佐竹台8丁目25番地―12

理想と現実('02/07/06)



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NPB,Lと聞いたら「投手王国」と思ってしまう。
旧Bu、と聞いたら打撃のチーム。

関西学生リーグのアメフトなら、関学=鉄壁のディフェンス。

関東大学ラグビーなら、FWの明治、バックスの早稲田。

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で、Jリーグ。

セレッソ大阪、といえば、誰が何と言おうと「攻撃的チーム」だ。

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私がJリーグ史上のベストバトル、ベストゴールは?と聞かれたら、
この試合、この決勝点 を挙げる。

優勝争いに絡むセレッソ大阪は、敵地マリノスの本拠地・三ツ沢に乗り込んだ。

優勝のためには勝つしかないセレッソ。
死力を尽くした、この試合。
負けじと追い付いた横浜マリノス。

記録で後半41分にエース・森島寛晃を交代させているのは、
彼の両足の筋肉がつったからだ。

そんな中で生まれた、斎藤大輔(現千葉)の決勝ゴールは、
セレッソの右サイドからのCKから。

ピッチ上の22人が死力を使い果たしたこの試合、
マリノスのゴール前に、ぽっかりと穴が開いた。

斎藤だけが、ボールに導かれたような動きをした。

セレッソは勝利し、ゴール前でついに首位に立つ。

結局はその一週間後、延長勝利以上で優勝、という絶対的優位に立ちながら
長居の涙雨 と共に、桜が散るかのごとく川崎FにVゴールで敗れ、
J関西勢悲願の初の3大タイトル(Jリーグ戦、ナビスコカップ、天皇杯)の制覇は成らなかったが、
その攻撃的サッカーは、Jの歴史として、しっかりと刻まれている。

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その翌'01年。
今度はセレッソを悲劇が襲う。
守備の崩壊。敗戦の連続。
監督交代も功を奏さず、
11/3、FC東京にアウェイで敗れ
翌'02年、W杯年をJ2で過ごすことが決定した。

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しかし、この降格が決まり、
監督がジョアン・カルロスから西村昭宏に交代。

その後
リンク先、13節以降
彼が指揮をとったセレッソ大阪は、3連勝でJ1リーグ戦を終えた。

その勢いそのままで挑んだ天皇杯。
失うものの無い者の強さなのだろうか?

セレッソは、
準々決勝、この年のJ王者、鹿島を撃破した。

スコアは、セレッソらしい、4-2。
「相手に点を取られなければ、負けない」という考えでは無い。
「相手より1点でも多く点を取れば勝てる」という考え方。

勢いは、アウェイ・埼玉で、初タイトルを夢見て、サポーターが多く駆けつけた
浦和戦でも止まらず、
1-0で勝利 した。

結局'01年、西村セレッソは全勝で終えた。

この西村セレッソは、攻撃的で、なおかつ美しかった。
中盤がダイレクトパスをスムーズに通し合う、美しいサッカーだった。

'02年元日の決勝では、後にセレッソに所属するFWバロンのVゴールにより
清水に、2-3で敗れ 、またも関西初のタイトルはならなかったが、
0-2から一方的に攻め立て、追い付いて見せたそのサッカーは、
何度もこの表現を用いるが、美しかった。

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'02年。天皇杯の結果は関係無く、J2リーグで迎えた開幕戦。
W杯メンバーとなった西澤明訓、森島寛晃をはじめ、
大半の主力がチームに残ったセレッソ大阪は、

その前年、最終節でJ1昇格を逃した山形相手に、
6-0で完勝 し、
最高の形で、3/3に、J2の長いリーグの幕を開けた。

主力が若干抜けたとはいえ前年のJ2の3位相手に
開始20分で4-0としてしまった、その攻撃力。
J2に存在するのが、「犯罪だ」と思わせるくらいの強さだった。

チーム名の由来になった、スペイン語で「桜」の時を迎えるまでは・・・。

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3月30日、一つの試合が、歯車を狂わせはじめた。

開幕5試合を4勝1分で迎えたセレッソ大阪は、
大分トリニータに、0-3で完敗したのだ。

大分は、'02年の地元でのW杯開催年をJ1で迎えるために、過去2年間、
血眼になって、積極的な補強を繰り返してきた。
しかし、毎年その補強が功を奏さず、あと一歩のところで昇格を逃してきた。

'02年シーズンをJ2で過ごす事が決まったオフ。
この年、例年に無く、大分は地味な補強を行った。

前年度、J2の3位であった山形から、
ボランチの浮氣、右サイドMFの西山を引き抜いたくらいであった。

そして、徹底して堅守からカウンターを狙うチームを築き上げた。
そのカウンターの罠にはまり、セレッソは無残にも完敗したのだ。

結局、全44節にJ2リーグの第一クール11試合を終え、
昇格大本命のセレッソ大阪は5勝3分3敗、勝ち点18、4位と低迷した。

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幸いだったのは、この年はW杯の影響もあり、J2リーグ戦も
5月12日の第15節を最後に、1月半のブランクがあったことだった。

セレッソ大阪はこの時点で、勝ち点26だった。
勝ち点35の大分、勝ち点32の大宮、勝ち点30の新潟、に継ぐ4位だった。

2位以上が自動昇格のJ2リーグ戦。
セレッソ大阪の昇格に黄信号が灯っていた。

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毎度のことながら、前置きが長くなった。

その後、「W杯台風」が6月、日本列島を縦断した。
そして7月6日、リーグ戦が再開されることになった。

セレッソ大阪はアウェイ・三ツ沢で、横浜FCと対戦することとなった。

横浜FCファンの私は、その試合を見に行くことにした。

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当時、私は二度目の新人研修で、千葉にいた。
試合開始は19:00から。

時間をもてあまし、暇なので、友人に教えてもらった、
旨いラーメン屋を訪れてから三ツ沢に行くことにした。

中野の「青葉」という店だった。

午後3時頃に訪れたのに、行列が出来ていた。
関西系の人間である私にとって、「行列を作る」というのは、理解できない。
基本的に、関西人は「いらち」(→イライラしやすい)なのだ。

しかし、せっかくの機会なので、30分行列に耐え、ラーメンをすすった。

なかなかダシが効いて、旨いラーメンだった。

腹ごしらえも済み、気分が落ち着いたところで、横浜へと向かう。

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JR横浜駅に到着。ここからバスで、三ツ沢へと向かう。
地下を歩いていると、なんだか、先ほどの中野の「青葉」での行列の
4倍以上の長い行列が出来ていた。

「何かイベントでもあるのかな?」と思いつつ、地上に上がると・・・!!

それは、三ツ沢行きのバスの行列であった。

W杯台風が吹き荒れた日本列島。
そのW杯戦士である、セレッソの森島寛晃と西澤明訓が目当てだったのだろうか?

結局、バスをあきらめ、地下鉄に乗り、三ツ沢上町から坂を登る。

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三ツ沢公園競技場に到着。

ここでも、チケット売り場が長蛇の列だ。

結局チケットを入手して中に入ったときには、席はほとんど埋まっていた。

仕方が無いので、バックスタンドのハーフライン上の最上段、立ち見を決め込む。
丘の上を通る風が、蒸し風呂のような暑い中、
坂を上ってきた体を心地よく駆け抜けていく。

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さて、落ち着いたところで、試合開始。

試合開始後も、続々と観客が入ってくる。
結局この試合では、11,118人、という、横浜FCの主催試合では
最多観客新記録を打ち立てた。

この年の横浜FCは、「2-4-4」と称する、「4-2-3-1」のような布陣。
ピッチの横幅を大きく使った、サイド攻撃を武器に、
前線からリスクを恐れず、積極的に前掛かりに攻めるチームであった。

対するセレッソ大阪は3-5-2の布陣。
W杯の疲労を考慮して、西澤と森島は、ベンチスタートだった。

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この試合も、はっきりと、詳細までは覚えていない。
やっぱり、サッカーの試合の観戦記を書くのは、私には難しいようだ。

ただ、一つ、はっきりと覚えていることは、ホームの横浜FCの方が
主導権を握っていたことだった。

サイドの厚い布陣の横浜FCのサイド攻撃に、
サイドの薄い3-5-2のセレッソ大阪は再三ピンチにさらされる。

が、横浜FCのチャンスは、いずれも決定力不足でゴールに至らなかった。

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そんな中、前半、試合展開を決定付ける出来事があった。

前半38分、横浜FC右サイドから、左サイドへ、大きなサイドチェンジ。
ハーフライン付近で、吉武がボールを持ち、
浅いセレッソ大阪のDFラインの裏を突破しにかかる。
ここで、セレッソのDF鈴木悟が、後ろからタックルに入り、プレーを止めた。

バックチャージだったので、即赤でもおかしくないプレーだったが、
イエローカードの提示で済んだ。

しかし、その4分後、全く同じような展開で、今度は
横浜FCの1トップの神野が、同じようにタックルを受け、倒される。

まさか、と思ったが、倒したのは先ほどと同じく、DF鈴木だった。

横浜FCホームのゴール裏で「レッド!レッド!」の声が上がる。
それに答えたわけではないだろうが、
主審は2枚目の黄色を鈴木に示し、この試合の残り48分を
セレッソ大阪は、10人で戦わなくてはならなくなった。

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セレッソは、FWのトゥルコビッチに替え、DFのジョアンを投入し、前半終了。

後半はエンドが入れ替わり、数的有利の横浜FCがますます主導権を握る展開となった。

しかし、後半10分頃。
本来は後半開始からそのような布陣が敷かれていたのだろうが、
私はこのタイミングでようやく気付いたことがあった。

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横浜FCは、先に述べたように、4-2-3-1のフォーメーションであった。

そして、サイドからの攻撃を意図して試合を進めていた。

が、それに対して、セレッソ大阪は

・1トップの神野に対しては、空中戦に強いDFジョアンがマンマーク。
・左右のウイング、田島と吉武に対しては、喜多と久藤がマンマーク。
・トップ下の小野信義には、ボランチの中井と布部がケア。
・DF山尾が、一人あまる形で、裏のスペースをケア。
・攻撃に関しては、FW真中、大久保とMF徳重の3人の個人技で打開する。

という、「4-2-1-2」のフォーメーションに変更していたのだった。

そして、ひたすら横浜FCの攻撃を受け、それを耐え、
ひたすらカウンターの機会を伺う戦術に変更していたのだった。

後半途中に、真中に代え森島、徳重に代え西澤を投入したセレッソは、
さらに攻撃は森島・西澤・大久保の「3人任せ」となり、
より、守備的に、よりカウンターを狙う展開となった。

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そして、横浜FCの決定力不足にも救われたのではあるが、
ひたすら耐えに耐えたセレッソ大阪は、
終了間際のロスタイム。

さらに前掛かりに、勝ち越し点を奪いに来た横浜FCから中盤でボールを奪うと、
素早く森島が飛び出し、シュート。
これはクロスバーに跳ね返されたものの、詰めていた大久保嘉人が
ヘッドで決勝点を奪ったのだった。

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直後にタイムアップの笛が鳴った。

セレッソは、苦しみながらも、勝ちを拾った、という試合だった。

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帰り、今度は来た道を帰り、三ツ沢上町駅へと坂を下った。

悔しくて、悔しくて仕方なかった。
それは、応援しているチームが負けたから。
でも、それだけでは無かった。

この日のセレッソ大阪の戦い方に負けたのが悔しかった。

半年前には、理想を追求したような、「美しい」サッカーを見せていたセレッソ大阪。

そのチームが、数的不利の影響もあったにせよ、
「リスクを恐れず、より多くの点を取りにに行く、勝ちに行くサッカー」
ではなく、
「点を失わないことに焦点を絞った、負けないサッカー」
を見せたこと、そういう戦い方を選んだことに対する不満があった。

「理想」のサッカーを捨て、「現実」を求めたセレッソ大阪。

そして、それに負けてしまった横浜FC。

応援したチームが負けた事実と、
現実の前に屈してしまったセレッソ大阪に対して、
悔しくて、口惜しくて仕方なかった。

この日、東京駅発の夜行バスで、翌日の神戸でのBW戦を見に移動したのだが、
なかなか眠りにつくことが出来なかった。

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結局、この年、セレッソはJ2を2位で終え、
第43節の新潟戦 で、1年でのJ1復帰を決めた。

でも、あの'01年後半に見せた、「美しい」サッカーは、二度と戻って来なかった。

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私たちは、現実の世界を生きている。
その現実世界では、様々なやりきれないこと、挫折、妥協、
理想とはかけ離れたことが多々ある。

それを忘れるためにも、スポーツ観戦の際には、
せめてピッチの上では理想を追い求めた、美しい試合を見たい、夢を見たい、
という思いを心の片隅に置いて、毎回臨んでいる。

でも、アスリートも、現実世界を生きている以上、
この「理想」を追い求めることと「現実」に結果を残すことは、
相反することなのかもしれない。

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ひょっとしたら、この「理想」と「現実」の問題は、
スポーツに限らず、人間が生き続ける限り必ずギャップに苦しむ、
永遠の課題なのかもしれない。

・・・多分。


['05/05/06]


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