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今日は奈良を巡ってきた。まずは、大仏殿周辺、それから春日大社周辺、興福寺周辺、そして、当尾の里を歩いている。天気はまずまずであったが、紅葉はピークを過ぎていた。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm大仏池での撮影だ。東大寺講堂跡だ。親子らしき鹿がいた。もみじの葉は大分散ってしまっていた。東大寺鐘楼だ。大きくて、立派なものである。二月堂だ。3月のお水取りが有名である。(お水取りの解説)お水取りは、修二会(しゅにえ)と言われる。東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)によってはじめられたと伝えられている。以来一度も途絶えることなく続けられ、平成13年(2001)には1250回を数える。この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火がともされ、参集した人々をわかせる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになった。奥に見えるのは、二月堂だ。角が残されている鹿は数えるほどしかいなかった。ほとんど切られている。東大寺の中門だ。東大寺大仏殿である。(東大寺の解説)東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。盧舎那仏(るしゃなぶつ)だ。阿弥陀仏でも釈迦仏でもない。東大寺南大門金剛力士(仁王)像である。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。容量がなくなってしまいましたので、この続きは、僕の写真紀行10に載せます。僕の写真紀行10
2007年12月02日
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今はどこを歩いていても紅葉している。今年はあまり紅葉せずに落葉するかと思ったがそうでないようだ。京都の写真を載せたばかりだが、その写真を見てもなかなかの紅葉ぶりだった。今日は天気が良く少しばかり撮影したので載せたい。京都の紅葉の余韻が残っていて、身近な写真は載せづらいのだが。撮影:Ricoh Caplio GX100今はどこを歩いていても紅葉が綺麗だ。手前もみじ、奥がイチョウ。
2007年11月30日
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昨日撮影した京都の写真で、アップし切れなかった分を少しだけ載せたいと思う。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm南禅寺で撮影している。真如堂で撮影。銀閣寺の庭園を撮影。哲学の道を撮影。南禅寺近くで撮影。どうだんつつじも紅葉していた。オレンジ色しているものも多く見られた。帰り際、琵琶湖の畔でちょっと休憩したときに撮影。波があった。
2007年11月29日
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真如堂の撮影を終えてからすぐに、銀閣寺に向かった。混雑するのを避けるために、かなり速いペースで撮影している。10時半前には銀閣寺に着いている。しかし、修学旅行生がどっと入場してきたので、撮影しづらくなってしまった。 撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm哲学の道で撮影。(哲学の道の解説)哲学の道(てつがくのみち)は京都市左京区の道路である。南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疎水の両岸に植えられた桜はみごとで、春や紅葉の秋は多くの観光客でにぎわう。哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされ、「日本の道百選」にも選ばれている散歩道である。道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。銀閣寺の入り口辺りで撮影。(銀閣寺の解説)正式名は東山慈照寺。一般には銀閣寺(ぎんかくじ)の名で知られる。慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院(相国寺の境外塔頭)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政である。足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。なお、金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていない。哲学の道にも銀閣寺にも山茶花(さざんか)が咲いていた。こけが綺麗であった。銀閣寺の庭園は見事に手入れされている。
2007年11月28日
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南禅寺の次に真如堂を撮影している。真如堂の紅葉は特に素晴らしい。なるべく混んでいない時間の早いうちに回りたいと思い、急いで真如堂に向かった。9時半ちょっと前から撮影している。(真如堂の解説)真如堂は、永観2年(984)に一条天皇の母・東三条院藤原詮子が、比叡山堂行寺にあった阿弥陀如来を神楽岡の離宮に移し、戒算上人を開山として興した寺である。応仁の乱では東軍の陣となったため諸堂が全焼し、現在の堂宇は江戸時代中期の再建によるものである。本尊の阿弥陀如来立像は、京都六阿弥陀仏の一つで、本堂ともども重要文化財に指定されている。国宝の法華経6巻をはじめ寺宝も多数ある。3月15日の午前中に涅槃会法要が行われ、31日まで大涅槃図が一般公開される。また、11月1日~15日には10日10夜、念仏を唱える「十夜大法要」が行われ、最終日には阿弥陀如来立像が公開される。紅葉、萩の名所としても有名な所である。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm次は、哲学の道と銀閣寺の紅葉を載せます。これも今日中の更新だと思います。
2007年11月28日
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今日は午前中、京都の紅葉を撮影していた。まずは南禅寺を歩いてみた。紅葉はピークを迎えていた。南禅寺を歩き出した人たちからは、歓声が上がっていた。8時半ぐらいから撮りだしている。(南禅寺の解説。)南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)である。皇室の発願になる禅寺としては日本で最初のものである。京都五山の上位(五山第一位の天龍寺よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇った。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm水道橋だ。その解説を。疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1881年に始まり、1890年に竣工した。疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業,潅漑用水,防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され,91年には送電を開始した。また水力発電の増強と水道用水確保のため,1908年に第2疎水の工事が、始まり、1812年に完成している。同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。 赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は、南禅寺の古めかしさになじんで、今では一種の美を湛えている。疏水の下をくぐると、南禅寺発祥の地である南禅院にでる。 次に撮影した真如堂は更新して載せます。記事はすぐにできると思います。
2007年11月28日
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今回は過去の写真シリーズとして、2002年に撮影した、富山の紅葉を載せたいと思う。撮影場所は、呉羽山だ。丘のような低い山だが、紅葉はなかなかのものだった。近くに住んでいたので、毎年紅葉の時期になると見に行っていた。しかし、この写真を撮影した翌年には富山を引き上げることになったのだが。撮影:Olympus Camedia C3030この写真だけ、富山の城址公園での撮影だ。落ち葉が堆積してふかふかになっていた。ここから富山市が一望できる。もう紅葉もほとんど終わってしまったころ撮影。この辺りは梨畑が広がっている。呉羽梨で有名だ。
2007年11月27日
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今日は気合を入れて撮っていないので、写真は少なめだ。お散歩みんちゃんはもう6回目になる。出しているうちに段々に慣れるかと思っていたが、みんに限ってはそうではなかった。元々臆病な猫なので、明るいうちの外は恐くて仕方ないようだ。撮影:Nikon D200、NIKKOR AF18mm~200mm VR窓辺で外を見ていた。大分寒くなってきたとは言え、日が差しているうちは暖かったりする。実家の菊だ。猫を散歩させている田んぼから撮影。溝を飛び越えようとしていたので、抱きかかえて家に入った。
2007年11月26日
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今日は最後におもちゃで遊びたくて仕方ない表情をしている「みん」の写真を載せたいと思う。新しく撮りなおしている写真ではないので恐縮であるが。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mmまた新しく「みん」を撮影して載せたいと思ってます。
2007年11月25日
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金剛輪寺の後に彦根城を歩いてきた。彦根城のお堀は広大で、一周するにはかなりの時間を要する。天気も良く、紅葉の時期でもあったので、人でいっぱいだった。天守閣への入場は、10時過ぎの時点で一時間待ちになっていた。(彦根城の解説)今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである(現存天守)。城の北側には玄宮園・楽々園(国指定名勝)という大名庭園が配されている。多くの大老を輩出した譜代大名の名門、彦根藩井伊氏14代の居城であった。明治6年(1873年)の廃城令で数多くの城が失われる中、一説では大隈重信の上奏により明治11年(1878年)に破却を免れたとされる。国宝の天守を筆頭に、数多くの櫓・門などが現存し国の重要文化財に指定されている。重要文化財には全国的に珍しい馬屋も含まれる。外堀には水戸市から贈られた複数の黒鳥が飼育され、観客からのエサを求めて遊泳している。『武士の一分』、『大奥』など数多くの映画、ドラマのロケ地としても知られ、平成4年に日本の世界遺産暫定リストにも記載されている。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm南側の門から入った。天守閣だ。一時間待ちなので入る気はしなかった。奥に見えるのは、琵琶湖である。桜の木の切り株だと思われる。お堀に生えている桜の木を撮影。石積みは綺麗なので、よく写真を撮る。玄宮園だ。昨日も載せて解説しているが、もう一度貼り付けたい。玄宮園(げんきゅうえん)は滋賀県彦根市にある旧大名庭園。国指定特別史跡「彦根城跡」の区域、および隣接する楽々園とともに「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。江戸時代初期(1677年)、彦根藩4代藩主井伊直興により造営された大池泉回遊式日本庭園で、彦根城天守の北東は琵琶湖の水をひいた内濠と中濠の間に位置する。中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭された。国宝天守を借景とし、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭など趣のある建物が配されている。映画大奥のロケ地となった。彦根城のお堀だ。広大で、美しい。お堀が広大であることがよく分かる。天守閣が見える。
2007年11月25日
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今日は、滋賀県にある金剛輪寺の紅葉を撮影してきた。まずは、金剛輪寺の解説から。湖東三山の一つで奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。源義経が義仲追討の武運必勝を願い太刀を寄進したり、北条時宗が佐々木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたといわれている。山門から本堂までサツキに囲まれた石段が続き、山岳城郭だったころの趣を今なお残している。石段を上り詰めたところに、当時の僧の機智により織田信長の焼き討ちによる焼失の難を逃れた本堂大悲閣、三重塔二天門がある。三重塔は大悲閣より古いものだが、荒廃したままとなっていたため、昭和49年(1974)復元された。ツツジやシャクナゲの名所としても知られ、山門脇に塔頭の常照庵が草むらに埋もれ残っている。また、厄除けのかぶら汁が接待される初観音や、大きな数珠をまわして念仏を唱える千体地蔵盆など有名な行事もある。 撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mmいい具合に紅葉していた。今がピークと言ってもいいだろう。金剛輪寺には庭園がある。時間は9時前。光が差し込んでいた。金剛輪寺三重塔だ。山道の脇には千体地蔵が並んでいる。すごい数の地蔵がいっせいに並んでいて、思わず立ち止まってしまう。
2007年11月25日
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今回は、2004年12月30日撮影の室生寺を載せたい。僕は人で混雑する時期より、人が行かない時の奈良が好きだ。人が行かないだけあって、花も紅葉も新緑も何もないのだが。しかし、冬枯れした境内の風景もなかなかのものだと思う。撮影:Konicaminolta Dimage A2002004年も終わろうとする大晦日の前日に奈良に行った。朝方は雪がちらついていた。この赤い橋を渡ると、室生寺が見えてくる。室生寺 (むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。開基(創立者)は、賢きょう、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。まだ紅葉が残っていた。室生寺五重塔だ。5月ごろに行くと、石楠花が咲き乱れる。弥勒堂だ。重文 鎌倉時代前期 金堂前庭の左手にある三間四方のこの堂は、興福寺の伝法院を受け継いだと伝える鎌倉時代の建築で、内部の四本柱の中に須弥壇を置き、厨子入りの弥勒像を安置する。
2007年11月24日
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今回は過去の写真シリーズとして、2003年5月に撮影した写真を載せたいと思う。最初の4枚は、信州の松原湖周辺で撮影したもので、後の3枚は、彦根の玄宮園で撮影したものである。昔のフォルダを探していたら、たまたま同じMOに入っていたので選んだ。撮影:Olympus Camedia C5050玄宮園(げんきゅうえん)は滋賀県彦根市にある旧大名庭園。国指定特別史跡「彦根城跡」の区域、および隣接する楽々園とともに「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。江戸時代初期(1677年)、彦根藩4代藩主井伊直興により造営された大池泉回遊式日本庭園で、彦根城天守の北東は琵琶湖の水をひいた内濠と中濠の間に位置する。中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭された。国宝天守を借景とし、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭など趣のある建物が配されている。映画大奥のロケ地となった。
2007年11月24日
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今日の朝、強い日差しが出窓に差し込んでいた。飼い猫の「みん」は気持ちよさそうに日向ぼっこしていた。最近寒くなってきたので、「みん」は僕の布団の中に入ってくる。僕が布団に入るや否や、ニャ~と言って慌てて入ってきたりもする。寝返りがあまり打てないので体には良くないみたいだが、僕としては、いい季節になったなと喜んでいる。^^;撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm気持ちよさそうに顔を洗い出した。
2007年11月23日
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今日は、午前中に養老の滝に行って来た。もうそろそろ紅葉真っ盛りではないかなと思ったからだ。ところが、まだ10日ほど早いそうで、青々としているもみじが多い。昨日の大原三千院の方が色づいている感じであった。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm紅葉している木は少なかった。いつものように道沿いの小さな滝を撮影。歩いている道はこんな感じだ。こんな感じでまだ緑がいっぱいだ。この岩肌は目をひきつけるものがある。養老の滝だ。以前にも載せているが、もう一度、養老の滝の解説から。養老の滝は、高さ約30メートル、幅約4メートルの滝で、巨岩老樹に囲まれた公園の奥深くにある。岩角を打ってとうとうと流れ落ちる水は清冽を極め、くだけ散る飛沫が霧のように立ちこめて、夏でも、肌寒さを感じさせる。 その見事な景観は、孝子伝説を秘めて、名瀑の名に恥じない。孝子伝説とは、親孝行な樵(きこり)・源丞内(げんじょうない)が山中で見つけた山吹色の水が、実は老父の大好きなお酒で、これを飲んだ老父はすっかり若返ったというもの。 この不思議な水の出来事は、やがて都にも伝わり、奈良の都の元正天皇は、早速この地に行幸になった。ご自身も飲浴され、「肌は滑らかになり、痛むところは治った。めでたい出来事だ。これは老いを養う若返りの水だ。」それで年号を養老と改められ、80歳以上の老人に位一階を授け、孝子節婦を表彰し、この地方の人々の税を免除したという。過去の養老の滝の記事はこちら。養老の滝2今日は周りの風景も取り入れて撮影してみた。杉の木越しに紅葉が見られた。帰りは違う道で帰った。帰り道はこんな感じの道を歩いた。時々木漏れ日が差して、綺麗であった。養老の滝を少し下ったところに養老神社がある。養老神社には、菊水霊泉がる。水が綺麗で汲みに来る人が多い。ここでくめる。毎回食べている団子だ。とても美味くて人気がある。しょうゆ、くるみ味噌、さんしょう味噌がある。今回はしょうゆを食べた。さんしょう味噌だけまだ食べておらず、その味は謎のままだ。^^;人がどんどん上がってきた。今から混雑しそうだ。養老名物のひょうたんだ。もみじ祭りも終盤にさしかかっているのに、青々としているもみじが多いのは残念だ。見た中では、この木が一番紅葉していたかな。右手の方を上っていくと養老の滝がある。川下の方を撮影。今の時期は、銀杏、渋柿など売られている。
2007年11月23日
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今日は、昼から紅葉の状態を見るために三千院まで行った。紅葉が真っ盛りであれば泊まってくるはずであったが、少しばかり早かったようだ。地元の人に聞けば、今年は暖かかったので一週間ほど先だそうだ。今日はあいにく雨であった。照度不足のため手振れが多く、載せてもいいなと思えるカットは少ない。それでも16枚載せたいと思う。撮影:PENTAX K10D、TAMRON 18mm~200mm三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。杉木立の中に建つ往生極楽院の写真は旅行案内書等にしばしば使われ、大原のシンボルともなっている(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であった)。紅葉しているもみじは多くなかった。青々としているもみじも見られた。三千院は人でいっぱいだった。往生極楽院だ。三千院のこけはいつ見ても綺麗だ。ところどころしか紅葉していない。極楽往生院をを反対側から撮影している。わらべ地蔵がある。三千院を出た。そして、勝林院に続く道で撮影。勝林院とは、大原問答が行われたところである。大原問答とは、文治2年(1186)に天台宗の顕真法印が浄土宗の法然上人を勝林院の本堂に招いて、浄土教について百日に及ぶ議論を行なったことを言う。この際に、念仏を唱えることで極楽往生ができるかどうかを問答した時に、念仏こそが人々を迷いから救って極楽浄土へ誘うと法然が説くたびに、本尊の阿弥陀如来が手から光を放ち、法然が言う「浄土信仰」の正しさを示したと言われている。勝林院だ。京都名物の千枚漬けにするかぶらだ。
2007年11月22日
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