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Bullying


虐めをしている方も、こじ付けた理由はつけることが出来ても、
本心からは何故虐めをしているのかはわかっていないはずだ。
では、虐めは何故行われるのであろうか?
自らの視点からではあるが、その点について解釈をしていきたいと思う。
 まず一つ目に、虐めを行う理由について、僕は自己主張がしたいからである、と思っている。
バスケ部のあの集団は、ゲスに対する虐めはしている様子がないのは見ての通りであるし、
他の人が触れる事すらおぞましい事の様にしている
その椅子や机に座ったりしていることは周知の事実の筈だ。
バスケ部の集団は、応援団などを初めとして、
様々な場面に於いて自分という存在を周囲に知らしめている。
その為に自己主張をする必要が無く、虐めをしていない、
ということに繋がっているのではないだろうかと思うのだ。
 つまり、虐めをする人というのは、上手く自己主張が出来ず、
虐めに於いてでしかその活路を見出せない人であると言えるわけである。
 また、僕は虐めは自分の不安な気持ちを払拭する為の一つの手段として
用いられているのではないかと考えている。
 どういうことかといえば、例えばテストであったり、
運動面であったりといった面で「人に劣っている」と自分が考えた時に、
そこに不安が生じるわけであるが、つまりそれは、
「もっと劣っている人」が居れば「人より勝っている」という面が出来る
ということでもある。
その「もっと劣っている人」を強制的に作り出そうとするのがそう、
「虐め」だと思うわけだ。
 ただこの点での「虐め」は、
もっと劣っている人を空虚な妄執のように作り出すことで安心するが、
それによってもっと「堕ち」るという危険性を孕んでいる。
 そうやって見たときには、「虐め」に対しては危険であると
提唱せねばならないし、自身として非難の意を唱えざるを得ない。
 こうして並べてみると、虐めは大別して二種類に分けることができるわけだが、
どちらにしてもそれは単なる一時の安心に過ぎず、
直ぐにそれと同じ過ちを繰り返す可能性が非常に高いのは一目瞭然だ。
とどのつまり、虐めとは自己の保身に走る大衆を巻き込んだ
愚者の自己主張の結晶なのであり、
人を見下す為の一種の手段であるわけだ。
そして、虐めを行う人は、それが自分自身をも貶める危険性が
非常に高いということを、知っておかなければならない。

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