羊の墓場

羊の墓場

2010.04.02
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ところで、何故“修験者”もとい托鉢僧なのだろうかと考える。
修験者という認識は多分まちがいだ。正しくは托鉢僧。
現代の日本にもいる。たまに道で見る。
故郷では滅多に見なかったが、関西ではそこそこ見かける。
いつもあまり近寄りたくない。編み笠で顔が隠れているのが怖いのだと想う。
何を考えているのか分からないというのは恐怖だ。嫌悪や不快に近いもの。
インドの写真に見るようなエキセントリックな修行は肉体損壊までに及んだものでも怖いとは思わない。
日本の修行僧はただ座っているだけ。顔が見えないということはそこまで恐怖だろうか?
他に理由といえば、あとは周囲から浮き過ぎているというところぐらいか。

何の信仰心もない大多数の中で理解も共感もされないままに独り座り続けることの違和感。
知識としては理由も座って何をしているのかも知っている。しかし結局は私も理解できないのだろう。
インドの修行僧は信仰心の中にいる。周り中、彼が何をしているのか知っている。
日本の修行僧は信仰心を内に持っている。皮膚の外側には無いもの。
強いな、と思うと同時に、理解できないな、とも思う。
正直なところ、ヘジャーブをかぶっているムスリム女性の方がよっぽど理解できる。
弱者道徳と宣った何処ぞの哲学者ではないが、社会は弱さの中で共鳴しているように思う。
弱さ在ってこその社会なのだ。強さは排除され、寧ろ“弱さ”が社会となる。
それでは信仰するものが少なければ少ないほど、宗教は強さになるのか。
分からないなと思う。





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Last updated  2010.05.02 17:27:18
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