蘇芳色(SUOUIRO)~耽美な時間~

「せぬひま」第一回公演

待ちに待った、 「せぬひま」 の日。
他の演者さんには悪いのだが、私は野村萬斎さんの「三番叟」が、ただ見たくてたまらなかった。
NHK「いま裸にしたい男たち」の番組の中で、萬斎さんが「三番叟・揉之段」を踏んだ。(「三番叟」は、“舞う”とは言わず“踏む”というほど、足拍子の多い曲)
その姿の艶やかさに、圧倒される。
その時から『萬斎さんの三番叟を、ぜひ生で見てたい』というのが、最近の私の一番の望みだった。

昨夜の「せぬひま」の番組
三番三・・・茂山千三郎
鳥追舟(一調)・・・味方玄
竹生島(一調)・・・狩野了一
松虫(舞囃子)・・・・味方玄
山姥(舞囃子)・・・・狩野了一
獅子(素囃子)
獅子(素囃子)
三番叟・・・野村萬斎

大蔵流の「三番三」は、以前TVで見たことがあるのだが、萬斎さんの踏む「三番叟」に比べて、静かだという印象を受けた。
今回の「三番三」も、足拍子を踏んでいるのだが、なぜか静かな印象。
とは言え、茂山千三郎さんの着物は、胸元から腹にかけて、また袖口から肘の部分にかけて、色が濃くなっている。
よく目を凝らすと、色が濃いと思ったところは、汗で濡れていたのだ。
内側から汗と共に、じりじりとにじみ出る気迫を感じた。
あとの鳥追舟、竹生島、松虫までは、少々眠気に襲われながらも、鑑賞。

舞囃子「山姥」は、かなり良かった。
謡の内容は、相変わらずわからなかったのだが(汗)、狩野了一さんの所作や表情を見ているだけで、感じるものがあった。

獅子は2回、それぞれ流儀の違う囃子方によって演奏された。
囃子方だけで表現する獅子の姿。
番組表の解説を見ると、獅子の激しいかけ声や、静寂の後のわずかに滴る露の音を表現しているという。
じっくりと耳を澄ましてみる。
うっそうとした竹林を、縦横無尽に駆けまわる獅子。
ふと、足を止め、何かに気付き、振り向く。
急に訪れる静寂。
涼やかに滴り、響く露の音。
再び前方へと目を向け、雄たけびを上げながら走り去っていく獅子の姿。
このような映像が、脳裏に浮かぶ。
流儀による違いの聞き比べも、興味深い。

さて、ようやく萬斎さん登場。
彼が象牙色の紋付袴姿で切戸口から出てきたとき、他の演者の着物が地味だったためか、会場がぱっと明るくなった。
思わず顔がほころぶ。
「三番三」「三番叟」ともに、後見は茂山逸平くん。
いよいよ始まる。緊張の一瞬。
私が座っていたのは、脇正面の橋掛り寄り。
てっきり揚げ幕から出入りするのだと思っていたから、切戸口から萬斎さんが現れたときは、ちょっとがっかりした。
しかし何回か、橋掛りで舞う萬斎さんを、間近で見ることが出来た。
先に見た大蔵流の「三番三」に比べて、激しく力強い。
特に「揉之段」の足拍子は、舞うと言うよりまさに“踏む”。
『ああ、そうだ。この力強さ、激しさ。足拍子と太鼓や鼓の音が、直接私の心に飛び込んでくる。この感覚。これが欲しかったんだ。』
そう思いながら、瞬きをするのも惜しく、萬斎さんの動きだけを見つめつづけていた。

彼の表情を凝視していて、頭に浮かんだことば。
「狂言サイボーグ」
まさに彼はサイボーグなのだ。
ただしただの機械でできた人間なのではない。
あるときは狂言の舞台、またあるときはギリシャ悲劇の舞台。
ブラウン管の中からも登場する。
どんな媒体からでも、自らの表現力を思う存分発揮する、驚異的な才能の持ち主。
プライベートな彼は想像できず、体温すら感じ取ることは出来ない。
しかし、演者と観客という関係で出会えば、またとない至福の時を提供してくれる。

萬斎さんの著書「狂言サイボーグ」のあとがきに、一編の詩があった。

『僕は狂言サイボーグ

僕は三間四方の小宇宙
能舞台の楽屋裏に生まれた
父に改造され
母から感性を授かり
祖父に演じる喜びを教えられた

僕は狂言サイボーグ
差す手は空を切り
運ぶ足は水を滑る
胸が天を仰ぎ
頸が背中から真っ直ぐに伸びる
そのとき僕は跳ぶ

岩のごとく落ちるため
僕は聞く 観客の鼓動を
小宇宙にこだまする 放たれた声を

人間讃歌の劇 狂言を駆使して
大宇宙に発信したい
世界の人たちに知らせたい
争う気持ちより おおらかな笑いの力が
ずっと強いことを

僕は狂言サイボーグ
僕は人間 狂言師』

(『 』内、「狂言サイボーグ」野村萬斎 著 日経新聞社より抜粋)

狂言サイボーグな彼の、これからの活躍を見ていたい。
そう切望した、淡い夜。

2004年9月8日 京都・大江能楽堂

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