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新撰組Vol.1



2004年の大河ドラマ「新撰組!」で詳しく取り上げてくれるでしょう。

(2003年秋現在のhiroの独断と偏見で・・・)


1863年(文久3年)、幕府は将軍・家茂の上洛に備えるなどの名目で浪士組を結成し京(現在の京都の町)へ派遣します。出羽の浪人・清河八郎の献策といわれます。
このことを世に出る好機と捉えた「試衛館」の道場主である近藤勇は、門下生らと共に参加しますが、当時無名だった新撰組のメンバーに対する扱いは良くなかったそうです。道場主自ら、道中の宿泊先の手配をしていたほど・・・
200人あまりの一行です。手違いがおこり、宿場の手違いから小火騒ぎにまで発展するということもあったそうですが、どうにか京にたどり着き、壬生に屯所を設けます。

京都守護職(会津藩)預かりとなった彼らは活動を開始しますが、当時浪士組を率いていた清河八郎が弱腰の幕府にかわり攘夷を決行すると演説し、それを知った幕府は浪士組を江戸へ呼び戻します。「あくまで将軍を警護する」として京に残るのは芹沢鴨率いるグループと近藤勇率いるグループです。浪士組ではなく、新撰組は厳密にはここから始まったといって過言ではないでしょう・・・
そして、時に大量虐殺の汚名を被り、時に池田屋事変(騒動)などで名を馳せます。

幕末を駆け抜けた彼らは、その後、鳥羽伏見、甲府(このときは甲陽鎮撫隊と名を変えて・・・)と転戦します。局長・近藤勇刑死、一番隊隊長・沖田総司病没後、事実上新撰組の生き残りを指揮していた副長・土方歳三と共に宇都宮・会津と戦い続けます(全員ではありませんが、一部のメンバーは上野・彰義隊に加わります)

榎本武揚率いる幕府海軍と合流した新撰組のメンバーは、最後の戦いの場を求めて函館・五稜郭に共和国を樹立しようとします。
しかし、明治政府がこれを認めるはずもなく・・・激戦のさなか土方歳三・中島三郎助らが戦死、蝦夷共和国は降伏します。
戦後まで生き抜いたメンバーは永倉新八、斎藤一、島田魁ら・・・






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