灯台

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2025年10月18日
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ライオン・キング


『ライオン・キング』という映画を子供の頃観た、
言わずと知れた一九九四年に公開された、
ディズニーの長編アニメーション映画『ライオン・キング』は、
アフリカのサバンナを舞台に、王位継承、家族の絆、
罪と赦しなど普遍的なテーマを、
動物達の王国という寓話的な世界で描いた、
そして成長をテーマに描いた壮大な物語だ。
シェイクスピアの『ハムレット』や、
ディズニーの『バンビ』に着想を得たこの作品は、
アニメーション史に残る金字塔として、
今なお多くの人々の心を揺さぶり続けている。
十代以前に観たので、やはり十代以前に観た方が僕はいいように思う、
あのこっ恥ずかしさは説明しようがない種類の虫だ。

物語は、ライオンの王ムファサと王妃サラビの間に生まれた、
王子シンバの誕生から始まる。
一種のイエスキリスト的瞬間で、
ディズニーっぽさがてんこもり。
息が生命を与える、だね。
プライド・ランドの動物達が祝福する中、
シンバは王位継承者として育てられるが、
叔父スカーはその座を狙っていた。

スカーは巧妙な策略でムファサを死に追いやり、
シンバに「父の死はお前のせいだ」と罪悪感を植え付ける。
シンバは王国を離れ、荒野で行き倒れたところを、
ミーアキャットのティモンとイボイノシシのプンバァに助けられる。
どうでもいいけど、ミーアキャットの実物写真を眺めると、
めっちゃ二枚目。
彼等の「ハクナ・マタタ(くよくよするな)」という哲学のもと、
シンバは自由気ままに成長する。

しかし、幼馴染のナラとの再会と祈祷師ラフィキの導きにより、
シンバは自らの過去と向き合い、王国を取り戻す決意をする。
クライマックスではスカーとの壮絶な戦いを経て、
シンバは王として即位し、プライド・ランドに再び光が射す。

なお、『ライオン・キング』の制作にあたって、
スタッフはアフリカに赴き、動物の動きや風景を徹底的に観察。
リアリティのある描写に活かされている。
ただ、当初は「ジャングルの王(King of the Jungle)」
という仮タイトルだったが、ライオンはジャングルに生息しないため、
「ライオン・キング」に変更されたという経緯同様、
よくよく考えてみるとおかしなことはいっぱいある。
たとえば、ライオンはそもそも王といえるほど強くはない、
象の成獣に負けるし、河馬の成獣にも負ける。
群れでさえ、どちらに動物にも手を出さないのが普通だ。
たとえばハイエナは非常に協調性の高い捕食者で、
数でライオンを圧倒することもある。
逆に、ライオンがハイエナの獲物を奪うことも日常茶飯事。
どちらが悪かは状況次第だけど、
ライオンって百獣の王とか、
いわゆるこの物語で扱われる王のイメージほど美しくはない。

毒蛇にやられたらしくのたうちまわっているライオンを、
動画で見たけど、
この世で最もゆるやかでなめらかなクレーンだね、
いつかはこういう中二病じみたことも、みんな中身のない、
形ばかりの虚ろなものに感じられる。
そうだろう?

けれど、こういう難癖というか現実的指摘を入れつつ、
では人間社会はどうなのかと考える時、こういう先天性の状況、
特殊な設定というのもあるあるなわけだ。
風が吹けば飛ぶような王たらしめている装置ではあるわけだけど、
僕はおそらく、神の種族とかいう視点が欲しいんだろうね、
どうでもいいことだけど。

そうはいっても、ライオンのたてがみは「王の証」だ。
ムファサの堂々たる姿、スカーの黒いたてがみ、
そしてシンバの成長とともに生えるたてがみ、
それらは、物語の中で「責任」「成熟」「血統」を象徴する記号だ。
現実のサバンナでは、王位継承も血統も糞もない。
群れの支配権は力とタイミングによって変わる。
つまり、『ライオン・キング』は自然の写実ではなく、
人間社会の寓話なのだ。

大人になってから拝見して僕は、
『人間よ、自然に帰れ』という意味なのかなと解釈したり、ね。
日本のせせこまい道路の電線もない、
何処までも広く豊かなアフリカイメージの作り方。

作品にはいくつかの名場面があると思う。
冒頭のシーンで流れる楽曲「サークル・オブ・ライフ」は、
命の循環と王国の秩序を象徴する。
エルトン・ジョンとハンス・ジマーによる音楽は、
映画全体の感情を豊かに彩る。
次が、ムファサの死。
ワイルドビーストの暴走による悲劇的な死は、
衝撃的な場面の一つ。二秒のシーンに二年かけたという制作秘話もあるが、
これは『ロッキー』よろしく、
この映画に足りないのは伝説だ的なスパイスだろうか。
次が「ハクナ・マタタ」が流れる、
ティモンとプンバァの哲学が軽快に描かれる。
ディズニーっぽさがてんこもり。
それ以外に言いようがない。
最後は、スカーとの対決。
炎に包まれた王国での最終決戦は、罪と赦し、
正義と責任の象徴的な場面。

僕は伏線回収のお誂え向き的な紋切り型の、
シンバが星空を見上げるシーンが好きだな。
あれはきっと王を求める心理は人間の深層に根ざした、
非常に古くて複雑な欲望の象徴的なシーンなんだ、多くの人にとってね。
秩序であり、導きであり、責任の象徴であり、
物語の中心を求める衝動。
現代では「王」の機能は、宗教的な機能だ。
必ずしも君主ではなく、リーダー、インフルエンサー、
物語の主人公、近頃ではアニメのキャラクターに自己投影するのが流行り。
また、「自分自身の王」として現れる。
自己実現やアイデンティティの探求の中で、
王になることは自分の物語を生きることでもある。

シンバは「王になりたくない」と逃げるわけだけど、
それは、「責任を負いたくない」「過去と向き合いたくない」
という心理の裏返しで、
有名な格言なのかな、「過去は追い掛けて来る」ということ。
これは心の装置なんだ。
ティモンとプンバァの「ハクナ・マタタ」は、王を拒否する哲学。
でも最終的にシンバは「王になる」ことを選ぶ。
それは、過去を受け入れ、責任を引き受けるということ。
この流れは、観客の心理にも響く。
僕等は「王になりたい」と思う一方で、
「王になりたくない」とも思っている。
だからこそ、シンバの物語は共鳴する。
―――んだけど、「思い出せ」やら「いつでも傍にいる」
とかが流れて来る星空のシーンはまいっちゃうよね、ここだけの話、
もうマジかよって思っちゃう、
めっちゃ胡散臭くて笑っちゃうんだけど、
ほろりとくる、僕の琴線を揺らすんだね。










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最終更新日  2025年10月18日 13時08分31秒


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