灯台

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2025年10月18日

６

テーマ：絵が好きな人！？(4067)

カテゴリ：カテゴリ未分類

水墨画

朝の光は、硯の表面で青白く跳ね返る。
松煙墨を磨る音だけが、この空間を支配している。
墨は決して語らない。
三百年前に奈良の職人が練り上げた松の煤と膠は、
今もなお沈黙を守り続ける、
予想し得ぬ新世界への不思議な再生。

硯の海で墨を磨る。
円を描く手の動きは、禅僧が数珠を繰る動作に似ている。
その、さす針、ぬく針の度毎に緊張感が増してゆく。
画仙紙の上に筆を置く。
最初の一画は常に躊躇を伴う。
しかし躊躇は技術によって隠される。
羊毛と狸毛を三対七の比率で混ぜた筆の穂先は、
紙の表面で微妙に開く。
羽根を抜いた雄鶏に近い、
墨液は毛細管現象によって紙の繊維間を伝い、
深さ〇.三ミリメートルまで浸透する。

山の稜線が現れる。
それは具体的な山ではない。
富士山でも、黄山でも、アルプスでもない。
すべての山であり、同時にどの山でもない。
墨の濃淡が標高を示唆する。
脳裏に去来する太刀魚の領巾、
薄い刃物で背を撫でられるような戦慄。
薄墨で描かれた遠景は、
大気中の水蒸気が光を散乱させる、
レイリー散乱の原理を視覚的に再現し、
突然遠い旅に来たような気持にさせる。

風を描く。
風そのものは見えない。
しかし少し強い風の時に竹の葉は三十度の角度で傾く。
強い風の時に松の枝は波打つ。
筆の側面を使い、かすれを作る。飛白と呼ばれる技法。
墨液が紙の表面を不均一に覆い、白い筋を残す。
その白い筋が、目に見えない風の軌跡。
画面の中央よりやや下、黄金比率の交点に近い位置に、
人の姿を置く。
三つの筆画。頭部、胴体、そして笠。
詳細は省かれている。目も鼻も口もない。
しかし、その姿は確かに人間だ。
なんの表情も無い、木偶のごとく愚者のごとき容貌。
嵌め木細工のような、
旅人か、巡礼者か。
心は空中の楼閣に住み、幽玄な知識の言葉を食べて生きている。
簡略化された人物像に普遍性を見出し、
神経科学者ならば、
最小限の視覚情報から脳が人間の形を認識するメカニズム、
パレイドリア現象を指摘するが、
何という不思議な石化なのだろう。

筆を水で湿らす。
穂先に含まれる水分量は、
筆全体の重量の約四十パーセント。
これを超えると、墨液が薄まりすぎる。
これを下回ると、紙への浸透が不十分になる。
彼女の手は、グラム単位で水量を調整する。
逃げながら、水は枝を撫でる。
その一筋の錦繍。
悪魔が幼児のごとく神を拝むように、
画面の左側に梅の枝を配する。
まだ蕾の段階。開花は三週間後。

雲をほどく。
雲は水蒸気の集合体だ。上空二千メートルの高度で、
気温が露点に達し、
凝結核となる塵の周囲に水分子が集まる。
一つの雲は、約五十万トンの水を含む。
しかし画面上の雲は、わずか三グラムの墨液で表現される。
筆を横に寝かせ、紙の上で滑らせる。
墨は均一に広がらない。
ところどころに濃淡が生じる。それが雲の立体感を生む。
無心とは、かくも豊穣な充満。

岩の表面を描く。地質学的には、この岩は花崗岩だろうか、
それとも玄武岩だろうか。石英、長石、雲母の結晶構造。
子供が大人よりも埋智的にすら見える理由、
それはマグマが地下深くでゆっくりと冷却される過程で形成された、
複雑な鉱物の配列によるもの。
灼熱した生殖の幻覚させる後光。

その余白に、季節が宿る。
余白。中国の美学では「留白」と呼ぶ。
日本では「間」
西洋美術における「ネガティブスペース」

余白は描かれた部分と同等の、
あるいはそれ以上の意味を持つ。
盲人のようにそとの風景を凝視し、
聾者のような耳を澄まし、
虫の触手のようなものが生まれたのだ。
ゲシュタルト心理学における図と地の関係。
しかしそれを超える。余白は能動的だ。
余白は侵入してくる。描かれた山を圧迫し、
描かれた木を包囲し、描かれた人を孤立させる。
そして余白の中に、季節が宿る。

視線を逸らし、遠くの一点を見つめるような眼で、
時間が流れていないかのように静けさに、
どんどん吸い込まれ、抜け出せなくなるような深さと対峙する。

春の余白は、柔らかい光に満ちている。
夏の余白は、湿気を含んでいる。
秋の余白は、透明度が高い。
冬の余白は、静寂そのものだ。
描いているのは、おそらく晩秋。
空気の密度が変わる季節。
摂氏十度以下になると、音の伝わり方が変わる。
腹の底からこみ上げて来る自然が、
鼻の孔から迸ってくるような風景の見え方。

白は語らない。音波を吸収も反射もしない。
しかし白は、すべての音の可能性を含んでいる。
ジョン・ケージの『4分33秒』のように、
沈黙は音楽を含む。白は、すべての色を含む。
種々雑多の傀儡が香の煙のごとく溶け込んでいる、
黒は記憶。
墨の黒。しかし、この黒も完全な黒ではない。
可視光のすべての波長を吸収する真の黒、
ベンタブラックのようなではない。
墨の黒は、わずかに青みを帯びている。
あるいは茶色みを帯びている。

松煙墨は冷たい黒。油煙墨は温かい黒。
明滅。反復。
古墨は深い黒。新墨は浅い黒。
そして、それぞれの黒は、異なる記憶を喚起する。
未来への絶望と呪咀のごときものが漂っている、
この四壁の紙幅の内から光の中へと泳ぎ出す。

白と黒の間。沈黙と記憶の間。
描くものと描かれるものの間。
主体と客体の間。
過去と未来の間。存在と非存在の間。
荒涼たる秋が残り、
画師は筆を置く。

描かれたものより、描かれなかったものが、見ている。
画面には何が描かれていないか。
太陽は描かれていない。
しかし、影の方向から、太陽は左上方にあることがわかる。
めらめらと舌を吐いて立ち昇る烈々とした炎の色のように。
月も描かれていない。しかし、この風景が持つ静謐さは、
月夜を想起させる。
稲妻が放たれた。
星は描かれていない。しかし、余白の深さは、
無限の宇宙を暗示する。
線と色とが肌に躍動する。
鳥は描かれていない。しかし、枝のしなり方から、
つい先程まで鳥がいたことがわかる。
猿轡をはめられるのを嫌がった生き物の声。
虫は描かれていない。しかし、葉の縁の欠損は、
芋虫の食痕を示唆する。
獣は描かれていない。しかし、地面の乱れは、
何かが通り過ぎたことを物語る。
家は描かれていない。村も、道も、橋も。
人間の文明の痕跡は、
あの小さな旅人の姿以外には存在しない。
言葉の後ろにはもう誰もいない、
イメージの前にあるのは捲れない風景の堰が、
青い皮膚を刺すように染み入る。

異なる距離から見ると、絵は異なる表情を見せ、
近くで見れば、筆の軌跡、墨の滲み、
紙の質感が見える。
遠くから見れば、全体の構図、
空間の広がり、雰囲気が感じられる。
顋を長くしてぼんやりしながら、
風景から声が聞こえてくるのを僕は待つ。

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