かがあるんだと思う・・・」

「君は、欠けているのかい?」
思わず聞いていた。失礼な質問だったろうか?

しかし、彼女は微笑を浮かべて答えた。

「人はみな、不完全じゃないかしら?」

ぐ。
ボクはその台詞に反論することができない、それは常々ボク自身が感じている想いだったから。

「生まれながらにして、人は不完全だと思わない? 生きていく中で、その不完全を解消しようと、人はあがいて暮らしていく・・・それが人生だと思うけど?」

「不完全か・・・」
もしかしたら、それがボクの不安の正体なのだろうか?
では・・・

「じゃあ、その不完全は、どうやったら解消できるかな・・・?」

しかし、その問いに彼女は軽く肩をすくめた。

「さあ? 自分の半身と呼ぶべき恋人を見つけるコトがそうであるかもしれないし、『それ』をしてれば、他に何も求めないでいられるような『生き甲斐』を持つコトかもしれないし、何かしらの課題を自らに課し、それを人生を賭けてクリアすることがそうかもしれないわ・・・」

す、とわずかに彼女は首を左に傾けた。
そのせいで、髪に止まっていた花びらが二、三枚、はらはらと地面に落ちていく。

「あなたは、人生のテーマと呼べる『何か』を持ってる?」

「・・・・・・」
ボクは、奥歯を噛みしめた。
その問いに、胸を張って答えることのできるそれを、ボクは、持って・・・いない・・・。

「あたしと、同じ声を聞いた人かと思ったけど・・・」

彼女はため息をついた。
白い吐息が、冷たい空気に消える。

「では、あなたは歩きなさい」

「え?」

「歩くのよ」

「・・・・・・」

「少なくとも、あなたとあたしは、今夜ここで『出会った』わ。お互い見知らぬ同士なのに、ね? そのコトにも意味があると、あたしは思うの。この世に存在する偶然は、みんな『必然』よ、そうじゃない? おそらく今夜この時間にこの桜の木の下で、あたしたちは出会うべくして出会ったのよ。そして、この短い会話の中で、あたしはあなたから何かを得て、あなたはあたしから何かを得る・・・。おそらく二人とも、二度と会うことはないでしょう。この瞬間だけがあたしたちの人生のすれ違う時間だわ。」

「もう、逢うことはないかのな?」

「たとえばあたしたちは、広大な海原をさまよう二槽の船。たまたますれ違うことができたけど、すぐにそれぞれの航路へ進み、遠ざかっていき、二度と近づくことはないわ・・・」

「それじゃ、この出会いがもったいないよ?」

だだっ子のような台詞だな、と我ながら思った。女々しいったらありゃしない。

彼女も困ったように、
「人生は『一期一会』よね。見て」

彼女は両手を広げ、天空から降りてくる無数の花びらを身に受けた。

「この花は、明日にはもう咲いていないと思うわ、この寒さですもの」

夜は凍てつきそうな寒さを増していた。
舞い降りてくる花びらの数が増していた。彼女の言葉通り、今夜しかこの桜の姿は見れまい。


一夜の狂い咲き。


「はかないよね」

はらはらと、顔に触れる花弁の感触を味わいながら、彼女は言った。
桜の花も美しいが、彼女のその表情も、何と美しいことか・・・

見とれた。

彼女はボクに視線を戻し、
「『はかない』って、どんな漢字だっけ?」
と、聞いた。

「え? 『にんべん』に『ゆめ』だよね」

「そう、人と夢とがひとつになった字・・・」

「・・・・・・」

「イイ漢字だと思わない? あたし、好きなんだ・・・」
そう言って、両手を後ろに組むと、前かがみになって上目遣いでボクを見上げた。

「あなたも、夢ぐらい見つかるわよ。あなたここへ来るのにどうやって来たの?」

「・・・歩いて」

「そう!! 自分の足でね!?」

急にトーンの跳ね上がった声で彼女は叫び、ボクはぎょっとした。

「あなたの内なる心の声に従って、歩いてたワケでしょ? だったら、『歩き』なさい。その声に従って歩いていったなら・・・その先にあなたの人生が見えてくるはずよ?」

長い睫の生えた彼女の瞳が、軽くウインクした。

ああ・・・

ありがとう。
見知らぬ美しい人。

ボクはここへ来て、本当に良かった。

月と、サクラと、長い髪の人。

今夜この出会いを、
このあまりにも美しい一枚絵を、ボクは忘れるコトはないだろう。

初対面のこのボクに、励ましの言葉までくれた。

君の名は?

しかし、その問いに彼女は答えてくれなかった。

「そんなコトより、この光景を目に焼き付けなさい。時間は巻き戻ってはくれないわよ? この一瞬一瞬を空虚に過ごさないで・・・あたしがいう『歩く』って言葉は、そんな意味よ」

「ありがとう、ボクはここへこうして来たように、歩いてみるよ。これからも」

「そう、それがいいわ。残念ながら、あたしの探すサクラは、この樹じゃなかったみたいだけど、これからも探し続けるわ、お互いがんばりましょうね」

そう言って、軽く右手を振った。

そして、愛おしそうに、桜の木に視線を移してしまった。
花が散るまで、彼女は見届けるつもりなのだろう。

彼女にとっては、それはとても大事な時間であるはずだ。

ボクはお暇することにした。邪魔をしては悪いよね。
でも、彼女に背を向ける前に・・・

「さっき、キミは『二度と逢えない』っていったけど、そんなコトないと思うよ」
最後にボクはこう言った。

「ん?」

「たとえば、ボクはたまに夢の中で、キミと逢うことになると思うから・・・」

「ふふっ? 人と夢・・・かぁ」


初めて彼女は満面の笑みを浮かべた。
その表情は、美しいというより、可愛く見えた。


寒い寒い。


身も心も、とても寒い、そんな夜の出来事だった。

しかし、再び歩き始めたボクの身体は、缶コーヒーがなくとも、暖かかったことを覚えている。




まさに夢のようなひとときだった。







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