小人

小人

矛盾野郎




あるサニヤシンが坐禅している私を批判していた。「毎日修行しているようでは話しにならん。あと100年は修行しろ」と言うのである。ところが彼、突然「滝行」にハマり、毎日通うことと相なった。オマケに般若心経を唱えたり坐禅のまねごとまで始める始末。で、私に言うんである、「自分は毎日真剣に命がけで修行している」と・・・。じゃ、先の私への批判は一体何だったん? と聞いても一切何も答えない。答えられるワケないわね。

そこで、冬に命がけで真剣に滝を浴びてると言う彼にこう言ってやった、「冬に痩せ我慢して滝を浴びねば真剣に瞑想できないのなら、勝手に浴びればいい。誰も頼んじゃいないし、誰も止めちゃいない。私はコタツでゆっくり真剣させてもらう」とね。

つまるところ「何であれ自分がやってることは正しい。どうだ、難行している自分はエライだろう」というワケだ。自分が瞑想してなかったら瞑想者が間違ってると言い、瞑想し始めたら命がけでやってると吹聴し・・・、全くトホホなお方である。

もう一人彼と足並みそろえて私を批判していた馬鹿がいる。口先だけで瞑想を語る、超の付く軽薄サニヤシンだが、彼は「坐禅しているようではなーんにも分かってないということだ」などと禅マスターの逸話を引用したりして私を連日揶揄していたものだ。以下、彼の引用そのまま・・・

> 馬祖が未だ光明を得ていなかったときの話です……
>
> 馬祖は熱心に坐禅を組み、ひたすら修行をしていました。
> それを見て、師の南嶽和尚がやってきて問いました。
> 「おまえは常、日頃、熱心に坐禅をしているが、どういうつもりじゃな」
> 「仏になることを目指しております」
> それを聞くと、南嶽和尚は外に出て、一枚の瓦とを拾い、
> 石でその瓦を磨き始めました。
> 馬祖は驚いて問いました。
> 「師よ、何をしているのです」
> 「瓦を磨いて鏡にするのじゃ」
> 「瓦を磨いて、どうして鏡にすることができましょうか」
> 「ほりゃ、瓦を磨いて鏡にすることができないのじゃったら、
> 坐禅しても仏になることはできんじゃろうが」
> 「……で、ではどうすればよいでしょうか」
> 「牛車に乗っていたと思いねぇ、
> 車が動かなくなったとき、車を打つかのぉ、牛を打つかのぉ」
> 馬祖が答えなかったので、南嶽和尚、再び言いました。
> 「おまえが坐禅を学ぶのは、そりゃな、坐っている仏をやっとるんじゃ。
> もし、<坐仏を学ぶんじゃ>ということなら、
> 仏には定った形はないってことじゃよ。
> おまえが、もし坐った仏しとるなら、
> そりゃ、すなわち、仏をブチ殺しているつ~ことじゃ。
> もし、座禅だなんて言ってるようなら、
> ぜ~んぜん、なぁんも分かっちゃおらんちゅうことじゃよ
> ほっほっほっ……」
>
> ……禅の有名な話からでした。


そこで私が一言こう訊いた・・・

「で、南嶽は坐禅せずに南嶽になったんですか?」

返事がないので何度か問い直したが、待てど暮らせど遂に返答はなかった(哄笑)

そこでこう言ってやった。「南嶽は馬祖が一心不乱に修行してきたからこそ言ってるんであって、伊達や酔狂で瓦みがきまでやって見せてるんじゃない。マスターにそこまでさせたのは馬祖の真摯な修行あったればこそで、オマエのような口先だけのド阿呆に言ってるんじゃない」とね。

ところが数日前、久しぶりにその馬鹿野郎の日記なるものを見ると、「連休を利用して寺に泊まり込みで瞑想三昧してきました」とある。じゃ先の私への批判は一体何だったん? となるわね。で、一言こう言ってやったよ、

「やっぱオマエ、馬鹿だろ」ってね。

即削除しやがったけどね(笑)


 金持ちではあるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。早速、大工を呼んで建築を言いつけた。大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。『わたしの求めるのは土台ではない、一階でもない、二階でもない、三階の高楼だけだ。早くそれを作れ』と。

 愚かな者は、務め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める。しかし土台のない三階はあり得ないように、務め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。
              (仏教伝道協会訳、仏教聖典より)


● 南嶽禅師と馬祖のエピソード
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/sokusinzebutu.htm

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