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貰い物(ハル様作破れた恋と太陽の模造品)
今日子の髪を掻き上げるとそんな思考が頭を過ぎりフッと溜息がもれる
「どうしたの?伊玖磨。そんなキザな溜息ついて」
「うん?そんな風に見えた?」
「なんか一昔前のトレンディドラマみたい。あまりカッコよくはないけどね」
「そのあまりカッコよくもない俺とトレンディドラマみたいなシチュエーションでキスをするんだろ?ムード満点じゃないか」
ちょっとしたユーモアのつもりだったがあまり面白くなかったようだ
今日子の口から愛想笑いが漏れる
「ちょっと考え事してたんだ。
仕事は思うほど上手くいかないけどプライベートはこうやって今日子と上手くいってる」
「気持ちが先に立つプライベートと違って仕事は能力主義だろ?
俺ぐらい暑苦しい性格で仕事が情熱主義ならいいのになって思ったんだよ」
「確かに、伊玖磨の本当暑苦しい性格とユーモアだけは認めるけどね
そこに魅かれてこうして此処にいるワケだしね」
「お風呂、先に浸かってくるから待っててね、伊玖磨。」
今日子はするするとパンツースーツの上に羽織ったオーバーコートを脱ぐ
スーツの上からでもボディラインがよく分かる
今日子は間違いなく良い女だ
まず慈悲に満ちている
俺達はよく話しをする
仕事でコンビを組む事も多いし映画や音楽の趣味はピッタリだ
丸みを帯びた女性本来のたおやかさを感じさせる肢体はとても強く俺をひきつける
俺はどうだ?考えてみる
俺は…仕事じゃミスもあるが営業一年生としちゃ優秀な方だし、ホープとも言われている
よく言えば誰からも好かれる、八方美人な性格は営業に向いていると思う
結果を出せば直ぐにでも出世できそうでもある。上々だ
見た目だってそう悪くは無いつもりだ
私事でも同期に今日子のような女性に巡り合えた
よく笑う女だ。笑顔がいやらしくなく元気で、太陽みたいな女だ。
まるで学生のリクルート活動のテンションをそのまま職場に持ってきたような明るさ。
かといって学生気分が残っているワケでなく、責任感も強く仕事も出来る
仕事の上では完璧なコンビだし、息も合っている。
大学のミスキャンパスと付き合っているような完璧さがここにある
どこをどうみても俺の理想だ
彼女さえいなければ…
翌朝俺は普段より早めに出社した
初めての大きな仕事を任され早朝から準備する必要があるからだ
「横山主任、早いですね、俺が一番だと思ってたのにな」
途端に極上の笑みが返ってくる
「實藤君とコンビを組むのは研修以来だしね。上司の私がシャキっとしないと」
横山美由紀
一浪して大学を出た俺と同い年だが会社では一年先輩だ
入社2年目にして急成長を遂げつつある株式会社ライジングの営業主任を任される才媛
高嶺の花、そんな言葉が浮かんで仕方ない女だ。おまけに恋人はプロのレーサーらしい、どこにそんな漫画みたいな設定を持つ人物がいるんだろうかと目が丸くなる。
何処か付け入る隙などないものだろうか等と目のピントをぼかして黙考する
ふいに紙コップが差し出される
「ほら實藤君。そんな眠そうな顔してちゃダメだよ。コーヒーはブラックしか飲まないんだよね?」
彼女は眠気覚ましのコーヒーを差し出してくれた
「僕だって甘いコーヒーを飲む事はあります。健康に気をつかって豆乳ラテなんてのも飲むんですよ。」
俺はコーヒーを受け取りながら、おどけて拗ねてみせた
「でも同時にタバコも吸うわ。それじゃ体に悪いばっかりなんだから」
「もう…、言い合いじゃ敵わないんだから…。書類の準備さっさと済ませて出かけましょうよ。荒川さんって時間にうるさいんですよ。一秒でも遅れるとネチネチ責めてくるんだから。」
「あ、私去年担当だったから知ってるわよー、あの人の前世は絶対ヘビかトカゲだね。」
朝の他愛ない時間、他愛ない会話。
今日子も
他の同期や先輩もまだ出社していない時間
横山美由紀とこうして過ごすのは、なんというか爽やかな時間の流れに乗っている様に感じられる。彼女の行動、発する言葉、感情、その全てに注意を向けさせられる。
今日子は太陽の様に明るい女だが彼女は…
表現のしようも無いのだが、敢えて言うなら優しい月、他とは何かが違う…
「ほらほら實藤伊玖磨っ!ぼぅっとしてないで早く出発するよ。」
美由紀の明るい声にハッとなる
気が付くと他の社員もぞろぞろとタイムカードを押し始めている。
今日子もいた。通常出勤の時間帯だ、そろそろ出ないといけない
「おはよう實藤君、始めての大きな仕事だね頑張って」
今日子は拳をぎゅっと握って労いの言葉をかけてくれる
「ありがとう村田さん。まぁダメで元々だし、気負いはしてないよ」
職場で俺と今日子は姓で呼び合う。ルールというワケではなく暗黙の、という事だ
何故だか後ろめたさがあり、今日子に必要以上に微笑んで見せた
今日子も満面の笑みだった。
コーヒーごと感情を一気に飲み干して横山美由紀との初陣に出立する
株式会社ライジング
有料老人ホームをメイン事業に介護関係事業に手を伸ばす現在急成長中の会社だ。
同業他社と比べても大きな成長をみせ業界第三位の業績をみせている。
純粋な介護系の会社としては第一位だ。
近々株式市場マザーズ上場もささやかれているトコロだ。
飛ぶ鳥を落とす勢いで業績を上げるサンライズだが、老人ホームは作れば人が集まってくれるものではない、法外な入居金に月額費用を考えれば『裕福』である高齢者でないと入れるもではない。
それでもサンライズの老人ホームは僻地にある例外を除いてはほぼ満床に近い賑わいを見せている。俺達営業の力が大きいと思いたいものだ。
営業1年目として、小さな仕事でも契約を定期的に取れる程度の実績を、直上の上司である横山が本社に報告し、今回、横山の力添えの下でそれなりの仕事を任される事になったワケだ。
横須賀に新規に開設される『ライジング横須賀』のオープンに向けて地元の介護関係者を相手に入居者の確保を狙った中規模のプレゼン。
介護の世界で介護を受ける本人に向かって「弊社の施設を検討しませんか?」という事はしない。
被介護者の信頼する、地域の介護を切り盛りするケアマネージャーや、各種介護施設の関係者を口説き落とす。
そのためにはライジングの提供する商品、要するに設備と人材をアピールするのだが、業界トップの業績を誇るライジングといってもその価格とサービス内容を照らし合わせて割りに合うものなのか、それを納得させる必要がある。
介護の世界で過剰な設備があるからといってそれが大きなアドバンテージとなる事はない。
実際に施設を見て、スタッフを見て、仕事を見てもらう。
金の絡む話を、敏感に嫌う介護の世界の住人達に、搦め手で遠まわしに金を、仕事を無心する。
いちいち面倒臭く根回しをしなくてはいけない面倒な仕事だが、俺の心配は横須賀の介護関係者を納得させる所にはない。
抜群の微笑みと話術を武器に俺の根回しは充分に過ぎるという自信すらある。
横須賀という土地に高級車外車を買えるような入居金を払う消費者がいるのか。
それだけが悩みの種だった。
消費者がいないとすれば、そんな土地に施設を開設する会社の責任だ。
俺の営業エリアで横山主任がサポートしてくれるプレゼン。負ける気はカケラも感じない。
俺達は京急本線の汐入駅を降りドブ板通りを横に逸れた坂の上のホテルについた。
既にスタッフによってプレゼン会場が設置されていて、後は開始を待つのみという状況。
わらわらと群れをなしてやってくる介護関係者達。プレゼンを前にして100人近い人間が集まってくる
「ふふはははっ」
不意に笑いがこぼれてしまう
「どうしたの?實藤君」
「今ここに横須賀の介護関係者の8割は居ますよ。それを俺が呼びつけて、今から戦うんです。武者震いの一つも出ませんか。ねぇ、営業1年生の俺がですよ…。」
武者震いなんてウソだ。
実際に100人前後もの介護関係者を前にして、俺はこれだけの人間と戦っていたのかという驚き、そしてそれを今まとめて退治しなくてはいけないという焦燥感。
二つの感情がない交ぜになり、笑わずに正気を保つのは難しかった。
「……判るよ、實藤君。いきなりこんな人数を前にして自分の会社を売り込まないといけないんだから…。経験した事なんてないものね。でもね、私も付いてるんだから、そんなに気負う必要はないのよ。」
読まれていた。
感情を隠すことが得意な俺が、戦前に恐怖を読まれた。
隠し切れてないのか、感情を、それとも…。
「そんな難しい顔しないのっ。」
横山美由紀は突然俺の背中をドンっと力いっぱい叩いた。
「横山主任?…」
「横山家に代々伝わる気合注入法なんだから。」
とても柔らかな笑みは俺の心を解かした。
恐怖は消えないが、立ち向かう気力をもらった。
「ありがとうございます。」
「そんな小さな声じゃ会場一杯に集まるお客さん相手にプレゼンなんてできないよ。」
「マイク使うんだから大丈夫ですよ。それに…横山家に代々伝わるなんてウソでしょ。」
「ふふっ、バレちゃったね。とりあえずの緊張は解れてくれたかな?」
「ありがとうございます。」
「またありがとうって、實藤君はゴメンなさいとアリガトウが多すぎるよ。」
「本当のありがとうは、ありがとうじゃ足りないんだ」
美由紀に聞えない声でボソっと呟いた。
村田今日子は新規入居者の手続きに追われ、屋内での事務作業に忙殺されていた。
「山崎君。これの写し何処に行ったか知らない?」
同期で入社した山崎龍太郎。伊玖磨と気が合うようで、よく一緒にいる
「ちょっと待って、たしか主任のデスクにあると思うんだけど…開けてもいいのかな」
「今日中には済ませないといけない事なんだし、横山主任も嫌な顔はしないはずよ」
「それじゃぁお言葉に甘えまして、…っと」
「主任のデスク開くなら一緒にUSBもお願いね、顧客リストが呼び出せなくて」
「はいはい了解」
激務の間に不意に産まれる、時間にして1分程度の余裕。
それが今日子の思考を張り巡らせる。
伊玖磨は優しい男だ、大雑把な所こそあるが、案外と気も利く。
はたから見れば幸せそのものの理想的な恋人同士。
社内で二人の間柄を知る者は少ないが、山崎やその他の僅かな人たちからは祝福され、羨望の眼差しを受けさえする。
それより何より、確実に彼の愛情を感じる瞬間はある。紛れもなくある。
それでも時々感じるこの不安は何なのだろうか…
「頼まれた入居情報確認書の写しとUSB、これで合ってるよね?」
「あ、ありがとう。チョッと考え事しちゃってた」
「忙しいからなぁ。チョッとした余裕があると逆に何かこう…ね、考えちゃう事があるのは分かる気がするよ。どうせ實藤のプレゼンの事なんだろうけどな。」
山崎が茶化すように言う
「そんなトコ。」
「あいつ大丈夫なのかね。大雑把なようで気が小さいトコあるからなぁ…」
「大丈夫だよ。横山主任も付いてるんだし、横浜営業所でも指折りのタッグじゃないかな」
「實藤も1年生にしちゃ頑張ってるもんな。でも村田は気にならないの?あの才媛横山美由紀と一年生ホープ實藤の二人っきりの時間ってヤツ」
チョッと引っかかる
「茶化すのはよしてっ。」
少し感情的に応えてしまった
「あ、悪い、ちょっと悪ノリしちまって」
「あ、私の方こそ…忙しくて、カリカリしてるのかも。ゴメンね山崎君」
今日子はバツが悪そうに自席に引き返す山崎に謝りつつも、本来の仕事にとりかかった。
ケアマネージャーとは被介護者の介護計画を一手に担う言わば介護系の花形職種だ。
介護福祉士及びその他の医療系職種などを5年以上経験して初めて受験資格を手にする事ができる難関資格でもある。
そのケアマネージャーをしても有料老人ホームというのは特殊なモノで法的システムについて熟知する者は数えるほどもいない
10時に始まったプレゼンで、俺は午前中いっぱいをかけて、有料老人ホームとは何なのか、基礎知識を介護関係者達に叩き込んだ。
かなり噛み砕いて解り易く説明できたと思う。横山主任の補足もあり、ここは今チョッとした有料老人ホームについてのセミナー会場のようだ。
質疑応答にも応え終わると時間は12時を少し回った所だった。
再開を13時にし、参加者へ手弁当を配ると、俺は横山主任と別室で食事を摂った。
「實藤君ナイスプレゼンだったよ。」
「プレゼンったって、有老の基礎知識叩き込んだだけですからね。俺じゃ答えきれない所で随分横山さんに助けられましたし。本番は午後って感じじゃないですか?」
「そうね。でも私じゃ答えきれない所もあって、實藤君が見事に切り返してたんだしお互い様って事よ。」
「横山さんにそう言われると自信がつくなぁ。」
午後からは新規開設する横須賀施設の特徴をプレゼンする。
その確認中だった
「そういえば實藤君って浮いた話全然聞かないよね?」
「俺が?ですか。随分いきなり話題を変えますね。…仕事に着いてくので精一杯ですから。何処かに出会いでも転がってればいいんですけどね。彼女は欲しいですよ。」
今日子との付き合いは限られた数人を除いては秘密の事だ
「實藤君はセクハラ魔人だーって噂があるし、女の子には手が早いと思ってたんだけど。」
ぶふっ!!
突然のことで口の中の飯粒やお茶が飛び出そうとするのを必死で抑え込んだ。
「それは…」
「そんな慌てる所を見ると怪しいなぁ。」
横山美由紀が意地悪な笑みを浮かべて俺の表情を覗き込む。
小悪魔の様で引き込まれそうで…
「過去に一度だけですっ!同期会で飲まされて潰されて壊れちゃったんですよ。僕はむしろ奥手な方だし。……封印したい過去なんですよぉ…」
俺は横山美由紀に哀願の表情を送った
「まぁあくまで噂。でも實藤君にそんなトコがあるなんて不思議だな。」
「?」
「普段は気の小さい小心者の實藤君がって思うと、ね。」
俺は事務所でもかなり八方美人に振舞っているつもりだ。それを単刀直入に気が小さいなんて、気の小ささからくる性格だってこの人は解ってる。だれもが俺を強い人間だと思っているのに、この人は俺の弱さを知っている。
「横浜営業所って美人揃いだって噂だからね。實藤君も好きな子とかいたりするのかな?」
社内恋愛は一応禁忌になっている。どれほどが守っているかは知らないが。
「確かに可愛い子ばっかですからね。イイなって思う子は何人かいますよ」
「それちょっと知りたいな、教えてもらっていいかな?」
「ダメですよ」
おどけて呆れた顔を横山美由紀へと向ける
「じゃぁ私が實藤君の意中の人を当てるなんてのはどう?」
「想像する分には自由です」
「やっぱり最初に思い浮かぶのは實藤君の名補佐、村田今日子さんかな」
いきなり核心だっ!
心臓がバクバク音を立てるっ!感情を隠す回路が動きだすっ!
「確かにイイ子ですよね。あんな子が付き合ってくれたらいいんですけど」
「う~ん、違うのかな。じゃぁ加藤さんとかも可愛いかな」
「加藤さんも可愛いですね。」
「じゃ~實藤君大人しい子が好きそうだし…もしかしてブンコかな?」
ブンコ 金沢文子
横山美由紀の親友だ。京急駅にある金沢文庫駅と同じに読めるので彼女の同期にはブンコと呼ぶ人が多い
「金沢さんとは何度か組んだ事ありますしね。あれでいて優しくてイイ人ですよね。」
「うーん、もう事務所の目ぼしい女の子は挙げたからなー。その中の誰かか…もしかして」
「もしかして?」
「私って事もあるのかなぁ、なんちゃって」
ポカンと…そういう表現にぴったりな心持
「…好きですよ。…横山さん。」
口が滑った
いや、もう言い訳はしない。この流れなら自分に話を振る事も在り得ると、期待していた。俺には今日子がいる。それでも言ってしまった。空気が凍てついてしまった。
「そっか、私の事もね。でも冗談でもいけないよ。本当は村田さんとの事知ってるんだから」
空気が凍てついたのは俺だけだった。
話題を煙に巻こうとする発言だと捉えられた俺の失言。俺の恋の言葉。
でも、全てを見通す様な彼女の双眸は俺の恋と呼べる感情を見逃したのだろうか。
解っていて、それでいて確認したのではないのか。
「隠し通せてると思ってるのは当の本人達だけって事」
また子悪魔の様な笑顔が差し向けられる。
「結構みんな知ってるからカミングアウトしても平気かも。知っててからかっちゃってゴメンね。」
両手を合わせて舌をペロっと出した。ゴメンなさいのジェスチャー
不意に抱きしめたい衝動に駆られる。
強さと同時に抱き合わせた脆さ、儚さ。その美しい矛盾は俺に野蛮な衝動を与えた。
必死に自己を抑え込めっ!取り返しのつかない事になるっ!
「難しい顔してるね。本当にゴメンね、ちょっと調子に乗っちゃって」
「あ、ああ。そんなバレバレだったのかなって考えちゃって」
俺は瞬間に笑顔の仮面を被り直し、横山美由紀に対峙した
「ん~、知らない人と半々ぐらいじゃないかな。飯田部長は絶対知らないと思うし。」
「知られちゃマズイ人にはバレてないんですね。それなら大丈夫だ」
ホッとした。溜息が漏れた。
飯田部長にバレていなかったからではない。急場を凌いだ時にでる溜息
「プレゼン前に変な話しちゃったね。」
「そろそろ10分前ですからね。パワーポインタの準備済んでます?」
「あっ、忘れてたっ」
「僕を苛める時間があったら仕事の準備しなくちゃダメですよ」
優しい意地悪な顔、仮面じゃない表情を横山美由紀に差し向けて俺達は午後の準備に取り掛かった。
「ゴメンね、實藤君。急いで準備しよっ」
急いで席を立つ横山美由紀よりワザと遅れて席を立った。美しいシルエットを眼に、脳に、刻み込んだ。それは例え視力を失っても横山美由紀に焦がれようとする妄執。
「村田~、昼メシどうする?付き合うだろ?」
「ん~、私がお店を選んでいいなら」
「OK。じゃ金沢さんと杉田にも声かけといて」
「了解。山崎君」
今日子は書類の山に忙殺され伊玖磨の事を考える余裕を持てずにいた。
仕事を区切ってのひと段落の時間。脳を過ぎるのはやはり伊玖磨。
プレゼンは上手く行っているのだろうか?私だけが知っている伊玖磨の弱さ。
初めての大きな仕事。プレッシャーに押し潰されたりしなければいのだけど。
横山主任が着いているから大丈夫。横山主任がいるから…
今日子・山崎・同じく同期の杉田・一人先輩の金沢と面子が揃い4人は近場の女性に人気のパスタ屋で昼食を摂ることにした
「あれ?武田主任は呼んでないの?」
「ああ、佐藤部長補佐となんか打ち合わせがあるとかで本社に行ってるよ」
杉田が口を挟む
「なんでも異動に関して人事次長と話しを詰めるとかって事だけどな。他の営業所からも主任クラスが集まってるらしい。介護系に強い資格持ってるヤツは施設に持ってかれるかもって噂だぞ」
株式会社ライジングでは全社員がホームヘルパー2級以上の介護資格を持っている。
横山美由紀など才媛にいたっては社会福祉士・介護福祉士を合わせて持っている程だが、主任として優秀に機能している事を考えれば異動の対象になる事は考えづらい。
とすれば横浜営業所では、横山主任以外で一人だけ介護福祉士の資格を持ってる伊玖磨が、異動の対象になりやすいのか…
頑張って伊玖磨。営業で結果を出して異動させられないようにするの。頑張って
休みも不定期な介護職に異動させられたら私達会えなくなってしまう。
理不尽な異動の対象にならないように、今日の仕事を成功させるの
肘を張って黙考していた金沢が呟く
「そうすると施設に引っ張られそうなのは介護福祉士の實藤君だね」
余計な事は言わないで欲しい。解っている事を。言葉にしてまた認識させられるのは、なんとも言えない不安感に繋がってしまう。
「難しい顔してるな、村田」
「心配なんでしょ、實藤君このままじゃ異動第一候補になりそうなんだし」
「この話、まだ決まってるワケじゃないんだし止めにしませんか?私なんだか不安になってきちゃって」
「ん、そうだな。じゃ俺はアラビアータにするか。みんなメニュー決まった?」
今日子を除く3人は安穏としたものだった
「以上でライジング横須賀の説明は終りです、質疑応答に移りますが細部の説明など解り辛い点などありませんか?」
横山主任が側に立ってくれている。それだけの事がどれだけ力になっているのだろう。
簡単な2・3の質問に答えると「ライジング横須賀」のプレゼンは終了した。
形としては上手く行ったと言える。あとは結果が出るか。
まだ報告書や出席者へのダイレクトメールの手配などが残っている、が、今は安堵感に包まれ、横山美由紀と手を取って大きな仕事を終らせた充足感に満たされていた。
やりきった思いになりながら最後の出席者を見送る。
「プレゼン、成功したって事でしょうかね?」
「それは結果が決める事よ、實藤君。でもね、プレゼン自体は素晴らしかったと思う。ちょっと見直しちゃったよ。」
それは素直に、嬉しい言葉だった
俺と横山主任が事務所に戻ると皆が笑顔で出迎えてくれた。
「大丈夫か實藤」
「どうだった?」
「横山さんも一緒なんだから平気よ」
色んな言葉が飛び交う
俺は一直線に今日子の元へ行く。デスクは隣り合わせだ。
「イイ顔してるね。プレゼンは成功したって事でいいのかな」
「ありがとう今日子。結果が出るまでは成否は解らないけど、でもやれる事はやったよ。良いプレゼンができたと思う」
「實藤君、二人きりのときは名前で呼ぶんだね」
ニコニコしながら横山主任が近づいてきた。
「あ、いや」
「大丈夫。多分今の聞いたの私だけだから。それより村田さん。入居情報の整理、終らせてくれたみたいね。」
「あ、そうだよ今日子。デカイ仕事って何も俺だけじゃなく、今日子も入居者手続きやってて、…上手くいったの?」
「ありがとう『實藤君』。入居手続きはギリギリだけど、なんとかやっつけたよ」
「あ、また。…ゴメン『村田さん』」
俺と今日子は顔を見合わせて笑った。
定時を迎えると俺達は横浜駅西口へ飛び出した。
大きな仕事からのとりあえずの解放。俺と今日子への打ち上げだ。
チェーンの居酒屋への道中で、俺は金沢へ言い寄った
「横山さんが俺と今日子の事、知ってました。」
表情一つ変えず金沢は応える
「え、そうなんだ」
「知らん振りしたってダメですよ。どう考えても情報元は金沢さんなんだから。信頼できるからって誰かれに話すのよしてくださいよ」
俺は哀願の表情を差し向けながら金沢に頼んだ
「ふふっ。私だって決め付けちゃうんだね。うーん、そうね。これからは誰にも話さない。そういう事にしてあげる」
「やっぱりなぁ」
肩を落としてうなだれながら応える
「そういう實藤君の困ったトコ見るのが私の趣味なんだけどね」
「…このドS…」
「あはは、この子先輩に向かってドSって。實藤君がMって事でバランス取れてるんじゃない?」
「別に僕はSとかMとか…そんなのありませんよ。からかわないでください」
打ち上げは俺のプレゼンの話題で持ちきりだった
「何も實藤じゃなくてもプレゼン出来たんじゃないんですか?横山さん」
「じゃぁ聞くけどよ。龍ちゃんに有老と介護付マンションの明確な違いを説明できる?」
「それは…出来ないけどさ。實藤ちょっと意地悪だぞ」
他愛ない会話が楽しい。
龍ちゃんがいて、杉田がいて、今日子が支えてくれている。
横山美由紀への想いは、焦がれてはいけない、蓋をすべき想い。
美由紀の代替品、太陽の模造品。上手く機能しているじゃないか。
愛すべき仲間と、代替品とはいえ、よく出来た恋人。そこに愛は無いのかもしれないが…
「それでも、横山主任が居なかったらプレゼン、成り立ってなかったかもなぁ」
「認めたな實藤。主任のサポートあってこそだって」
龍ちゃんがイタズラっぽく勝ち誇った笑顔をした
「龍ちゃんも村田さんのサポートで大変だったんだろ」
「ん~、杉田も手伝ってくれたしね。村田さんと3人でなんとかギリギリって感じかな」
「そうそう、ありがとうね。杉田君、山崎君。」
「3人がかりって言っても一年生だけの仕事としては上出来よ」
横山主任からの賛辞が飛び出し、龍ちゃんと杉田は大袈裟にはしゃいだ
「美由紀は一年生の頃から一人で入居情報処理してたけどね~」
「うわっマジかよ。敵わないな横山さん」
金沢の一言に杉田が大仰に驚く
夜が更けるのは早かった、楽しい時間は一瞬でしかない
今日子が席を外すのを見て、少し遅れて席を立った。
トイレから出てくる今日子を捕まえた
「明日から連休だしさ。泊まっていくだろ?」
「…そうね。お互い疲れてるし、ゆっくりビデオでも見る?」
「俺もそのつもり。丁度よかった。静かな映画を見よう、見たいのがあるんだ」
「ん、じゃ伊玖磨に任せるね。話したい事もいっぱいあるし、ゆっくりしよう。」
ほろ酔いの杉田が気を利かせて知らん振りで目の前を素通りしてトイレに行った
「先に席に戻りな今日子。杉田とちょっと話してくるから」
「ん、わかった」
「杉田」
「あ、實藤。気ぃ利かせたのに来ちゃったのか」
「今日子は席に戻らせたよ」
「實藤さ、時々村田さんの顔を見る時の表情が冷たいぞ。あれ、気をつけた方がいいって」
「…そか。自分じゃ気づかなかった…今日子はいつも照らしてくれてんのにな」
「お前がいいヤツだってのは皆知ってるからさ。構えず自然体で村田さんと向き合いなよ」
不自然な気持ちのまま付き合っているんだ、自然体なんて元から無理なのかもしれない。
「うん、そうだよな。どっかで腹割ってな、絆みたいなの強くしなきゃな」
「そうだよ實藤。お前らお似合いなんだからさ、頑張れよ」
杉田は、村田今日子に恋してる。顔にこそださないが、普段からつるんでる俺や龍ちゃんなら分かる。今日子を裏切ったら、杉田を裏切った事になるんだな。杉田、お前を裏切るなんて、横山美由紀への恋慕とすら秤に掛けがたい友情だよ。
考え込んで、言葉を選んで、短く、はっきりと言った
「今日子を大事にする。別れる事があったとしても、…悲しませる事はしない。絶対だ。」
「なんだかしんみりさせちゃったな。すまん。」
打ち上げは終電を理由に一次会のみで終った。
俺と今日子は西口五番街にあるビデオレンタルで2本のビデオを借りた。
二人で一本ずつ選んだ。
大通りに出る。ビックカメラを越え、ヨドバシカメラを越え、ダイエーを越え、東急ハンズを越えた。
俺達は同じペースで歩いた。田舎から出てきたばかりで男の俺と、都会に生まれた女の今日子、不思議と歩くペースは一緒だった。都会人は歩くのが速いと驚いた事があったな。
幾つかのラーメン屋を越え、高架下をくぐり、回送電車しか通らなくなった踏切を渡った。
右に線路沿いに歩いて相鉄平沼橋駅が眼に入る頃、今日子が口を開いた。
「プレゼン、うまくいってよかったね」
「うん、ありがとう。結果が出るまで成否は解らないけど、横山主任がいてくれたから出来たプレゼンだけど、…ありがとう。」
「横山主任かぁ。スーパーウーマンだよね。なんだって一人で出来ちゃう。強くて、優しくて、男の世界でも負けなくて、理想だよね。女性としても凄い綺麗だし。」
「…もしかして、妬いてんの?」
「ん、いや、そういうんじゃないけど…」
「いいんだよ。妬いてもらえるって、好きでいてもらえてるって事だろ。嬉しいからさ。」
臆面も無くウソをつける自分が嫌で、でも表情を崩すことも出来なくて、歯痒くて。
「ん、じゃ、そういう事で」
今日子の顔が笑顔で明るくなった。それが可哀想な表情に思えた。
狭くて汚い1ルームマンション。九州から3月に出てきて半年だが、当初思っていた程、自炊や洗濯なんかの家事炊事が出来てない。男の部屋としては小奇麗という部屋。ホコリは舞うし日中自室に居ないから換気もなかなか出来ない。
恋人を宿泊させるには今ひとつムードに欠ける部屋。
テレビや棚の上には有名なアニメのロボットが並んでいる。ガンダムが小さい頃からの夢だった。幼年の頃は真剣にパイロットになりたかった。その名残とでもいうのか。
オタク的趣味を隠して生活し、その巣窟となっている自室に恋人を呼ぶ事に最初は大きな抵抗があったものだが、今日子は趣味の一環として別に大袈裟には取り合わなかった。
普通の事だと言ってくれた。うちの弟も好きだからと言っていた。
弟なんていない事は大分後で知った。優しいウソ。
「コーヒー煎れるから座って待ってて、今日子でも『ぷよぷよ』ぐらいは出来るだろ?それで時間潰すといいよ」
可愛らしく了解と返事して、今日子はいそいそとゲーム機の電源を入れた。
今時珍しく、今日子は俺の部屋に来るまでゲームなどした事がなかったらしい。それで今簡単なパズルゲームにはまっている。
二人であーでない、こーでないとパズルを組み立てていく。中々に楽しいモノだ。
プレイヤーに『please Mr.Lostman』を入れてBGMにした。
古めかしいマイナーな曲だと今日子は言うが、今この気分なんだよと言った
お湯を沸かしてペーパードリップでコーヒーを二人分煎れる。
今日子にはポーションミルクと角砂糖を各一個だ。
俺は濃いめに煎れたブラックを。
「コーヒー入ったぞ」
「ありがとう、伊玖磨の入れるコーヒーってなんでだか美味しいのよね」
「別にコーヒーにこだわりがあるワケじゃないぞ、キリマンジャロだの何だのって豆の名前は全然知らないし。インスタントは論外だし、コーヒーメーカーは焦げた味がしてダメ。ペーパードリップが自分で煎れるには一番適当なだけだよ。サイフォンやエスプレッソマシンなんて買っても置く場所が無いし。」
要するに、と前置きして
「大抵の一般家庭じゃインスタントかメーカーを使うんだろうって事だな。だから俺のコーヒーを美味しく感じる。」
両手でマグカップを暖かそうに握り、立っている俺を上目遣いに見つめる
「そういえばウチもインスタントだわ。だからかな、私紅茶党だもの」
「紅茶はリプトンのティーパックでも充分美味いからね」
「明日、雨が降るね。寒い季節になっていくの」
「寒くなってくる、寒さを運んでくる雨…か。芯まで冷えた体をさ、コーヒーで温めながらベランダで雨を眺めるんだ。…結構気持ちいいぞ。」
「じゃぁ、明日のお昼、そこのベランダから雨でも眺めてみよっか」
「退屈かもしれないぜ、今日子」
イタズラっぽく笑った。それを見て今日子も笑った。
「そういや今日子さ、話あるみたいな事…」
「ん、それはもう済んだからダイジョブだよ」
「え、そうなの?」
「うん。」
今日子の暖かい日差しは、俺の心に届こうとしていた。
それを気づかず、気づかない振りだったのか…今となっては。
気持ちの良い目覚めだった。
酒に弱い俺があれだけの酒を飲んで、それでいてこんな気分で起きれるのは初めてだった。
今日子は既に起きて色々と作ってくれていたようだ。
「そろそろ起きると思ってコーヒー煎れたよ。まず寝覚めの一杯ね」
シャッキリしない頭で時計を見ると昼に近い
「雨、降ってるね。雨の臭い、雨の音、雨の寒さ。そんな感じ」
「ワケ解らないけど、きっと詩人なんだね、伊玖磨」
俺はニヤッと笑った
「そしてこの臭いは…味噌汁と餃子だな。ムードぶち壊しなメニューだな」
「だって冷蔵庫に餃子しかないし、開けてもない調味料ばかりで、コンビニでキャベツだけ買ってきてお味噌汁にしたの」
「味噌汁にキャベツ?」
「そう、味噌汁にキャベツ。何か変?」
「スッゴイ変。食べたことない」
「きっと気に入るから食べてみて」
疑心暗鬼といった風で味噌汁を啜ると美味かった
キャベツの甘みと味噌の辛味が合っていた
味噌汁にキャベツを入れるのは普通か、普通じゃないか。
その事について15分程論争し、結局味噌汁にキャベツは普通という結論に達した。
「昨日さ、今日子の借りたビデオ見てる時寝てたろ?」
「うん、ちょっとつまらなかったかな~なんて」
バツの悪い顔をして応えた
「まぁつまらなくて、今日子の直ぐ後に俺も眠ったんだけどね」
「やっぱり?なにか設定に無理があるっていうか活かしきれてないよね」
「そう思う。着眼点はいいだけにガッカリだよね」
「じゃぁ、伊玖磨の借りたヤツ、タイトルなんだっけ?今から見よっか」
俺の借りたビデオをデッキに入れた。
余命を宣告された若い母親が、家族のタメに出来る事を、しなければいけないであろうと考える事を、淡々と消化していく。全体に薄暗い感じがありながらも悲壮感を感じさせない。そんな映画だった。良い映画だった。
何か使命感を刺激される…と今日子は言った。俺も同じ感想だった。
二人で雨を眺めた。季節を変える雨は寒さを届けるが、俺達はコーヒーで体を温めた。
「なんか、伊玖磨の言うとおり。雨の臭い、雨の音、雨の寒さ。そんな感じ。」
不思議そうな瞳が俺をじっと見つめる。
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