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☆今年3月。私はJANJANの市民記者交流会に参加した。JANJANの欠陥は、ネット言論に既存メディアの文化を持ち込んだことである。運営者たちは、既存メディアからはじき出された人たちであるにも関わらず、既存メディアの文化を誇り、市民記者たちをそれに染めることに意義があること思っている…。パネラーであった市民記者・フリージャーナリスト比嘉康文さんは、オウムサリン事件のときの自らの記者体験を痛切に吐露した。事件当時の比嘉さんは沖縄の地方紙の記者であり、化学に詳しい知人から、農薬の材料ではけっしてサリンは合成できぬことを知らされたという。彼は、そのことを上司であるデスクに記事にして報告したが、東京発信の情報に反旗を翻すことは、沖縄の地方紙にはできぬということで発信できなかったという。科学にはうとい私だから深い理解はできぬが、杏仁がなければ、フルーツポンチや牛乳寒天はできても、杏仁豆腐はできない。そういうことだと思う。比嘉氏の言説を受けた下村氏は、自らが著作した報道被害者の河野さんの本の宣伝をした。曰く、この会場でも買える…。と。そして、下村氏は、いまはインターネットがあるから、比嘉さんの意見はネットによって世の中に流布するから、河野さんのような冤罪事件は起きない。と主張した。下村氏は、ネットにつながっている無限大の人材には科学の専門家もいるから、農薬からサリンが合成できぬことを知る人がいた。だから、JANJANはそういう知を集めることで価値がある。と、まとめた。質問の場でないにも関わらず、私は壇上の下村氏に声をかけた。「在京キー局の報道スタジオのコメンテーターや科学監修者は、ほとんど学会のトップと同じなはず。ならば、そういう人たちが農薬からサリンが合成できなかったことを知らなかったわけがない」私の指摘に、下村氏は、当時のテレビ局の限られたリソースでは知りえなかった。と、言明した。当時の言説をまとめるブログがあった。市民メディアの目的の1つは、当事者や専門家が自ら情報を発信することで、結果的に体制側の情報に偏りがちなマスメディアを監視したり、真実を掘り起こすこと。例えば「松本サリン事件」では、無実の男性が家宅捜索を受け、事実上の犯人扱いで報道されたが、男性が持っていた農薬でサリンを作れないことを知る専門家は多かったという。この総括の後で、繰り返すまでもないが、警察との円滑な関係を保ちたい放送局が、科学監修者の意見と警察発表を秤にかけ、ステークホルダーである警察をとったということだ。☆JANJANの交流会を下村氏は、「JANJANの存在意義は非営利的な言論の場であること」と締めくくった。JANJANが非営利・的であることは事実だろう。だが、それは広告収入が伸び悩む結果である。そして、完全に非営利的なのかといえば、運営資金の大部分を拠出するスポンサーの批判記事がけっしてのるはずはないことを想定するならば、非営利などと誇らしげに自己を語る資格はない。私は、「市民参加型ジャーナリズムの価値は、ステークホルダーでない発信者による言論」につきる。と思っている。その意味では、自説のステークホルダーとなったプロ市民たちが横溢するJANJANに、なんらの価値を見出せない。☆ステークホルダーに個がまみれるのは仕方のないことだ。だが、メディア全体がステークホルダーにまみれてしまったら、そこに自由な言論の場は成立しない。複数のステークホルダーがさまざまな距離感を持ちながら離合集散していくのが自由な言論の場である。☆私は自説のステークホルダーであるが、自説の奴隷にはなりたくない。しかし、「言論は自由である」と自説を論じ続けるなければならない。ならば、自らのステークホルダーを明確にしながら、自説を論じ続けることによってしか、ステークホルダーから逃れることはできぬのである。追記:メディアリテラシーを情報の受け手に求めるのは、情報発信者の卑怯である。情報の受け手が情報を正確に判断できるように、送り手は補足説明を加えるべきであり、それが新しいメタタグとなるだろう。バイラルマーケットに対応するエージェント側の施策は、「スポンサードを明記すること」だが、それは言い訳でしかない。「スポンサードを明記」しようがしまいが、世の中に無価値情報を垂れ流し、有用情報への検索を難しくしていることに違いはなく、それは社会悪である。いま、コマーシャルの末尾で、「詳しくは、ネットで検索」という技法が頻出している。検索エンジンで当該商品が筆頭にくるように、広告代理店がなんらかの作業・操作をしていることは想像に難くない…。
2006年12月27日
テレビの時代は変質を遂げてきたと前回のエントリーで指摘してきた。テレビに限らず、マスディストリビューションの時代は終わりを告げた。思えば、フラフープ、ダッコちゃんもマスディストリビューションだった。勿論、最近でも、たまごっちやアサヒスーパードライのようなマスディストリビューションのような大ヒット商品は生まれている。だが、基本的な流れは、大衆から分衆であり、多品種少量生産である。その流れの中で、不良在庫を残さないことが企業の利益を左右することが決定的になり、企業もユーザー重視の運営にならざるをえない状況が強まってきた。だが、寡占業界では、そのような顧客志向の経営がなされることはなく、日本プロ野球は陳腐化し、ナベツネ巨人軍オーナーの専横を招き、乳製品業界の雄であった雪印は崩壊した。☆私が口コミといっているのは、どこまでも自由な議論ということです。戦時中は日本が負けることや反戦を訴えることは禁じられるのは勿論、息子が戦死したことも栄誉であると受け止めなければならなかった。それはパブリックな空間では当然のことであったかもしれないが、息子の死を母親が栄誉であると受け止めることなど、所詮無理であり、そのような感情が口コミの世界では否応もなく流布していたことは想像に難くない。木下恵介監督は、戦時下の映画「陸軍」において、息子の出征行進において、息子を必死に探し続ける母(田中絹代)を執拗に描き、そのような母の振る舞いは、軍国日本の母の姿としてふさわしくないと、陸軍関係者から非難を受けたそうです。国策映画では批判される心の有様ではあっても、それがプライベートなコミュニケーションでは当然のことであった。否、リアルな世界では当然の母のふるまいだから、リアリスト・木下恵介はそのようなシナリオを編み、演出を行ったのです。☆今年の4月。私は、内山幸樹氏のブログに書き込んだから、まだ、Viral Marketである女子大生ブログの案件もしならなかったし、募金夫婦のことも知らなかった。 彼は、当時も、そして今も、ブログのビジネス展開について、薔薇色の未来を語っている。当時のコメントを探したが見つからないので、記憶をたどって書くと次のようになる。IT業者たちは、顧客企業がブログをプロモーションとして活用することをすすめている。しかし、ブログにおいて、企業に不利益な情報を禁止するならば、それは真の意味でブログとはいえない。ブログで展開された顧客の意見を商品に生かすことが喧伝されるが、正当な意見・合理的な意見であっても、企業の個別の事情からそれを実現できないならば、顧客離れを起こし、結果として、企業になってマイナスになる。ならば、時をへて、企業ブログは衰退するし、企業ホームページに書きこみ欄がなくなる時代に逆戻りするに違いない。具体的には、ユニクロのようなカリスマがいて、柔軟に経営企画さえも転換できるような企業では、ブログによる顧客の意見をフィードバックできるが、官僚的な運営がなされる企業では、ブログからの顧客の意見をフィードバックすることなどできるはずはなく、顧客の意見が合理性を含み・正当なものであればあるほど、ブログから排除される。そして、商用ブログは、そのような構造をカモフラージュするために、スパムや誹謗中傷という概念を引合に出し、自由な言論の場でないブログのコメント欄の状況を自己肯定化する…。梅田望夫氏、歌田明宏、ガ島氏。そして、オーマイニュース日本版・開店準備ブログにおいて、私は失礼にならぬように最善をつくしてコメントをしてきた。だが、私の最善の配慮にも関わらず、一切のコミュニケーションは成立しなかった。その状況は、上記の私の分析の正しさを証明してくれている。ここで重要なことは、私がコンタクトを試みた人たち・組織がウェブ2.0のプロモーターであり、コミュニケーションを否定しないことを喧伝する人たちだということだ。彼らに限らず、マスコミのネット批判の多くは、乱暴な言説や誹謗中傷な言説に向かっている。また、匿名者に対する批判もある。だが、それは真実の姿ではない。それらはステークホルダーと優位性を守るために腐心する自分を明らかにせぬために、代理戦争を目論み、純粋律を利用しているに過ぎない。ネット上の諸賢は、そのようなものに騙されてはいけないし、P2Pの時代になれば、そのような者たちのたくらみも無力化するに違いない。礼をつくし、語句を選びコミュニケーションをする実名の私が、オーマイニュース日本版のコメント欄に記入ができぬ。…それがすべてを証明している。☆では、口コミなど成立しない。と、私が述べようとしているのかといえば、そうではない。オフィシャル・コミュニケーションとは別に、プライベート・コミュニケーションがある。そして、もうひとつの別のアンダーグラウンド・コミュニケーションがある。個は、いくつかのコミュニケーションのフェイズを持ち、それぞれのコミュニケーションフェイズで異なる発言をしたとしても許される。バイラルな商業ブログが問題になっているのは、それがオフィシャルコミュニケーションでしかないのに、プライベートコミュニケーションの装っているからである。☆ガ島氏は、口コミの本において、「嘘をつかぬこと」「正直」を強調されている。勿論、それらはコミュニケーションにおいて、大切なことは理解できる。だが、嘘をつかぬこと。正直であることに価値はない。その理由は重要度の勘案かないからだ。嘘をついていない正直な発信だとしても、それが発信者にとって重要度が企業の資金援助によって水増しされたものであれば、それはバイラルである。Googleで村八分が発生したように、重要度が低い情報をあたかも重要度が高いように小細工することは社会悪である。☆口コミの定義について書き連ねたが、簡単にいえば、アンオフィシャルコミュニケーションということである。その言論空間では、匿名での発言も自作自演もステークホルダーの発言も存在する。その空間では、ゲームの理論の実践の場であり、キューブラロスの受容段階説が機能する。人の噂も75日というが、75日経つと噂がなくなるのではない。75日経つとゲームは終結し、定説・伝説ができあがるのだ。私が学生のときに流行ったフランスの記号論をあえていうなら、言語は、リアルな世界を保証しない。あくまでも引き裂かれたままなのだ。☆さて、そのような口コミがリンケージを組んだのが、今回のテレビ+口コミの時代である。このような時代があったのかは分からないが、ウェブの登場以前の、「メディアが自己批判することで批判を抑えていた時代」といっていい。テレビ各局は、不祥事が起きると自己批判反省番組をつくってきた。やらせ演出などが殆どだが、それらの殆どが、組織的な陰謀を未熟な新人や下請け会社の仕業に仕立てあげたり、論をすりかえることを専らにしていた。それが可能であったのは、図で分かるように、口コミでのリンケージはあるが、口コミネットワークがメディアに向かってリンケージが貼られていないことである。
2006年12月27日
トリルさんから、村上龍のJMMというメイルマガジンの冷泉彰彦(米国在住作家)の「『from 911/USAレポート』第283回 「ウェブ2.0という公共空間」を読むといいですよ。とのコメントが来た。メイルマガジンに登録したが、読めなかったことを吐露したら、トリルさんが送ってくれた。まさにクリスマスプレゼントであるトリルさんありがとう。メイルマガジンを読んで、私はトリル氏につぎのような返信をした。事実としては面白いけど、この人、ネットを分かっていないね。 ネットの目的は、合意形成ではない。 選択肢の整理と、実現可能性のある選択肢の限定的な試行だ。 そのムーブメントは、○○特区などというかたちで政府もやろうとしている。トリル氏のメイルには、この文章を書いた冷泉彰彦氏への批判になってしまっているが冷泉氏は、アメリカのジャーナリズムの論調をなぞったにすぎない。そこで私は、アメリカのジャーナリズムの浅薄さを指摘する。☆浅薄さの源泉は、インターネットがバーチャルリアリティーであることを、それをつくったアメリカが忘れてしまったということだ。インターネットは、リアルな現実と繋がっているとしても、あくまでアルタードステーツ(異空間)に過ぎない。メイル・コミュニケーションはリアルそのものだが、WEBは違う。エージェント・スミスが巣食うような「マトリックス」な異空間なのだ。何故、そんなことを言うかといえば、インターネットの世界の言論空間における論争に規制をかけようというムーブメントが日米に共通してあることだ。だが、それは、「ストリートファイター」に警官が出てきてケンカを止めたり、「バイオハザード」に悪魔払いがでてきて、「信長の野望」に黒船が出てくくようなものである。バーチャルであるからこそ、ネット上の議論に意味があり、それをリアルの場の議論のオルタナティブにしてはならぬ。ネットの議論には、ネットの議論ならではのルールがあってしかるべき。リアル空間の議論のルールをそのまま持ち込んではならぬ…。ツーことだ。ネットが、リアル空間と同じく言論統制を加えられるなら、もうひとつのアルタードステーツが必要になる。そんな感じ。☆エリザベス・キューブラロス女史は、死の段階受容説を展開している。ターミナルケアの専門家であった彼女は、死の宣告というぎりぎりの場において、人間の心は、「驚愕→怒り→悲しみ→取引→受容」と動いていくと分析している。私は、これは死の宣告に限らず、情報を受容したときのすべてにいえるものだと感じている。☆たとえば、奈良県南部の総合病院の産科医療を全滅させた毎日新聞奈良支局のケースがある。まず、テレビで情報に接し、分娩を担当した医療チームの悪性に怒り、救急医療を断りつづけた地域医療の各病院の悪性を呪い、夫である遺族の感情に心を寄せた。だが、そのニュースをもとに、インターネットで情報をたどっていくと、担当医療チームも苦渋の選択をしたに過ぎず、地域医療の面々も身動きがとれなかったことが分かってくる。ここにおいて、センセーショナルなニュースにたいして、驚くとともに怒っていた自分に理性が取り戻されていく。その過程は、キューブラロスがいうところの「驚愕→怒り→悲しみ→取引→受容」の流れである。アメリカのYouTubeや日本の2ちゃんねるで行われている議論・論争の多くは、「驚愕→怒り」のフェイズにとどまっている。メイルマガジンでは、権力者が集団の無秩序に任せることを怖れて統制主義に陥っていると指摘しているが、それは浅薄な考えで、実際には、「情報の受容段階の前半できりあげることにより、自らの発言権の保持を企んでいる」に過ぎない。キューブラロス女史の言う、真の情報の受容までたどりついたところから論を始めれば、言論における摩擦の殆どは解消するに違いない。☆ライブドアPJは、植草教授のインタビューを連載することで、彼の無実の主張・言論を野放しにした。一方、オーマイニュース日本版は、募金夫婦に関する批判記事に賞を与えることで、2ちゃんねらーに対抗する立場を明確にした。だが、どうだろうか。3ヶ月以上の時を経て、「植草教授が刑事犯であること」「募金夫婦の行為がアンフェアであること」は世の中の意見として確定しているのではないか。もちろん、だからといって、植草教授のインタビューを載せることが否定されるわけではないし、「死ぬ死ぬ詐欺サイト」が肯定されるものではない。だが、インタビュー記事も死ぬ死ぬ指摘サイトも、アルタードステーツだから、どうでもいいのである。重要なことは、リアルな空間において、「教授が潔白でないこと「募金夫婦が褒められた行動をしていないこと」が情報共有されことなのだから…。【ネット言論の特異性】1. ネットにおける公共空間は、あくまでプルなく言論空間でしかない。(2ちゃんねるのヒロユキ君の言説で明らか)2. ならば、亜・公共空間として定義することでのみ、その場はサンクチュアリ(聖域)という楽園になる。3. ネットでの議論は、合意を求めて行われるのではない。各々の言論が対照されることにより、価値観を吟味する場である。4. 価値観は多様であり、本質的な価値とエンタメ的な価値があり、それらが乖離しているのは言うまでもない。ネットはバーチャルであり、メイルはリアル。そのことに気がついているネット者が何人いるのだろうか…。
2006年12月25日
年末年始企画ということで、私のコミュ論を展開する。何故、コミュ論としたかといえば、コミュニケーション論であり、コミュニティー論だからである。何故論じるかといえば、「ウサギ小屋の日本に、アメリカの電気製品を持ってきても支障がある」ことを、エバンジェリックなネット関係者が頑固として論じないからである。2DKの団地の部屋にシアーズの大型冷蔵庫が不似合いなように、麻布のインターナショナルマーケットで売っている肉の塊が日本の家庭にはtoo muchであるように、始めて輸入されてから40年ほど経ってもいまだに日本人が朝食にシリアルを食べていないように、アメリカ発のインターネット・サービスのほとんどは、日本のためにローカライズしなければならない。しかし、日本を論じるとき、右翼的な選民感と左翼的な被虐感が交差して、なかなか客観的に自らを振り返ることができない。そこで、私は、日本をひとつのコミュニティーとして扱い、その特徴を構成員の同質性の高さとして論じることにする。対極にあるのは、構成員の同質性の低いアメリカ。一方の日本は、人種・宗教・文化・経済格差など、同質性が格段に高い。だが、同質性が高いことが必ずしもハッピーではないことは、我々日本人は知っている。アメリカというは、そのような多様性を孕みつつもひとつの国として成立している。そこが偉大であり、不思議である。日本には、文化的同質性とは別に、統合の象徴・国民の象徴がいる。それは、文化的同質性が高いにも関わらず求心力が希薄な、特定東アジアよりも、ハッピーな状況であるともいえる。☆第一回のエントリーは、「スモールワールド・コミュニティー」である。これは原始共産主義の理想的社会といっていいだろう。家族というクラスター(葡萄の房状のコミュニティー)があり、それらが近隣家族とつながっている。とはいえ、婚姻や就職など、近隣家族とだけつながっていないコミュニケーションもある。図は、マーク・ブキャナン氏が書かれたものを、スポンタが書き起こしたものである。11月に池田先生にお会いしたときに、この実験は成功しなかった旨を知らされたが、概念的な価値は変わらないと思っている。☆このコミュニティーのモデルが理想的なのは、一切の外がないことである。実際には、スモールワールドの中にスモールワールドができる。このコミュニティーの部分集合であるスモールスモールワールドにとって、このスモールワールドは外になる。そういう状況の悲劇的な結果が、村八分ということだろう。また、スモールワールドの外にも、もうひとつ別のコミュニティーがあるに違いない。そのようなものを捨象しているのが、この「スモールワールド・コミュニティー」のお気楽・極楽なところ。だが、インターネットの理想が、そのようなお気楽・極楽なモデルを志向しているならば、いま起こっている問題・これから起こる問題に対処できないのは当然である。私の言説は読者の思考をなんら強制するものではない。この図説を元に、イメージを膨らませていただければ本望である。そこで、偉そうな物言いになるが、宮本武蔵「五輪の書」の結語を持って、エントリーを終了する。「よくよく吟味するように…」。
2006年12月23日
2006年の総括をしたい。2006年がどういう年だったかといえば、一部の知恵者が未来を語るのではなく、かなりの人が無意識に時代のターニングポイントにいることを感じる年だったと思う。何がターニングポイントを迎えているかといえば、次のようになる。メディアの時代 → P2Pコンピューター・ネットワーク技術用語にすぎなかったP2Pという概念が、社会に拡大していく。いままでは、メディアというカテドラル型(教会の伽藍の中で、牧師が信徒に説教する)もしくはバザール型(市場には、直売者と中間業者と小売業者と仕入者と一般消費者が混在し、個別に商談を成立させている。)のコミュニケーションだったが、情報交換は特別な場所でのみ行われるのではないことに、多くの人たちが気づき始めた。メディアと言う情報交換の場が特権的に存在した時代が終焉するのだ。東京財団で行われた研究会で、「メディアの時代からP2Pの時代に向かっている」ことを指摘したが、歌川先生や参加メンバーから、大きな疑問や反論はなかったと記憶している。☆コミュニケーションの時代 → アイデンティティー・オリジナリティー・パーソナリティーの時代いま三次元CGの仕事をしている。多角形の頂点をバーテックス。頂点と頂点を結ぶ線分をエッジと呼ぶ。バーテックスを個とすれば、エッジはコミュニケーションに喩えられると思う。個が多数あり、それぞれがコミュニケーションをとるならば、エッジはフェイス・面になる。かねてから指摘しているように、「コピイ&ペイストが日常のウェブでは、他人の中に自分の言説を見つけることに価値はない」。ならば、「差分のない個同士のコミュニケーションに価値はない」。座標が同じ個の間に、線分が出来ないのは当然である。ゆえに、コミュニケーションは、・「コミュニティー構成員であることの確認作業」・「情報交換」という二つの概念に分かれることになる。何故、JANJAN、ライブドアPJ、オーマイニュース日本版が、何故「実名」にこだわっているかといえば、「固有名詞を失ったとき、情報の価値がなくなる」からである。「固有名詞を失うと価値を失う情報」はゴシップ。税制会長は、ゴシップによって辞任させられた。池田先生が憂慮されるのは当然のことである。☆受動的知性(Passive Intelligence)が重用される時代 → 能動的知性(Active Intelligence)が求められる時代ノーベル賞を主唱した小柴教授は、日本の教育では「受動的学力」が重視されるが、社会人になると「能動的学力」が重視されるので、学生時代に低迷していた人も、人生に絶望してはいけないと述べている。彼が東大をビリで卒業したことかたとえ事実だとしても、受動的学力がなかったことにはならぬが、彼の言葉は真実だろう。ただし、社会とは自由な社会であり、官僚的な組織・集団ではないことは特記しておかなければならぬ…。☆生産者・労働者の時代 → 消費者の時代ベルリンの壁が崩壊したが、社会主義の理想が瓦解したのではない。だから、残り火のように、日本の社会党は社民党と名前をかえて、社会民主主義を標榜している。具体的な政策まで落とし込むと、新自由主義(原理主義)と社会民主主義(統制主義)の違いはあまりないのかもしれぬ。ただ、社会民主主義が根本的に、「市民を労働者としてイメージしていること」がアンシャンレジームである。一方の新自由主義は、「市民を企業家としてイメージしている」のかもしれない。☆弥生文化から縄文文化へ古代史家の関裕二氏は、弥生人の文化を批判している。批判する理由は、弥生人たちが、耕作によって自然を支配しようとしたからである。有限な自然を保持したまま、自分たちのコミュニティーを存続していこうとする縄文文化は、地球の有限性に気づかざるをえない2006年の人類のリファレンスとして重要である。労働者も企業家も根本的に弥生的文化の延長にある。弥生文化とは、「働けば、収入は増えるし、儲けることは善」という規範を持つ文化である。縄文文化とは、「有限の資源を減らさぬようにしながら、自分たちも生かしていく」文化である。今年は、南の島の子猫殺し作家の話題があった。日本のヒューマニズムは作家の行動を批判したが、彼女の行動は「間引き」に過ぎない。ヒューマニズムは弥生文化的思想であり、間引きは縄文文化的な現実主義の所作である。ヒューマニズムだけで生きていければそれはハッピーなことだが、そんなことは土台無理。そのことは、マンガ「巨人の星」の主人公、星飛雄馬の苦闘をイメージすれば分かりやすい。原作者の飛雄馬が、天かけるペガサスをメタファーに名づけられたのではない。間違って理解してもらっては困る。消費者の時代とは、「貪る時代」ではない。消費者が、「生産者が自然という有限リソースを貪ること」を制止する時代である。☆個にクリエイティビティーが求められる傾向は強まるが、それは、個が発信する時代ではない。小柴先生が言う「能動的知力の時代」を求める時代のムーブメントに追い風を受けて、「一億三千万・総発信の時代」になるとするエバンジェリストがいる。今年のベストセラーになった「ウェブ進化論」を書いた梅田望夫氏はその筆頭だろう。だが、それは妄言である。DTP(パソコンで出版物がつくれる)の時代になったが、パソコン者が出版物をつくるようになったのだろうか。DTV(パソコンで映画がつくれる)が登場したが、ごく普通の人が映画をつくって発表するようになったのだろうか。…そんなことはない。小柴先生は、生産現場・労働現場における「能動的知力」の重要性が高まることを指摘したに過ぎない。私はすでに、「これからの時代は、レストランで運ばれた料理が腐っているのかどうかを見分けられる能力が求められるのではなく、自分が何を食べたいかを言う能力・度胸か求められる時代である」と指摘している。☆昨日、娘が一人でヘアカットに行った。カミサンは、小学校6年生になって始めて一人でカットハウスにいけるようになったと言って、感慨ひとしおである。カミサンは、やってもらう髪型の絵を描いている。私は、娘に向かって、「アユのようにやって。って言えばいいじゃない」とオチョクル。カミサンはノリカのようなスタイルがいいという。ショート過ぎず、首もとでシャギーが入っている感じである。とはいえ、娘は、「ノリカのようにしてください」とは、恥ずかしくていえないようである。そこで、私は、「だめんずウォーカーのマンガを持っていったらどう?」結局、カミサンが「だめんず…」のキャラクターをプリントアウトして、娘は自転車でカットハウスへ行った。結果はどうかといえば、娘が「結びたい」と言ってしまったばっかりに、ノリカよりも少し長めのスタイルになってしまった。娘は、できあがった髪型に「ノン」と言えなかったのかもしれぬ。それが、全体のバランスを崩して裾だけが短くなる髪型よりもましという彼女の判断ならばいいが、できあがったものに修正を要求する勇気がなかったために、そのままにしたというのでは情けない。それは、きわめて日本人的所作であり、これからの自体を生き抜く女性に求められる資質ではないと考える。☆IT技術が進歩していけば、腐った料理が運ばれることはなくなる。そこで求められるのは、「受動的発信力」である。受動的知力の時代 → ×:能動的知力の時代 → ○:受動的発信力の時代
2006年12月22日
池田信夫先生のブログにコメントした。【エントリー後追記】本エントリーは、MP3ブレイヤーの名称につき、mpegプレイヤーと私が誤記していたことを、コメント者から指摘され訂正しました。そのご指摘から、私が何のために、このエントリーを挙げたのか明確にすることができました。このエントリーの本意は次のよう。情報が高品質化することによって、メディアの価値を高めるフェイズとともに、情報が低品質化することによって価値が高まるメディアもある。【本文】佐々木さんのアンシャンなセンセーショナリスム。 (スポンタ) 2006-12-17 04:49:06 ネットとリアルが衝突するという概念は、ネットを既存メディアのオルタナティブとするもので、2006年冬はすでにそういう時代は終わっている。それでは、ネットが既存メディアを呑み込んでしまったのかといえば、それも間違いで、最初からP2Pの中のひとつの領域としてメディアコミュニケーションがあったことに我々が気がついていなかったに過ぎない。コンテンツに関しても同様である。Winneyなどというが、そもそもMP3が劣化コピイのフォーマットであることを思い出して欲しい。劣化コピイであることを言い訳にして、CD購入者に配慮しながら、音楽出版会社はネットビジネスに参入した経緯を忘れてはならない。そもそも、ネットとリアルは衝突などしていない。ネットの劣化コピイコンテンツにふれることにより、音楽シーン全体は活性化しているはずだ。たしかに、タワーレコードがつぶれたり、さまざまなことは起こるが、それは局所的なバブリー&アンシャンなシステムが崩壊するに過ぎない。>>「お上の圧力で規制するというのも一つの手ですが、技術的に可能であれば誰かがこの壁に穴あけてしまって後ろに戻れなくなるはず。最終的には崩れるだけで、将来的には今とは別の著作権の概念が必要になると思います。」との引用文があるが、「新しい酒は新しい皮袋に」という諺と同様に、今とは別の著作権の概念が収まるもうひとつ別のウェブが誕生する日は近いだろう。ネットが教えてくれたことは、世の中は必ずしも有限のパイを争っているのではないということだ。既存のネットが規制でがんじがらめになるなら、新しいネットをつくればいいのである。いまの著作権の概念はストックを基本として考えている。これをフローとして考えればいい。オンデマンド放送でミュージックビデオを見たからといって、個別にPPVにはならぬのである。ブランケットで著作権者への見返りがあり、それが広告によって補填されるならば、十分に無料で成立するデータ空間が想定できる。MP3プレイヤーが登場した当時は、違法ではないかと、マスコミは喧伝していたし、IT関係者の見方も冷ややかだった。それが社会的に認知され、合法とされるようになり、それを音楽関係者たちがビジネスに仕上げるのに、10年かかっていない。同様なことが、音楽において起きるだろうし、それが突破口として、もうひとつ別のウェブが誕生するのかもしれない。インターネット言論は、アメリカの大学たちの論文共有からはじまったフォーマットだ。次は、音楽ソフトのライナーノーツからはじまるフォーマットなのかもしれない。
2006年12月18日
2006年を総括すれば、「メディアの時代からP2Pの時代へ…」と変わることを実感させてくれたターニングポイントな年だった。その理由は、2ちゃんねる情報がマスコミ(テレビ・新聞・雑誌)に伝播することが飛躍的に増えたことにつきる。となる。だが、ネットを言論する多くの人たちがそのことに言及していない。P2Pといえば、Winneyのことであって、自然増殖をしつづける匿名掲示板のことではない。その状況に憂慮する私は、アンケートを実施する。私の意見に賛成な人も、反対の人も、ぜひとも記入して、コメント欄に書き込んで欲しい。【ネット者向けアンケート】1. 2006年冬が、情報インフレの時代だと思いますか?Yes or No 2. 情報インフレの時代のあとに、情報デフレの時代がくると思いますか? Yes or No 3. そのときに個が生き抜くためのスキルは何ですか?4. 情報のコモディティー(日用品)化の時代がくると思いますか? それはどんな世の中ですか?Yes or No 5. ITスキルが上がれば、すべての人が情報を発信するようになると思いますか? Yes or No 設問が恣意的なのは分かっています。このアンケートがエバンジェリストかどうかの踏み絵にもなることを承知しています。とはいえ、設問の不備も含めて、多くのみなさんに書き込んでもらえると嬉しいです。すくなくとも、けろやんさん、トリルさんにとっては踏み絵としての意味はないから、ぜひとも書き込んでもらえると嬉しいです。☆インターネットのインテグレートの不備、オーソライズの不備について論じてきたが、それらの機能をするものがまったくないというのではない。WikiPediaはインテグレート機能があるし、2ちゃんねるネタをマスコミが取り上げる現状は、2ちゃんねるがオーソライズ機能を果たしていることになる。とはいえ、それらがすべての情報について成立しているかといえば、そうではない。首相官邸の行うタウンミーティングのやらせ問題が発覚したが、エスタブリッシュが自己都合の言論だけを優遇するムーブメントは変わらないようだ。しかし、自己都合の言論だけしか認めない行動指針は、自己都合の言論と心中することだ。政治家がイデオロギーと心中することの非利益を、彼らが感じる時代は早晩やってくるに違いない。野田聖子氏の蹉跌、平沼議員の男気。それらが日本の政治に何をなしたかといえば、マイナスばかりで、ゴシップでしかないと言わざるを得ない。☆何故、政策論争が行われているか考えて欲しい。政策論争が行われているのは、人的・予算的に圧倒的なスケールを誇る政府の政策が、野党の限られたリソースでつくられた政策よりも優れている可能性が高く、勝ち目があると与党が感じているからである。もし、与党が勝ち目がないと考えれば、政策論争などせず、相手の愛人問題や金銭問題を追及する。ご子息の芸術家に関連して、石原都知事を共産党が糾弾しているのは、その種の行動である。それでも尚、何故、民主党がマニュフェストなどといって政策論争を挑んでいるかといえば、寄り合い所帯のため、政策以外に求心力の源泉を見つけられないからである。☆ゲームの理論は正しいが、勝ち負けの分かったゲームは始まらないし、負けがはっきりしたとき、ゲームは途中で投げ出される。池田先生が推薦する「行動経済学」は、感情の経済への関与を指摘しているというが、私は感情の問題ではなく、打算の問題だと思っている。もし、感情の問題があるとしても、それは嫉妬ではないか…。とはいえ、嫉妬と打算が対立した場合は、打算が勝利すると思われる。ハーバーマスの言説に納得かいかないのも、いかなるコミュニティーといえども、完璧に意思統一ができるわけではないからだ。意思統一ができていたと考えられるコミュニティーにしても、それは結果であって、コミュニティーは動的であり、つねにゲームの途中であると考えている。
2006年12月18日
池田先生のブログに、貞子ちゃんがコメントを寄せていた。かなり昔、彼女のブログに私のブログのエントリーが掲載されたのを思いだした。いま、読み返してみても、当時と今と、私の意見にブレはあまりないことが確認できる。ストレージが増えても、意外に考えていることは変わらないということか…。☆BigBangさんにつらなるブログ界隈では、ジャーナリズム、ブログ、ネットジャーナリズムについて、話題になっている。私が考える認識とまったく異なる次元なので、私が加わる余地はない。何が違うのかわかってもらえるためには、「幻想の市民参加型ジャーナリズム」を読んでもらうのが一番である。そして、もっと端的に知りたければこのエントリーを読むことをお勧めする。☆【ジャーナリズムにおける確認事項】1. ジャーナリズムは、世論形成のためのツールである。2. 代議制民主主義は選挙によって運営されていくが、選挙には費用がかかり、常時行うことはできない。その不備を補完し、民主政治をあるべき方向に導くのが世論である。3. ジャーナリストとメディア人は等価ではない。その理由は、メディアは商業メディアである以上、自社の利益や情報提供者の利害と無関係でいられないからだ。注:報道とジャーナリズムは異なる概念である。4. 情報ツールが乏しかった時代は、メディア人が一般大衆の意見を代弁することで世論をつくることができた。だが、情報ツールが豊富な今は、メディア人が一般大衆を語ることは許されない。そして、いままで、一般大衆の意見とは乖離した世論形成をおこなってきたことが明らかになってきた。5. ニュースとは報道であり、知らせること。ジャーナリズムとは世論を生み出すこと。だが、ジャーナリストは自分がニュースになってはならない。あくまでもニュースを取材し、世論に導くのがジャーナリストの仕事である。6. ジャーナリストたちがブログを書くのは、自分がニュースになりたいという思惑からである。そして、いままで本業で語ってきた世論が実は大衆と乖離していたことが暴露されるのが、ジャーナリストブログの炎上である。7. インターネットの掟のひとつは、「切実でない物は語ってはならぬ」、「切実でない者に発言権はない」である。だから、ボクシングを論じる上村愛子のブログは炎上する。天皇制を揶揄する乙武氏のブログは炎上する。7. 世の中の言論をなぞっていたのでは、世論を生み出すことにはならぬ。だから、差分のない言論をするマスコミ者はジャーナリストではない。炎上するようなブログを書くマスコミ者も世論形成の逆を行くのだから、本来の意味でのジャーナリストではない。そもそも差分のない情報を露出するブロガーは、情報発信者ですらない。単なるコミュニケーターだ。コミュニケーションの本意は、ワハハ本舗がやる「揉みにケーション」と同じ。同一コミュニティーにいることを確認する行為で、セックスの前技とは根本的に異なる。柴田理恵嬢は、「やってみれば分かる。いやらしくもなんともない」と断言するが、私には理解できる。「揉みにケーション」をやることで、コミュニケーションの本質が分かるのである。情報をやりとりをするのがコミュニケーションではない。お互いをくすぐりあうのがコミュニケーションなのだ。8. では、ネット空間にジャーナリズムは存在しえないのかといえばそうではない。それは、私が提出する平成目安箱におけるインテグレート空間である。ローデータのカオスであるブログスフィアがグランドスフィアとして存在し、それをサマライズする空間があり、それをインテグレートする空間ある。グランドスフィアの上位巷間がジャーナリズム空間といえるだろう。インテグレートされた情報は何らかの権威によりオーソライズされ、世論を形成し、リアルな空間(政治)に影響力を行使する。そこまで視野に入れなければ、ジャーナリズムなどという語を軽々しく使ってはならぬと感じている。☆いまはただ、インテグレートもオーソライズも存在しない。だが、既存のジャーナリズムが商業メディアでしかなかったように、ネットジャーナリズムも個人メディアでしかない。ならば、別に忌々しく思うようなことでもないのかもしれぬ…。だが、松坂大輔投手のように、夢を夢とせず、目標として、その到来を信じていれば、あるべき時代はやってくる。松坂大輔氏はニーチェと同じことを言っている。信じるに値するのだ。けろやん氏のブログが、R-30氏と私を対照している。だが、私は価値を見出せなかったので、思わす、謎めいたコメントをしてしまったので反省している。端的にいえば、こうなる。・私はコメント欄に関わらず、ディベートを好まない。(真理谷円四郎的議論)…非ディベイター・過去の自分の言説に捉われない。(自説のステークホルダーになることを嫌う)…非プロ市民・自己肯定感を減少させることが、ブログの炎上を避ける一番の手立てだと思っている。…今村映画への憧れ。・反論ではなく対案。対案をとばしてアウフヘーベンされた結論を提出することを目指す。…不毛な議論を嫌う。興味をもってくれただけで、けろやん氏に感謝していればいいのかもしれぬが、私の本質を理解していただけるかもしれぬと思い、蛇足ながらまとめることにした。お許し願いたい。
2006年12月16日
BigBangさんのところで、懇親会がはじまったようだ。和やかな感じで、korodonさん。BigBangさんが交流されている。BigBangさんは、私に興味を示されているとのこと。光栄の至りであるが、BigBangさんの心中はなかなか分かりかねるところがある。その理由は、明確に書いているつもりなのに、そのことに一向にお答えにならないからである。とはいえ、私はBigBangさんを責めるつもりはない。何故なら、それはBigBangさんに限らないから…。☆梅田さん、佐々木さん、歌田さん…。そして、あまたのITエバンジェリストたち…。彼らは、一切私の言説に反応してこなかった。だが、私のアンケートにはぜひとも答えて欲しい。とはいえ私の言説の重要度が低いから、今回も何らのコメントはされぬだろう。たしかに、矛盾がないからといって、その事象の真正性が証明されたことにはならぬ。だが、ケアレスミスや事実誤認は指摘されるのに、本論については、ただのひとつも否定されぬなら、肯定されていると、私が勘違いしても無理からぬことだろう。シナリオ鉄則に、「プロデューサーやディレクターが文句を言わなかったところを決して修正してはならぬ」というのがある。私も、その掟に従って生きている。☆アンケートの項目は次のようになる。【ネット者向けアンケート】1. 2006年冬が、情報インフレの時代だと思いますか? ※ スポンタは、情報バブルとまではいいません。2. 情報インフレの時代のあとに、情報デフレの時代がくると思いますか? そのときに個が生き抜くためのスキルは何ですか?3. 情報のコモディティー(日用品)化の時代がくると思いますか? それはどんな世の中ですか?4. ITスキルが上がれば、すべての人が情報を発信するようになると思いますか? ※スポンタは、能動的ネット者は受動的ネット者の1/10程度であると感じている…。5. インターネットの将来をたとえて、「レストランで料理が腐っているかどうかを見極める能力を客が求められる時代は終わり、自分が何を食べたいかはっきりと言う能力・度胸が求められる時代がやってくる」というスポンタの意見を同意しますか? 反論するならば、その理由を教えてください。もし、興味があれば、コメント欄でアンケートにお答えいただけると嬉しいです。☆梅田氏のように、オプティミズムの一言で、議論を拒絶してしまうことを、私はしたくない。かつて、娘の小学校の校庭で、児童館について真剣に問題を話したときに、地域活動をする女性から、「暗く考えちゃだめよ」と言われ、癇癪球を破裂させたことがある。その噂は、地域社会で広がり、私は周囲から煙たがられて見られるようになった。そのことを通じて私は、何故、横丁の雷オヤジがいなくなった理由を知ることができた。「真剣に物事を考えることが、暗いと表現される」ことと、梅田氏が論をはじめる前に自らを「オプティミズムと自己批判してしまう」ことは等価。それは、中年女性たちが、言いたい限りの主張をしておきながら、「私はおばさんだから…」と、半身引いている姿勢とよく似ている…。☆私は、ペシミストではありません。フランスの哲学者・アランの言葉、「悲観主義は感情のものであり、楽観主義は意志のものである」を座右の銘としています。しかし、楽観主義にはふたつのタイプがある。あるべき理想のために努力する現在。そして、もうひとつは、辛い現実に対峙しないためにつくられた仮想空間としての楽観世界。現実に基づかぬ楽観主義は、卓球の福原愛氏が嫌悪する概念「根拠のない自信」のようなものでしょう。マーケットなら、根拠のない自信でも、株価は上がる。売り抜けることだけ考えれば、根拠があろうがなかろうが気にしなくていい。でも、長期的に考えれば、そういう構造はどこかで破裂する。梅田氏や多くのITエバンジェリストたちがやっていることは、そういう問題に連なっている。そして、「根拠のない自信」ならまだしも、彼らは「自信のない根拠」を語っているだけではないのか…。と、感じている。彼らが提唱する、「永遠の情報インフレという世界…」。それに自信があるなら、堂々と私の言説に関与してくればいい。だが、それがないから、私としても、同じことを書き続けるしかない。☆私はペシミストではありません。楽観主義者です。だから、「穏やかな情報インフレの時代を永遠に続けたい」と思っています。そのためには、現在の過度の情報インフレの状態を是正しなければならない。そして、情報インフレの先に来る情報デフレの時代にそなえなければならない。/font>それは、バブルのときに土地を買い占めるのではなく、本業に投資しておくのと同様の施策が求められることをイメージすれば分かりやすいでしょう。いま、情報&ITインフレの時代だから、個は何を習得しておくべきかといえば、昨日のエントリーで示したような、情報を捨てる能力を養うことです。情報がコモディティー化するなら、何をすべきか。発信する人になるべきかならざるべきか。「自分たちがやっていることはバブルに過ぎないから、お金があるうちにテレビ局を買っておこう」という、ホリエモンに見習うべきだと思うのです。追記:図説を1/6にすべきだと書いたのは、CM、ディスカッション、ディベート、バイラルマーケッティング、洗脳、啓蒙(教育)の六項目をそれぞれひとつづつ説明すべきだったという意味です。何故、そのような形になったかといえば、M氏・四人組に関連して、洗脳を説明したかったのですが、洗脳を指弾することが、別の価値観を洗脳してしまうという矛盾から逃れたかったからです。天然という概念は、養殖という概念があると、理解できる。そもそも、養殖がない時代には天然という言葉さえなかった。それは、洋食というのが登場する前は、和食という言葉がなかったことからも明らかである。互いにリファレンスさせることで見えてくるものがある。☆デジャ研は、オルタナティブ・ジャーナリズムまたは、オルタナティブ・メディアという数年前の概念をひきづっているから問題視しているのです。インターネットがオルタナティブメディアではなく、P2Pメディアであり、P2Pメディアのひとつとしてマスディストリビューションや商用コミュニケーションがあるのです。☆小飼さんのブログは私にも読めません。それは、私がエンジニアではないからかもしれませんが、それだけでもないような気がしています。☆私がステークホルダーを語りつづけるのは、「あの人が悪いんじゃないよ。ステークホルダーが悪いんだよ」と気づいて欲しいからです。10年ほど前の私は、「あの人が悪いんじゃないよ。血液型がそうさせているんだよ」と、論じていたのかもしれません。いまは、オーラの泉を見ながら、「あの人が悪いんじゃない。彼の因縁がそうさせているんだし、その宿業と彼は戦っているんだよ」と論じている…。勿論、私のそんなストーリーは、犯罪に手を染めた息子を評して、「息子が悪いんじゃない。友達が悪いのだ」とわめく母親のような、利己的な言説でしかないのかもしれません。でも、そのような合理化によって、自分の心の中に悪人をつくらないですむならば、私の心の平衡状態を保つために、こんなに幸せなことはない。…そう、思っているのです。梅田氏は勿論、M氏、四人組さんたち…。彼らに対して、私がそんな思いでいることをご理解いただけると嬉しい。…そして、こここそが、BigBangさんに私のことを理解できない最大の理由ではないかと思ってもいるのです。
2006年12月16日
学校の先生が教えるための確固たる自己を持たぬためか、小学生が自分でインターネットで調べて発表することが専らである。唯物史観が崩れたことをこどもたちに教えたくない組織に牛耳られている教員たちが、そのような策を編み出したというのは、いくらなんでも、私だけのうがった考え方に過ぎぬ…。だが、小学校で英語を教えること同様に、小学生がインターネットを使うことに弊害があることを理解すべきである。と、私は考えている。☆娘の担任教師が出題した問題は、「興味のあるものを調べて、発表しなさい」というものだった、娘たちのグループは、サウジアラビアと石油について調べることにしたという。彼女が検索してさがしてきたサイトは、石油に関して、オイルショックに関わる事情ばかりで、大きな世界の動き、歴史の流れの中での石油の意味が把握されていない。池田首相の所得倍増計画やトイレットペーパーの買占め騒動が勃発したことなど…。関連事項の発想力がなければ、情報検索も蛸壺化する。そして、情報に接することができても、まとめ力。寸借力、総合(インテグレート)力のない小学生がインターネットに接すれば、丸写しに終始するのが関の山。これが、私の指摘するインターネットの弊害。そして、そういう傾向は大人のネット者にも多々あてはまる。文章全体の把握力、要約力、キーセンテンスを探す力。不要情報を捨てる力がなければ、課題は勉強として成立しない。つまり、ITリテラシーを獲得する前に、国語力・分析力といったリテラシーをまず獲得しなければ、本物のリテラシーを獲得することはできない。カミサンに暖房費がもったいないと叱られ、私のパソコンデスクの隣で、サイトで拾ってきた情報をそのまま丸写してノートに写していた娘は、不幸にも、私の怒りを受け止めることになった。そして、仕事の手をとめた私と娘の共同作業がはじまった。いくつかのサイトを巡りながら、私がつくっていったレポートは次のようである。☆石油は燃料だが、いまではエネルギーとして重要な価値を持っている。18世紀のイギリスで始まった産業革命では、石炭を燃やすことで蒸気機関を動かし、紡績が行われた。当時は、帝国主義の世の中だったので、自由貿易は行われず、欧米列強は、植民地を経営することで、自国を繁栄させていた。第二次世界大戦が起きると、飛行機や戦艦を動かすときに、石油が便利なことが知られることになった。第二次世界大戦の後、それまで植民地だった国々が独立を果たしたが、政治的な自立は達成されても、経済的な独立はなかなか果たされぬものだった。1959年、国際石油資本(モービル・エッソなど)は、一方的に原油の買取価格を引き下げると宣言した。そこで、困った石油産油国の人たちはOPECという機構をつくって、国際石油資本と対決・交渉することになった。国際石油資本は支配してきた側であり、OPECは植民地として支配されてきた側である。1973年、その交渉の力関係が推移するなかから、オイルショックが生まれ、石油価格は三倍になった。1960年代以降、日本は高度経済成長の真っ只中であった。高度経済成長とは、大量消費の時代である。大量消費を実現させるのは、沢山つくることと、そして、沢山売れるように安く売ることである。だから、石油価格が高騰したオイルショックは、日本経済に大きな打撃を与えることになった。石油がなくなって、寒くて困ったのではない。生産コストがあがることにより、物の値段があがり、物が売れなくなることにより、会社が経営にいきずづまるなどの経済不況が起きたのである。当時の日本はまず、石油を備蓄する対策をとるとともに、石油に頼ったエネルギー構造を変えるために、原子力やその他のエネルギーの利用をすすめることにした。加工貿易の時代から、多国籍企業の時代となったが、現在の日本も依然として海外との関係は強く、経済的営みの多くを海外に依存している。今後も、日本は世界中の国々と友好関係を深めていかなければならない。全体像を掴まなければ、ディテイルを知ることの意味は低い。まずは、一般教養の習得が必要だ。・産業革命からのエネルギーの大きな変遷。・専制から、帝国主義、自由主義経済にいたる南北問題の流れ。・EU、ASEANなどの地域ごとの諸国連合。など、地理、歴史、経済の構造とその変化・歴史を大まかに捉えることが、初等教育では必要であり、そのような教育をしっかりと行わずに、インターネットの情報に接することの価値は低い。☆現在のようにこどもたちが、まとめ力、要約力のないままインターネットに接していると、資料全体を丸暗記できる記憶力に優れたこどもだけが、優位に立つ学校運営がすすんでしまう。それでは、丸暗記力を温存させてきたペーパーテストで学歴勝者になった人たちと、同じような頭脳の持ち主がインターネットの時代にあっても学歴勝者になるという結果になる。インターネットはストックではなくフロー。情報を所有することに価値がない時代が到来することを示唆しているのに、実際の教育では、まったく正反対のことが起きている。「情報はいつでもインターネットで得られるんだから、みんなで考えよう」。それが目標ではあるが、それが意外と難しいことに気がつかなければならない。インターネットは、個のクリエイティビティーを育むメディアであって、豊富な情報に埋没して個が自己韜晦を試みる場所ではない。文部大臣は、日本語を習得してからでないと英語を習得することに意味はないと主張しているが、ことは語学だけに限らない。☆メディアの読解において、コンテンツの意味そのものを読み取ることが重要だが、その文意の底にあるステークホルダーの事情も察しなければならない。料理番組で、レポーターが「この料理は歯ごたえがいいですね」とコメントしたら、視聴者は、この料理の味はまずいのかもしれぬと疑ってみていい。晩年の黒澤映画は映像美が喧伝されたが、それは、ドラマが薄いことの反語であった。そして、最近、小飼弾氏はつぎのように書評している。「ウェブ進化論」とどっちが面白いかについては、僕自身からのコメントは差し控えます。読者それぞれのご判断ということで、ネット上での感想を楽しみにします。」私も、著者から献本されたら、そのような文言でお茶を濁すに違いない…。私もそんなまぎれもない日本人の大人である。
2006年12月15日
といっても、我が娘の写真を加工したものである。加工には、ナンシー小関風ぱっちもん版画作成ソフトを利用した。堂々たる我が家のプリンセスの肖像である。彼女の威光は、背後の洗濯物などでけっして翳ることはない。☆さて、肖像権云々がいわれているが、このなんちゃって加工をしたものが肖像権侵害にあたるのかどうか、判断は難しいのではないか。つーか。どう考えても肖像権侵害にはならぬだろう。☆そういえば、週刊朝日はオーストラリアの新聞報道を引用するかたちで、皇室批判の報道をした。宮内庁は、そのような手口も許せぬとして、裁判所に書状を出しているという。写真を加工したものはオッケイで、英語の文章を翻訳し、出典を明記し、引用したものはダメ…。言論を主張するのではなく、引用することも禁じられるとするならば、言論の自由はどこへ言ってしまうのだろうか。☆石原真理子氏の著作の場合も、誹謗中傷に関して、トピックスだ。彼女は、過去に関係のあった13人の実名を出した。関係があったことは事実だし、それぞれの男性との関係が彼女の人生を今に導いていったのだから、感謝の思いを綴ったのだという。彼女は、イニシャルにすると生じる窃視感を排除したかったようだ。つまり、イニシャルにすれば暴露本になる…。そういう論理。…こういう論理は、優れて面白い。「実名でないと、悪意で卑怯である」とする、オーマイニュースやライブドアPJと同じ論理だ。そんな彼女を、梨本氏だけは絶賛しているという…。☆彼女の著作が提示するものは、彼女が貞操観念の薄い女性だったということでしかないが、著作で言及された男性たちはどのように受け止めるのだろうか。仕事とプライベートの違いもなく、しゃべり続けることで有名なタレント氏は、ベッドの中では普通の人でしたと描写されているという。ベッドの中でも、その最中でも、しゃべりつづけることでなければ、彼のキャラクターとは齟齬があり、キャラクターのイメージを毀損するということになるのだろうか。事実というものがすべてに優先するのかどうか。それは極めて複雑な問題を孕んでいるとしか、言いようはない。ベッドの中が究極の密室であることを考えれば、事実というものの意味の深遠を語ることができる。☆度々、指摘しているが、ロス疑惑のM氏は法廷で無罪になり、本人も無実を主張しているし、本人の記憶も無実であるとのことである。だが、そのことを信じている日本人が、この日本にどれくらいいるのかといえば、確かめる必要もないだろう。いまはまだ、一連の経緯を同時代人として体験していた人たちが多くいるが、これから百年たったとき、M氏が無罪であることを疑う人はほとんどいないだろう。☆石原真理子氏に見えた現実も、ロス疑惑のM氏に見えた現実も同じ現実なのである。そして、もうひとりのM氏に見えた現実も、もうひとつの現実なのだ。とすれば、四人組の方々も、他者の現実に寄り添う必要などない。そして、私が指摘したいのは、寄り添っているように見えて、実は自らを主張しているということだ…。さらに言えば、私の娘の加工写真に見えたものは、私の心に残った娘の映像でしかないということ。それはそれでいいし、それ以上のものを求めてはいけない。なんちゃって画像で、彼女のHer Majestyを感じられる人は、我が隣人くらいのものだろう…。☆インターネットや情報処理技術がすすむと高度な処理技術が発達すると思っているかもしれぬ。だが、意外や意外。ナンシー小関風ぱっちもん版画作成ソフトのような技術が一世を風靡するということも大いにありえるのだ。そういえば、所ジョージ氏は、ハイビジョンのテレビって、「見ろッ」って強制されている感じがして嫌なんだよね。と、語っていた。私は、その気持ちがよく分かるし、1.5インチの和室入りテレビなどもその路線の商品だと思える。薬では副作用を極力抑えることが、研究者たちの主眼となる。情報においても、同じ。副作用をおよぼす要素を極力排除することが重要なのだ。そのことをナンシー小関風パッチモン版画作成ソフトは教えてくれる。追記:私がトラックバックをしたり、デジタルジャーナリズム研究会への参加を表明しても、一切の反応を示さなかったガ島さんが、finalventさんのコメントに反応している。そして、finalventさんが放ったはてなブックマークで、marco11さんという人が書かれた「低脳」「白痴」と言った用語についても…。※コメント者・藤井美樹さんのご指摘で訂正しました。はてなブックマークの使い方について、もう少し勉強します。ごめんなさい。恥ずかしいです。(^^;).....ORZ勿論、そのような用語を使うことによって、相手の感情を煽る(訂正前)F氏 (訂正後)marco11氏も大人気ないが、そのような言葉に感情を乱すことも、佐々木氏が指摘するところの「through力」が足りないといわれても仕方のないことだろう。問題は、「低脳」「白痴」と言われた原因について内省的になるべきであって、あまりに分かりやすい言葉たちに反応するのも、類魂であることの証明以外の何物でもないと考えている。ましてや、ここに及んでメタ議論をすることは論のすり替えでしかない。勿論、絶対的正義などという、自己責任にも比する奇怪な用語を展開したお友達の影響もあるかもしれぬ…。☆私は、2ちゃんねるを偽悪のダンディズムであると評しているが、偽悪の底にある真意を読み取ることも、これからのネット者に求められるのではないだろうか。本エントリーでは、インターネットでは副作用をなくす技術が開発されつつあると指摘した。同様に、サマライズシステムによって、罵詈雑言が自動的にソフトに変換されるソフトも登場するだろう。サマライズシステムの変換例:【処理前】バカ→【処理後】遺憾なこととは存じますが、薄学の徒である私から拝しますに、貴殿の知性を疑わざるを得ないと感じざるを得ません。いまはそのようなソフトは開発されていない。だから、「バカ」という文言に接したら、自分の中の変換ソフトで、「遺憾なこととは存じますが…」と、自主変換すればいい。勿論、「バカって言う奴はバカ」と変換しても文句を言うやつはいない。記憶は、感情情報と結び付けられることによって、成立するという。(ディスカバリーチャンネルのUFO関連番組のナレーションによる…)つまり、感情と結びついてしまった情報は、重要度に関わらず、記憶されてしまう。人間の頭脳には、そういう欠陥がある…。人間はそういう脳をコントロールしなければならない。書き手も、感情に押し流されて、重要でない情報を発信すべきでないし、受け手も、感情に押し流されて、重要度の勘案を間違えてはならぬ。ならば、すべてのネット者はそのような文字面に踊らされることは自省すべきだろう。もちろん、彼がFinalvent氏のコメントに反応しなければ、彼にとっての自然な重要度の勘案であり、何も問題はなかったのだろうが…。☆ガ島氏は、ブログのパブリックな影響力について指摘していると思われる。それに関して、私の意見は次のようになる。日本のエスタブリッシュは、無名氏たちの言論が盛り上ることで、自分たちの既得権益が失われる危機感を感じ、「実名でなければ情報に価値はない」という妄念をつくりだし、反撃している。ゲームの理論からいえば、そのような状況は過渡的なものであり、一刻も早く、無名氏たちの言論をインテグレートすることで、社会的な影響力を生み出すメディアをつくらなければならない。勿論、本道のエスタブリッシュは、無名氏たちの言論が盛り上ろうと、自分たちの立場が危うくなることはない。内的充実のないエスタブリッシュが危機感を感じて蠢いているにすぎない。☆ロシアのジョークに、「スターリンはバカだ」といったら、侮辱罪ではなく、国家機密の漏洩の罪でしょっ引かれたというのがあったと思う。このジョークは、讒言からも学ぶべきことはあるという警句かもしれない…。追記02:ご指摘により、訂正を加えました。読みにくいので、少し経ったら、訂正の形跡を消すことにします。ご理解の程を…。
2006年12月12日
カミサンが、なんだか賑やかな図だけど…。との感想を漏らす。細かすぎて、見る気にもならぬ。そういう意味だろう。だが、私は本気である。だから、この図で説明できることを、少しづつ説明していきたい。図中、啓蒙と書いたが、啓蒙という言葉の定義は難しい。私が思うに、情報の受け手が自律的に受け入れることを促すのが「啓蒙」であり、強制的に刷り込むのが「洗脳」である。現代の民主主義において、洗脳はタブーであることのひとつだ。だが、自律的な個を育んでいない幼少者・未熟者に対して、「自律的であれ」というのは、無理な話だ。だから、「教育」は「啓蒙」をめざすべきであるが、そのどこかに「洗脳」なる部分を含んでしまうのは、仕方のないことだ。そして今、日本の教育が揺らいでいるひとつの原因はここにある。「人を殺してはいけない」「自殺してはいけない」などという日本社会の公序良俗が規範とする純粋律についてさえ、こどもたちに「洗脳」することを避けているからだ。「洗脳」してもらえれば悩まずに行動できるものを、「啓蒙」されているから、個は一様に悩む。そして、悩みに負けたものや、間違った結論を導き出したものが、殺人や自殺を引き起こしている…。私は、こどもたちに「自分で考えること」をすすめる文部科学省のやりくちは、「自分で考えない大人たち」の正当化の所作でしかないと断言する。ここにおよんで何もしない伊吹文部科学大臣に、同情の余地はない。☆教育・啓蒙・洗脳。それらを明確に定義し、運用しなければ、あるべき日本社会はやってこないと確信している。
2006年12月11日
何故、そう指摘するかといえば、「コミュニケーションが個の行動を決定する」というステークホルダー(利害関係者)たちの言説を否定したいからだ。彼らは自分たちの食い扶持を提供してくれているメディアや企業の価値を下げぬために、そのような言説を流布しているに過ぎない。☆今週の「オーラの泉」に友近氏が登場した。スピリチュアリストの江原氏は、「人の悪口を言うことで、仲間意識を高めるのは、マイナスのエネルギーを纏うので、よくない」と指摘した。ミイラ取りがミイラではないが、類が友を呼ぶとも言う。私が、M氏、佐々木氏、歌田氏、R-30氏たちのことを指摘してきたが、それらを批判することは、自らが類魂であることを認めることになる。ならば、彼らの過ちや欠点を指摘するのではなく、あるべき方向を示唆することでしか、私なりの一連の騒動に決着をつけることはできぬと考えた。そのようにして、書き連ねた図説が、1.コミュニティーの差異に関する考察2.コミュニケーション関連語句のスポンタ的定義3.スポンタ的コンテンツの分類と個の機関そして、本日アップする、自律した個の図説である。☆メディア型コミュニケーションが、P2P型コミュニケーションに移行していくにつれて、個に求められる能力は、発信力になる。発信力が重要と書くと、短絡的に「CGMの時代がやってくる」などとイメージするエバンジェリストが多いから困る。マイクロソフトが発売したデータベース構築アプリケーション「アクセス」が惨敗したように、CGM型メディアが繁栄することはない。データベースを活用したい人がたとえ100人いたとしても、データベースを構築したい人は、2.3人。作品を楽しむ人が100人いようと、作品を作りたい人は10人、そして、つくる能力をもっている人がその中にどれほどいるのか…。ステークホルダーに縛られなければ、そんなことは誰でもわかるはずだ。個に求められる発進力とは、自分が何が食べたいかを表現する能力・自律した判断能力と独立した発信能力である。喩えて言えば、レストランにおいて、「食べ物が腐っているか判断できることが重要な時代ではなく、自分が何を食べたいか表現することが重要になる時代」なのだ。☆本日もまた、「五輪の書」の結語をもって〆ることにする。よくよく吟味するように…。
2006年12月09日
結局のところ、ハワード・ラインゴールドの「スマートモブス」という本に、何故、私が嫌悪しているかといえば、個と情報の関係を単純に捉えすぎているからである。情報が個を動かすと単純に捉えている。それでは、ハーメルンの笛吹きに操られる街の人々である。かといって、私は、裸の王様にわざわざ「王様は裸だ」というような無粋な行為も好きではない。個は情報に対して自律的である。だから、電通の役員が言った「広告の半分は無駄です。でも、どの半分が無駄だか分からない…」という正直なセリフになる。そして、電通役員のような哲人ではなく、広告代理店の商売人たちが、「広告はハーメルンの笛吹きです」とでも、言うように言論を広めていくから、世の中全体が「情報は個を動かす」と単純に思い込んでしまう。☆そう考えている私は、隣人もそうだからあえて言う。ヨン様ファンは、ハーメルンの笛吹きに踊らされた人たちではない。自律的に自らを操って行動しているのだ。とはいえ、ジャニーズファンにみられるリビドーや、募金夫婦にみられる幼児愛、湘南ゴミ拾い2ちゃんねるオフ会における正義など、ハーメルンの笛の役割を果たすかもしれぬ要素は多い。純粋律を盾に議論をふっかける人たちがいるが、それらも自らの中にハーメルンの笛を持っている人たちなのかもしれない。☆そのように考えてくれば、情報を精査しなければならないことに気がつく。情報とは、お母さんが、「みんな、ご飯よ、集まって」と言い、家族全員が集まったところで、お父さんが、「では、いただきます」と口火を切り、こどもたちを含めて全員で、「いただきます」と唱和し、ご飯を食べるというアクションをするような、そんな単純な起序ではない。☆ということで、スポンタ的なコンテンツの分類と個の機関について図説する。認識はメディア時代のコミュニケーションをイメージしており、CGMではないので「受け手篇」としている。送り手篇の精査は後述する。図表は、CMをイメージしてもらうと分かりやすい。【Contentsの分類】1.痔になっている人にとって、ボラギノールのコマーシャルは、有価値Contentsである。 ※だが、情報が行動を強制していないことは留意すべき。2.木村拓哉のニコンの高級カメラのコマーシャルは、キムタクファンにとってエンタメContensである。 ※使用タレントによって、売上げが伸びるきは、エンタメ性が有価値性を演出するからである。3.自分が将来買う可能性のない新商品のコマーシャルが視聴者の記憶に残るなら、トリビアといえる。 ※私はデジタルカメラ派になってしまったので、フジフィルムのコマーシャルはすべてそうだ。4.自分が将来買う可能性のない商品のコマーシャル。ただし、連呼・音楽化による記憶に残る場合もある。 ※リオネット補聴器、カメラのキムラ、レコード売るならハンター、富士楽器でピアノを売ろう。...etc. ※私は、いまだにジュワイオクチュール・マキで買い物をしたことはない。 5.不快なコマーシャル。 ※広告代理店の努力によって、そういうものはほとんどないが、見方によれば、消費者金融のコマーシャルなどはその類になるだろう。 ※因みに、私は、協同広告機構のスポットはノイズであり、スパムだと感じている。オノ・ヨーコは意見広告を出すのに巨額を使っているのに、協同広告機構は自らの特殊事情をつかってプロパガンダしている。こんな不公平・不公正はない。☆一方の個の機関(システム)だが、まず、Input Gateで情報を取り入れるかどうかが精査される。取り入れられるのは、有価値Contents、エンタメContents、トリビアである。トリビアとは、フジテレビの番組にとりあげられたイメージ。情報であればすべて番組に登場するようなトリビアになれるのではない。トリビアになるためには、一定のクオリティーが必要なのだ。個の内部にはいったContentsは、ストレージに溜められる。エンタメContentsが、純粋にエンタメなだけならば、人に話すこともないし、個で終結する。溜められたContentsは、Decision Gateによって精査され、「信じる」領域(Belief)へとすすむ。その決定に影響を与えるのがトリガー(きっかけ)である。トリガーは体験や直感など、必ずしも情報とは限らない。有価値Contentsは、トリガーを内包している。トリビアとトリビアが組み合うことにより、トリガーを発生させ、Decision Gateを潜り抜けることもある。純粋なトリガーというのは考えにくいから、トリガーのほとんどは有価値Contentsであり、それが個の内部において、トリビアを有価値Contentsに引き上げるというのが実相だろう。「信じる」領域(Belief)にあるContentsといえども、すべてが行動(Action)につながる訳ではない。買いたいと思っていても、お金がなかったり、必要がなかったり、機会がなければ行動はできない。それらの条件が付与されるのがAction Acceleratorである。そして、Outputとしてアクションが起きる。購買活動、言論活動、具体的行動などさまざまなアクションがイメージできる。雄弁は銀、沈黙は金との諺からいえば、アクションせぬこともアクションであるとのレトリックも成り立つ。炎上時に管理人に求められるスルー力(りょく)というのは、そういうことだろう。☆奇怪な図表を提出した私の意図を理解に苦しむ人がいるかもしれない。だが、すべては、「情報に対して、自律的であるべき個」を指摘したものである。その根にあるのは、「情報が個の行動を強いる」という単純な論理に対抗するためである。次回は、この図表を下敷きに、1. ティスカッション・説得2. ディベート3. テレビコマーシャル4. バイラルマーケティング5. 啓蒙6. 洗脳について解説していく。諸賢ならば、改めて指摘するまでもないだろうが、図説することで頭の中の整理がつくと思うので期待して欲しい。
2006年12月08日
ガ島氏が、ミドルメディアなどと言って、倫敦橋さんの不興をかっている。梅田望夫氏の言論を、私は批判しつづけている。日本の市井人に、ハワード・ラインゴールドの著書に納得できることは少ない。その理由はふたつ。日本のIT言論がステークホルダーの奴隷となり、アメリカを無批判に追従するのが日本であると考えている人たちが牛耳っているからだ。私は、メディアがステークホルダーの奴隷となるのはかまわないと思う。だが、ネットでも存在する個が、ステークホルダーのままでいるとするならば、それはネット者ではない。勿論、コメント欄を開かず、TBを制限するような輩はメディア者ではあっても、ネット者ではない。2006年秋においても、いまだにメディアを論じることの虚無を感じぬものは、IT者でもない。倫敦橋さんは「あのダイアグラムの中に検索エンジンはどこに入るのだ」と疑問を呈していたが、P2Pという概念がないから、あの図に内包できぬのだ。今後、「メディア型のマスディストリビューションは、P2Pコミュニケーションの中の小宇宙であること」は、歌川先生との研究論文でまとめることになるだろう。☆ステークホルダーの奴隷というのは、IT業界に不利になる言論を一切論じないということだから分かりやすい。そこで、このエントリーでは、日本とアメリカの差について、ダイアグラムとして紹介する。(ラインゴールド批判のところで追加紹介した図である)日本は多神教の国であり、アメリカは一神教の国である。日本は単一民族であり、アメリカは人種のるつぼである。さまざまな要素がからまりあって、一概に分析できぬという評者も多いのかもしれぬが、同質性・多様性という評価軸であれば、その性向の違いは明確にできると思う。戦後の日本に無批判でやってきたアメリカの制度・精神。そういうものを無批判に日本に導入すると、手痛いことになる。最近では、二大政党制の日本に適していないことが分かった。次は、陪審員制度が日本に適していないことを試すという。問題は、西欧が個人主義でできあがっており、日本が集団主義だという精神的風土が原因ではない。西欧であっても、同質性が高いコミュニティーではカリスマは必要せず、集団指導体制(ローマの元老院)が実現する。だが、社会が成熟するにつれて、同質性の中の差異に目覚めるとカリスマによって集団を維持することが求められるようになる。たとえば、現在の中国は、毛沢東やトウ小平のようなカリスマがいないことは、すでにひとつの国でなければ中国社会が存続していかぬことを中国人たちが理解していることの現われだともいえる。逆に、プーチンが陰謀によって自らのカリスマ性を維持しなければならぬのは、ロシアが分断・拡散することもけっして悪いことではないと、多くのロシア人が感じ始めていることの表れでもあるのだ。いじめの問題、政治の問題など、さつざまな日本の諸相に多いなリファレンスとなる。宮本武蔵の五輪の書の結語をもじって、次のように〆る。「よくよく吟味するように…」追記:同質性の高いコミュニティーを導くものは、外圧である。
2006年12月07日
インターネットはat a glanceなメディアなので、図説を紹介する。インターネットはワールドワイドなので、英語だ。学歴社会がつくる格差社会とマルチターゲット社会の図解。at a glanceなのに、細かすぎると苦情を言わないで欲しい。原稿用紙200枚程度の文章をダイアグラム化したのだから、仕方のない話だ。概説すると、次のようになる。☆左にあるのは、学歴社会がつくる格差社会のコミュニティー。上に行くほど、高収入。連なる三角は斜め下に行く方向が、ホワイトカラーからブルーカラーへの流れである。三角はヒエラルキルなコミュニティーであり、青はそのコミュニティーで劣等感を感じている個。赤は、優越感を感じている個だ。一方、三角形からはなれた水色の玉は、ヒエラルキーから逃れた分子である。ヒエラルキーから逃れているものの、劣等感からは逃れることができない。そこに学歴幻想の弊害がある。そもそも、教員は職業経験を持たないから、学歴偏重の思想を持っている。また、教員の労働組合は階級闘争を主題に取り組んでいた政党の影響が残っていて、組合員を通じてその思想が社会に蔓延してきた。本来、電車の運転士と航空機のパイロットの間に階級差はない。だが、その構成員の学歴によって、電車の運転士のほうが下級の職業とみなされる。そして、報酬の差がそれを追認する。電車の運転士と航空機のパイロットの幸福感が比べられるはずもないのに、学歴や収入といった尺度で論じられている。好きな電車を運転できる喜びと、厳しい身体検査と試験にあけくれるパイロットの生活。パイロットの報酬が高いからといって、そこに絶対的な幸福差があるとは私には思えない。☆右にあるのは、マルチ・ターゲットな社会。人は、受動的学習力、統合力、技術力、表現・想像力、自立力、忍耐力、体力・運動能力、コミュニケーション力など、さまざまな能力で職業人としてのアイデンティティーを確立する。教育されていない個は、真ん中に位置し、8つの自分の能力のどれか、または複数を生かすことによって、職業人として価値ある個になる。それが教育の目標である。(教育とは、自己の充実などという抽象的なものを目指して行われるのではなく、個が社会の一員として生きる術を与えるものでなければならない)さまざまな能力を磨くことによって、社会のさまざまな種類、階層のヒエラルキーに属しながら、職業人として個を確立することができる。基本的に、個の報酬や満足は、ヒエラルキーでの立場に依存する。たとえば、ジェイリーグというヒエラルキーでは、中村俊輔は優越感を感じている個だったが、イタリア・セリエAではそうではなかった。そこで、スコットランドリーグに移籍する。すると、優越感を感じる個になる。とはいえ、そのようなヒエラルキーに依存しない個も存在する。忍耐的であることや、自立心を持つことにより、他者の評価に依存しないで生きていくこともできる。また、個を確立せず、他者とのコミュニケーションを専らにして生きていくこともできる。そのように個がコミュニティーに存在するときに、自己をささえるエイデンティティーの源泉は多様なものであり、その評価軸も多様なものである。作図の都合上、代表的な8つの能力をつかってマルチターゲットを表現したが、人生の目標は個の数だけあるのが実相であると確信する。☆学歴社会のヒエラルキーは、マルチターゲットな社会よりも、「自分が不幸だと思っている人」の数は多い。マルチターゲットな社会のほうが、「自分がつきたい職業につける確立が高い」。学歴社会では、ノーベル賞の田中耕一さんのように、新幹線の運転手になりたかったのに、偏差値が高かったばっかりに、大学にすすみ研究者にならざるをえなかった人が出る。日本には、偏差値が高いがために医者・高級官僚にさせられ、不幸になっている個は沢山いる。そして、硬直した社会構造のためにそのような不満分子が社会に害毒を撒き散らす。☆興味を持った人は、ぜひともプリントアウトして眺めて欲しい。学校の先生はよくよく見て、考えて欲しい。お子さんをお持ちの方は、こどもの将来を見据えて、考えて欲しい。特に、教育再生会議の人たちには、見て欲しい。沢山の人が同じイメージを持てば世の中が変わる。それは、ユングの心理学の以心伝心であり、ジョン・レノンの「イマジン」である。
2006年12月03日
2000年頃の話だと思うが、3ヶ月先のことは分からない。などと、IT関係者が語ることが許されていた時代があった。だが、来年の色の流行はすくなくとも前年には決定しているし、新製品開発には少なくとも3年かかる。だから、3ヶ月先のことが分からないなどというのは妄言にすぎぬことは理解できるだろう。そして、ムーアの法則があと10年ぐらいは続きそうだというのは、半導体技術者の共通認識であり、そのような現状認識を持ってすれば、十年後、二十年後の大まかな未来は予想がつくというのが、誠実なる言論だと思う。業界にいれば、来年にリリースされるもの。いま開発されていることの概要は見えているはずだ。そして、マーケットの動向もおおまかな予想かつく。ならば、もっと明確に明日を、未来を語るべきだと思う。☆時事通信社の湯川さんは、CMの危機が訪れていると感じているし、インターネットのように消費者が興味を持つものをさりげなく広告するのが、これからの広告と主張している。勿論、メディア型コミュニケーションから、P2P型コミュニケーションに移行すれば、CMや従来の広告のマーケットサイズがシュリンクすることはやむをえない。だが、それが、「ネットは新聞を殺すのか」だったり、「新聞がなくなる日」ではない。☆私が広告の本質と思うのは、「おせちもいいけど、カレーもね」という、キャンディーズが晴れ着姿で出演した往年のククレカレーのコマーシャルであり、電通役員の幹部の爆弾発言、「広告の半分は無駄である。だが、どれが無駄であるかは分からない」である。☆これをスポンタ的に形容すればどうなるかといえば、広告とはトリビアである。広告者がすべき仕事は、トリビアを「トリビアの泉」にとりあげられるようなトリビアをつくることである。消費者にとって、トリビア(無価値)な情報を与えるのが、広告である。消費者にトリビアとして貯えられた商品情報は、いつしか消費行動に変化する。そのトリガー(引き金)が広告である場合は実は少ないのであって、多くの場合は、商品そのものの有用性・素晴らしさである。トリビアのまま、消費行動に移行しないものが、電通幹部が白状した「広告の無駄」である。釣りサイトに貼られた釣具のバナー広告のように、消費者に有価値情報を伝達するのは、店にはいってきた客に商品を売る程度のことであって、そんなものは効率的な情報伝達システムでしかなく、広告としての意味は低い。つまり、広告はトリビアにすぎない。ならば、そのトリビアを消費行動というアクションにつなげるために、クライアントがやるべきことがある。それは、商品の充実や配棚など流通現場での努力がある。☆私が何故、トリビアという概念を持ち出したかといえば、対話・議論が成立しない多くの場合、一方が提出した言論の受諾をトリビアとしてさえも相手方が拒絶することにある。たとえば、この文章を読んで納得してくれた読者がいたとしよう。しかし、その納得の源泉が私の文章である割合はどの程度なのだろうか。その理解・納得の源泉はほとんどは、読者の中にあったトリビアがなしたものであり、私の文章はトリガー(きっかけ)の役目を果たしたにすぎない。そして、そういう無数のトリガーを共有することが、スモールワールドの成立要件になっているのです。スモールワールドは、構成員がトリガーを共有することで成り立っている。さまざまな情報がトリガーとなって、さまざまなアクションがおきるが、トリガーを共有しているかぎり、スモールワールドのまとまりはなくならない。アクションの多様性はスモールワールドの求心性を解消する要因にはならない。日本という国は、多くの記憶によって成り立っている。イデオロギーやシステムや宗教でなりたっているのではない。だから、このようにしなやかでたおやかなのです。私は40代だが、キャンディーズの解散コンサートのことを語ることができるのが、日本人。長島茂雄が引退した日に何をしていたか。それを語れるのが日本人だと思っている。
2006年11月27日
池田信夫先生に私淑している。その理由は、P2P、情報工学、経済学の専門家であり、エスタブリッシュでありながらブログをほとんど毎日更新し、コメント欄での対話を粘り強く継続しているところである。最近も、東アジアや経済学について、あまり有効でない議論、かみ合わない議論があり、先生を悩ませた。40年前だったら、学生にやさしく「もっとお勉強していらっしゃい」や「バカモン」と罵声を浴びせることですんだのだろうが、2006年のブログというメディアにそれは不釣合いであることを先生はご存知のようで、丁寧な対応をなされている。私は経済や情報学は専門家ではないが、どのような文脈でそのコメントが発せられているかは分かる。そこで、門外漢ながらも適宜コメントのやりとりに参加している。☆さて、その池田先生が、「憂鬱な科学(dismal science)」としてエントリーをあげられた。池田先生は「つまらない学問」などとブログの中で書かれており、ダダイズムにとらわれているのかと思えばそうではない。このように経済学は、いまだにdismal scienceの域を脱することができない。それが世の中に認知してもらうために必要なのは、数学的なお話のテクニックを競うことではなく、複雑な現象を合理的に説明する実証的な分析用具を開発することだろう。物理学の理論には、自然界の真理を解明するという本質的な意味があるが、経済学は現状分析や政策決定のための応用科学にすぎないので、理論的な「美学」を追求するのはナンセンスである。美文である。本質である。私は学習院大学の田崎先生という物理学者を知ることで、統計力学という学問があることを知った。そして、その学問の祖であるボルツマン博士は、輝かしい理論の数々を生みながらも、実証主義者たちの反駁に耐え切れず、自ら死を選んだという。※ボルツマン博士は、A.ブルックナーにピアノを習っていたとか。私は高校の吹奏楽部の定期演奏会で、ブルックナーの交響曲「ロマンチック」を演奏した。その縁のありやなしや…。この2年、私が「市民参加型ジャーナリズム」として、一定の領域をイメージしながら言説してきたわけだが、その語ではなかなか明確なイメージを現出できなかったという反省がある。私は学者ではないし、衒学的な謗りを受けたくはないが、研究領域を限定する意味で、こだわり続けてきた世界を学問として捉えることも必要ではないかと思えてくる。そこで提出するのは、「インターネット社会学」もしくは、「スモールワールド学」である。いままであった「メディア学」は、メディアとコンテンツを混同するし、メディアをコンテンツよりも優位なものとして扱ってしまう。そういえば、マイクロソフトは、「うちはコンテンツを扱いません」と偉そうに言っていたっけ…。逆に、「情報学」は、情報をコンテンツとして捉える比重が高いのではないか。最近の私の気づきは、・メディア型ネットワークがP2P型ネットワークにすすんでいく。・すべてのコミュニケーションはトリビアの共有作業である。トリビアを有価値情報にするかどうかは、個の営みであって、コミュニケーションの成果ではない。・コミュニケーションを成立させる源泉は、スモールワールド感である。多層に重なり合うスモールワールド感が、コミュニケーションを成立させる。トリビアの共有がスモールワールドの構成員か、そうでないかを決める。オウム真理教の30人もの大量殺人を同時代人として経験していないものは、日本というスモールワールドの構成員ではないと私は定義したい。M氏のまわりに集った準構成員・非構成員たちは、オウム真理教が起こしたことを非合法処刑と感じている。だから、あのような言論を展開できたのだろう。私はステークホルダーという概念を提出しつづけてきたが、スモールワールドという概念はステークホルダーの上位に存在する。彼らがそのことを見誤ったとも解釈できるが、ステークホルダーによって、スモールワールドの非構成員になってしまうのなら、そのステークホルダー自体もスモールワールドにとって異分子なのだろう。そのようなバイラルなものが巣食ってしまう前に拒絶するのが肝要だし、私が行っていることは、コミュニティーにとって微熱のようなものかもしれない。☆さて、池田先生のコメント欄に、市場原理主義にまかせると、社会秩序は崩壊し、環境破壊が起こり、市民は幸福にならない。というコメントが書かれました。私は、以下のように反論しています。インターネットに関する私の本意を書いていますので、引用します。市場原理にゆだねる勇気を持て。 (スポンタ) 2006-11-25 21:01:59 >規制緩和論が強くなると、安全や衛生面など、どちらかといえば、消費者を保護している規制が緩和され>る傾向にあるように感じる(もちろんマスコミの偏向報道かも知れませんが)のですが、いかがでしょうか。勿論、一時的にはそういうことにもなるでしょうが、スラム化したあとに廃墟となり、再構築が行われる。つまり、ゲームの途中を評価しようとするから、過渡的な現象として、そういうことが起こるだけの話。ゲームのスピードを早くするとか、ゲームの結論を当事者たちに予測させるなどをすれば、市場原理に任せることも、それほどの悲惨な状況(途中経過)を生み出さないのではないかと考えています。私がインターネットに期待しているのは、ネットというバーチャルな世界であらかじめ、ゲームをやってしまう。それで、ある程度の結果を予測してから、勇気を持ってリアルな世界で変化を生み出していく。そういうことです。そのための装置として、2ちゃんねるが役立っていることに、世の中の人たちは気がついていないようですが…。 最近、テレビで柳田國男に関する番組(NHK「その時、歴史は動いた」)をみましたが、そこには、農民やマタギが自然と対峙する伝統的な知恵が紹介されていました。それは、日本人が数千年の歴史で積み上げてきた叡智。一言でいえば、自然を貪らないこと。具体的には、焼畑農業では、数年使った畑は数年休ませる。マタギは獲物をとりつくさない。獲物が自己増殖する余地を残す…。それらの知恵は縄文的文化であり、それらが弥生的文化の中で失われていってしまったのが現代なのでしょう。環境問題や自然保護などといいますが、縄文文化に見習え。その一言で解決することなのです。そして、縄文時代は、個が自然と対峙していたが、弥生文化は、集団が個と対峙するようになり、個が自然と対峙する要素が減っていった。それが根本にあるのではないでしょうか。個が個として自立して、成熟する。それを主眼にすえれば、メディアもコミュニケーションもネットワークもコンテンツも、どうでもいい…。否、そういう諦観を克服してメディア、コミュニケーション、ネットワーク、コンテンツとつきあっていくべきなのでしょうね…。☆分かりやすくは、「インターネット社会学」だけど、そのめざすものは、「スモールワールド学」なんだろうな。
2006年11月26日
2005年秋は、メディア型情報ネットワークから、P2P型情報ネットワークへの移行期である。と繰り返し述べている。スモールワールドにおいて、メディア型情報ネットワークは、メディア者のステークホルダーによってバイアスがかかることが、スモールワールド構成員(以下、構成員と略す)に疎まれる。一方、P2P型情報ネットワークでは、コンテンツの価値の多少によって、その伝播範囲が決定される。ゆえに、P2Pコミュニケーションにおいて、メタタグなどという伝達にバイアスを与える副次情報は、そもそもノイズなものであり、SEOは過渡的な概念にすぎない。SEO:検索エンジン最適化が、自社の情報に見合った情報のありかを目指すものでないことは明らかであり、そういうものは、IT技術のホールをつっつくものであり、そういうたくらみがハッカーの一種でしかないことは、すでにエバンジェリストたちは気がついているだろう。梅田氏を筆頭にするエバンジェリスト・ITステークホルダーたちのたくらみは、IT革命の時代をいかに長くし、情報デフレの時代の到来を先延ばしにする、儚い行為であり、ある意味、ITの進化に対する反逆行為であると感じている。そして、それがマスコミ者のステークホルダーと重なり合って、情報インフレの時代を謳歌している。私はバブルとまでは言わない。たが、いまの状態がインフレであることは多くの人たちが知っていていいことだと思う。真鍋かおり氏がグーグル八分を批判したことは記憶に新しいが、彼女の言葉を信じて、グーグルに敵愾心を燃やした人がどれほどいたのだろうか。勿論、現状のグーグルが完全ではないし、批判はすればいい。だが、それがアウフヘーベン(止揚)した議論を生み出さなければ、意味はないのだ。☆ということで、P2Pの時代ではコンテンツの価値が伝播を左右したと指摘したが、コンテンツの価値は多様なものだということを指摘したい。つまり、有価値情報でなくても、トリビアとして価値があるということは往々にしてありえるということだ。その論理でいえば、女子大生ブログの坊農氏も、有価値情報を追求しないで、トリビアを追求すれば批判を浴びずにすんだのかもしれない。そこで、トリビア型広告の典型ともいえるお弁当について紹介しよう。「のだめカンタービレ」を見て、着信音をベートーヴェンにするのは、有価値情報的なコミュニケーションを求めてのことだろう。私はクラッシック愛好家だから、ベートーヴェンもプロコフィエフもガーシュインもずっと愛でている。そして、クラッシックの魅力が、初めて聴いた人よりも何度も生かされた人にしか感じられぬことに不満を持っていた。今回の「のだめ」ムーブメントはそれを立証するケースである。私は、そんな不満もあって、娘にはジャズピアノを習わせている。はじめて聴いた曲でも楽しめる。ジャズとはそういう音楽である。さて、お弁当が音楽ドラマ「のためカンタービレ」とリンクしたとしても、そこに有用な価値があったとは思えない。ただただ、トリビアとしての価値があったので、お弁当とテレビドラマがコラボレーションしたに過ぎないのではないだろうか。それに、お弁当には妙なフォークロアがついてまわるそうだ。バイラルマーケットとは違うのだろうし、批判されることもない。トリビアを楽しめばいい…。そんな、弁当とのコラボレーションだが、なかなか考えさせられる事象ではある。☆図表を添付する。私たちの世界はスモールワールドである。You are not alone.テレビドラマの話題にお弁当の話題。わたしたちは情報で繋がっているのです。
2006年11月24日
ネット発の情報がテレビ・新聞を賑わすことが通常になっている。これもメディア型コミュニケーションがP2Pコミュニケーションに移行している胎動のひとつである。そこでひとつの指摘。メディア型コミュニケーションがP2P型コミュニケーションに移行しつつある中、メディア型コミュニケーションで批判されようとも、P2P型社会で一定の支持があるならば、断行する。そういう傾向が強まる。・癌摘出臓器の他患者への移植・赤ちゃんポスト私は、それらの妥当性について論じるつもりはない。ただ、グローバルな行政の不備、司法の不備を、よりローカルなコミュニティーで補完することに希望が持てるようになってきた。いままで、ローカルなコミュニティーでのみ結託することは、自分たちだけの利益を求めることでしかなかったが、ローカルなコミュニティーの情報がネットの普及によってグローバルに開かれることによって、ローカルな言論が社会的貢献を果たすことが期待できるようになった。☆ だが、あだ花として、バイラルマーケットが糾弾されはじめた。募金夫婦も、見方を変えれば、トリオジャパンというエージェントが仕組んだバイラルマーケットだ。いま話題になっているブロガーが、バイラルマーケット(不実な市場操作)に巻き込まれ前からブロガーだったかどうかは知らない。だが、そのような動機で経済活動をするためにネットに進出する個は今後も増えるだろう。当然のようにブログは炎上。バイラルマーケットをしかけた会社は倫理綱領を提出し理解を求め、クライアントの一つである食品会社も釈明コメントした。だが、そのようなもので、真実性を隠蔽した商業的な言論誘導の構図が許されるものではない。この見目麗しい当該ブロガーは、マスコミの取材は本意ではないというが、研修があり、ブロガーたちが利益を得た事実は否定できない。問題は、運んだ情報がウイルスだったのか、栄養だったのかの差だけである。勿論、その境界線は微妙なものである。バイラルマーケッティング会社は、利益供与があったことを明示すれば問題はないとの見解を示しているが、利益供与があったからといって、「不味いものを美味い」と言っていいのか。保険証書の裏書に記載しているからと言って、不誠実な保険商品を売ってはならぬというのと同じだと思う。実は、私も、先日、ある試写会にブロガーとして招待されて行ったが、否定的な意見をあえて書かなかった。それは、ドキュメンタリーの主人公には価値があるが、作品としては、あまり言い出来ではない。ということだったから。作品を批判することで、ドキュメンタリーの主人公氏に不利益になることを避けたかったからである。もちろん、思ったことを書かなかったことは、自省すべきである。だが、人がおいしいと思って食べているものを横から貶すのも大人気ないと思ったのである。つまり、私のような映像の専門家には許せないとしても、観衆の8割方が満足するならば、そういう瑕をあえて喧伝する必要もないと判断したのだ。そして、そういう活動が増える中で、何がバイラル(感染的)であり、何がそうでないかの尺度(ルール)といったものが、次第に明確になってくるのではないだろうか。とはいえ、個人情報が喧伝される今、何が商業的行為であり、何がそうでないかを見分けるか、その見分け方法は簡単だ。顔写真があれば商業行為。もしくは、将来商業行為になることを希望していること。住所、電話番号などがあれば、それは商業行為である。では、私の立場はといえば、社会的貢献・重要度があれば、商業的であろうとなかろうと関係がない。そういえば、別サイトで私は顔をさらしているが、それが商業行為に結びついていない。これは反省に値する。(^^;)☆女子大生が有名人同様なマーケット活動をする。それが浅薄なことであることが立証される日は遠からずやってくる。違いの分かる男がインスタントコーヒーを飲むことはありえないし、明石家さんまが、カローラに乗っていることなどありえないのだ。☆そんなあだ花はあるにしても、グローバルなレベルで解決できぬ問題をローカルなレベルのコミュニケーションでなんとかしようという善意の活動はこれからもっと増えていくに違いない。メディア型情報発信(クライアント&サーバー型)では例外条項の許容度は低いが、P2P型情報ツールでは例外が例外として存在でき、それがグローバルなものと隔絶して存在できる。P2Pにおいて、情報を伝達されるものは、情報伝達者が価値を認めたものだけ。私がつねづね、「ネットでは、切実でない情報については論じてはならぬ」と指摘するのはそういうこと。女子学生ブロガーが気にしているのは、自分が有名になることであり、ブログの結果に受け取る報酬である。コンテンツの内容は副次的なものとなる。だから、伝達そのものに価値をおくP2P者は不純だし、それはP2Pの信頼度を下げるものとして非難される。根本的には、「狼が来る」と嘘をついた少年と同じことをやっている。/font>蛇足:では、そのような個をいかに廃絶するかといえば、一回不味いと書かなければ、一回美味いと書けない。そういうシステムを組むのもおもしろいかもしれぬ。数データのグラフではそれはすでに行われている…。例:Global(Media): 夫婦仲良く添い遂げて。Local(P2P): 家庭内暴力があれば、こどもの安全や将来を考えて離婚も選択肢のひとつである。Global(Media): 癌のある臓器は一切移植してはならぬ。Local(P2P): 癌部位を取り除くとともに、死に瀕している患者の同意があれば、臓器移植も容認さぜるうえない。Global(Media): 赤ちゃんポストなんて、捨て子を増加させるから禁止すべき。Local(P2P): 赤ちゃんポストが不幸な状況にうまれた乳児への厚生のひとつとして活用されるならば、どんな批判があっても選択肢のひとつとして世の中に存在させるべきである。例外のないルールはない。ということか是認されるように、大多数の結論に従わぬディテイルを排除することは非合理であり、非情を生むと思っている。☆グローバルなレベルで解決が図られない「いじめ」問題を、ローカルなレベルに落とし込まない文部省の闇を思う。産経新聞上では、自殺予告に対する文部科学省の文書に対して、シナリオライターの内舘牧子氏は、「宗教団体のビラみたい」と批判し、テレビ朝日の朝ワイドでは、吉永みち子氏は、「文部科学省は、いじめ被害者に謝るべきだ」とコメントした。文部科学省がグローバルな言説に終始し、謝罪はおろか自らの非さえみとめないのは、グローバルな立場でしか文部科学省が存在できぬからだ。そして、グローバルなレベルからローカルなレベルにコミュニケーションが落とし込んでいかれた場合、ローカルなレベルの教員たちのスキルはあまりに低く、いまの教員たちの能力では、今以上に混乱を来たすと絶望しているからである。しかし、だからといって、いじめられるこどもたちにとって地獄になっている学校の現状が許されていいはずはない。それが問題なのだ。文部科学省にすべての責任を押し付けている場合ではないのだ。
2006年11月10日
【リード文】最近、GoogleがYouTubeを買収したことは知っている人が多いだろうYouTubeが何なのかといえば、誰でも動画をアップしてみんなで見れるサイト。つまり、Consumer Generated Mediaの典型的なもの。では、Consumerとは何かといえば、極めて多様であり、さまざまな人たちであり、動画をアップさせる人たちの動機もさまざまである。日本で話題になるYouTube動画はテレビなどの録画映像だが、YouTubeはそれだけではない。そのことに気づいたとき、インターネットがオルタナティブメディアではないことを理解できるはずだ。☆「デジタルジャーナリズム研究会」に属するガ島通信さんは、慶應大学SFCの教室で「メディアはどうなるか」というタイトルでパネルディスカッションに参加したらしい。「SFCの学生は意見が鋭い。他とは違うよ」などと学生を持ち上げた意見を紹介していたが、すでに「インターネットはオルタナティブメディアではない」「メディアという概念はP2Pの中のひとつのフェイズに過ぎない」。インターネットに深く接しているならば、多くの学生諸子は理解しているはずである。だから、もし彼らが鋭いとするならば、それは、大学という文脈の中で自らを律し、専門分野を越えた発言をしないという見識についてだ。世の中のコミュニケーションの形がメディア型からP2P型に移行しているにも関わらず、大学や社会がメディア型のままであるならば、それに掉さしても弾き飛ばされるのは道理なのだ。慶応SFCに限らず、メディアの崩壊を予感し、その危機感の中で考えるシンポジウムは多い。私自身、ひとつの研究プロジェクトに参加している。幸いその研究プロジェクトにはメディア者におもねる立場のメンバーはいない。だから、メディア関連領域に研究対象を限定せずに済む。また、ありがちなビジネストレンドを探るような組織に支援された研究会ではない。だから、情報ディーリングの間にエージェントを挟まないような、ビジネスモデルを語ることに躊躇はない。考えてみれば、CGMとはエージェントを介さないシステムであり、利益の薄いビジネスモデルである。とはいえ、携帯電話業界だけがP2Pのビジネスモデルについて、真剣に語ることが許される。池田信夫先生は、「悪魔的ビジネスモデル」と、フロー型ビジネスモデルを批判するが、フロー型こそが、投資を促すビジネスモデルなのかもしれない。勿論、悪魔的であることは否定しないが、悪魔であるがゆえに、魅せられるのだ。☆それでは、YouTubeの動画を実際に紹介していこう。(サイト内のembedというタグをCopy & Pasteすれば動画を貼り付けることも簡単なのだが、楽天ブログはそれを禁止しているようだ。。)YouTubeのサイトは英語なので、私の英語力でどの程度理解しているのか分からない。だから、間違っていたら指摘して欲しいし、そのような中から、新しいものが生まれることを期待している。☆まずは、オルタナティブメディアとしてのYouTube.構造計算偽造事件に関わる動画たち。地上波テレビの報道番組は、藤田東吾氏が指摘した企業グループが構造計算偽造物件を所有していることを指摘したが、地上波テレビばかりでなく、東京新聞を除く紙媒体も第一報を掲載しなかった。その動画。そこで、藤田氏は自らの取り巻きが撮影した動画をYouTubeにアップした。その動画。首相官邸で門前払いを食らう映像は、ことの問題を表現していないので、彼は自分の言論を展開する動画をアップした。その動画。これらをどうみているのかわからないが、仮面ライダー藤田東吾なる動画もアップされた。その動画。藤田東吾氏の言説とは無関係だが、アップ者はなんらかのメタファーを行ったにちがいない。☆過去に話題になったのは、・極楽とんぼの相方淫行にまつわる加藤氏の号泣挨拶@日本テレビ・24時間テレビのマラソンで、沿道の女性を恫喝する映像@日本テレビ・やくみつる氏の亀田父挑発コメント@テレビ朝日などだろうか。これらは、オルタナティブメディアとしてのインターネットを証明するコンテンツでしかない。では、今回のエントリーの最後に、メディア型からP2Pへの架け橋になっていく動画を紹介することにする。勿論、著作権的には問題がある。将来、削除依頼があり、コンテンツが削除されるかもしれぬ。だが、作品をつくったものが善意であり、きっと多分、当人を楽しんでくれるなら、この動画がネット上に存在する意義・意味はあるのだと、私は思っている。その動画明日は、YouTubeのP2P的側面を紹介する。追記:ここでひとつ大きなことに気づいたので開陳する。日本のインターネットは、\ouを相手に展開してきた。だが、これからはYouの時代である。Youに誠実につきあっていれば、いつしかYenも関わってくるし、ビジネスにもなる。そういう目でインターネットを見つめなければならないのかもしれない。\ouの時代から、Youの時代へ…。それが、美しい国ということだろう。追記:本来はembedができれば、ブログ上に動画のブラウザーを提示できるのだが、それができぬのが残念。ぜひとも、リンクをたどって行って欲しい。
2006年11月02日
メディアを使った言論空間は、非メディアなく空間をつくることでメディアの価値を高めることで成立する。メディアとは市場に喩えることができる。ならば、ご近所同士の物々交換がP2Pということになる。メディアは品揃えのために在庫を抱えなければならぬストック型。P2Pは在庫ゼロのフロー型。アマゾンの挫折を知っているネット者たちにはどちらが優位かは論じるまでもない。☆近所で物々交換が成立してしまい自給自足ができれば、誰も市場に足を伸ばさなくなる。地産地消(その地でつくって、その地で消費すること)。それではローカルばかりでグローバルがないとの孤立する。そういう構造の不備を指摘する人もいるだろう。だが、心配はいらない。近所のどうしの物々交換はクラスター(葡萄の房)といってもいいものであるが、その周辺部分はとなりのクラスターとつながっている。したがって、ローカルが孤立することはない。また、ときにランダムなサイクルで行商がやってきて、孤立した地産地消を解消する。行商からもたらされた物資はローカルで流通し、結果として、ローカルな人たちのすべてががグローバルメディア(市場に行った)に接したのと同じ状況を生み出す。モデルはこんな感じ。クラスターを持つネットワーク。公文俊平氏の「情報社会学序説」という本に載っていた。クラスターなコミュニケーションとそれを越えたアトランダムなコミュニケーションが混在すれば、コミュニケーションはひとつのコミュニティーとなる。公文氏はスモールワールドという語をつかいコミュニティーの存在を指摘している。☆私は、将来のメディアとP2Pの有様はこんな感じだと思っている。否、現実でも情報伝達の実際はこのようなものではないか。マスコミとは簡単にいえば、有償で取引される情報のことだ。受け手が対価を支払わなくても、広告主がそれを代行すれば意味は同じである。では、その有償取引の情報伝達は、すべての情報伝達のうちのどれぼどの割合を占めているのだろうか。確かめることはできぬが、私にはそれが1パーセント以下ではないかとイメージする。多少オゲレツな表現になるが、有償取引をされるエッチは、世の中のすべてのエッチの中の僅かであろう。保険会社は、妻の家事労働の対価を査定しているから、妻のエッチは有償取引なのかもしれぬ。ま、それは戯言だろう。真剣な愛の営みをちゃかしてはいけない。有償取引のセックスと、無償の愛で行うセックスは明らかに異なる。海外サイトなどで動画に接しているネット者・好事家ならば理解していただけるだろう。余談であるが、保険会社は夫の家事を労働として認めていない。つまり、夫のエッチは有償取引ではない。保険会社は、「長屋の花見酒」を許さぬための制度をつくったに違いない。とても納得するのだが、なんともやり切れぬ思いがどこかに残る。(^^;)☆新車をディーラーが売り、中古車販売店が再販していく。たとえ海外から東京にやってきた赴任者と帰任者の間で車が取引されようとも有償だ。そういうコミュニケーションモデルと、情報は決定的に異なるのである。異なった原因は、オリジナルから直接受け取る場合とそうでない場合に、価値の差がないことにある。「地産地消」「負荷分散」など、P2Pの時代がやってくる必然を感じされる要件は多い。否、実はメディアが台頭していた世の中であっても、世の中の営みの基本はP2Pであった。そのことに気づかされるのが、この2006年秋といえるだろう。
2006年10月26日
YouTubeと日本テレビのニュースを比較しながら、P2Pとメディアについて、解説した。だが、YouTubeがP2Pに似ているだけであって、YouTubeが将来訪れるP2Pのそのものではない。メディアの論理に従わずに、情報をアップできる。そこがP2P的であるだけだ。YouTubeのサイトに行って、動画を見るという情報消費行動そのものはメディア的なコミュニケーションだ。ならば、今後のP2P的コミュニケーションにおける情報コンテンツはどうなるのかについて説明したい。否、私が提示するような形にならなければP2Pパブリック・コミュニケーションは成立しない。私があえて指摘しなくても、そのようにコンテンツは変形されていくに違いないが、とりあえず指摘してしまおうというのが、私のスタンスだ。【P2P型情報の特長は、有意味なキャプションと情報のコンテナ化に集約される。】簡単にいえば、P2Pは伝言ゲームだ。だから、長い伝言は簡略化され、要約化される。また、小学校のクラスの連絡網のように、最後の人は最初に廻してなどという強制はないから、情報に重要度がなければ伝言ゲームは広がらない。また、伝言ゲームの最初のソースと伝言されたものが違っていたとしても、それが伝言ゲームに参加した人にとって価値の減少を伴わないならば、伝言は続いていく。☆P2Pの情報に流通する情報とは、情報を集約された価値あるキャプション(見出し文)とモジュール化(レゴブロックのパーツのイメージしてください)されたコンテンツである。昨日紹介したYouTubeの藤田氏のクリップを見てみよう。キャプションは、「藤田東吾社長官邸直訴」や、『藤田東吾社長官邸直訴「警官集合!」』では、キャプションは自立しない。コンテンツの内容を伝えない。あるべきは、「藤田東吾氏、構造計算違反マンション事件再発を安倍首相に訴える」か、「安倍首相、藤田東吾氏を門前払い。構造計算違反マンションの販売阻止できず」だろうか。本編の動画もモジュール化されていない。9分59秒や7分28秒と、全部を見るには少し長すぎる。これでは、伝言ゲームは始まらない。マスコミが編集したように30秒程度のビデオクリップを編集すべきだろう。勿論、ローデータはローデータとしてネットのどこかに格納されており、いつでもリンクできる担保は必要だ。だが、P2Pで流通するコンテンツは、意味のある一文であるキャプションと、1分以内の動画。もしくは、100字~200字程度の要約文となるだろう。☆そのように情報がモジュール化・コンテナ化(最小単位を標準化することによって流通における障害をなくすこと)することによって、何が起こるか。ひとつはマルチキャストである。マルチメディアという概念は、メディアによってコンテンツをオーソライズしなおす作業が必要だったが、情報のモジュール化・コンテナ化がすすめばマルチキャストの障害はない。マルチキャストがすすめば、メディア変換の手間もなくなるから、変換コストもなくなり、情報のコモディティー化(日用品化)は一層すすむことになる。そのように考えてくると、HDTVなどテレビの高画質路線というのは、コモディティー化に掉さす行為である。勿論、モジュール化がビジネスマンたちに利益をもたらさないのならば、そのよな路線に活路を見出すのも理解できる。だが、高画質にすればするほど自分たちの顧客を細かくセグメント分するというジレンマがつきまとうのではないだろうか。☆もうひとつは、いままではメディア全体でコンテンツ評価がなされていたが、これからは記事単体、コンテンツ単体で評価されるということだ。倫敦橋さんによれば、おおたわ史絵さんという女医&コメンテーターのブログが炎上しているという。問題のエントリーはすでに削除されていて、全貌をうかがい知ることはできぬが、どうやら、医師であるにも関わらず、マスコミの論調をそのままなぞってしまったらしい。彼女の発言はテレビスタジオの文脈としてはやりすごされてもいいのかもしれないが、医療関係者の文脈の中では言語道断と批判されても仕方ない。彼女はテレビワイドショーという番組そのものでの批判されるのではなく、女医個人として批判されているのだ。考えてみれば、彼女はスタジオの出演者たちに彩りを加えるという意味で価値があったのだろう。そして、医師という社会的な立場と専門的な知識があるからコメンテーターとしても価値があった。だから、彼女はスタジオの文脈の中で無難な発言をしただけだったかもしれない。だが、テレビワイドショーというパッケージ性は思ったよりも希薄であり、彼女そのものが批判されることになった。それなりの風貌ということでキャスティングされたのかもしれぬが、そのことは彼女の言論を一切擁護しない。そういう厳しい現実がある。東大卒の馬鹿で売る女優はいてもいいが、現場を知ることができる医師でありながら、そのことをせずマスコミがつくりだす共同幻想に燃料を投下するような所作は社会悪だと思う。☆何のためにスタジオにコメント者がいて、ニュース番組が成立しているのか。テレビ番組制作者たちはそのことをもう一度考えてみるべきだろう。否、そうではない。同局の夜のニュースショー・ニュースゼロを見れば分かる。桜井翔くんのデスクの上にペンはない。コメントは予定調和の質問と、頷きだけだ。小学6年生の娘はそんな番組を楽しみながら見て、「チョーうける」と拍手喝さいである。あのニュースゼロと女王の教室の女優がやっていたニュースショーのドラマ「トップキャスター」と、どちらが本物っぽいかといえば、ビミョーである。夜の23時に月9ドラマの視聴率が欲しかった…。そんな、テレビマンたちの意図は見え透いているし、我が娘の反応を見れば、それはある意味成功しているのだ。
2006年10月25日
コミュニケーションの基本がP2Pであるのは当然のことである。ならば、メディアの時代があったということ自体が不自然だったのだ。募金夫婦の一件も、仲間内のカンパでしかないものを募金というジャンルに摩り替えて世の中に提示することにより、1カ月余で1億円を集めるという暴挙を成し遂げた。この件を論ずるにあたり、幼い命と切り離すことが難しいので、誤解をさけるためにあまり関わりたくないが、私は次のように2ちゃんねるに書き込んでいる。NHKの番組でイギリスナショナルギャラリーのラファエロの聖母子像を海外流出させぬための募金活動をとりあげていた。 募金した母親は、本来政府がやるべきことを市民たちが代わりにやっていることと言っていた。 社会を動かすためにやっているのだから、僅かな金でもいいし、意義があるという。 市民たちが21億円集めた時点で、イギリス議会で議案が通り、政府が23得円を拠出して、世界的名画の海外流出を防いだ。 今回の件を考えれば、当該夫婦の募金を日本政府が引く継ぐことはありえない。 そう考えてみれば、募金とカンパの違いが分かるだろう。 今回のは募金ではない。カンパだ。 1ヶ月で1億円が集まることの意味。 1ヶ月で1億円を集めることの意味。 大丈夫、2ちゃんねるが声高に裁かなくても、みんな分かっていますよ。 さて、個としての情報ディーラー(マスコミ者)たちの浅薄な行動ともかく、その本体はどうか…。2006年秋。メディアに何が起こっているかについて、明確にしておきたい。☆この秋、YouTubeがGoogleに買収された。Googleという日本支社がある企業という損害賠償先を得た日本のマスコミたちは、著作権侵害を理由に、大量のコンテンツの削除を依頼したという。YouTubeをP2Pツールと捉えるかどうかは難しいところだろうが、P2P的なメディアであることは確かだ。つまり、メディア者(コンテンツディーラー)たちが暗躍する割合の少ないメディアだという意味において…。今回の大量削除は、メディアがP2Pの脅威を感じていることを立証するケースかもしれない。だが、YouTubeを敵視する一方で、YouTubeと手を結ぼうとする動きもある。いままで埋もれていた映像が掘り起こされることによって、DVDなどの販売増に繋がる可能性も期待できるからだ。これは、映画とテレビのこれまでの歴史に似ている。テレビで映画を放送すれば映画館に来る人は少なくなる。プロ野球をテレビで放送すれば、球場に足を運ぶ人はなくなる。だが、そうだったろうか。旧作をテレビで見た人は映画の面白さを知り、新作を映画館で観たくなる。テレビで球場の熱狂を知った人は、スタジアムに行きたくなる。さまざまな摩擦と軋轢を経て、YouTubeとマスメディアの関係も同様な歴史をたどることになるだろう。☆前置きが長くなったが、とりあげたかった事件は、藤田東吾氏の首相官邸突撃未遂事件である。東京新聞を除くマスコミのほとんどは、藤田氏が自説を主張したとのみ報道した。だが、東京新聞は、テレビ露出もある有名企業が構造計算書偽造物件をかつて建設したことや新たに偽造物件が販売されつつあり、被害者が今も増えつつある危険を訴えることを報じたという。「藤田氏が違反建築マンションの販売阻止を訴える」とすれば、藤田氏の真意は伝えられるから、情報スペースの問題ではない。メディアが、広告主や政府を配慮してことの真相を明確に伝えなかったのだ。YouTubeを観れば、藤田氏が何を訴えていたのかが分かる。そして、マスコミがどういう報道をしていたのかも分かる国土交通大臣が事実を隠蔽したから、官僚は信じられない。だから、トップである安倍首相にそのまま証拠書類を提示し、事実を伝えたいということだ。藤田氏曰く、違反建築物件の竣工式が近く、新たな被害者が起きるという。マスコミが何を伝え、何を伝えなかったか。現場で藤田氏は何を言い、何を伝えたかったがよく分かる。☆きっと、オウム真理教の事件のときのように、関係者がビデオカメラを廻したのだろう。オウム真理教のときは、ビデオカメラは裁判での証拠とすることを匂わせる恐喝的な意味しかなかったのかもしれぬが、YouTubeがある今、世の中に事実のすべてがさらされる。すでに全てを失った藤田氏にもう失うものはなく、彼の行動を止めることはできぬ。きっと水面下では恐喝まがいのことは多々起きていて、自らの命されも捨ててかかっているのかもしれない。そのような魂を私たちの社会は見殺しにしていいのだろうか…。私は、西宮冷蔵の社長が雪印を告発したときのような嫌な感じに捉われている。私も無力で罪深い大衆の中の一人でしかないのだと…。最後に訂正がある。マスコミが何を伝え、何を伝えなかったか。ではない。マスコミが何をかろうじて伝えることができ、何を伝えることができなかったか。…である。私は、そのようなステークホルダーにまみれてしまったマスコミ者たちの桎梏を嘆くのみである。
2006年10月24日
メディアの時代は終わり、P2Pの時代が来ていることを指摘し続けている。モバイル時代の到来、コモディティー(日用品化)の時代という分析もあるだろうが、モバイル化は携帯ラジオが登場したときもそうだった。コモディティー化の時代は、すべての商品が価格を下げながら普及し、コモディティー化をたどるのは当然のことだといえる。2006年夏以降に起きているマスコミとインターネットを関わる事象で読み取らなければならないのは、メディアの時代が終わり、P2Pの時代が訪れようとしていることである。これは、グーテンベルグの活版印刷機登場以来の歴史的転換点である。☆代理出産芸能人夫婦、募金有資産夫婦、開頭分娩手術受入不能などの報道も、マスコミというメディアがピーピングトムでしかないことを如実に表している。大衆はすでにピーピングトムでしかないことを理解しているが、マスコミ周辺者、または迎合者たちは擁護的な論陣をはる。そして、2ちゃんねるがP2Pのメディアでしかないのに、オルタナティブメディアと誤認し、2ちゃんねるもピーピングトムであるとの批判がつづけている。そして、マスコミ自体は、P2Pのコミュニケーションから孤立しないために、ニュースソースを2ちゃんねるに探す。マスコミがネタ探しに2ちゃんねるに加わっているのではない。2ちゃんねるとマスコミが対話をしている。そういう状況があるのが、この秋、顕著な現象である。そのように2006年秋は、P2Pであることを実証するための実例にあふれた、まさに実りの秋である。勿論、地域差、領域差、個人差はある。そして、P2Pの達成度は不完全。しかし、そのことを気にする必要はない。そもそもインターネットが永遠のベータ版なのだから、不完全であることが瑕ではないのだ。そして、伝達速度が無限大になったとき、P2Pとメディアは等価であり、メディア者のバイアスから無縁ではありえないメディアなコミュニケーションよりも、効率的なコミュニケーションが成立する。私が提案しようとしているのは、P2P時代のコンテンツのあり方であり、メディアのあり方である。そして、その混乱時に沸き起こるノイズ的言論の無力化に対応している。☆P2P時代の到来を実感できぬ人たちにふたつの写真を提示する。1950年代の街頭テレビ。写真の引用元は高野光平氏のテレCM研究拠点というサイトである。テレビ誕生時の街頭テレビであり、1メートルに満たないテレビ画面に、多くの人が注目したことがよく分かる。赤い円の中にあるのがテレビだそうだ。かくも小さな画面に、個のパースペクティブが占領されていたことを集まった人たちの後頭部が証明している。まさに、あのときは、メディアの時代だった。私は当時東京都下の小学生だったが、知り合いの誰もテレビに出たことがなかったし、出た人にあったこともなかった。例外は、後楽園球場で見た長嶋茂雄ぐらいのものだ。当時のメディアに占領された個にP2Pのすべはない。電話料金は高く、手紙は時間がかかる。リアルな世界とメディアの世界は断絶していたし、圧倒的な立場をメディアは獲得していた。では、2006年はどうか…。この写真は、いわずと知れた渋谷ハチ公前。渋谷のハチ公前広場で待ち合わせをしている若者たちの中で、よっぽどのお宝映像でなければ繰り返し広告を流すばかりの巨大ディスプレイを見ている人はすくない。カウントしてみたことはないが、きっと携帯電話の画面を見つめている人たちの方が多いだろう。個のパースペクティブの中で、メディアが占める領域は縮小化の一途をたどっている。そのような現状をまず認めることしか、メディアたち(マスコミ)の復権の糸口はありえぬ。というのが、私の論旨。ネットとともに成長したソフトバンク資本が携帯事業に乗り出していることをみれば、マーケットもP2P時代の到来にすでに気づいている。気づいていないのは、言論界だけ…。な、こたあない。いえない立場なだけで、気づいている。だからこそ、厄介なのだ。
2006年10月23日
「時間は夢を裏切らない、だから、夢も時間を決して裏切ってはならない」と、松本零士氏は、銀河鉄道999に書いていたそうな。んでもって、松本氏は槙原氏に「ごめん」と、あやまって欲しいそうだ。エスタブリッシュ同士の対立・摩擦というか、マス・ディストリビューションビジネスの弊害かもしれぬ。本来、送り手が送り出した情報と受け手が受け取った情報がまるっきり同じということはありえない。だが、それが当然のこととして流通している。情報の送り手は、受け手の情報の受け取り方を強いる。本来それは、プロパガンダに類することであり、忌避されるべきことだ。ならば、松本氏の作品の受け手であった槙原氏の中で、松本氏の作品が生き続け、別の文脈の中で登場したとしても、それは自然な成り行きで、批判するにあたらないのではないか…。P2Pの世界では、そのようなことが当たり前になるだろう。松本氏か槙原氏かどちらかを選ぶのは受け手たちであり、松本氏が槙原氏に文句を言ったとしても私情にすぎぬ。P2Pの時代の作品発表とは、ゴッホが絵を売るような感じだ。一端作家の手を離れてしまえば、どんな高額で取引されようとも、作家の利益にはならぬ。作家の所有者が絵を応接間に飾ろうが、便所に飾ろうが、文句はいえぬ…。たとえ、数奇な運命をたどった松本氏の作品が槙原氏の所有となり、そこで、槙原氏が書き加えて手放したとしても、その流通を止めることは松本氏にはできぬ。流通は自由であり、けっして妨げてはならぬ。これは、社会主義経済の瓦解を経験したわれわれの共通認識だろう。☆両方とも歌詞だから同じメディアだから、盗作や著作権の問題があるのかもしれぬ。とはいえ、夢と時間に擬人法を使って、裏切らないと定義することに著作権を主張することはどうかと思う。時系列は確かめていないが、槙原氏は引用元やインスパイアー元を参考文献として明示すべきだったのかもしれない。ただ、そのことが槙原氏のオリジナルさを毀損するならば、そんなことはできない。…ビジネス上の都合か。松本氏が、「時間は夢を裏切らず、夢も時間を裏切らない」との定理の正しさと重要さを確信するなら、その定理の正しさと重要さゆえに、同じ文言を言った槙原氏を同胞と讃えるべきではないか。たとえば、私は「2ちゃんねるはリゾーム」だとしているが、その語句でgoogle検索をかけても、そのような言説をする人は見当たらない。インターネットをリゾームとする人はいて、その人は私の意見に近いと思う。また、2ちゃんねるをリゾーム状と評する人はいるが、2ちゃんねるの情報がツリー状ではなく、リゾーム状だから…。インターネットをリゾームという人たちはリアルな世界からの逃走先としてインターネットをとらえている。私は、そのような言説をはる人と共感したいし、逃走した後のことを一緒に考えてもみたい。☆結局のところ、作家の手を離れてしまったら、作品は社会にゆだねられる。社会に流通している作品がどのような扱いを受けようとも、作家は嘆くことしかできぬ。その意味では、松本氏が「ごめん」って言って欲しいと槙原氏に望んでいるのも、そういうレベルのことなのだろう。だが、レコード会社の都合もあり、槙原氏にはそれが許されない。ただ、それだけのことだろう。☆日本語の夢という言葉には、幻というニュアンスがある。手に届かない目標という意味もある。私はその曖昧さが嫌いなので、寝ているときに見る意味以外に、夢という語句は使わない。将来になりたい職業は、目標であって夢ではない。希望があっても努力しなくてもいいのが夢であり、努力しなければ批判されるのが目標である。時間もそうだ。時間には時刻(real time)と時間(duration) がある。そして、永遠の時の流れも…。松本氏も槙原氏も、「希望を持ち続ければ希望は必ず叶う」といいたいのだろう。そこで裏切るというストーリーテラーの商売道具を使った松本氏の気持ちはよく分かる。きっと裏切るという言葉のマイナスのエネルギーに性的少数派である槙原氏の感性が触れ合ってしまったのかもしれない。だとしたら、松本氏は槙原氏と歓談すべきであって、恨み言を言うべきではないのではないか。この文言は、希望を持つだけで現状に甘んじてしまって努力しない人たちを批判しない。もちろん否定も肯定もしないのだが、そういう曖昧さが私には気になる。「いま生きているこの時を愛でぬ」ようなこの言葉を、禅者である私はどうしても価値を見出せない。
2006年10月19日
【メディアの時代は終わり、P2Pの時代がすでに始まっている。】それまで、「携帯電話にテレビは食われる」「次は、検索エンジンだ」と予感する人たちは沢山いたが、その実体は、メディアの時代は終了してP2Pの時代がくるということだった。それが、2006年秋の最大のニュースである。私は、2NNというニュースサイトを毎日読んでいる。2NNとは2ちゃんねるで何がブームになっているかを知らせるニュースサイトである。ニュースサイトではあるがいわゆる編集者はいない。なぜなら、2ちゃんねるのスレッドの中で更新スピードの早いものを自動的にとりあげるサイトだからだ。だから、もし運営者たちが注目する記事があり、ヘッドラインに載せたいなら、スレッドに多数の意見を書き込めばいい。もちろん、そういう作業も言論誘導であり、工作ではあり、批判はされるだろうが、禁じ手ではない。2NNはニュースサイトと書いてしまったが、それは、私の頭の中でニュースサイトとして分類されているということであって、2NNがニュースサイトということではない。2NNは検索サイト(メディアではない)である。一方、2ちゃんねるの本質とは何かといえば、誰でも参加できるチャットである。巨大掲示板などという形容があるからメディアだと勘違いするけれど、2ちゃんねらーが告知をするために書き込んでいるのではないことを忘れてはならない。2ちゃんねるの本質は、ログが残るチャットである。ならば、2ちゃんねるはほとんど地産地消(その地方で生産し、その地方で消費する)型のP2Pのひとつである。いままで、知り合いでない人の出来事は、メディアで知り、それを身近な人たちと話題にする(P2P)ということが普通だった。だが、「…ちゃんを救う会」の募金夫婦の場合は違っていた。私は、まず、2NNのヘッドラインで問題の発生を知った。その後、マスメディアがその事件を取り上げるのを知った。ここで重要なことは、私の知り合いに募金夫婦がいたのではない。見ず知らずの募金夫婦と私がP2Pでつながったこと。そして、メディアがそれを追ったことだ。そこで、2006年にインターネットで起きていることを列挙すると次のようになる。1. インターネットは既存マスコミのオルタナティブメディアではない。 既存マスコミ ⊂ インターネット(YouTubeにより、送り手主導によりマルチキャストやマルチメディアが実現するのではないことが実証された。)2. 既存ジャーナリズムの迷走は、メディアの崩壊の中のひとつの現象である。 メディア ⊂ P2P(募金夫婦により、ネットが認めたニュース価値を既存マスコミが追認するという事態が起きた。)☆第1項は、著作権という概念がコミュニケーションの阻害因子であることを実証している。情報発信者が情報発信後に権利を有するのか? わたしは貧困の中で自死を選んだゴッホを深く思う…。私は数十億のゴッホの絵を飾らずとも、数百円のポスターで満足できる。否、そんな高価なものが自宅にあったら、安心して眠ることもできぬ…。つまりは、著作権はメディア特性によって変化する。それを無視して制作者側の都合ばかりで規則をつくっても…。第2項については、ネット情報のメディアの追認が極めて恣意的に行われていることを指摘したい。募金夫婦に対する2ちゃんねるの議論にしても、「納得できる情報公開に基づいて募金活動をすべきである」でなければ、「詐欺」と等価である。と指摘しているに過ぎない。すべてを詳らかにしたわけではないが、そのようなマスコミの言説は無きに等しいと推察する。☆そして、理解に苦しむことは、ネット情報を自らのメディア構成に使うマスコミ者の殆どが、ネットを軽蔑していること。2ちゃんねるは募金夫婦の問題点を指摘しているのであって、根拠のない批判を加えているのではない。それは、テンプレートを読めば分かることだが、そういうことをしない。まるで、2ちゃんねるの発言者に賛同することが自らの立場を危うくするとでも思っているようだ。2ちゃんねるの発言の中には、玉石混交になっている状況を憂慮して、確実な情報、不確実な情報、明らかなデマ、と情報を選別する人たちもいる。批判ではなく、具体的な提案をする人たちがいる。不確実な情報を確実な情報にしようと確かめる人たちがいる。ひやかしや暴言などは一部に存在するものの、議論のメインストリームは極めて冷静であり、健全なのである。クールな熱狂。それがインターネットで起きるムーブメントである。政治家たちはいつ狙撃されてもおかしくない状況で街頭演説を繰り返す。彼らがJFケネディーの事件を知らぬはずはない。市民たちが自己発生的にムーブメントを起こすと暴動になると怖れているのは、実は為政者よりもマスコミ者の方かもしれない。
2006年10月09日
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