アンティークな琥珀堂

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バウハウス



1919年のドイツで設立された世界初のデザイナースクールです。
開校にあたって初代学長グロピウスは、「バウハウス宣言」を発し、芸術と技術の統一を目指す一大芸術運動へと発展したのです。
後に近代工業を支えるプロダクトデザインの思想的原点ともなっております。

ユニークな教育と自由な校風の中、機能性と本質からくるモノの新しい形を追求しました。

その革新性ゆえに当局の度重なる干渉を招き、わずが14年にしてその歴史を閉じたにもかかわらず、参加した教授陣と育った学生の活躍も含めて、後世への影響は計り知れないものとなったのです。

1919年~1924年 ・・・・ ワイマール時代
1924年~      ・・・・ デッサウ時代
~1933年      ・・・・ ベルリン時代



バウハウスとヴァーゲンフェルトがアメリカと日本に与えたの影響について
~ヴァーゲンフェルトのティー・サービス復刻によせて ワルター・シャイフル


バウハウスの生徒だったヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルトが、イエナガラスのために、有名なティーセットをデザインしたのは1931年のことでした。
このことはバウハウスが工業製品に採用された初期の成功作に数えられていますがそれだけにはとどまりません。

イエナグラスと契約していた1931年から1935年の間、両者の間にはバウハウス宣言の目指したような作り手とデザイナーの親密な関係があり、それは特別に意義深いものでした。

バウハウスと共にヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルトの作品は、アメリカでも高い評価を得ました。

フィリップ・ジョンソンやアルフレッド・H・バールはバウハウスのあったデッサウを訪れた最初のアメリカ人でしたが、間もなくしてバールはニューヨーク近代美術館の館長としてアメリカで初めてのバウハウス展を企画しました。

そこに彼は次のような感慨深い言辞を寄せています。

「なぜバウハウスがそれほどまでに重要なのか?
それは果敢にも機械を芸術の道具に値するものだと位置付けたからだ。
大量生産にふさわしいデザインとは何かを模索したからだ。
芸術家と工業システムの間の深い溝の架け橋たらんとしたからだ。
そして最後にバウハウスの理念が世界中に与えた影響の大きさのためだ。
特にそれはイギリスやアメリカにおいては顕著である。」

ナチスが台頭した1930年代には、ドイツからイギリス経由でアメリカに逃れたバウハウスの芸術家たちがたくさんいました。

例えばラズロ・モホリ=ナギは1937年シカゴに作られた「ニュー・バウハウス」の初代学長として就任し、バウハウス初代学長ヴァルター・グロピウスと家具デザイナーのマルセル・ブロイヤーは、ハーバード大学デザイン大学院で、ヨセフ・アルバース夫妻はノースカロライナ州ブラックマウンテンカレッジで、それぞれ教鞭を取りました。

ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエもイリノイ工科大学で、ヘルベルト・ベイヤーはコロラド州アスペンにという具合にアメリカにその理念が受け継がれたのです。

1938年に開催されたニューヨーク近代美術館の「バウハウス展」においてすでに、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルトはバウハウス出身の工業デザイナーの重要人物のひとりと紹介されていました。
有名な「バウハウスランプ」やイエナグラスの「ティーセット」が工業デザインの規範の一例として展示されていました。

ヴァーゲンフェルトのデザインしたフォルムがアメリカで確固とした地位を築いたのは、1950年代からです。
卸売業のゴルドン・F・フレイザーが「現代デザイン・ショップ」のための優れたヨーロッパ製品を探していた時にめぐり合ったのがきっかけでした。

フレイザーによってヴァーゲンフェルトは新しいアメリカンスタンダードとみなされるようになり、また彼自身もデザイン上にアメリカ的な要素を活かすようになりました。

ちょうど「アトランタ・カトラリーセット」のようなアメリカ市場での商業的な成功もあり、ワーゲンフェルトはアメリカで仕事をすることも一時考えていたようです。

美術品売買の場でも再評価されています。一例ですが1992年ニューヨークのサザビーでオークションにかけられた「ヴァーゲンフェルト・ティーサービス」は8,200ドル、四年後にはロンドンで3,400スターリングポンドの値が付きました。


日本では文化と技術の西洋化=近代化が進められていたため、極めて早い時期からバウハウスが発したモダニゼーションの刺激に期待が高まっていました。

「ナショナル・バウハウス・インスティチュート」のリポートがすでに1920年代の日本の美術誌にあらわれています。1930年代には水谷武彦や山脇巌と道子が日本人留学生としてバウハウスに入学しました。
1933年には東京銀座で日本のバウハウス「山脇道子によるバウハウス手織物展」が開催されました。
その後1950年代と1970年代に東京国立近代美術館でバウハウス特別展が催されました。

日本には、数々のしきたりに応じて使い分けられる、特有の形をした品質の高い日用品があり、普段の暮らしに使われています。
その文化はヨーロッパのデザイナーにも影響を与えましたが、ヴァーゲンフェルトもそのひとりでした。

日本の器に啓発されて、ガラス製のふたつでひとセットのボウルを作り、それが単なる日用品であっても慎重に扱うことを求めました。

使うための必要から生まれたモノは使ってみて分かるよさがあり、そういうものは使い古されたり飽きられたりはしません。

アメリカの場合と同じように日本でも、バウハウスの展覧会を通じてより多くの人にヴァーゲンフェルトの作品が知れ渡るようになりました。

東京にある「セゾン・ミュージアム」にはティーセットやエッグコッドラー、ガラスの四角い容器など彼の作品が1995年から展示されています。

バウハウスの卓越した名作を展示するところには、必ずヴァーゲンフェルトの作品があります。
ヴァーゲンフェルト自らが自分の創作の原点はワイマール時代のバウハウスにあったと強く意識していたようです。

1960年にクロピウスに当てた手紙の中で、彼はこう言っています。

「最近あなたの書いた、「バウハウスの出発点・その概念と解釈」 を読みました。
そして自分が工場で難しい決定をしなければいけない時に、自分のアイデアがいかに当時のバウハウスで学んだことから霊感を受けているのかをあらためて再確認することができました。」

それに対するグロピウスのアメリカからの返事も温かいものでした。

「仕事におけるあなたと工場の関係は、バウハウスが何を目指していたかに対する、理想的な回答であることは間違いありません。
生産工場のやり方に従ってあなたが作り出したものや、一貫した方法論は、やがて工場側の生産のあり方自体をも大きく変えているのです。
あなたのやってきたことは、私たちがバウハウスではじめに意図したことと全く同じなのです。
そのことを私はとてもうれしく思います。」

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