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その1
海の記憶
「海に還りたいと思うときがあるんだ」
僕は彼女にそう言った。
「海に、ですか?」
彼女は明らかに困惑していた。
それはそうだろうな。時間旅行人に向かって、客が突然、海に還りたいだなんて言いだすんだから。時間を操るためだけにに作られた人形(ドール)であるはずのT・T(ティーティー;Time Traveler)である彼女には、絶対わかるはずもない、単なる僕の個人的な感情なのだから……。
「たまにね、どうしてもやるせないときとかに、海が見たくなるんだよ。それも、たいこの海をさ。僕たち生命の源とも言える、その海を……」
「……わかりました。では次の目的地は――おそらくこれがこの旅での最後の跳躍になると思われますが――海、でよろしいんですね?」
「うん、お願いするよ」
「では、跳躍に入ります。よくつかまっていて下さい」
こうして僕は彼女の導きにより、海へと向かった。
「――ここは、どこだい?」
「1990年代の――およそ400年前の海です」
目の前には、大海原が広がっていた。
「……嘘つき。太古の海って言ったのに」
「すみません。お客様の安全を確保することが最優先事項ですので、こちらで行き先を変更させていただきました」
「ちぇっ。……でもま、いいか。この海でも」
僕は波打ち際へ近づいて海を眺めた。
海だ……海。これが、海。
ザッパーン!僕は海へ飛び込んだ。
「うーん、気持ちいい!あぁ、海水ってほんとにしょっぱいんだな」
「……あのー。わたくし、こちらで待機させていただきますので……」
T・Tはもう僕に呆れ果ててしまったようだ。
まぁ、彼女は水に近付かない方がいいだろう。故障でもされたら大変だ。いや、僕にとってはむしろその方が好都合か……?
僕は海の中を楽しんだ。白い石、青い波、灼けつく太陽。そうだ、これが欲しかったんだ。僕はずっとこれを求めていたんだ。きっと、生まれる時代を間違えてしまったに違いない。
僕が生まれた二四世紀には、もうこんな海など存在しない。あるのは人工の、偽物の海ばかり。僕は学習教材の中で、昔あった本物の海を見た日から、こんな海にずっと憧れていた。あぁ、このまま永遠にこの海の中へ浸かっていたい……。
「夏木様。そろそろ十分ほど経過いたしますが。もう陸に上がって下さいませんと、細菌感染の危険性があります」
ゆらゆらと海に漂っていた僕のところへ、T・Tは空中浮揚でやって来た。
そんなことはどうでもいいと言いたいところだけど、そういうわけにもいけないので、とりあえずは彼女の言葉に従った。
「気が済みましたか?」
タオルで体を乾かしていると、そう尋ねられた。
彼女の気持ちはわかる。こんな困った客には、いつまでも関わっていたくないのだろう。早く済ませてさっさと元の時代に戻りたい、と思っているに違いない。
でも僕は、そんな彼女の期待には添えそうにない。だって、彼女をもっと困らせるようなことを、今から言おうとしてるんだから。彼女には、何の恨みもないけれど……。
「僕を……僕をここへ置いて帰ってくれないか?」
「な、何を言うんですかっ!」
案の定、彼女の驚きようは半端ではなかった。人形って、本当に精巧にできてるよなぁ……などと、妙に感心してしまう。
「そんなことをしたら、わたくしは罰せられてしまいます!」
「大丈夫だと思うよ。僕、遺書を書いてきたし、全財産を――と言っても大した額じゃないけど――君のリスクに充てるように仕組んできたから。……僕は帰りたくないんだよ。あんな、海のない世界には。僕が帰りたいのは、この海なんだよ……」
彼女は、しばらく黙ったままだった。
「理由を、教えてもらえますか?」
理由を話したところで、彼女が納得してくれるとは思えなかったが、僕は話し始めた。
「僕ね、水泳をやってるんだ。勿論、趣味なんかじゃなくて、プロとしてね。この前出た大会でも優勝したよ。……でも、最近釈然としないものを感じるんだ。泳ぐことは小さい頃から好きだったし、今まで一生懸命やってきたつもりだよ。だけど、ふと考えたんだ。どうして僕は泳いでるんだろう?この小さなプールで行ったり来たりすることに、何の意味があるんだろうか?ってね。それで僕は海へ出かけた。でも、ダメだった。あの海じゃ……。人が泳げなくなってしまった、あの人工の海じゃ……」
彼女はじっと僕の話に耳を傾けていた。
「それで時間旅行に行こうと思ったんだ。自分の思い出の場所を巡る旅の中で、何か思い出せるかもしれない。そう考えて、君にいろんな場所に連れてってもらったんだ。自分が生まれた日や、子供のときに行った月旅行。初めて泳げた日……。だけど、何も蘇っては来なかったよ。もう僕には何もない。全てを失ってしまったんだ。泳ぐ気力も、生きていく気力も……」
そこで一度言葉を切って、僕はまた海の方へ近付いて行った。
「やっぱり海はすごいなぁ。本物の海ってやつは。あんな人工の、人が泳げないような、死んでしまった海とは全然違う。大きくて、優しくて、生き生きとしてる。僕はこの海を一目見て、すぐに泳ぎたくなったよ。不思議だね。あんなに泳ぐことに嫌気が差していたのにさ。……ねぇ、T・T。僕たちは――生命はどこから生まれてきたか、知ってるかい?」
「……母親、ですか?」
「太古の海だよ。生命は太古の海から誕生したんだ。海は全ての生命の母ってわけさ。だからこそ、還りたくなるんだよ……」
僕は海を見つめていた。母なるその海を懐かしく想いながら。
「……わたくしは、海から生まれてはきませんでした」
T・Tの言葉に、僕は驚いて振り返った。
「だから、あなた方のことを羨ましく思うときがあるんですよ。母なる人がいて、母なる海があって、そしてさらに太古の海をその身の内に宿している、あなた方のことをね」
「太古の海を、宿している……?」
「そうでしょう?あなた方の体液の濃度は海と同じ。そして、胎児のときには母親の胎内で、羊水という太古の海と同じものの中で、大切に育まれてきたのでしょう?」
「あ……」
そのとき、記憶が微かに光を放ったような気がした。母の体内で太古の海に浸かっていたときの記憶が。それは一瞬のことで、すぐさま流星のように消えてしまったけれど。
「太古の海になど戻らなくとも、あなたはいつだってその海と一緒なのですよ」
そうだ。どうして今まで気づかなかったのだろう?僕の求めているものは、すぐ側にあったというのに。ずっと、僕の中に共にあったというのに……。
「ほら、ここにも……」
T・Tの指が僕の頬をなぞった。知らない内に、僕は涙を流していたようだ。太古の海の、その涙を。
「さぁ、帰りましょう。元の世界へ。あなたがいるべき時代へ」
「T・T……名前を教えてくれないか?」
彼女は意外そうな顔をした。全く僕というやつは、どこまで彼女を驚かせたら気が済むんだ?
それでもクスリと笑って、彼女は答えてくれた。
「凪、です」
「凪、か。いい名前だね」
さぁ、帰ろう。僕の時代へ。
海のない時代だけれど。
海は僕の中にあるから……
Fin
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