佐竹台8丁目25番地―12

ありがとう、お疲れ様でした('06/10)


これからいつものように思いっきり主観的な文章を書きますので、
ご容赦ください。

あと、記憶違いも多いかもしれません、ご指摘いただければ幸いです。


長文書きますが、
一番言いたいことは、ただ一言タイトルの通りです。

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佐竹学選手のプロ1軍でのデビュー戦は、千葉マリンスタジアム、
いきなりスタメン抜擢で4安打の固め打ち。

この年の新人野手トリオの、
ドラ2位の谷選手、3位の塩崎選手、そして4位の佐竹選手が
仲良く揃ってお立ち台に上がった、というデビューでした。

記録を見ますと、97年の5月25日、ということで、
今から9年前になりますね。

ただ、この頃は私はスポーツニュースで結果を知っただけでした。

特別な思い入れも無く…。

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そして、私が観戦した試合の中で、最も古い記憶の中で
佐竹選手が試合に出場していたのは、98年4月4日?の神戸でのパリーグ開幕戦。

前年、全チームに勝ち越しながらもカモのチームが作れず、
惜しくも2位だったBWは、前年5位のHを迎えての試合でした。

…あの頃は、強かったんですよね、オリックスも。開幕戦もホームで開催できて…。

で、この試合、相手の先発が左腕の工藤公康投手ということもあり、
8番三塁手での開幕スタメン起用でした。

そして、この試合は確か2-1で敗れた覚えがあるのですが、
この日唯一の打点を挙げたのが、佐竹選手でした。

6回だったかな?1死二,三塁のチャンスで、高いバウンドの遊ゴロor三ゴロを打ち、
その間に三走の藤井康雄選手がホームイン。

ただ、この一つ前の打席でも、全く同じシチュエーション、
1死二,三塁で佐竹選手に打順が回ったんです。

この時は、前進守備の三塁or遊撃への、強いあたりのゴロで、
三本間に三走の藤井選手が挟まれて封殺。

なので、チャンスで2回打順が回ってきて、安打が出なかった、
むしろ安打が出ていれば、2点入れば勝てたのに…。

なんてことを、ライトスタンドで観戦しながら私は思っていました。
…当時は、まだファンじゃなかったので 恥

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ただ、今になって振り返ると、1死で走者が三塁にいれば、
ついつい犠牲フライで1点を狙いたくなる場面ですが、

上記のケースでは、記録としては犠牲フライであれば、
打数はノーカウントなので打率は下がらなくてすむんですが、

たとえば左翼への犠牲フライだと、次の展開が2死二塁になるんですよね。

それよりは、高いバウンドでの内野ゴロだった場合は、
打率は下がりますが、次の展開が2死三塁となり、有利です。

そういう、「チームプレイ」を意識した打撃をしていたんだなぁ、と
今振り返って考えると思います。

非常に、佐竹選手らしい打撃ですよね。

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そして、後日、週刊ベースボールを見て知ったのですが、
この前年、つまりルーキーイヤーの97年の秋季キャンプで、

佐竹選手が守備の時にひじの脱臼をしてしまい、
全治半年と診断される、大怪我を負っていたこと、

そして、それを懸命のリハビリで乗り越えて掴んだ開幕スタメンの座であった、

ということを知りました。

ただ、まだこの当時は「ガッツある、努力家の選手だな」とは思っても、
まだ私は佐竹選手のファンにはなっていませんでした。

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翌99年、この年はLに怪物・松坂大輔投手が入団した年でした。

この年のBWとの初対戦は、確か5月の西武ドーム。

この試合でBWは松坂の前に13奪三振での完封負けを喫したはず。
イチローも、いきなり3打席連続三振でした。

しかし、その中で一人気を吐いたのが佐竹選手。
6番三塁のスタメンで、BWの選手として初めて松坂から安打を放ったのが佐竹選手でした。

恐らく、スライダーが武器の松坂投手に対し、
外角低めの球を打つのが上手い佐竹選手は相性が良かったのでしょう。

この年は対松坂で3割以上をマークしたはずです。

そして、当時のBWの監督が、相手投手との相性重視の仰木監督でした。

L西口文也には、五十嵐章人。
L森慎二には、谷佳知。
F岩本勉には、四条稔。
H木村恵二には、高橋智。

そんな感じで、松坂キラーとして、松坂先発の時には、
佐竹選手が起用されていました。

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そして、この年に。

個人的なことですが私が、佐竹選手を応援しよう、と思うきっかけになった試合が、

99年8月7日、神戸での対L戦、
延長11回裏に、1死満塁のチャンスで、しかもカウント2ナッシングから、
代打の代打で左腕橋本からサヨナラ左前適時打を打った試合でした。

今振り返ると、佐竹選手のプロ唯一のサヨナラヒットを、
幸運にも私は目撃できたことになります。

この時は、延長11回を一人で投げ抜いた投手との、2人でのヒーローインタビューだったのですが、

佐竹選手は、わざわざライトスタンドに走ってきてくれて、帽子を取って挨拶をしてくれました。
この間、 東北青丑会Kazmaさんとこのブログ にも書かれていましたが、
ファンを大切にしてくれる姿勢は、変らないですよね~。

…でも、2ナッシングから代打の代打起用でサヨナラ打を打つ、ってケースも珍しいですよね。

ひょっとしたら、球史に前例が無い、唯一のことなのかもしれません。
(調べていないので、断言はできませんが…)

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それ以来、私の親の実家が大阪府内の佐竹台という町であるという偶然もあって、
佐竹選手のファンになったのも何かの縁だ、という思いもあり、
私はこの「佐竹台」というハンドルネームでネット環境に出没させていただくことになりました。

そして、それまでは周囲にはほとんど、弟ぐらいしかいなかった、
オリックスファンの方々と知り合うことができました。

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その後は、00年に、アリアスが加入し三塁を守ったため、
少し一軍での出番が減ってしまいました。

個人的には、この年に、生まれて初めて佐竹選手にサインを頂きました。
この年の12月2日のことです。

サインを貰った、今から6年前
↑その時の様子

僕のたからものの一つ
↑その時いただいたサイン

…僕の、たからものです。

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そしてこの頃から、アマチュア時代の二塁と遊撃、そしてプロに入ってからの三塁だけではなく、

それら以外のポジションを守るようになりました。

恐らくこれも、当時の仰木監督がユーティリティプレーヤーを好む方だったこと。
そんな中で、出場機会を得るよう、努力された結果だと思います。

二軍のサーパス神戸では、確か01年あたりから、外野も守るようになりました。
最初にスポーツ紙で見た時は、かなりびっくりしたのを覚えています。

ただ、なかなか出場機会には恵まれず確か6月頃には当時Dの左腕小池投手との
トレードの噂がスポーツ紙に載り、

「お願いだから、早くトレード成立期限の6月30日を過ぎてくれ~」

と祈りながら過ごしたことを思い出します。

また、01年終盤には、一塁手として起用される機会も多く、
週刊ベースボールの、やくみつるさんの漫画のオチとして使われてしまったこともありましたっけ。

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02年は石毛監督の下で、後半戦調子を上げ、
私が観戦に行った9月15日の神戸でのF戦では、5番レフトでスタメン起用されて。

長打力のあるタイプの打者では無い佐竹選手のクリーンアップ起用が見られた、というのも
恐らく非常に貴重な機会だったと思ってます。

03年は、レオン監督の無策な長打力あるもん順の起用の下で、
佐竹選手がなかなか起用されなかったのですが、

04年、伊原監督の就任により、ユーティリティぶりが買われて
夏場に足を故障するまでは、また一軍で多くの出場機会がめぐってきました。

この年については、いろいろ印象に残る私が観戦した試合が多かったので、
また別途文章にしよう、と思っています。

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しかし、この04年の秋。

球団合併、という私は一生許すことができない出来事によりBWは消滅…

…そして、応援してきた佐竹選手が、
私が応援するチームの選手ではなくなってしまいました…

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でも。

個人的には、翌05年の神戸でのオープン戦で、
快く、サインをいただけて…

佐竹選手
↑その時の様子

サイン
↑頂いたサイン

これも、僕のたからものです。

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そして、新たに誕生したイーグルスでの05年の活躍は、皆様ご存知の通りです。

7月以降だけで、年間8回の猛打賞、そして規定打席不足ながら初の3割。

そして、この年の最終戦の1つ前の試合の9月27日の試合では、
プロ入り後、二軍では守った経験があったものの一軍では無かった、
遊撃のポジションを守り

バッテリー以外の全ポジション守備を達成!!

恐らく、今年指揮を執った方が、遊び心のある人だったら、
プロ史上3人目の、全ポジション経験者にもなれたのかなぁ、なんて思ってます。

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そして、今年は2年ぶりの開幕1軍。

4月には、内野安打で二塁からホームインして、
全農Go・Go賞の好走塁賞を受賞。


なので、まだまだやれる、これからだ…

と思っていたのですが、

先月末に、
戦力外の話 が、
イーグルスのHPに掲載されてしまいました…。

同時に、
コーチ就任へ という報道がありました。

もし、コーチに就任されるのであれば、
それは同時に、現役選手としての生活の終わりを意味します。

もう、上にツラツラと、書いてきたことが思い出されてきて。

佐竹選手を応援していなければ、私は「佐竹台」という
ハンドルネームを名乗ることもありませんでしたし…。

このハンドルネームを使うこと、そしてネット環境を利用することで、
私は多くのオリックスファンの方達と知り合うことができました。

そのおかげで、楽しく野球観戦をすることができるようになりました。

そして、何より、佐竹選手の一生懸命プレーする姿を見ることで、
よりBWの試合を楽しく、充実した野球観戦をさせてもらうことができました。

だから、せめて、

もしかしたら、選手としては最後の姿が見られるかもしれない。

それが見られるのであれば、応援する喜びを与えてもらえたのだから、

届くのかどうかは分からないけど、
同じ場に居合わせて、「ありがとう!!」と感謝の気持ちを伝えることができたら…

そう思い、10月1日、仙台に行ってきました。

---
ただ、1日の仙台でのE-M戦では、

残念ながら試合では佐竹選手の姿は無く…

そして、試合終了後のセレモニー、選手の挨拶の場にも、

佐竹選手の姿はありませんでした…。

その場に居合わせた者としては、

どうして、佐竹選手がここにいないんだろう…

と、非常に残念で、悔しい思いをしてきました。

---
そして後日、

イーグルスの公式で、
このような知らせ

が正式発表されました。

この知らせを聞いた時は、ますます、

なぜ1日にイーグルス球団は佐竹選手に会わせてくれなかったんだろう…?

という思いは湧きました。

そして、もう、現役選手としての佐竹選手には会えないのか…

という思いも湧きました。

でもでも、それ以上に、

また来年も、球場に行けば、佐竹さんに会えるんだ!!
という喜びの方が大きかったです。

---
佐竹選手、当然大きく悩まれたと思います、
その上での決断だったのでしょうし、

それに対して、私は第3者であり、単なる一ファンですから。

その決断に対して、私がとやかく言える立場ではないですし。
なので、佐竹選手が佐竹コーチになっても、
やっぱり、今までと同じようにずっと応援する立場でいたい、と思っています。

私はBsファンなので、
この私を困らせるような、悔しがらせるような
好走塁を選手に指示する、名コーチになって欲しい!!と思っています。

だって、ツラツラと書きましたけど、

・プロに入ってから外野が守れるようになるほど努力家
・走塁判断の良さ
・怪我からのリハビリの辛さも経験していて
・書き忘れてましたが、04年BW最後の選手副会長、
 そして今年も副会長、と人をまとめる能力にも優れている

という佐竹選手の現役時代の姿を考えたら、

どう考えても、いいコーチになれる、
それは間違いないことだ!!と信じてますから!!

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振り返って考えると、’06年

私は佐竹選手が試合に出場した試合を
観戦することができませんでした、残念ながら…

なので、佐竹選手の試合出場を最後に観戦できたのは、
昨年の9月3日の、フルキャストでのE-Bs戦でした。

佐竹選手、ありがとう!!
↑その日の、第1打席の登場の歳の、スクリーンの映像

佐竹選手、ありがとう、お疲れ様!!
↑そして、出塁して、1塁でBs北川と並んで。

この日のスコアコチラ

この試合の第1打席は2回裏一死満塁で、9番の佐竹選手に打順が回りましたが、

やはり、8年前の開幕戦と同じように、

内野フライや高めボール球の空振りのリスクの高い、犠飛狙いではなく、
打率は下がってもチームに点が入る、高いバウンドのゴロを狙っていて、

実際、三ゴロ併殺崩れの間に2点目をEは挙げました。

この、チームプレーの意識を持っていて、
それを随所に見せてくれた、今年秋までの現役時代の佐竹選手。

そんな佐竹選手に、私が思いつく言葉、というのは
文章が非常に長ったらしくなってしまいましたが、
以下のコメントしか、思いつきません…。

---
佐竹選手、10年間のプロ野球選手生活、
本当に、本当にお疲れ様でした、

ありがとうございました!!!

そして、これからはコーチとして、
頑張ってください、私ずっと、応援します!!



['06/10/11]


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