愛・様々な空間・・・余裕の空間・・・samazama~

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村野藤吾氏



日本を代表する建築家の一人。
佐賀県唐津市で生まれ、北九州市で育った。
福岡県小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。その後の従軍中、学問に興味を持ち、早稲田大学理工学部電気工学科に入るが、自分には向かないと思い建築学科へ転学。27歳で卒業した。

1918年渡辺節建築事務所に入所。渡辺からは、建築に費用を惜しまないことが客を呼び、ひいては施主の利益になることを叩き込まれる。
1929年村野建築事務所開設
1949年村野・森建築事務所に改称。
1955年日本芸術院会員。また日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。

1967年文化勲章受賞をはじめ日本芸術院賞、日本建築学会賞など他多くの賞を受賞。

1967年文化勲章受賞。日本芸術院賞、日本建築学会賞など受賞多数。

代表作・日生劇場は花崗岩で仕上げた古典主義的な外観やアコヤ貝を使った幻想的な内部空間などが、当時の主流であったモダニズム建築の立場から「反動的」といった批判も受けた。有楽町のそごうも当時話題になった建築である。

1968年からは迎賓館本館(旧赤坂離宮)の改修も手がけた。 また、村野は和風建築の設計にも手腕を発揮し、戦後の数寄屋建築の傑作として知られる佳水園なども設計した。

大阪を拠点に創作活動を行い、建築批評界では丹下健三とよく比較された。 90歳を超えても創作意欲は落ちず、死の前日まで仕事をしていたことは伝説となっている。

2006年、世界平和記念聖堂(1953年、広島市中区幟町)が、丹下健三の広島平和記念資料館(1955年 広島市中区中島町)とともに、戦後建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定された。


作品

世界平和記念聖堂(国の重要文化財)

新歌舞伎座

兵庫県立近代美術館

西山記念会館

日生劇場

読売会館
1928年 日本基督教団南大阪教会塔屋 (大阪市阿倍野区)
1931年 森五商店東京支店 (現 近三ビルヂング/東京都中央区)
1932年 加能合同銀行本店 (現 北國銀行武蔵ヶ辻支店/石川県金沢市)
1935年 そごう百貨店大阪本店 (大阪市中央区/2003年取り壊し)
1937年 宇部市民館 (現 宇部市渡辺翁記念会館/山口県宇部市/国の重要文化財)
1937年 叡山ホテル (現存しない/鈴鹿海軍将校集会所に一部を移築→志摩観光ホテル東館に再移築)
1938年 大庄村役場 (現 尼崎市大庄公民館/兵庫県尼崎市/登録有形文化財)
1940年 橿原神宮駅舎 (現 橿原神宮前駅/奈良県橿原市)
1951年 百貨店ヤマトヤシキ (兵庫県姫路市/1951年―1975年)
1951年 志摩観光ホテル (東館1951年、西館1960年、本館1969年、宴会棟1983年)
1953年 丸栄百貨店 (名古屋市中区/日本建築学会賞)
1953年 世界平和記念聖堂 (広島市中区/日本建築学会賞/重要文化財指定)
1955年 関西大学 第一学舎・蘭文館 (大阪府吹田市)
1957年 読売会館 (→旧有楽町そごう→現 ビックカメラ有楽本館)
1958年 新歌舞伎座 (大阪市中央区)
1958年 八幡市民会館 (福岡県北九州市/BCS賞)
1959年 横浜市庁舎 (横浜市中区)
1959年 都ホテル和風別館「佳水園」(現 ウェスティン都ホテル京都/京都市東山)
1959年 小倉市民会館 (現存しない)
1960年 都ホテル新館 (現 ウェスティン都ホテル京都/京都市東山)
1962年 早稲田大学文学部校舎 (東京都新宿区)
1962年 尼崎市庁舎 (兵庫県尼崎市/BCS賞)
1963年 日本生命日比谷ビル(日生劇場)(東京都千代田区/日本建築学会賞)
1963年 熊本市水道局  (KAP'92選定既存建造物)
1963年 梅田換気塔 (大阪市北区)
1963年 名古屋都ホテル (現存しない)
1964年 関西大学 円神館 (大阪府吹田市)
1964年 甲南女子大学 (兵庫県芦屋市)
1966年 千代田生命保険本社ビル (現 目黒区総合庁舎/東京都目黒区/BCS賞)
1966年 宝塚カトリック教会 (兵庫県宝塚市)
1970年 ルーテル学院大学本館 (東京都三鷹市)
1970年 シトー会西宮の聖母修道院(西宮トラピスチヌ修道院) (兵庫県西宮市)
1970年 兵庫県立近代美術館(原田の森ギャラリー)(神戸市灘区)
1970年 東光庵 (帝国ホテル茶室/東京都千代田区)
1971年 箱根樹木園休息所 (神奈川県箱根町/BCS賞)
1972年 高輪プリンスホテル貴賓館 (旧 竹田宮邸改修/東京都港区)
1974年 迎賓館本館(旧赤坂離宮)改修 (東京都港区)
1974年 日本興業銀行本店 (現 みずほコーポレート銀行本店/東京都千代田区/BCS賞)
1975年 西山記念会館 (神戸市中央区/BCS賞)
1975年 小山敬三美術館 (長野県小諸市)
1978年 箱根プリンスホテル (神奈川県箱根町/BCS賞)
1978年 千里南センタービル (大阪府吹田市)
1979年 都ホテル東京 (内装のみ/東京都港区/全体構成・外観はミノル・ヤマサキの設計)
1979年 松寿荘 (出光興産ゲストハウス/現存しない)
1980年 宝塚市庁舎 (兵庫県宝塚市)
1982年 新高輪プリンスホテル (東京都港区/BCS賞)
1983年 谷村美術館 (新潟県糸魚川市)
1983年 宇部興産ビル (宇部全日空ホテル/山口県宇部市/BCS賞)
以下は村野の設計により、死後に完成したもの。

1985年 都ホテル大阪 (大阪市天王寺区)
1986年 京都宝ヶ池プリンスホテル (京都市左京区)
1988年 三養荘新館 (静岡県伊豆の国市/1993年増築/BCS賞)
1988年 天寿園 瞑想館 (新潟県新潟市)
1990年 横浜プリンスホテル (横浜市磯子区/BCS賞/2006年取り壊し予定)

ややアウトローな立場にありながら、それでも絶大な影響力を持っていた建築家である。「東の前川、西の村野」といわれた時代があったことはその証左といえる。42歳(昭和8年)のとき発表した「日本における折衷主義建築の功禍」で、当時建築界を賑わせていたモダニズム一辺倒の建築潮流に対して痛烈に批判し、折衷建築主義を高らかに宣言した。それをモダニズムが主流となっていった中で、時代の流れに歩調をあわせながらも生涯死ぬ直前まで貫徹しきった恐るべき建築家である。その享年93歳。
 日本の表現主義、そして商業建築のあり方に、確かな礎を築いた巨匠・村野藤吾という建築家は、まさに人の出会いによって成った。それはある意味あまりにも典型的な、建築家への道のりであった。

村野藤吾氏概略

 最初の出会いは、出生地である唐津という街との出会いである。村野家は八幡市、今の北九州市で代々船問屋を営んでおり、両親もそこに住んでいた。
 しかし、村野藤吾氏が生まれるちょうどその頃、村野家は当時漁港として栄えていた唐津に事業を広げたため、また母親の身体が弱かったために、唐津の漁師の家に藤吾は預けられたのである。
 藤吾は10歳まで唐津で育てられることになる。実は唐津は日本人建築家第一号の辰野金吾、また明治・大正・昭和の時代渡って活躍した建築家曾禰達蔵を輩出した土地でもある。
 おそらく漁港として以上に「唐津焼」という焼き物への情熱、そういう文化的香りが、全く関係しない、とは決していえないことは確かなのである。
 村野氏は10歳にして「勉強したい」という気持ちになって、親元に戻り、のちに親の紹介によって小倉工業の機械科を卒業する。本人の回想によれば、親の思惑ではそこから製鉄所に入り、村野家の所有する借家からの収入とともに八幡における文化人として成長させたかったようである。
 そして藤吾は実際に製鉄所に1年半を過ごす。そして兵役で要塞砲兵として招集される。

 第二の出会いは、その兵役で出会った一人の志願兵である。彼は東大のドイツ法学を修めた人物で、村野氏に、福岡の先輩の話に始まり、ドイツ文学などの学問的な知識のありようを言い聞かせた。そのうち村野氏は、製鉄所で働くよりももっと勉強したい、と思うようになるのである。そして村野氏は2年の兵役ののち早稲田大学に入学した。
 最初は電気科であった。機械科を卒業し製鉄所で働いていた村野氏にとって自然な選択であった。ところが、実際に入ってみると、電気の数学・物理学にとても頭がついていかず、転科を考える。ではどこにするか。そこで村野氏は都会へ出てきて以来、そのさまざまな建物の形に興味をもち始めていた。多少脚色を加えるなら、原風景たる唐津への差異あるいは重なりなりを見出したのかもしれない。ともあれ、建築も向かぬなら電気を扱う舞台照明などやりたい、と考えていた。

 第三の出会いは、転科するに当たって相談した当時の予科長である安部磯雄氏である。彼は真夏でも三つボタンの正装で講義を行い、一方学生たちには上着を脱がせ扇を用いるのを許可したという。村野氏は「自らを厳として、人には許す」という態度にとても感銘を受けたという。その凛とした教授は「建築に変わらせてください」という村野氏にこう言った。「それならおまえは一年間学校がひけてから自在画をやれ、そしてそれがパスしたら考えてやろう」。

 第四の出会い、それは一方でやはり村野氏自身建築科で合っているのかという不安からだった。当時の早稲田の建築科助教授であった徳永庸氏にその旨の手紙を出した。この徳永氏もまた工業学校を出て、また福岡の出身であった。そして彼は村野氏の突然の質問にこう返事をよこした。「第一、数学ができること、第二、文学に興味を持つこと」。村野氏はこの手紙を見て、自分なら建築でもいける、と自信を持ったという。村野氏はこの恩師たちの言葉を受け、無事建築科に転向した。

 第五の出会いは、当時の建築科長であった佐藤功一氏である。村野氏は当時流行していたセセッションの波に周りと同様に乗っており、依然古典主義的であった佐藤氏とは製図の時間ピリピリとしていたという。しかしそれでも、佐藤氏のルネサンスの講義には非常に大きな影響を受けたという。村野本人にようれば、「たとえ便所のようなまずい設計をさせられても、俺は一人前の建築家にどうしてもなるんだ、と勇気付けてくれたのは佐藤先生のルネサンスの講義」であったという。つまり村野は、この佐藤氏の講義によって建築家の輪郭あるいはアイデンティティというべきものを学び取った、といえるだろう。

 そして卒業後すぐに渡辺節の建築事務所に入所し、建築家として修行を積んでいくことになる。


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