眠たがりの日記

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「夕凪の街 桜の国」

「夕凪の街 桜の国」


「メリークリスマス ふいに誰かの悲鳴が聞こえた正面のスクリーン 激しい爆撃を繰り返すニュース
 メリークリスマス 僕にはなにも関係ないことだと言い聞かせながら 無言でひたすらに歩いた」
(さだまさし「遥かなるクリスマス」より)


 いきなりこの歌を持ってきたことに引いてしまった方もいるかもしれない。
 季節はずれも承知の上である。
 でも、どうしても自分の思いの中で重なるものがあった。

 戦争というものに対して、興味や関心を持つことを避けていたような気がする。
 いや、もちろん多少なりとも投資をやっている(結果はあんまりついてこないけど)人間である以上、全く興味・関心を持っていないわけではない。ただ、その関心の方向が「為替相場がどうなるか」や「株式市場に対する影響」という経済重視の方向に向かってしまう。
 もしくは、過去の過ぎ去った歴史の出来事や、遠い国のニュースとしてみているかである。

 「夕凪の街 桜の国」は、そんな自分に暖かい衝撃を与えてくれた。

 「夕凪の街」
 物語は、「あの日」から10年後の「ヒロシマ」で始まる。
 主人公の平野皆実は小さな建設会社に勤めている。同僚の打越に対して淡い憧れを抱いてはいるが、10年前の8月6日を越えて生き残ってしまったことが心に深く傷として残っていて、その気持ちを素直に表に出すことができないでいる。

しあわせだとおもうたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべて失った日に引きずり戻される
おまえの住む世界はここではないと 誰かの声がする


 何人もの人を見殺しにし、人として恥ずべきことをしてまで生き残ってしまった罪悪感を「あの日」から10年経ったにもかかわらず引きずっている皆実。

メリークリスマス その隣で自分の幸せばかりを求め続けている卑劣な僕がいる
 メリークリスマス 世界中を幸せにと願う君と いえいっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる

(さだまさし「遥かなるクリスマス」より)

 戦争は遠い国のこと。自分の幸せばかりを追い求めている自分には一応罪悪感を感じてはいる。
 でも、もし世界中が不幸なら、自分の幸せだけを考えることに罪悪感を感じなくてすむ。そう思う「僕」。

 どちらも「罪悪感」という言葉でひとくくりにしたが、現代に住む自分が理解しやすいのは間違いなく「僕」の感じる罪悪感である。だからこそ自分にとって、皆実の持つ「罪悪感」は、言葉は悪いがとても「新鮮」であった。戦争を、原爆を経て生き残るということは、そのような罪悪感と一生付き合っていかなければならないことなのだろう。
 皆実は 「私が忘れてしまえばすんでしまう事だった」 と思いながらも、そのことを忘れようとせず、あの日と向き合って行こうとする決意を固める。そして、打越に10年前のことを打ち明ける。打越は、そんな皆実の思いを受け入れ、これから共に歩いていこうとする。

 しかし、原爆というものは、あの日から10年経ったにもかかわらずそんな二人の間を引き裂いてしまう。

 ラスト付近で、皆実が原爆症の影響で視力を失ったことを真っ白なコマで表現している部分がある。
 ここでは、小説「解夏」の描写を思い起こした。

「かつて見えていたから言うんだが……つまりね、失明するってことはねえ、明るいところから闇に突き落とされると思っていたんだ、だがねえ、決してそういうわけじゃあないんですよ。ちょうどねえ、そう……乳白色の霧の中にいる、と思えばよい」
「え? 乳白色……なのですか?」
「そうなんだ。あのね高野さん、光が見えるから暗闇が見えるんだ。暗闇というものはねえ、光が見えない者には存在しないものなんですよ」
隆之は目を見張って黒田を見た。
「光が見えない者には暗闇は見えない……」
「そう私は失明して初めて知ったね。今までは自分は暗闇、という光を見ていたんだ、とね」

重い、重い言葉だった。
(さだまさし「解夏」より)


 だが、同じ「白」であっても、その意味するところはまるで正反対である。
 光を失ったとはいえ「解夏」の主人公・高野隆之には、乳白色の霧の向こうにこれから先を一緒に歩いてくれる人がいる。そして、そんな二人を見守る故郷がある。
 だが皆実は一緒に歩いていくはずの人の手を握り締めた矢先に、光を、そして未来を失うことになってしまう。
 「光が見えるから暗闇が見える」、その言葉と真っ白なコマを重ねたとき、皆実を襲った理不尽なものの大きさがさらに深く感じられた。

嬉しい?
 十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て
 「やった! またひとり殺せた」
 とちゃんと思うてくれてる?


 そんな白い闇の中で皆実がつぶやいた言葉の重さ。
 ここまで深く、そして重い「白」をこれまでに自分は見たことがない。

 35ページに何を見たかを語ることはまだできない。
 何かを語れるようになるまで頭の片隅ででも考え続けること。
 自分にとっての一生の宿題かもしれない。

「このお話はまだ終わりません
何度夕凪が終わっても終わっていません」


 「桜の国(一)」
 1987年の話。これだけで読むと、一人の少女(石川七波)とその周りの人々の何気ない生活を描いた小品にしかみえないが、「夕凪の街」からのつながりや、次の「桜の国(二)」への伏線が数多く隠されている。これらの伏線が次の「桜の国(二)」で収束していく様はまさに圧巻。いうなればフィナーレへ向けての間奏曲。
 「何を語るか」のみならず「いかに語るか」をも十分に考え抜いていることが感じられて、ストーリーテラーとしての力を感じることができた。

 「桜の国(二)」
 2004年の話。「1リーグ制」や「六本木ヒルズ」という言葉に現代を感じる。野球少女だった七波も28歳。ぜんそくで入院していた凪夫も立派な(?)医者の「卵子」に。
 高額な電話料、不審な言動を見せる七波の父・旭を尾行するさなかに、「桜の国(一)」で石川家の隣にすんでいた幼馴染の利根東子と再会し、そのまま2人で旭の後を追って広島に向かうことになる。

 「会いたくなかった」と思っていた東子に出会ってしまったことで、祖母と母とを亡くした桜並木の町のことを思い出してしまう。冒頭で凪夫から東子が看護師になったことを聞いても無関心を装っていたのも、忘れたいと決めつけていたことに触れられることを避けていたかったから。あれから60年経った現代でも、ヒロシマの影はどこかに残っている。
 凪夫から東子への別れの手紙もその影の産物である。

 「桜の国(二)」には、七波・凪夫の両親である旭と京香のエピソードがタッチの異なる絵で3回挿入されているが、その場面転換の流れの作り方は見事。いうなれば「その場所が持つ記憶」である。

 一度目は、かつて「原爆スラム」があった川原から、旭と京香の出会いの頃に時計の針が戻される。
 茨城に養子に行った旭は、大学を選べばそこから近い東京の大学に進学することは可能だったはずなのに、広島の大学を選んで実の母であるフジミとともに暮らすことを選んだ。「夕凪の街」では広島に帰ることを拒んでいたのにである。
 京香に対して 「すぐ原爆のせいにとか決めつけるのはおかしいよ」 とまで口にしている。彼は、実の家族を失った原爆について、広島から遠く離れた土地で何を思って暮らしてきたのだろうか。

 二度目は、「夕凪の街」で皆美が会社の同僚の古田と作ったワンピースの見本があったフタバ洋品店の前から。

「なんでうちは死ねんのかね
 うちはもう知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ………」


 京香と共に暮らそうと思う旭に対して、フジミが口にした言葉である。
 事実、京香はフジミよりも先にこの世を去ってしまっている(「桜の国(一)」)。
 直接「あの日」を体験した主な登場人物の中で一番最後まで生き延びたフジミは、「生き残ってしまったことへの罪悪感」をずっと抱えながら暮らしてきたのだろうか。その抱えていたものの重さは測り知れない。


 東京へ帰るバスの中、七波は眠った東子に対して一人語りかける。

「…母さんが三十八で死んだのが原爆のせいかどうか誰も教えてはくれなかったよ
 おばあちゃんが八十で死んだときは原爆のせいなんて言う人はもういなかったよ
 なのに凪夫も私もいつ原爆のせいで死んでもおかしくない人間とか決めつけられたりしてんだろうか
 わたしが
 東子ちゃんの町で出会ったすべてを忘れたいものと決めつけていたように」


 この言葉は、「夕凪の街」で皆実の独白 「私が忘れてしまえばすんでしまう事だった」 と表裏一体であるように思えた。そして、皆実も七波も忘れたいと思っていることから逃げないという決意をもって前に進もうとしている(していた)。
 その姿がとても眩しく映る。

 最後の「場所の記憶」。
 七波が、凪夫から東子への別れの手紙を破って作った紙吹雪が桜吹雪に変わっていき、桜吹雪の中での旭から京香へのプロポーズのシーンになる。

「母からいつか聞いたのかも知れない
 けれど こんな風景をわたしは知っていた
 生まれる前 
 そう あの時 わたしはふたりを見ていた
 そして確かに
 このふたりを選んで生まれてこようと
 決めたのだ」


 凪夫が東子の両親から受けた偏見は、いずれ七波にも訪れる可能性のあるものである。さらに言うなら七波は新しい命をその身体に宿す女性である。その分、受ける偏見は余計に強いものになるかもしれない。
 にもかかわらず自分が旭と京香の娘であること、つまりは自分が自分であることをここまでまっすぐ肯定している。ここまで強く、そして美しい言葉にはそうそう出会うことはできない。
 この言葉を綴るだけで、桜吹雪の中で語らう旭と京花の笑顔が浮かんでくる。2ページ見開きで描かれたその絵の美しさには息を呑んだ。
 この言葉に出会うことができて本当に幸せである。

 七波が見た夏の日の桜吹雪。
 それは、忘れたいと思っていた過去を受け止め、背筋を伸ばして歩いていこうとする思いそのものなのかもしれない。


 戦争を語ろうとする時に、国益、地政学、国際情勢云々といった、いわゆる「大所高所」からの議論が幅を利かせ、「いやなものはいや!」と単純に言うことを軽蔑するような雰囲気が感じられることがある。
 ただ、「いやなものはいや!」と言わないことで、今普通にすごしている平穏な、しかしかけがえのない日々を失うこともある。
 戦争によって失われる穏やかな毎日の美しさ、大切さとそれを失うことの悲しさがわからないのであれば、どんな立派なことを言っていようがその言葉には中身がないように聞こえる。
 直接的に戦争を描かず淡々と日常を綴ったこの「夕凪の街 桜の国」は、毎日を生きていくという当たり前のことの美しさを描いているからこそ響いてくるものがある。

 さだまさしは、「遥かなるクリスマス」のライナーノートを次のような一節で締めくくっている。

「考えよう、想像しよう、自分が置かれている場所を正しくつかもう。あなたの大切な人の笑顔を守るために。」

 あざといと思う方もいるであろうこの組み合わせ。反則・誤読すれすれかもしれない。
 だが、繰り返しになるが、どうしても思いの中で重なるものがあった。

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