2012年10月01日
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私が朝起きてまずすることは、お祈りです。それは、一緒に住んでいる家族と目が合ったら、自然に「おはよう!」と言うように、「神様、おはようございます!」と、自然にお祈りが始まります。みなさんはお祈りをすることがあるでしょうか?

祈りとは、神もしくは、神格化された存在との命の交流と対話です。祈りは、クリスチャンでなくても、どんな信仰を持っている人でも、形は異なっても、行うものだと思います。ある心理学者は、無神論者でも、危機的な状況に直面した時には、「神様、助けて下さい!」と無意識に叫んで祈るものだと語ります。きっとそうだろうと思います。

通勤・通学の時などに、見ず知らずの人と電車の中で目が合って視線がぶつかった時、ニコりと笑うこともできないし、じっと見つめるのも変だし、自然体でなくなってしまうので、結局、仕方なしにケータイやスマホに目を向けたり、目を閉じたりした経験がないでしょうか。そんな時私は、肩が凝ってしまいます。しかし、自分の住んでいる町を歩いていると、知り合いがたくさんいますので、目が合うか合わないかの頃から笑顔になり、あいさつを交わしたりします。人と会った時に、何らかのコミュニケーションを持つことはごく自然なことです。そして、お互いにうれしくなりますよね。

私は登山が好きです。山の途中で誰かと合ったら、見ず知らずの人同士でも「こんにちは!」と互いにあいさつを交わす習慣がありますが、これはとてもいいなーと思います。あいさつで心を通わすことで、登山の疲れも吹っ飛んでしまいますし、貴重な情報交換をして、危うく遭難事故を免れることもありますし、何よりお互いに仲間だという意識が持てて、うれしくなります。

しかし、祈りに関してはどうでしょうか? 祈りは、神社仏閣のご本尊や目に見える偶像に向かって捧げる場合もありますが、聖書が教える祈りは、目に見えない神に向かって捧げる行為です。無神論者の中には、「目に見えるものが全てである」と考える人もいます。また、西行法師が言ったように、「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」というような霊的な感性を大切にする人もいます。

しかし聖書は、「目に見えない神が存在する」ことを教えます。聖書の1ページ目を開くと、いきなり、「初めに、神が天と地を創造した。」という言葉ではじまります。神が存在するかどうか?という議論もせずに、神が存在するのは至極当たり前であるという書き方です。そして、「なにごとの おわしますかは・・・」というような得体の知れない存在ではなく、神は、唯一の方であり、天地万物の創造者であり、霊であり、愛であり、天の父であると教えます。

祈りとは、漠然とした存在に向かって捧げる宗教行為ではなく、明確で人格を持った愛そのものの神であり、天の父との心と命の交流です。それは、呼吸に例えてもいいと思います。呼吸は、無意識に続けられています。そして、空気は目に見えません。しかし、呼吸を止めてしまったら人は死んでしまいます。二酸化炭素を吐き出して、酸素を吸い込みます。つまり、悪いものを吐き出して、良いものを吸い込んでいます。祈りは、霊や魂の呼吸です。悪いマイナスのものを神に向かって吐き出し、神から命と良いものを吸い込むことです。祈りは、霊と魂の命を保つために必要なことです。ということは、祈らない人は、霊や魂の呼吸をしていないので、眠っているか死んでいる状態で、肉体の命だけで生きてい
ることになります。



自民党の新しい幹事長の石破氏は、四代続くクリスチャンです。石破氏は、「政治家は、自分が絶対に正しいと考えないとできない仕事です。しかし、いつも神に祈って、『私の決断が間違えることがないように助けて下さい。』と祈りながら仕事をしています。」と語られました。石破氏の力強い国会での演説は、祈りによって力と確信と知恵を頂いているからなのだなーと痛感しました。祈りというのは、神と交わることであり、神問神問して、神の導きを受けることです。祈りを通して、神からの知恵や導きを直接頂くことができるのです。

しかし、多くの人は、祈る代わりに、自問自答で終わってしまいます。もう一人の自分に向かって問いかけ、もう一人の自分が私に向かって答えを出します。これを、顕在意識と潜在意識と表現する人もいますが、人はそのように自分に問いかけ、自分で答えを出して決断します。

私が勤める教会には、色々な人が相談に来られます。その人の悩みを聞いて、問題の核心部分がわかったら、祈りながらアドバイスをします。しかしほとんどの人は、最初から答えを持って来られるのです。すでに、相談に来る前から、自問自答して、答えが出ているのに、その上で「話を聞いてもらいたい」ということなのか、あるいは、自分の出した答えを後押しするアドバイスが聞きたいのでしょうね。結局、こちらがアドバイスをしてもしなくても、その人が出す答えは同じである場合がほとんどですから、最初からじーっと話を聞いてあげて、最後に一言加える程度で十分なのかも知れないです。

でも、祈りは、自問自答を超越した世界です。自問自答は、自分が「一番いい!」と思う答えを出しますが、神問神問は、全知全能で、永遠に生きておられ、かつ、永遠という視点から一番いいことが何かを知っている方からの答えを聞くことです。私たちの視点は短いスパンでしか見れませんが、神のスパンは永遠です。そして、何が一番いいのかを知っておられます。そのお方に問い、そのお方に答えを頂くことが祈りなのです。その答えは最善です。

ですから、祈りは最善を知る鍵です。しかし、祈らないで自問自答をしたり、人に相談して出す答えは最善を一番とすると、二番目以下の善です。ある人は、「善でもいいのではないか」と考えるかも知れませんが、善は、時に最善の最大の敵になります。人類は、自分が考える善を求めた結果、絶えず争いを起こし、その争いを解決できないでいます。それは、領土問題であったり、戦争、内戦、訴訟、離婚、喧嘩などです。

また、今話題になっている原発は善かも知れません。しかし、原発から出る廃棄物を人類はどう処理していいかさえわかっていないのです。福島の原発事故を完全に解決させていないのに、次々に原発を再稼働するのはどうなのでしょうか。 私は、原発が悪とまでは言いませんが、最善ではないと思います。 私たちは、自分の頭で考えたり、有識者に相談したり、話合うだけではなく、神に問い、神から答えを頂いて決断して行かなくてはならないと思います。

全人類が、神に祈り、神の答えを正確にキャッチして生きて行ったら、互いに愛し合い、世界は平和になり、幸せになるはずです。祈りは、世界を救います。どうぞ、短い時間でも、天地万物と私たちを創造された神に祈り、神に聞いて一日をスタートしませんか? その神から離れた状態を罪と言いますが、その罪を赦し、神と和解し、祈ることができるようにさせて下さったイエス・キリストを通して共にいのれたら幸いです。祈りは、霊と魂の呼吸であり、最善の答えを知る鍵です。素晴らしい一日でありますようにお祈りします。





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最終更新日  2012年10月02日 07時34分17秒 コメントを書く


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