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2012.01.09
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カテゴリ: 韓国・北朝鮮
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この話は、”歴史”さんのブログに紹介されていたものです。
国交のない時代に、日本人で、あの韓国から文化勲章を贈られた人がいたなんて…ちょっとびっくり!!


歴史さんの記事より抜粋しました。少し加筆したかも…
↓↓↓


熊毛郡といえば、岸信介、佐藤栄作と同郷になりますね。また、伊藤博文公の生家も近くにありますね。


1905年曾田さんは、朝鮮へ渡りました。
1919年の三・一独立運動に際しては、逮捕された韓国人の救援に尽力しました。
最初は日本語教師として働いていましたが十年ほどして、拾い子や孤児のお世話を妻のたきさんとするようになりました。

その頃の韓国には、町の端にすて子をする人も少なくなかったのです。

そんな子供達を曾田夫妻は見殺しにできませんでした。

ソウルの曾田夫妻の家は、そんな子供達でいっぱいになりました。

その後、日本語教師をやめ、その子供達の為に保育園を開きました。

1921年、鎌倉保育園の京城支部長となり、以来、韓国孤児の養育にあたりました。
食料や衣類がなくなると、古着や食料品をお願いして、集めました。
心ない人々はそんな彼らの姿を見て、「国の辱」と笑いました。
しかし、曾田夫妻は、アポジと慕ってくる子供達を支えにし、
最大の愛情を持って、子供達に接しました。
30年以上にわたって曾田夫妻によって育てられた子供の数は、1000人を越しました。

曾田夫妻は、1945年の敗戦後も、特に韓国残留を許されました。

1947年、日本での伝道の為に帰国しましたが、日韓国交樹立以前の1961年、韓国政府の特別のはからいで韓国に戻り、翌年、韓国で亡くなりました。

葬儀は韓国社会団体連合葬として盛大に行われ、政府・社会団体関係者や市民2000人が参列しました。
新聞は「国境と民族の壁を越えた真実の愛と奉仕」と大きく報道しました。
曾田夫妻は、ソウルの楊花洞外人墓地に葬られています。
1962年、韓国政府は曾田さんに文化勲章を贈りました。
日本人への授章は初めてで、日韓正常化前の当時としては、異例の事でした。
ソウル外国人墓地公園に、曾田夫妻の墓があり、墓には「孤児の慈父」という碑文が刻まれています。

↑↑↑
ほぼ全文掲載してしまった!!すみません。
さて、少し、興味が出てきたので…少し、検索してみたら…
以下の記事を見つけた。
参考の為、ここに掲載しちゃいます。


【一千人の父母となって ~曾田嘉伊智とその妻~】

 1916(大正5)年、12月のある日。
 きびしい寒さにこおる京城の街をひとりの男が歩いていた。手ぶらではない。古ぼけた大八車をひっぱってである。 ・・・(中略)・・・ 。
 男の名を曾田嘉伊智といった。
 かれはまぎれもない日本人だ。山口県生まれ、49才。車に積んだのは、あちこちでもらいあつめたこども用の古着と食料品である。かれがかえっていく 「鎌倉保育園」 には、大ぜいのこどもたちが、首を長くして、それらを待っている。(p.174-175)

 曾田嘉伊智が韓国で大勢の子どもたちを育てるようになった動機は・・・。

 曾田嘉伊智が、韓国にわたったのは、明治38年、かれが38才のときである。
 台湾を旅したとき、山のなかで行きだおれになっているのを、韓国人にたすけられた。そのうれしさがわすれられず、なにか、韓国人のためになることをしていきていきたい、というのが、嘉伊智の、韓国へわたった動機だった。(p.176)

 京城三坂通りの、曾田家のささやかなすまいは、しばらくするうちに、嘉伊智のひろってきたすて子、知人からたのまれたみなしごでいっぱいになった。(p.178)

 年月がたち、はたらきざかりだった曾田嘉伊智ふさいにも、めっきり、老いのかげがこくなった。
 しかし、なんというよろこびだろう。そのあいだに、ふたりの手あつい愛の手にかかった孤児は、もう千人を超えていた。(p.179)


 ところで、曾田嘉伊智さんは、戦後間もない頃、一度日本に帰国したら、日韓関係が悪くなり韓国へ帰国できなくなってしまい、その間に、妻のたきさんは急性肝炎で死んでしまったのだという。

 大韓民国政府は、たきの葬式を、とくに 「政府葬」 として、ていちょうにおこなった。そして、大臣・知事・市長らは弔辞で、たきのことをいっせいに、「慈母」「聖なる天子の化身」「民族の母」 などと、ほめたたえたという。
 妻の死をしらせてきたたよりのなかの、この報告は、嘉伊智のせめてものなぐさめだった。(p.180)

 日本に足止めされていた嘉伊智さんの消息が朝日新聞に掲載されると、日韓両国で反響がわきおこり嘉伊智さんの願いが叶う時が来た。

 1961(昭和36年)年3月11日、永楽保隣院(嘉伊智のひらいた保育園が元になってできた施設)理事長のハン・ギョンジフ氏から、「ぜひ思い出のソウルへおいでください」 という招待状がとどいたのである。

 嘉伊智の第二のふるさと韓国での、しずかな、そしてしあわせな日々が、それから約11カ月韓国の人々のふかい感謝といたわりのなかでつづけられた。
 96歳の嘉伊智が、思い出の永楽保隣院でやすらかに眠るようにして、たきの待つ天国へ旅立ったのは、1962(昭和37)年3月28日のことだった。(p.181-182)


つづく





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最終更新日  2012.01.09 20:00:14
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