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月~二人の天才と残り一名 10~


らしい。
というのも、杉野を襲おうとした“死の天使たち”の少年がこともあろうに、先を越されてしまったのだ。

連合政府を悩ませていたのは別にイスラム教圏の人間たちだけではなく、マフィアと呼ばれる20世紀時代からのゴロツキたちだった。
彼らは別に“組織”とも関係なく行動しており、主な収入源は私的な賭博事業(パチンコや競馬など)であったとされる。
彼らにとってロス島はメッカのようなところだった。
ロス島にとっても彼らの主な収入源は観光にあったため、その観光のうちの娯楽部分を占める彼らは時折本性を見せるときは扱いにくいものの、欠かせない存在だった。
アマンダですら、忘れていた、と言ったら可哀そうだが、彼らにとってロス島を破壊されたというのは死活問題だった。
アマンダ自身の雰囲気や生き方は彼らも嫌ってはいなかったが、ロス島を完全に破壊した例のエレバスの大噴火がアマンダの奇策であったという噂が流れたことが彼らを刺激したらしい。
だが、彼らとて全くの愚かものではない。アマンダを狙えば月への娯楽事業への進出を画策している彼らの計画も無になってしまう。ただ、何かをせねば気が収まらない、というのが彼らの考えだった。
そこで、名前が挙がったのが杉野だった。
杉野の生存術の腕はすでに有名であり、その彼の命を奪えば、それなりに彼らとしても名前もあがるし、何となく納得がいく…といったような中途半端な動機だったらしいが、計画自体はそんなに中途半端なものではなかった。
杉野自身、後々計画を検事による調書から見た限りでは、
「生涯で最大の危機」
であったとのちに回顧している。
その計画とは、月型のセキュリティの盲点を完全についたものだった。

説明すると簡単なものだ。
この時代のセキュリティは本人の確認がすでに完全に行われていることを前提に作られているものだ。指紋、顔立ち、声、歩き方で、ほとんど誰か、わかった上で作られている。
そのセキュリティを止める方法は、その個人のデーターを入れ替える方法しかなかった。
アマンダが門限を越えて元首公邸に入るために覚えたのもそのデーターの入れ替えだった。
彼女の使った手はまず、自分のデーターをその時間に元首公邸にいるセキュリティサービスの人間の誰かと入れ替えることだった。
そうすることで、11時過ぎに家に帰ったとしても自動射殺される心配もないし、警報もならない。
自宅に戻った後で、また元に戻す。
その作業はかなり早く、ミスなくタイピングができるものなら、簡単にできる程度ものもだ。
ただし、そのシステムにはいるのが大変なだけなのだが、アマンダにしてもマフィアにしてもその方法は同じだった。
内部にいる人間を脅せばいいだけだった。
アマンダの場合は、セセキュリティサービスの長のセクハラの現場を押さえ、それに成功した。
マフィアの場合は、杉野の家を管理していた会社の借金の抵当権を握ることで成功した。
ただ、それからが違った。
彼らはセキュリティ自体の安全装置を切ったのだ。
こうすることで、杉野の家に近づいたすべての人間が殺される。
つまりは次の日、杉野が出てこないと不審がるすべての人間が杉野邸に行ってももしかしたら殺されていた可能性がある、ということだった。

結局結果を先に言えば、犠牲者はアラブ風の巻き髪のかつらをつけた白人の少年一人だった。
その狙われていた夜に、杉野は家に帰ることができなかった。
本来なら帰ってひと眠りしたいところだったが、小型犬を一匹探していたのだ。
ティーカップチワワと呼ばれる非常に小さな犬である。
この時代も麻薬や犯罪の捜査には犬が使われていた。犬の嗅覚は人の作った機械よりこの時代はまだ優れていたし、その俊敏な行動力をさらに生かす画期的な訓練法が確立されていた。ほとんどは大型犬が使われていたが、入れないような場所に入るためにこのように非常に小さな犬も中には含まれていた。
犬の頭脳等、動物の頭脳の解明も進み、より効果的な訓練を施すことができた上に、犬が考えていることも人間に伝わる機械も開発され、それを頭に埋め込むことで、犬はまさに人間のパートナーになっていた。
もちろんそれらの機会はかなり高額なものであったので、テンの愛犬たちも埋め込むことができなかったほどの代物ではあったが…
犬というのは、人間に慣れるものであることは、古代から知られていたことだが、この優秀な麻薬捜査犬もそうだった。サウザンドから連れて来られたのだが、その途中で、この犬を子犬のころから育ててきた麻薬捜査官の若い女性がサウザンドでの銃撃戦の影響で亡くなってしまったのだ。
犬は自分を育てたパートナーが亡くなったことを悟り、悲しいという意思を伝えてきたと聞いた。
それからしばらく、悲しみをこらえて新しいパートナーの下、その犬はまじめに新しい業務についてはいたものの、前のパートナーの死がよほど悲しかったのだろう。職務の途中で抜け出してしまったのだ。
おそらく犬の頭脳から送られてきた画像を見ても、向かっている先はサウザンド、目的地はその麻薬捜査官の家があったところか、思い出の公園に違いなかったが、この犬の場合、もし、途中でマフィアなどに捕まって殺されて頭の機械を解析されてしまったら大変なことになる。
そのような時にいつも白羽の矢が立つのが杉野だった。
その犬は頭のいい犬だった。
一晩逃げ回った挙句、自分の体が小さいことを武器にある女性のカバンの中に入り込み、その女性の家まで連れて行かれた…ということはわかった。
ただ、問題はその直後にその女性が家を出て、恋人らしき男性の家に行ってしまったことだった。警察から連絡を入れても出もしない。
結局ノースイーストから20キロほど離れたその田舎町で杉野は一晩を過ごし、翌朝、警察からの連絡の履歴が山ほどになっていたスケジュール帳を見て驚いた彼女からの連絡で、ようやく事情を説明し、大きな男性の手のひらにのるほど小さな犬は、ようやく杉野の手に帰ってきた。
その犬の感情を見た杉野は不憫に思った。
捨て犬として処理されるところをその女性に救われて、大事に育てられている記憶、麻薬捜査犬として訓練に耐えている様子、何よりも彼女を失った記憶。
あまり食欲もない様子でもあったし、あまり元から丈夫な犬種ではない。
心配する新しいパートナーの頼みもあり、から点滴を受けさせながら犬と会話した。
その機械はかなり高価なものであり、扱いも難しいものであったが杉野であればこなせないわけではなかったが、あえてその犬の新しいパートナーに通訳になってもらって、“死”という概念が人間より薄い犬の意識にもう彼女はどこにもいないのだ、ということを話し、サウザンドには何も残っていないだろう、ということ、これからはこの新しいパートナーとやっていかないといけないのだ、という事。おそらくたくさんの人間もこの犬と同じく悲しい思いをしていること。その若い麻薬捜査官の女性の親もその犬を心配しているという事。
その犬の眼に涙が浮かんでいるように杉野には思えた。納得できたかはわからない。とにかく今度のことでたくさんの人に迷惑をかけた。という感情だけがその犬からは帰ってきた。
その小さな犬は以前のパートナーよりも1.5倍は大きく見える新しいパートナーの左手にすっぽり包まれるように空港へ帰って行った。戦争というものは人間だけを傷つけるものではない。当たり前の話だが、人間に関係するすべての物を傷つけるのだ。

その様子を見送った後、杉野はその不思議な話をアマンダに伝えようとアマンダの私邸に向かっていた。タクシーで向かっていたのだが、その途中で自分の家のあたりに群がる野次馬たちは見た。
また、誰かが行き倒れたか、喧嘩でもあったのだろう。
最近マフィアの残党どもが町で暴れており、それらの対策を立てることが急務となっていた。だから犬一匹の捜索に杉野が駆り出されることになったのだ。

アマンダの私邸ですべてを話した後、その犬と新しいパートナーとやらの写真を見ながら
「しかし、かわいらしい犬と大きな男だな…犬が小さいからまた大きく見えるのか?体重なんか200倍は違うんじゃないか?」
とかいう色々な感想を述べたアマンダの手から渡された新聞を読んで、杉野はア然とした。
自分のマンションのセキュリティがマフィアによって切られており、自動的に自分の家の前に立った人間はすべて殺されるようになっていたこと。
杉野ほどの立場になると1フロアがすべて自分の家のため、エスカレーターから降りたら10メートルは人口の庭の中を歩かなければならない。セキュリティがしっかりしている、ということは、その間に人を簡単に殺せる武器がゴロゴロしている、ということなのだ。
「“死の天使たち”もこんな仕掛けになっていたとは思わなかっただろうな…」
この事件を皮切りにセキュリティ自体の考えが根底から変わることとなった。
しばらくは20世紀後半時代並にどこに行くにもカードが必要になるだろう。との評論家の話がTVを賑わせていた。

その頃、月ではミケーレの家で、喜色満面のラフマーン夫妻が先輩パパママの意見を聞いていた。ミケーレの息子はハイハイを始めたあたりだ。成長がはやく医者も驚くほどらしい。
ジョシュアが妊娠したのを機にこのカップルもこの間入籍した。ラフマーンとしても本来の順序が逆であることと、妹が戦地にあることもあるため、結婚式は自粛した。
「今度は女の子らしいんだよ。」
これから続けて3人生まれることになる女子の内の長女のことをラフマーンは皆に自慢していた。
「生後四か月で髪の毛が生えてるんだ。きっと嫁さんに似たかわいい娘だろう。」
しかし、その自慢されている人たちのほとんどは“嫁さん”という女性を見たことがないものがほとんどだった。ジョシュアという女性が社会の表に出てくるのは4人の子供の子育てを終えてからの話である。
名家の出身ではあったが、普通の母子家庭出身であった彼女はあまり表に出るのを好まなかった。その強い意向もあって、ラフマーンは彼女の写真と名前をマスコミに流すことを長い間禁止することになった。
その上、ジョシュアが初めて公の場と言えるミケーレの結婚式に参加はしたのだが、仕事のおかげで遅刻はしたし、大体ミケーレの結婚式も内輪だけのものだったので、彼女の顔はほとんどの人に知られていなかった。謎の美女、というのが長い間の月の民衆の彼女に対する印象だった。
ジョシュアの看護婦仲間もそうで、今回も大学時代の同級生と結婚するのだ、と言われ、コスモステーション北京に移る、との話で退職していった新人の看護婦がまさか次期元首の妻であることは誰も気づかなかったといわれている。
残念ながら、ジョシュアは9か月ほどで、看護婦生活をやめ、家庭に入ることになるが、その少ない期間の間に起こった色々な出来事は、彼女自身の生き方に後々非常に大きな影響を与えることとなったが、今のところは彼女の頭の中は新しい命と、これからの幸せな結婚生活への期待でいっぱいだったのだ。
「父親学級に参加した方がいいのかな?」
赤ちゃんを風呂に入れる方法だの、おむつを替える方法だの、色々勉強することがあるらしい。ラフマーンは家事はほとんどしなかったとされているが、子育てだけはまったく違っていた。
ショーンもラフマーンに頼まれて母親用の雑誌など色々買いに行かされていたりして、なぜ、何の関係のないこの俺が…と困っているらしい、という話をアマンダも聞いて苦笑していたという史実もある。

2081年になったばかりのころの話である。
嵐の前の静けさ、とはまさにこのころの話といっていいだろう。

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