さまよいの記

さまよいの記

写真を撮るということ


それがデジカメで写真熱が上がり、今改めて写真を勉強し始めた。shallWeダンスならぬ、shallweフォトグラフである。
それには理由がある。
こんなヘタな文章を書くけれど、一応小説を書く自分である。
小説を書くということは、風景の一部を文章として切り取り、世界を構築していく作業だ。写真はカメラを通し、一枚の写真に風景を切り取り、そこに世界を構築する作業。どちらも同じようにその人のまなざし、洞察力、哲学が立ち上ってくる。文章には行間ににじみ出るものがあり、写真は光と影ににじみ出るのかもしれない。文章を書く上で、風景を切り取るという作業を上手くなるように、写真で出来るようになればいいのではないかと考える。その逆も出来るようになるとまたいいのかもしれない。
自分が気持ちが澄んでいるとき、カメラのシャッターをきれる。変にこだわったりするとシャッターはきれないし、切れたとしても実にあざとく、いやらしい写真になる。小説もそうだ。すべてが自分の血肉になっていて、それらが自然で出るようになれば、写真も文章も良いものが出来るのではないかと安直に考えている。それが一つ目の理由だ。
もうひとつの理由は自分の母親である。
ボクの母は2003年に他界した。病気でほんとに辛い人生を歩んできた。2000年から3年間、ボクは母のそばに出来うる限り付き添い、同じ風景、同じ空気、同じ音、同じ苦痛を共有した。その中であの母の強さ、やさしさをボクはまざまざと見せ付けられ、自分の非力さ、無力さをイヤというほど味わった。今でも母のことは文章にしようとすれば幾らでも書ける。話すことも出来る。
けれど、あの笑顔、あの真摯な姿をボクはたったの一枚も写真に残さなかった。それが今一番後悔している。もっとも母の輝いた時期を、ボクは記憶にとどめているが、それを記録として、思い出として、母のいた景色を残さなかったのはなんともいえない寂寥感を胸に響かせる。
結婚し、ムスメとヨメを見ているとき、ボクは一人思う。もし、ボクがこの家族を残して先立つことがあったとき、ボクは何を残してあげれるのだろう。そう考えたときにボクは写真が思い浮かんだのだ。

ボクにはお金も残せないし、思い出になるようなことをしてあげれないかもしれない。どんな人間だったかを、なにかで残せるのだとしたら、アルバムを開いて僕が残した写真を見て、感じて欲しいなと思う。
そういう思いで、ボクはシャッターを切るのである。

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