Roll

Roll

Snow


一つ目は、灰色の曇天から、堆く積もる雪の景色。二つ目は、きらきらと空からまるで妖精のように舞い降りてくる雪の景色。
光と闇、対極にある景色だが、大体の人は、一つ目の景色を思い浮かべるのではないだろうか?
確かに雪は大人達に憂鬱を齎すものではあるし、確かにそれは零度以下にしか存在できない(というと少々語弊があるが)、つまりは冷たい存在なのだ。
歌では、大半は雪が失恋に伴って具現しているように唄われている。
しかし、だからといってそれは、雪が失恋や、それに伴う悲哀の対象になるという理由として適切なのであろうか?
 東北日本海側の県、つまりそれは新潟であったり秋田であったり山形であったりするわけだが、
その奥地、雪の多く降る地域の人間は、総じて心が温かいというのが世間一般の常識のようなものとして知られていると思う。
テレビの特集でも、最も心が温かいのは秋田県民であるという統計が出ていた。山形は30位以下という酷い結果ではあったが。
何故秋田県民が最も心が温かいのか、その答えは環境の厳しさに因るものである、とその番組に呼ばれた何やらの専門家は言っていた。
一緒に雪かきをする。一緒に食べ物を分け合う。
近所は家族のような存在。温かく。温かく。
厳寒の中で、彼らは手を取り合い雪に対して堪えていこうという道に至った訳である。
 こうしてみると、雪が失恋や悲哀の象徴となるのは全くの筋違いである、と言えるわけである。
雪という存在は、理不尽に彼らを痛めつけているのではなく、一種暖房的な姿を以て、彼らに「温もり」や「絆」といったものを与える存在になるのではないだろうか。
 では、何故山形県は心の温かさが30位以下なのだろう。雪に因ってこの順位が出だされているのだとすると、雪とはただの冷たい、そして失恋や悲哀の象徴に成り果ててしまうことになる。
しかし、それは雪に起因するものではなく、山形の県民性に由来するものである、と僕は思う。
 昔、新聞で読んだことがある。「山形県民は、もっと自分を前に出すべきだ」と。
それに因れば、山形県民は自分を前面に出すことに於いて否定的な姿勢を持っているらしい。
つまり、方言を使うことは恥ずかしいことで、周囲の面前に晒されることは恐ろしいことで…、といった考え方をしているわけである。
大衆によって踏み固められた、安心して歩んでいける道を追随する存在なのだ。
 控えめに―、主とならず、敢えて客となることで視界を広く持ち、世界を客観的に見つめよう…という捉え方も、見ようによっては出来る。
しかし、それが逆の方向に作用してしまったのが、この心の温かさの「30位」という結果なのだろう。
民衆の中で、人が蹲っていたとする。その時、人々はそこに輪を作るようにして逃げていく。
そこに手を伸ばすのが秋田県民であるとすれば、
山形県民は、その人の安全を祈りながらも、
人々の目に晒されることが怖くて出ていけない、そんな存在なのだ。
 ただ、山形県は全国でも米の生産量は六位であるし、
果物の生産についてもかなりの水準を誇っている。
その面については、助け合うという作業はかなり重要なものであった筈だから、
彼らの中に本当に温かさが無いのかと問われれば、それは「ある」と答えなければならないだろう。
また、山形県の降雪量も、太平洋側に比べると遥かに多い。
秋田にも、そう引けはとらないであろう。
それは間違いなく、秋田にも負けず劣らず、人々の間に温もりを創造する原因となっている筈である。
ただ、その温かさを使える場面が「見知っている間柄のみ」であるから、
山形県は他に対して冷たいというイメージをもたれるしかないのである。
 やはり、雪と言うのは人々にとって非常に大切な存在であり、
失恋や悲哀の象徴とするには、少々愚弄が過ぎると言わざるを得ない。
そして、雪は人々の中で、もっと明るい、そして温かいものの象徴として、認められていくべきなのである。

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