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IMyMeMine


金主義であり利己主義でありつまり排他的主義者である、
そんなオレが博愛主義者になろうという行為そのものが
矛盾しているのである。

何故ならば、つまり利己主義者ということは、
「相手はどうなってもいい」という考えなのだ。
博愛主義者は逆であって、
「相手こそが神」的考えなのである。
利己主義者でありながら博愛主義者になろうとするということは、
「相手はどうなってもいい」と考えながら
「相手こそが神」と思えるような人になりたいと考えているわけである。
火を見るよりも明らかな矛盾なのだ。

であるから、多分それには理由があると俺は考える。
で、その解釈の一つとして導き出したのが以下の解釈だ。

利己主義者であるオレは、常に永遠の命であったり、
名声であったり、金であったり…ということを求めている。
その中で俺は俺自身で
「自身の名前を知る者が世界から居なくなるのが恐怖である」
ということを感じている。
つまり、利己主義者としての「名声」を人一倍欲しているのだ。
そして、その恐怖に対しての抵抗として、
「子孫の繁栄」を望んでいる。
その「子孫の繁栄」をする為には、
利己主義者として手段を選んではいられない。
その結果が「博愛主義者になりたい」という欲なのではないだろうかと
俺は考える。
「博愛主義者になる」ということは、誰をも愛せる人になるということだ。
それは逆に言えば、人から好かれる人になりやすいということでもある。
「人から好かれる」ことによって「子孫の繁栄」をさせ、
それによって利己主義者の欲望である「名声」を
いつまでも残そうとしている、
それが「利己主義者としての考え」になるわけなのだろう。

ただ、俺自身の考えとしては、
博愛主義者になりたいのは、
「利己主義者」であることに疲れたというとおかしいかも知れないが、
人を愛することを知りたいという知的欲求に因るものなのかもしれない、
とも考えている。
利己主義者であるが故、その渦巻く欲望は果てしない。
名声だとか、そういうこと以上に、
「全智」であるとか、「恒悦」を望んでいるわけだ。
その「全智」というのは、つまり全てを知るということであり、
その全ての中には、当然恋も含まれているわけだ。
恋を知ろうという、正直俺自身が浅ましく愚行だと考えている行為を
俺自身がしようとしているわけだ。

ともかく、この文を書いているうちに
俺は二重人格かなんかじゃないのかと思えてきた。
一つの面でありながら、オレの性格はとにかく複雑で、
ぐちゃぐちゃで、暗澹で凄惨な様相を呈しているのだろう。
もしかしたら、これを解いて欲しいという心奥の欲求が
俺が博愛主義者になろうとする本当の理由なのかもしれない。

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