Suchada Online

suchadaってなあに?

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1995年、タイのスラムの教会に行ったとき、
青年たちが「スチャダー」という呼び名を
私につけてくれました。
(私の名前はタイの人には発音が難しいようです)
当時はタイ語もろくに話せない赤ちゃん状態でしたが、
その名で呼ばれるたびに「受け入れられている」
という温かさを覚えて嬉しかったのを覚えています。

信仰の確信が揺らぎ出した学生時代。
もしもスラムの兄弟姉妹に出会わなかったら
きっと全く違う人生を歩んでいたと思います。

彼らと共に信仰生活を送った1年の間に
私は再びイエスキリストの十字架を
見上げることができるようになりました。
私はなぜ生きているのか、
何のために生きているのか、
そんなことを学んだ1年でした。
いつまでも、彼らは私のいのちの恩人です。

そんな意味でもスチャダー、はある意味で
今でも私の本当の名のような気がするのです。

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「差し出す人」(2003年の日記より)

仏陀が悟りを開く前、厳しい修行の中で
疲れ果て倒れていたときに
ある村の娘さんがかわいそうに思って
牛乳粥を彼に差し出した。
彼女の名前がスジャータ。
以前、仏教の授業で習ったことがある。

わたしのタイでの名前、スチャダーは、
スジャータがタイ語に変化したものだという。
自分自身のあり方や生き方に迷うときには、
牛乳粥を差し出した娘さんの映像が浮かぶ。

今はもう、誰もわたしをその名で呼ばないけど、
これからもずっとスチャダーでいられたらと思う。
いつもわたしの持っている牛乳粥(福音)を、
目の前の人に差し出す人でいよう。
自分がどんなに小さくても足りなくても、
この粥は決して尽きることがないから。




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