あったぼこしゅ

あったぼこしゅ

彼女と僕のあいだの線


 僕は短いため息を吐く。
 いつもより、鮮明に時計の音が耳に伝わる。
 今は夜中で、僕はベッドの中。
 僕は今夜も目を閉じて彼女に出会う。

 ベッドの中で目を閉じてから何分もしないうちに、僕は目を開けた。
 僕が目覚める場所は決まって、ビルの屋上なのだ。僕はそこで寝そべって空を仰いでいる。空と言っても何もない真っ暗な空だ。
 先ほどまで暗闇に居たおかげか、目が闇に慣れていた。
 僕は起きて、街を見渡す。このビルは街で一番高い。なので、街を一望することができるのだ。
僕がここに来るのは、優に五十回を超えている。
いつ頃からか、僕はこの別世界を『アナザー』と呼び、自身が住む世界を『リアル』と呼んでいた。
「あっ、いたいた」
 僕はその声とほぼ同時に振り返る。
彼女が来た。
「何見てたの?」
「街をね。何度見ても僕の世界とは全く違うからさ」
「一度・・・・・・清久の世界に行ってみたいよ」
 彼女が僕の横に来て、街を見下ろしてしみじみ言った。
「清久の世界じゃなくても、あの光の街でも行ければいいんだけどね」
アナザーには『闇の街』と『光の街』が存在している。
闇の街の中心で光の街の明かりが煌々と輝いていた。そこは半球のドームのようなものに守られていて、東京ドームに似ていた。
闇の街を唯一照らすものは、蛍のような虫。体長は1センチくらいで蛍よりも小さいが、発せられる光は蛍よりも強力だ。なので、住人は半球の容器の平面側に鏡などの反射させるものを置いて、その強力な光をさらに強力にしているのだ。彼女はそれをもって、僕のところに来てくれるので明るさに不自由することはなかった。
アナザーには朝がない。昼もない。夕方もない。それだけではなく星もなければ月もないのだ。つまるところ、宇宙という存在がない。だから、空に光はなく、光の街が余計に輝いて映る。
この街は果てしもないほどに、荒れていた。
建物は半壊状態のものがほとんどだった。人々は比較的壊れていないところで暮らしていた。しかし、その建物もいつ崩れてしまうかわからない。今、僕たちがいるビルもそうだ。
 そのせいなのか、人々の生活は活気がなかった。いつもくらい表情で生活していた。
僕はここに来ると、自分がどれだけ幸せで、恵まれた世界に生きているか思い知らされる。
 それがとっても惨めで、自分を疎ましく思うことさえある。何をしていいか分からず、思考が止まってしまうのだ。
「この頃、変なことが多いの」
 長い沈黙を破ったのは彼女だった。
「例えば?」
「例えばねぇ・・・・・・。空が歪んで見えることがあるの」
 彼女は真っ暗な天を見上げながら言った。僕もつられて天を仰ぐ。
「何となくこうやって見上げてるとぐにゃ、って歪むの。私の目がおかしいのかと思って、皆に聞いてみたらそういうところを何度も見たって言う人がいるの」
「それは・・・何の前兆だろうね」
 何だろうか。『歪む』という言葉には必ずと言っていいほど悪い意味がある。建物然り、人間関係然り。
それからいくと、空が歪んで見えるというのは何かが起こる証だろう。
そこで突然僕の視界から彼女が消え、僕は更なる暗闇へと落ちた。

 目を覚ますと、そこは自室のベッドの中。
 リアルへはいつ戻ってくるか分からない。予告もなしに僕は意識が途絶え、同時に視界も閉ざされる。不思議と疲労感や睡眠をしていない感じはまったくない。
 僕の頭の上で目覚まし時計が起床を促し始めた。
 僕はそれを止めて、ベッドから降りる。一度、背伸びをしてからカーテンを開ける。
 空は曇天だった。灰色の雲が地上を潰さんとしようとしている。
 僕の家はマンションの十五階にあるので、あのアナザーのビルと同じように街を一望できる。
「清久」
 僕はその声で街から部屋の扉に視点を移す。
「何?」
 僕は答える。
「起きているか?」
「うん」
「早く学校へ行く用意をしなさい。遅れてしまうから」
「うん」
 足音が遠ざかって行く。
 時計を横目で見ながら、僕は壁に掛けてあるハンガーの制服へと手を伸ばす。
 今のは兄だ。兄は小説を書いている。売れているのか、いないのか知らないが、時々本屋で本が平積みされている。昔から無愛想で、物に興味を持たないふりをして、実はものすごく物に執着する。そんな性格から両親は兄を見放していた。一方僕は、そんな矛盾した兄が何となく好きで、今でも喧嘩をせずに生活している。と言っても、僕も兄もそんなに気性の荒い短気な性格ではないので、喧嘩の仕様がないのだが・・・・・・。
 制服に着替え終え、昨日の夜に用意していた鞄を持ってリビングへ向かう。兄は毎朝、僕の食事の用意をしてくれる。
しかし、その兄が今朝はなぜか和服で、襷掛けをして料理をしていた。
 僕は思わず見入ってしまった。
「あぁ、座っていていいよ」
僕の視線を気にせず、兄は朝食の仕度をしている。
僕は素直に四人掛けのテーブルの席に着く。
「父さんと母さんは?」
「父上は早くに会社に行かれて、母上はまだ寝ているよ」
「そう。相変わらず母さんは朝に弱いね」
「仕方がないさ。何たって低血圧だからね。俺たちがその血を受け継がなくてよかった」
 兄が食事を僕の前に並べる。今日は白米に焼きたらことお味噌汁だ。準代表的な和食だ。
「そうだね」
「その低血圧のおかげで、俺は愛おしい弟と一緒に朝食を摂ることができる」
「それって嬉しいの?」
「嬉しいともさ。清久は俺のたった一人の理解者であり、最愛の御仁だ」
 よくもまぁ、そんな恥ずかしいことをさらりと言えるものだ。流石は小説家。
 僕は思わず兄から目を背け、箸を手に取り、お味噌汁をすすった。
 相変わらず素晴らしく美味しい。料理人になったほうが良かったのではないかと思うほどの腕前だ。
 視線を感じ、ちらりと兄を盗み見ると案の定、僕の方を見ている。その表情はまるで初孫を見守るおじいちゃんのよう・・・・・・。
「美味しいかい?」
「うん」
「そりゃ良かった。こちらも愛情を込めて作った甲斐があるよ」
 これ以上の喜びはない、と言わんばかりの笑顔を僕に向けた。
 もう、無視することにした。こんなことで戸惑っていられない。早くしないと遅刻してしまいそうだ。
 僕は急いで食べ終えて、食器を重ねて流し台に持って行こうとすると、兄がそれを制止した。
「いいよ。片付けは俺がやっておくから」
「ごちそう様」
 素直に甘えて、鞄を持って玄関へ向かう。玄関で、靴を履いた。
「いってらっしゃい」
 いつの間にか背後に兄がいて、出かけの言葉をくれる。
「いってきます」
 僕もそれに答えた。
 扉を開け、エレベーターへ向かう。ボタンを押すと、すぐに扉が開いた。今日は運がいい。乗り込んですぐに、一階と表示されたボタンを押した。
 しばらくして一階に到着した。マンションの出入り口に向かう際、近所のおばさん達や管理人さんから、「いってらっしゃい」と声をかけられ、僕はまたしてもそれに答える。
 マンションから学校までは徒歩で十五分ほど。朝の運動には最適だ。
 曇天を仰ぐと、今すぐにでも雨が降りそうだった。すっかり傘を持ってくるのを忘れた。今、家に取りに戻ると確実に遅刻してしまう。諦めよう。
 教室に入るとすぐに、窓際の最後尾の自分の席に着き、授業の用意をする。
 それが終えるまでに、前の席のクラスメイトが声をかけてきた。昨日のテレビ番組やアニメ、ドラマの話に続き、昨日家であったことなどを話した。と言っても、僕が話しているのではなく、友人が一方的に話しかけてくるのだ。僕はそれに相槌をうったり、意見や感想を述べたりした。
 その内、授業が始まった。
 僕は基本的に勉強が嫌いではない。特別好きというわけでもない。ただ、僕は集団で行動することができない。協調性とかそういうものでなくて、息苦しいのだ。多くの人に囲まれていると、息苦しくて不快な感覚に陥る。
 だから、授業中は空を眺めているか、本を読んでいるかのどちらかだ。それでも、授業の予習もしてあるし、先生に指されてもすぐに答えが言えるくらいに授業は聞いている。成績だってそんなに悪くない。だから、先生たちも僕を見逃してくれているのだと思う。
 午前中の授業も全て終わり、昼休みも過ぎ、掃除もし終えて午後の授業に突入する。
 午前中は本を読んでいたので、午後は空を眺めたりしようと決めていた。
 昼頃から雨が降ってきた。これは濡れて帰るしかなさそうだ。
 そう思いながら眺めていると、何だか空が動いている気がした。顔をもっと窓ガラスに近づける。一点だけ、歪んでいるところがある。まるで、鳴門海峡の渦巻きのようになっている。僕は目を擦って、再び同じ場所を見る。空は未だに渦を巻いていた。
見間違いじゃない。これは、彼女の言っていたものにほぼ間違いないだろう。アナザーだけではなく、リアルにも何か異変が起こっているのだろうか。
 いつの間にか、歪みは消えていた。現れていたのは一体どのくらいの時間だろうか。長いようにも短いようにも感じられた。
 今夜行ったら、このことを彼女に話さなければ・・・・・・。
 学校が終わり、家に帰ろうと昇降口に向かう。
 すると、何やら騒がしい。女子の声が特に目立つ。
「キャーカッコいい人~」
「どっちかっていうと、美人系だよね」
「誰か声かけなよっ」
 声の方に近づくと、同じクラスの女子三人が下駄箱の陰に隠れてこそこそと話している。
「何してるの?」
 僕は不思議に思い、聞いてみた。
「あっ、あのね。そこに着物のカッコいい人が傘もっているの」
「誰かのお兄さんかなっ?」
・・・・・・着物? その瞬間、嫌な予感がした。
 そっと下駄箱の陰から女子の指差すほうをこっそりと見た。
 案の定・・・兄だった。
 僕は一度頭を引っ込めてから、溜息を吐く。
「ねぇ。誰のお兄さんか知ってる?」
 女子が目を輝かして僕を見る。僕はその問いを無視して、兄の方に向かった。
「清久」
 兄が僕を見つけて、声をかけて僕に近づいてくる。それを見ていた女子が、どんな顔をしていたかは容易に想像できる。
「わざわざ持ってこなくても、濡れて帰ろうかと思ってたのに」
 僕は自分の靴を取り出して履きながら言った。
「だって心配じゃないか。濡れて帰ってきて風邪でも引いてしまったら大変だよ」
「そりゃそうだけどさ」
 僕はちらりと背後の女子を見る。未だに、顔半分だけ出して、下駄箱の陰に隠れていた。兄はそれを見つけて、人懐っこい笑顔で右手を軽く上げて振った。その直後に女子たちの歓喜の叫びが学校中に響いた。
「で、何で相合傘なのさ」
「急いでて、二本持ってくるの忘れちゃったんだよ」
 兄弟で相合傘って、聞いたことないし見たこともない。しかし、十五分すれば家に着くから、それまでの辛抱だ。
 僕はこのとき、顔から火が出るかと思うほど恥ずかしかった。丁度下校する生徒が多く、ジロジロと見られた。明日から来週からどんな顔して・・・来週? そうだ! 明日は土日で休みじゃないか。二日もすれば皆こんな些細なことなど忘れてしまうだろう。
「何か楽しいことがあった?」
立ち直った僕を見て兄が言った。自分でも知らないうちに、笑っていたようだ。いつの間にか、ガッツポーズまでしてしまっている。
「いや。何もないよ」
 咳払いを一つして、いつもの僕に戻した。
 近所のおばさんたちの微笑を横目で見ながら、マンションに到着した。
 エレベーターのボタンを押すと、またしてもすぐに開いた。それに兄と乗り込み、十五階のボタンを押す。
 十五階に到着するまで、女子の言葉を思い出していた。
 カッコいい? 美人系? 今までそんなに兄をまじまじと見たことはなかった。
 確かに、モデル体系と言えるし、睫毛は異様に長く、鼻筋が通っている。和服もとても似合っている。僕はこれが普通だと思っていたが・・・・・・。あまりテレビも見ないし、外に出ることも少ない。周りに対象物が少なすぎたことは確かだ。
「どうした?」
 兄が少し不安そうに聞いてきた。
 僕が兄を凝視することなど、そうないことだ。僕は急に恥ずかしくなって、朝から疑問に思っていたことを聞いた。
「今日は何で和服なの?」
「それは、小説家は和服と相場が決まっているからさ」
 ・・・・・・それだけの理由。本当にわけの分からない人だ。
 そのうちに、十五階に到着した。玄関の前に立ち、兄が鍵を取り出し鍵穴に差し込み、ドアを開けた。
 自分の部屋ですぐに着替えて、リビングのテレビの電源を入れる。
 もしかしたら、今日の歪みを誰かが発見したかもしれない。
 しかし、いつになってもそういった内容のものは放送されなかった。もしかしたら、アレを見たのは僕だけかもしれない。兄にも聞いてみたかったが、多分兄も見ていないだろう。
 そのうちに夕飯になった。夕飯も兄が作っていた。
「母さんは?」
「母上は清久を迎えに行くときに、どこかに出かけて行ってしまわれたよ」
「そう」
 大して気にはしない。こういうことは、三週間に一回はあるのだ。それに、兄のほうの料理が美味しくていい。母さんの味付けは他の人と違うから困る。
 夕食の片づけを手伝って、テレビも見ないで部屋に行く。どうしても歪みのことが気になった。
 僕は午後九時にベッドの中に入った。早くアナザーに行って、彼女にこのことを伝えたかった。
 それから、いつものように僕は目を瞑った。今日はいつもと違う。いつもはすぐに行けるのに、何分経っても行けない。
 その内、僕は眠りに就いてしまった。

 気がつくと、アナザーのあのビルの屋上にいた。相変わらず、最初に見たのは黒い空。
 しかし、今日は様子が違った。空にヒビが走っているのだ。それに驚いて急いで起き上がり街を一望する。
闇の街は、アナザーは崩壊へ向かっていた。
 ヒビ割れたところから、空の残骸や塵が降ってきている。地面には亀裂が走り、所々陥没していた。それに加え、小刻みな振動が続いていた。
 光の街の半球ドームには何の被害はないみたいだった。
 僕は意味が分からなくなった。ただ、呆然と崩壊の瞬間を眺めていた。僕に、この崩壊を止めることが、できるわけがない。
「清久っ!」
 彼女が来た。
 この崩壊の中、来ると思わなかった。
「清久・・・・・・」
 彼女は僕の名前を呼びながら走り寄ってくる。今日はあの半球のランプを持っていなかった。しかし、表情は読み取れた。
「これは・・・・・・どうしたの?」
 僕は尋ねる。
「あのね、昨日言ってた歪みが大きくなったの。そしたら突然天上が崩れてきて・・・・・・」
 彼女もわけが分からないみたいで、少し涙ぐんで言った。
「僕の世界にも歪みが現れたんだ」
 彼女は驚いた顔をして、街を見渡した。
「何が起こってるの? 何でこんなになっちゃったの・・・・・・?」
「僕にも分からないよ・・・・・・。とにかく、早くここから逃げないと」
 僕は彼女の返答を待たないで、手を握って走り出していた。
 僕は闇の街の中を走った。
 想像していた通り、街中にほとんど明かりはなく、気をつけなければ、すぐに転んでしまいそうだった。
 しかし、確実に僕はある一点に向かって走っていた。
「清久・・・・・・?」
 彼女が不思議そうに僕の名前を呼ぶ。
 しかし、僕はそれに答えない。
 闇の街が崩壊に向かっている中、僕たちはビルや廃屋の角を何度も曲がった。
 今走っているところが、どこか分からないくらいに。でも、足は相変わらず、一点を目指して動き続けた。
しばらくして、僕の足は速度を落とした。
そこは袋小路になっていて、もう行き場がない。しかし、僕の足は確実にその中へ進んでいった。
「清久。そこは行き止まりだよ・・・・・・」
 彼女が問いかけるが、僕は未だ無言のままだった。
 僕の足は突き当たりの壁から二メートルくらい離れたところで止まった。足元を見ると、白線が一本引いてある。しかし、その先は不自然に地面がない。
「清久!」
 彼女は危険を感じたのか、僕の手を引いた。
「もう行き止まりだよ! ここはダメだよっ!」
 彼女はこれ以上にないくらい大きな声を出した。
 そして、僕はやっと彼女の声に答える。
「いっしょに行こう」
 彼女は呆然としている。
「ど、どうしたの?」
「キミは生きなければいけない」
「な、何言ってるの?」
「大丈夫だよ。怖くなんかない」
「清久!」
「キミは世界の救世主」
「え・・・・・・?」
「今、行かなければキミは死んでしまう」
「何のこと・・・・・・? ちゃんと説明してよ!」
「僕は神の使者。救世主を救うためにこの世界にきた。ここは生まれ変わりの世界。そして、キミは前救世主の生まれ変わり」
 そう、僕は神に頼まれてこの世界に来た。今までその使命を忘れていたわけではない。その使命を思い出すには、一つ条件があった。
 それは『彼女の手を握って走る事』
 その条件は満たされ、僕は使命を思い出した。
 僕は驚きを隠せない彼女を無視して、説明を続ける。
「この世界はもう、持たない。何万年と、この世界を支えてきた光の街の資源が少なくなってしまったんだ。もう、寿命だよ。これは誰にも防ぎようがないんだ。神様にも何かの決まりがあって、この世界自体に手を加えることができないらしい。その崩壊する時期が分かった頃、キミがこの世界にいることも判明したんだ。神様は焦った。さっきも言ったとおり、世界の救世主の生まれ変わりだから、次の救世主でもある」
 僕がベッドに入り、目を瞑ると神様が僕をあの白線へと導く。そして、僕は彼女と少しでも親しくなるように仕向けられた。何の意図があるかは、知らない。
「・・・・・・この世界の人たちはどうなるの?」
 今まで静かに聞いていた彼女が口を開く。
「それは、知らない。神様の決めることだから。僕は使命を果たすだけ」
「・・・・・・私はどうすればいいの?」
「僕の世界に来なければ全ては始まらない」
 彼女が目を瞑り、深く考えているようだった。それから何秒か経って、固く決意したように彼女は目を開け、真っ直ぐ僕の目を見た。
「うん。行くよ。私は清久の世界に行く」
「僕が手をつないでいるから心配しないで」
 彼女は一回だけ頷く。
 僕は彼女の手を引いて、白線の上へ並ぶ。僕らはもう一度手を固く握り合い、片足を白線の向こう側に渡す。
 自然に体重は前に向き、僕らは頭から暗闇の底へ落ちていった。
 気がつくと僕たちはリアルにいた。アナザーの白線の路地に似ていたが、確実にここは僕の住む世界だ。その証拠に、小さな空には星が微かに輝いていた。
隣には彼女がいて、僕らはまだ固く手を握り合っていた。
僕は小さくため息を吐いた。
 帰ってきた。彼女も連れてきた。これで、僕の使命はやり遂げた。これからどうするのだろう。彼女のこと、アナザーのこと。
 僕がぼんやりと考えごとをしていると、彼女が目を覚ました。
「・・・・・・清久」
「大丈夫?」
「うん」
「見てよ。キミの世界にはなかったものが、ここにはある」
 彼女は空と対峙するように見据えて、しばらくすると涙を流した。
「綺麗」
「うん。あれは、星っていうんだよ」
「ほ・・・・・・し」
「星だよ」
「星って綺麗ね」
 彼女はまた、涙を流した。
 しばらく、二人で何も話さずにいた。すると、どこからともなく、黄色い光が現れ、僕らの視線の先で停滞した。
『よくやってくれました。私たちはあなたに感謝いたします』
 恐らく、黄色い光と声は神様のものだろう。
 僕らは立ち上がり、その黄色い光を見上げる。
『辛い想いをさせたかも知れませんが、方法が他に残っていなかったのです。申し訳ありません。しかし、他の者のことや生まれ変わりの世界のことは心配しないでください』
 彼女の表情に若干の安堵が浮かぶ。
『もっと事情を話したいのですが、彼女には時間がありません。彼女の生まれ変わりの時間が迫っています』
 そう言って、黄色い光は彼女へ当てられると、彼女の体がふわりと浮いた。
「清久!」
「生まれ変わったら、僕に会いに来て」
「うん」
「色んなことを教えてあげるよ。綺麗なものをいっぱい見よう」
「うん」
「楽しいこともいっぱいしよう」
「うん」
 すでに、僕の腕では届かないほどの高さに彼女は浮いていた。
 固く握られた手も、一本二本と指が離されていく。
「それから・・・・・・いつも二人でいよう。いつでも、こうやって手を握っていよう」
「うん!」
 ついに、彼女と僕の手は離されてしまった。
 それでも僕の手は彼女を求めた。いつまでも、彼女を追った。
 しかし、彼女は神様の黄色い光へと吸い込まれてしまった。
 残ったのは、彼女の手の温もりと、僕の頬に零れた彼女の涙だけだった。
『本当にご苦労様でした。あなたに幸が降り注ぎますように』
 神様はそう言い残して、僕の視界を暗くした。

 目覚ましの音に起こされた。
 そんなことは久しくなかったことだったのに。
 彼女が神様の黄色い光に連れられたのは、二日前のことだ。
 あの夜、僕は視界を消され、いつもどおり自分のベッドの中にいた。
 記憶は残っている。てっきり、消されるのかと思っていた。
「清久」
 兄だ。
「起きてるよ」
「そう。早く支度をしなさい」
 そういうと、足跡は遠ざかって行った。
 今日は月曜日。僕は学校へ行かなければいけない。
 僕はまだ鳴っていた目覚ましの音を消して、ベッドから起き上がった。いつもどおり、カーテンを開け、街を一望する。
 空には雲一つなく、見事な晴天だった。
 僕は壁に空けてある制服に素早く着替え、鞄を持ってリビングへ向かう。
 相変わらず兄は和服に襷掛けをして朝食を作っていた。
「ちょっと待ってて、今できるから」
 兄がなにやら中華鍋で何かを炒めている。朝から何を食べさせてくれるのだろうか・・・・・・・。
「はい。できたよ」
 そう言って僕の前に出てきたのはパイナップル抜き酢豚と白米だった。
 朝から酢豚・・・・・・。いや、食べよう。兄の作る料理は全て美味しいのだから。
 そう思い、僕は豚肉を食べ、次には白米を食べ、その繰り返しで全て綺麗に食べ終えた。
「ごちそうさま」
「はい」
 それから、僕は玄関へ行き、履きなれた靴を履いて、扉を開ける。
「いってきます」
 そう言って、扉を閉めようとした刹那、その行動は兄によって止められた。
「学校まで一緒に行こう」
「は?」
 突然、何を言い出すのだろうか。
「少し、話さなければいけないことがあるんだ」
 僕が食べてるときに話せばよかったのに。帰ってからではいけないのだろうか。
「大切な話なんだよ」
「・・・・・・そう」
 いつになく兄の表情が真剣だったので、僕は何も言うことができなかった。
 エレベーター乗り場に行くと、すでにエレベーターが扉を開けて僕たちを待っていた。
 僕が不思議に思って立ち止まっていると、兄はさっさと乗り込んでしまっていた。
この状態を不思議に思わないのだろうか。
煮え切らない様子で僕もエレベーターに乗り込んだ。
一階に着くと、いつも井戸端会議をしているおばさん達や管理人さんがいなかった。
 珍しいことがあるものだと、思ってマンションを出た。
 この時間になると、通学路は学生が増えているはずだ。しかし、通りには学生が一人もいなかった。それどころか、人っ子一人いなかったのだ。
「兄さん。珍しいこともあるもんだね」
「神様が好きなものを知ってるか?」
 僕の言葉を無視して、兄は唐突に言った。
「は?」
「神様が好きなものだよ」
 意味が分からなかった。兄が僕の言葉を無視して『神様』について何かを言おうとしているも、この通りに誰もいないということも。
「わからないか?」
「わからないよ」
 とりあえずそう言った。分かるも何も、そんなこと誰も考えないし、考える必要だってないだろう。そもそも、神様は食事を摂るのか?
「神様はね、酢豚が好きなんだよ」
「・・・・・・・・・・は?」
突然何を言い出すのかと思ったら、神様は酢豚が好き? この人は何を言ってるのだろうか。
「これは冗談じゃないからね。本当のことだよ」
「信じられないけど」
「じゃぁ、何をすれば信じる? 生まれ変わりの世界のことについて話すか? 闇の世界と光の世界について話すか? 救世主の少女のことについて話せばいいのか?」
「何で・・・・・・」
 兄が知っているのだろうか。このことは口外していないはずだ。知ってるのは彼女と、神様だ・・・・・・け。
「そろそろ、気がついたか?」
「まさか」
「俺が『神様』だ」
 兄が誇らしげに言う。
 この人は気でも狂ったのだろうか。自らを神様と名乗るなんて。それこそ、神様を冒涜しているじゃないか。
「冒涜じゃない。神様が神様を冒涜してどうする」
「変態! 僕の心を盗聴したなっ!」
「変態って・・・・・・。兄兼神様に言う言葉じゃないだろ」
「自分で神様って言ってるけど、僕はどうなるんだよ」
「次期神様に決まってるだろ。清久はお馬鹿さんだなぁ。そんなことも分からないのか?」
「分かる、分からないの問題じゃないだろ!」
 僕の何かが切れたか知らないが、ここ何年と大声をだしたことのない僕がこんなに叫んでしまっている。今まで出す理由がなかっただけかもしれないし、突然信じられないことを聞かされてるからかもしれない。
「そんなことはどうだっていいじゃないか」
 よくないだろ。
「ほら。何か神様に聞きたいことがあるだろ?」
 自分で『神様』と言うのはどうかと思う。
 聞きたいこと・・・・・・。
「生まれ変わりの世界って何なの? 何で崩壊したの? 彼女はどこにいるの? 何で僕が行かなきゃいけなかったの? 何でここに住んでるの? 何で酢豚なの? 何で・・・・・・」
「ストーップ! そんなに沢山聞かれたって、一度に返せないだろ」
「だって神様なんでしょ? そのくらいやってのけてよ」
「お前、神様バカにしてるだろ・・・・・・」
 その通りだ。突然「神様だ」と言われて信じる奴がどこの世界にもいるはずがないじゃないか。ならば、納得のいく話と証拠を見せてもらうまでだ。
「まず、生まれ変わりの世界だったな。ここは名前の通り、生まれ変わる者が住む世界だ。光の街は俺の部下が働いてるところ、いわば役所みたいなところで、闇の町はこれから生まれ変わる者の待合室みたいなところだ。崩壊したのは・・・・・・っていうか崩壊させたのは、そろそろ建物古くなってたし、模様替えするの面倒くさいから全部壊しちゃったほうが楽かなぁと思って」
 そんな簡単に・・・・・・。っていうか、面倒くさいって・・・・・・。
「彼女のことは後で言うさ。次いで、清久を選んだのは二つの理由がある。一つ目は単に時期神様だから。二つ目は彼女と清久は前世で恋人同士だったから」
 恋人同士? 彼女と僕が? そりゃ、初めて会ったときも初めて会った気がしなかったし、何となく・・・・・・好きになったけど。
「他の人以上に、心が通い合うんじゃないかと思って。それと・・・・・・」
「それと?」
「未だに彼女がいない弟へ、愛するお兄ちゃんからのプレゼント・・・・・・ってところだね」
「余計なお世話だ」
「冗談だよ。本当は、まだやってもらわなきゃいけない使命があってね」
「使命?」
「それも後にしよう。早くしないと、残りの質問に答える前に学校についてしまうからね」
 学校まであと五分くらいしたら着くだろう。やはり、通行人は誰一人としていない。これも神様の力というやつなのだろうか。
「さて、俺たちがここに住んでいる訳はただ単に、それが伝統だったからだ。神様は昔から人間と一緒に住むことに決まっているんだよ。それと、酢豚の件だけどね。次期神様に話をするときには、現神様が好きなものを食べさせなければいけないんだ。無論、手作りで。ちなみに、これも伝統だよ。俺も父上に不味い茶碗蒸しを食べさせられた」
 どんな伝統だ。これは納得してもいいのだろうか。煮え切らないところがあるのだが・・・・・・。
「さてと、そろそろ使命を言ってもいい頃かな?」
 兄はそういうと校門が見えつつある学校を見た。
「彼女を護ってやってほしい」
「え?」
「彼女を護ってやってほしいんだよ」
 兄は同じことを再び言った。
「何で?」
「救世主だからに決まってるじゃないか」
 忘れていた。あんなに偉そうに言っていたのに、今更忘れていたなんて言えない。
 罪の意識を持った僕は、兄の顔を盗み見ると、兄は僕の方を今まで見たことのない嫌味な笑みで僕を見ていた。
「この世界には、人間界と天上界だけが存在しているわけじゃないんだよ。人間界を乗っ取ろうとしている地底界があるんだ。彼女はそれを防ぐための、いわば人間界の守り神でもあるんだよ」
 急に兄の表情が険しくなった。
「彼女があっち側に奪われてしまったら、こちらにはほぼ勝ち目がない。それに、清久の未来の結婚相手がいなくなってしまう」
「何勝手なこと言ってるんだよ」
 それでも、兄の表情は険しいままだった。結婚のことも本気だろうか・・・・・・。
 僕たちは校門の前まで来た。突然、兄が右の人差し指を立て、空中に円を描いた。すると、今までいなかった人たちが現れた。
「仲良くしなよ」
 僕を尻目に、兄は一言だけ残して、帰路についた。兄の周りで、女子生徒が騒いでいた。
 兄の言葉の意味が分からないまま、教室に着いた。
「ねぇねぇ! 今日、お兄さんと来てたでしょ?」
「今度家に連れて行ってよ」
「お兄さんって何してる人なの?」
「何歳?」
 教室に入ろうとした刹那、およそクラスの半分の女子が待ちわびていたように僕を取り囲んだ。
 そこをどうにか抜け出して、やっと自分の席に着けたのは担任が教室に入ってくるのと同時だった。
 僕は担任の話などそっちのけで、急いで授業の用意をしていた。
「今日は転校生がいる。・・・・・・入ってきなさい」
 再び扉が開き、転校生が入り、教卓の横で足を止めた。
 僕は気になり、そっちの方を見た。まだ顔を見れていないが、どうやら女子らしい。
「よろしくお願いします」
 転校生がお辞儀をして顔を上げた瞬間。僕の心臓は一瞬、止まったように感じられた。
僕は思わず立ち上がってしまい、教科書やノートは床に叩きつけられた。
兄の去り際の言葉はこういうことだったのか・・・・・・。
僕は一旦目を伏せ、平常を保った。そして、もう一度転校生に視線を向ける。
そこにいるのは彼女。僕の望んだ彼女。
クラスの全員が僕に注目する中、彼女が微笑んでくる。
「清久。ちゃんと会いに来たよ」
「うん」
 僕は少し嬉しくなった。僕が言ったことを覚えていたからだ。
「楽しいこといっぱいするんだよね?」
「うん」
「綺麗なものいっぱい見せてくれるんだよね?」
「うん」
 僕は一瞬、恥ずかしいような嬉しいような気持ちになった。それは、今まで感じたことのないようなものだった。
 瞬時にして僕たちはクラス全員の的となった。
 彼女は右手を差し出した。僕は自然と彼女に引き寄せられ、教室の前方に足を進めた。僕が彼女の前に立ち、差し出す右手に軽く口付けをした。まるで、社交界の挨拶のように。
「僕がお護りします。救世主」
 僕は静まりかえる教室でも、彼女にしか聞こえないような小さな声で囁いた。彼女はそれを笑顔で返した。
僕は考えなしに、やってしまった行為を少しだけ、後悔している。地底界よりも、まずはこの教室の雰囲気から抜け出す方法を考えようかと思う。

今日から、この瞬間から僕たちの物語は始まる。
僕は貫いていけるだろうか。僕は強くいられるだろうか。不安な日々も全ては、運命の歯車の下、僕たちは生きていく。

END

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