『カノープス』会長兼CEO山田氏セミナ


場所 :『Morrison & Foerster LLP』International Room (1F)
参加者: SVJEN(Silicon Valley Japanese Entrepreneur Network)
会員 各位
テーマ: カノープス株式会社(http://www.canopus.co.jp) 会長兼CEO
山田広司(やまだ ひろし)氏 講演による『私の日米起業物語』

概要 : 今回は、シリコンバレーにおける起業サポートのボランティア
団体であるSVJENの第1回起業家トークセッションに参加した。

ゲストスピーカーである山田氏は、2次元/3次元グラフィック
・アクセラレータや、デジタルビデオの編集を行うためのノン
リニアビデオ編集システム、映像配信システムなどを手がける
カノープス株式会社の会長兼CEOである。
山田氏は、歯科医師から起業家へ異色の転身を果たし、1983年
に神戸でカノープス電子株式会社(後にカノープス株式会社に
改名)を創業した。
その後自ら単身でシリコンバレーに移り住み、カノープスコー
ポレーションの設立と運営の陣頭指揮をとり、短期間でグラフ
ィクス製品およびノンリニアビデオ編集市場において、同社を
業界世界首位を争う企業へと成長させた人物である。
今回 山田氏には、SVJENの会員に向けて『私の日米起業物語』と
いうテーマで、日米両国における起業経験を語って頂いた。
起業までの異色の転身劇や、企業経営上の失敗談や悩み、葛藤
等を惜しみなく話してくださる朴訥としたキャラクタと、それ
でいて時折見せる鋭い目や意見は、聞いている聴衆側を大いに
魅了した。
今回、個人的にはこのセミナと関係なく『シリコンバレーの
日本人起業家たち』(KKベストセラーズ)という本にて彼の活躍
を事前に詳細に知っていたこと、同じように阪神大震災を経験
していること、少年期の第一次PCブームの記憶等含めて より
親しみをもって話を聞くことができた。詳細は以下に示す通り。

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■0. はじめに、SVJENとは何か?
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・SVJEN(Silicon Valley Japanese Entrepreneur Network)は 起業のため
の各種情報提供、サポート、情報交換などを目的とするボランティア
運営による団体で、起業を目指す人間の他、シリコンバレーの各日本
企業駐在員やスタンフォード大学に集まる企業留学生などが加入して
いる。
SVJENの主催するイベントは、主に以下の3種類。
ラウンドテーブル・・・・起業家と起業志望者の情報共有会議(隔月)
ネットワーキング・・・・著名人による起業モチベーション高揚イベ
ント(半年に1回)
企業家トークセッション・起業家の経験・人生をざっくばらんに語っ
て頂くイベント(隔月)

・現在、シリコンバレー在住の人口は全米比1%。しかしながら、シリ
コンバレーでの発明件数(特許・論文ベース)は全米比8%を占め、
不景気ながらも依然として高いインテリジェンスと知的生産力が集積
するエリアとされている。
シリコンバレー在住者の1/4はヒスパニック系であり、1/4はアジア系
であるが、アジア系住人に占める日本人割合は低い。最近躍進著しい
のは、中国、インド、韓国、台湾、イスラエル等。

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■1. カノープス株式会社会長兼CEO 山田氏による『私の日米起業物語』
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▼ カノープスの概要
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・カノープスは 現在 2次元/3次元グラフィック・アクセラレータや
デジタルビデオの編集を行うためのノンリニアビデオ編集システム、
映像配信システムなどを手がけており、こうした分野において世界の
首位を争うベンダである。
企業名の『カノープス』とは龍骨座のα星を指し、日本からは地平線
ぎりぎりにしか見えない星だが南国に行くほどよく見える全天で2番
目に明るい星として知られる。自分達の分野で首たる地位を狙うべく
願いをこめて社名に使用したという。
・カノープスは、1983年4月に神戸のハイテクパークにて設立され、2年
前の2001年に株式をJASDAQに公開し、昨年2002年に東証2部に上場。

・起業当初は、NEC製パーソナルコンピュータPC-9801のグラフィック機能
の拡張をビジネスとしていたが、
最近ではデジタルシネマ製作に使用される機器やソフトウェアを開発・
販売を主としている。最近の使用例では 世界初の完全デジタルシネマ
『スターウォーズ エピソードII』にカノープスのグラフィック・チッ
プセットが全面的に使用された。
デジタルシネマとは、製作から編集に至るまで、フィルムなしで 全て
がコンピュータ上にてデジタル処理される映画のこと。

・カノープスが得意とする技術分野は、ソフトウェア、デジタル・アナ
ログ信号変換処理、ハードウェア技術など。
他社の真似ではなく、目的とする機能を実現するための専用設計を
得意とする。製品ターゲットは時代と共に次々に遍歴してきているた
め、これを先取りしていくことがポリシー。

・現状、カノープスの売上げの1/3は海外販売による。1983年の創業以来、
総収支において、一環して高い利益水準で推移しており、赤字転落が
ないのが自慢。
日本での起業当初は10名以下の社員で、家族的雰囲気の中、利益率の
高い製品しか扱わない、いうのがビジネス目標だった。

以前、市街駐車場の空きスペースを電光掲示板に表示する管理システム
にて、ニッチな市場における高い収益をマークしていたが、現在の
藤原社長がカノープスに加わった時点(1991~1992年頃)でマーケット
拡大路線に切り替えた。
これによって、利益率は高いが数が出ないニッチ製品によるビジネス
をあっさりやめてしまった。このあっさりやめることが大切と感じて
いる。ある日本当に完全にやめてしまう。マーケットに対しても開発
ストップを宣言し、新しい開発製品に邁進すべく、後戻りできない
条件を自ら設定することが大切と考えている。


▼ カノープスの歴史 ~起業まで
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・子供時代から趣味は、プラモデル→ラジオ(鉱石ラジオ)→アマチュア
無線→ラジコン模型→オーディオへと遍歴していった。
※ 山田氏が自ら苦笑するほど、典型的なオタク(?)例だが、(^-^;)
一貫して共通していたのはものづくりがすきであったということ。
・趣味よりも実益を取るべき、という家族の強い勧めもあり、阪大歯学部
に入学。 やがて、歯を削って埋めるだけの仕事に疑問を感じ 歯科医師
免許取得後、同工学部通信工学科に編入した。この時点で24歳。
既に結婚しており、子供もいた。
工学部在学中に家族を養うため、嫌々ながら金になる歯医者のアルバ
イトを継続。工学部卒業時には既に2名の子供がいたため、ここでも
生活のために勤務医を1.5年続ける。
しかし、この歯医者業にも相変わらず憂鬱を禁じえなかったため、好
きなことで金を稼ぐべく、当時のシステムハウス(ソフト会社)に入り、
1週間のうち歯医者業2日、大阪のシステムハウスで2日、神戸のシス
テムハウスで2日の勤務スケジュールを続ける。
この際、システムハウスでの給料は圧倒的に歯医者のそれよりも少なか
ったものの、そちらでの仕事の方が遥かに楽しかったという。

・やがて、NECのパーソナルコンピュータ『PC-9801』シリーズがリリース
されたが、PCの16bit化によって、従来の8bitPCのソフトが動かなくな
ったため、8bit→16bit変換のボード『PLUS-80』を自製した。
この製品が大変うまく機能し、よく売れたため、晴れて嫌いだった歯医
者業をやめ、1983年4月に『カノープス電子株式会社』開業となる。
当時、『PLUS-80』をめぐっては、発売前に販売権利を売ってほしいと
アスキーの西和彦氏が申し出てきたり、発売後の好調さを見てソフト
バンクの孫正義氏らが扱わせてほしいと申し出てきたりしてきたエピ
ソードがあるという。


▼ カノープスの歴史 ~起業以降、渡米まで
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・山田氏は創業者であり最初の社員でもある。そして、奥さんが2番目の
社員であり、大阪のシステムハウス時代の知り合いが3番目の社員。
この社員によって、最初の製品である『PLUS-80』を設計・製造した。
最初の社屋は、2台のガレージスペースをもつ19坪の木造2階建ての
一軒家で、大阪に2,700万円で購入。
購入資金は山田氏のお兄さんが働いていた旧大和銀行(現りそな銀行)
から融資してもらうことができた。

・この当時のカノープスの製品遍歴は、PLUS-80→ADコンバータ→DSPボ
ード→各種ユーティリティソフトウェア といった具合。
以降の社員は、それぞれの友人や知り合いなどが中心。当時のAD変換
ボードの質と性能が悪すぎて自分達で作ってしまったいうのが、2代
目の製品開発のきっかけ。
・第2の社屋は 40坪 4F建て 28~29名程度就業可能の小さなビル。
この当時は、NEC PC-9801が日本市場を席巻していた時代。PC-9801は
高価格で、米国に対して遅れた技術で日本支配していた観があった。
ただし、PC-9801が日本市場を席巻していたことで、その機能拡張や
8bit旧機種との橋渡しをしていたカノープスの製品は面白いように儲
かった。(製造原価は当時2万円、売価は7万5千円。)
しかし、当時アメリカでは既にIBMのPC互換機が出始めており、近い
将来 必ずDOS/V機に主流が変わることを確信していた。

・その後、JPEGデコーダ(従来3-5minかかっていた処理性能を、ソフトウ
ェアベースで3secを実現)を開発したことにより、当社に強い関心をも
ったビル・ゲイツをつかえまえてライセンス取得しようとしたことも
あった。
・第2の社屋は神戸地震(1995.1.17)の際に 全壊してしまった。


▼ カノープスの歴史 ~渡米そしてUS法人設立
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・米国視察?の初日、米国に到着した旨を自宅に連絡したら、自宅は阪神
大震災に遭っていた。(1995.1.17のこと)
翌日、予定をすぐに変更して帰国し、自宅に向かったが、電車は不通
で徒歩で大阪から神戸まで歩いた。
ここで、米国起業をためらったが、どうせ一から始めるなら、全権を
自分で責任をとってやろうと決断。家族も連れて渡米した。
日本から連れてきた社員は本当のキーパーソンだけ。真のシリコンバ
レーの企業となるため現地採用を徹底した。その後、3年間で以下3
つのステージを計画し、実施した。
◆1stステップ 現地の先進技術を取り入れてシリコンバレーで新し
い製品を開発し、それを日本で製造し、日本で販売
する。
◆2ndステップ シリコンバレーで開発、製造し、それを日本市場で
売る。
◆3rdステップ シリコンバレーで開発、製造した製品を米国市場で
売る。ただし、この3rdステップは2ndステップと
ほぼ同時にスタートさせる。

・これまでの最悪期は6ミリオン($6,000,000)程度の赤字を作った。
完全自前で、チューニングしつくしたグラフィック・チップを売って
も、売る際には値崩れで半値になってしまうという時期だった。
しかし、何とか日本での儲けを充当することで、会社全体としての
年間収支は黒にすることができた。
この時期を、自分では"3重苦"の時代と呼んでおり、精神的な閉塞感
や心配から睡眠もままならなかった。その"3重苦"とは次の3つ。
日本カノープスの不調(財務担当者の暴走/新旧社員間のあつれき)
米国カノープスの赤字($6ミリオンの赤字)
家族問題(お子さんの登校拒否等々)

・この頃、手心のあったテニスを再開し、気分転換による思考の切替え
で他に目を振る余裕ができ、物事が少しずつ好転していった。
その際、グラフィックス1本槍だった製品展開を変えてビデオボード
市場にも参入するようになった。

・2003年5月に、以前から準備してあった土地(米国のシリコンバレー
SanJose)に新社屋を完成させた。(300名が働ける環境だが、ここに入
っているのは現在100名強。向かいにある米国最初のビルには新社屋
完成当初140-150名が入っており、飽和状態だった。)
仕事環境をよくしていくのも経営者として必要なこと。劣悪な職場
環境や設備では良い開発はできない、というのが自論。
# カノープスの米国Officeは、シリコンバレーはサンノゼの中でも
その中心に位置する。シリコンバレーの大動脈であるFreeway101
号線と880号線、237号線に囲まれたシリコンバレーの中心のまた
中心、通称ゴールデン・トライアングルの中に位置する。

▼ 起業全般について思うこと
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・起業当時、経営ノウハウや経理も全く知らなかった。ただ、ただ技術
に対する興味が強かった。しいて起業に向く性格を挙げるとすれば、
『とっつきが速い、決断が速い、全速力で走れる、絶対あきらめない、
コンスタントに努力を続ける』等があるが、こうしたことを継続する
うち必ず拓けると考えている。
そして、一度、こうしたステップによる成功体験をものにすると 以降
も必ず成功する。
一方、早くあきらめてしまって途中棄権した人は次回もすぐ諦める。
そして、次回はもっと早くあきらめてしまう。そうした例を何度も見て
きた。よって、特別なノウハウというのは何もないと思っている。
・今後の展望としては、よりピュアな体制の会社を設立したいと考えて
いる。例えば、日本人スタッフ皆無の高い技術力をもったシリコンバレ
ー発の日本企業(資本やトップは日本人)。そこでも、自分が扱いたい
製品や戦略に絞ってビジネスをすることだろう。


▼ 参加者との質疑応答
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・いつも果敢にビジネスに取り組んでおられると思うが、当初の計画通
りに進むものか?
→ 計画通りにいく例は、実際半分くらいしかない。
開発しながら、マーケットや進捗をフィードバックしながら、常に
軌道修正をしている。

・諦めが早い人を更生する手段はあるか?
→ こればかりは無いと思う。あくまで本人が自発的に意識して変らな
ければ、なおらない問題。

・【私からの質問1】
シリコンバレーのコミュニティにおいて、日本企業の優れている点と
劣っている点は何か?
→ 優れている点は、チームワークとなかなか諦めない粘り強さ。一方
で、劣っている点は、何かと意思決定が遅い点。

・【私からの質問2】
最近、特にシリコンバレーではIT分野における中国、インド、台湾、
韓国、イスラエル等の勃興が著しい。こうした追い上げを前に、日本
企業は常々、高付加価値化を叫ぶが、実際には少しくらいアドバンテー
ジをもっている製品やサービスといったところで、2~3年であっと
いう間に彼らにキャッチアップされ、更には安い労働力を元に 製品
価格やシェアまでひっくり返されてしまっている。
こうした競争相手を前に、日本企業がうつべき手は何だと思うか?
→ 韓国・中国の鍛えられた企業は、明らかに日本に比べて仕事の密度
が高く、長時間労働である。こうした優れた集中力という点では、
支社のオペレーション経験上、客観的に見て日本人はかなわないな、
と思う。
そこで、日本はやはりマーケティングをしっかりすべきだと思う。
日本企業にしかできない製品、日本企業が得意で、彼らがまだ見つ
けていない分野を見つけ、労働力を集中してリードをとるしかない
と思う。
一方、2~3年のアドバンテージを短いと見るよりも、それはまだ
十分リードがあると考える方がよいと思う。
カノープスの製品でも、いまや3ヶ月6ヶ月レベルの製品タームが
主流であり、もっと短いタームで競争をしている。
もし、1年のアドバンテージがあるなら、もっと次や他を見る時間
があるし、マーケットにおいて、プライスリーダーたる時期がある
はず。例えば、自分達が同業界で強いNo.1ポジションをマークした
なら、時期を見計らって 採算を度外視しても第2位以下の企業が
潰れるまで徹底的に価格を落とす、ということも必要。
何故なら、今や第2位と第3位の企業が合併して首位を狙う等と
いうことは日常茶飯事であるから。。。

・米国における販売面で苦労したことは何か?
→ 大手の流通業社等には、初回納入では金を払わず、2回目以降信用
が確立しないと金を支払わないという企業があった。
こうしたケースでは裁判をちらつかせないと金を騙し取られること
があった。
また、カノープスが今ほどメジャーでない頃の製品納入先だった
日本大手某メーカには 返品自由(金銭ペナルティ)なしの契約を
結ばされ、在庫の責任を取らされたが、在庫返品された箱は
ぼろぼろ、その中身は他社製品が入っている等ということもよく
あった。
更に『カノープスは近々買収されるらしい。』という噂をライバル
他社によって流され、販売に苦労したこともあった。
→ 一方、小さい会社であると、製品のパッケージや広告等の戦略に金
をかけられないのがつらかった点。
米国マーケットは、日本に比べて 派手なパッケージング意匠や広告
に弱い傾向が強いため、こうした面での弱さはつらかった。

・社屋は常に自前で、他から借りない理由は何か?
→ 基本的には 何でも時前でないと気がすまない、ということ。
個人的には社屋は一番大事な開発財産だと思っている。良い環境で
ないと良い開発などできるはずがないと思っている。
使いたいマシン、測定環境等がすぐに使えなければ社員にはフラス
トレーションがたまるだけだと思う。
良い環境を提供して、社員には精一杯やってもらうのがよいと思う。

・先の質問の答えにもあったが、カノ

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