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ふああ、自分も朝5時過ぎにテレビ見てましたよ。祝!2020年の東京オリンピック開催決定!とは言うものの、、、「本当に汚染水はコントロールされているのか、本当に港湾内の0.3平米だけの問題なのか? 東電はそんなこと言っていないじゃん」とかさ。「リニア工事始めちゃおうよ、2020年に品川(無理なら相模原)-甲府間の部分開業まではやろうよ」とかさ。思うこといろいろです。自分は心情的にはイスタンブール開催を応援しておりました。日本もスペインも開催済みでしょ。でもイスラム圏ではまだですから。東と西の架け橋、というアピールも魅力的だったんですけどね。もちろん、東京の開催なら関係者も安心です。なんせ日本ですから。閉会式まで秒単位のスケジュール進行でキッチリやり遂げるでしょう。、、、再び巨大地震が来なければ、原発事故がさらに悪化しなければ、ね。つまり開催が困難になる要素がそこそこにあるってことですわ。そこで思い出すのが1940年に東京で行われる予定だった第12回オリムピックです。第2次大戦以前の世界で、大陸間の移動手段が船舶メインだった時代に、欧米以外の国で開催する、というチャンスを獲得したにもかかわらず開催2年前の1938年に開催権を返上してしまった幻の東京オリムピック。軍部の横暴のせいで泣く泣く開催をあきらめた、という単純な話でもないようです。開催しても当時の英連邦、アメリカ、中華民国はボイコットしていた可能性が高く、、、と言うか、ヨーロッパで戦争が始まるのが1939年なので開催はそもそも無理なんですけどね。むしろ自分は「オリンピックの開催権返上」を当時の日本でよく決められたなあ、と思います。今だって責任の所在は曖昧にしがちでしょ。誰も言い出しっぺになりたがらないでしょ。2020年までのこれから7年。オリンピックの準備だけでなく開催権を返上する場合についてもしっかり用意しておかねば。(もちろん考えているんでしょうけど)テレビでは1964年の東京大会との対比がほとんどです。しかし注目すべきなのは「1940年東京大会が中止に至ったプロセスと判断について」ではないでしょうか。ひょっとしたら今日は、新たな3.11の前日なのかも知れませんもの。そう思いながらの7年は結構しんどい。緊張感のある7年間ですよ。にほんブログ村
2013年09月08日
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モダンに親しむ講演会 8月・9月のテーマは岡倉天心講師はお茶の水女子大学研究員の清水恵美子先生ですよ。会場は門前仲町なので中野からは東西線で一本。3人掛けの長机を2人で利用するパターンでキャパ20名チョイの小教室。開始10分前に到着すると、席はほぼ埋まっておりました。しかも前の方の受講者はノートやペンを用意して学ぶ気まんまん。「行ってみるかあ」程度で参加した自分は気後れして一番後ろに座ります。正味で100分程度。途中休憩一回。面白かった~岡倉天心が生まれたのが1863年。1880年(明治13年)に現在の東京大学を卒業。年齢は17歳!1886年(明治19年)から欧米出張に出発、丸一年後に帰朝。めっちゃエリートさんですわ。ウィーン滞在中に「ヨーロッパは各国は気質も風物も全く違う」旨の書簡を出している。「今日世界ニハ欧羅巴ト云フモノナシ」と。古代ローマやギリシャについてこのときどのような見解だったのか、、、、、一方、「アジアはひとつである」と述べている。中国とインドを二つの強力な文明として挙げているが、イスラム文化について岡倉の言う「アジア」ではどのように位置づけられていたのか、もチョイと気になるところ。この辺り、最後に質疑応答コーナーで聞いてみようかとも思ったが、なんか市井の研究者みたいな人がガンガン質問している。素人のオレはちょっと遠慮しちゃった。岡倉天心は秋山好古(1859年生)と秋山真之の(1868年生)の間ぐらいの世代。明治日本の伸張と同じタイミング。日本人の言う汎アジアって、後年の八紘一宇的な日本中心のドグマと結び付けられがちだけど、岡倉天心の「アジアはひとつである」はどんなもんだったんだろか。情報処理の受験勉強の進み具合次第、ではあるんだが、来月行われる2回目に参加できるようなら、あらかじめ予習した上で清水先生に質問してみようかなあ・・・にほんブログ村
2012年08月26日
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日本軍のインテリジェンス著者:小谷賢価格:1,680円(税込、送料込)楽天ブックスで詳細を見る昨日図書館で気分転換がてら読み始めたら面白そう。って、つい読み続けたらまた勉強に障りが出る。借りる手続きをして続きは家で。第一章から第3章は戦前の諜報史。開戦前の交渉から山本五十六大将機の待ち伏せ、台湾沖航空戦、、、物量の違いもさることながら、日本のやることはアメリカにダダ漏れの状態だった。情報戦でも日本は負けだった・・・という訳でもなかったのね。少なくとも戦術レベルでは相手を出し抜くこともあった、みたいなエピソードも。まあ結局は負けるんだけど。むしろこの本は後半がメッチャ面白い。P.119情報部のインテリジェンスに信用を置かなくなった作戦部は、情報収集の現場から直接インフォメーションを拾い上げることとなり、日本軍における情報の流れはどんどんいびつなものになっていった。また政治家や軍上層部のレベルでは、欲しい時に欲しい情報が手に入らない、もしくはいきなり生の情報が上がってくる、といった形になり、正確なインテリジェンスによって情勢判断を行い、国策を決定していく、という構図は成り立たなくなっていたのである。!!!これ3.11の、特に原発事故初動からのウチらの政府、 そのまんまじゃないっすか!P.120インテリジェンスの過程で重要なのは、情報分析、評価を効果的に行うための情報共有である。P.123~作戦部が情報を扱いだすとどうしても戦略や作戦目的のために情報を取捨選択してしまい、最初に作戦ありきで、情報は目的を正当化するために使用されてしまうことになる。P.195~(前略)一般的に情報の政治化と呼ばれる問題であり、行動しようとする人間が情報を扱い出すと、手段と目的が入り混じるために客観的な情勢判断がむずかしくなってしまう現象である。これに対する処方箋として、アメリカの著名なジャーナリスト、ウォルター・リップマンは、「実行するスタッフと調査するスタッフをできる限り厳密に分離しておくことしかない」と述べている。P.217~暗号解読に関して言えば(中略)この分野で日本がまったく無防備であったというわけではない。それよりも深刻な問題は、日本がインテリジェンスを組織的、戦略的に利用することができなかったという組織構造や、対外インテリジェンスを軽視するというメンタリティーにあった。イギリスなどと比べると、政治家が情報を戦略的に利用する意図が低かったために、日本が戦略的劣勢に追い込まれてしまったということである。そのまま現在の多くの組織で依然として当てはまる、検討すべき事例が多数。面白い、本当に面白い本。一気読みしました。
2011年08月01日
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いわき市でのボランティアの翌日。夕方、仕事をあっさり目で終わりにしてそのまま武蔵大学の図書館で情報処理試験の午前I、IIの勉強をする。眠気が来たので気分転換にたまたまカバンの中に入れたままにしておいたこの本を読み始めたら、、、そのまま読み耽っちゃった。閉館時間ギリギリまで粘って読了する。それでも、日本人は「戦争」を選んだ著者:加藤陽子価格:1,785円(税込、送料込)楽天ブックスで詳細を見るP.42ルソーの引用から「相手国のもっとも大切だと思っている社会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいるのです)、これに変容を迫るものこそが戦争だ、といったのです」P.75~アメリカにおける歴史の誤用について「ベトナムのときには、なんの亡霊がアメリカをしばったのでしょうか~(中略)~それはアメリカにとっての『中国喪失』の体験です。」P.305~松岡洋右全権が内田康哉外相に送った電報「申し上げるまでもなく、物は八分目でこらゆるがよし。いささかの引きかかりを残さず奇麗さっぱり連盟をして手を引かしむるというがごとき、望みえざることは、我政府内におかれても最初よりご承知のはずなり。日本人の通弊は潔癖にあり。」P.322からの胡適(駐米中国大使)や汪兆銘夫人のエピソードも面白い。しかし、この本のクライマックスはやはり第5章の「太平洋戦争」だろう。P.338「天皇の疑念」で書かれた1941年9月の御前会議のやり取り。そこで使われた資料や論拠。さらに遡っての1941年7月2日の御前会議決定「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」について。アメリカが在米日本資産の凍結、石油の対日全面禁輸をするきっかけとなった仏印進駐について参謀本部の戦争班の日誌には「仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」と記されていること(・・・ということはこの見込み違いが敗戦のそもそもの原因なの?)。日本の南進に強く報復することは始まったばかりの対独戦を行うソ連へのメッセージにもなるわけか。確かにこの時点ではアメリカのソ連向けレンドリース始まってないし。P.369の[日米の兵力格差]という図もすごい。日本を100とした場合のアメリカの艦載機生産数の変化には笑うしかない。水野廣徳への言及も重要。一方でP.389からの「朝鮮の人口の16%が朝鮮半島の外へと動員されていた計算になるといいます」あたりは巻末の資料にも典拠の明示がないし、「朝鮮半島の外へ」って書き方も微妙ね。大連なり満州なりへの自発的な移動もカウントされてる可能性ありかも。序章の9.11の切り口とか「何をいまさら」的な部分もありますし、「ある団体の算出したデータによれば」みたいな、いや、まずその使用データの検証が必要だろ、と思ってしまうような資料に寄りかかって話が進んでいくところもある。でも、それはこの講座に参加した高校生が、そして我々読み手が気付けばいいこと。近現代史を考えるきっかけとなるだけではない、何かを考えるとき、どのようなアプローチで取り組むかを学べる良い本です。
2011年07月26日
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昭和史20の争点著者:秦郁彦価格:560円(税込、送料込)楽天ブックスで詳細を見る秦郁彦・編 昭和史20の争点(文春文庫)より7.ハル・ノートーは開戦通告だったのか 須藤眞志要旨まとめ「ハル・ノートが日米戦争の引き金となった」「ハル・ノートが真珠湾攻撃に踏み切ったきっかけ」「ハル・ノートはアメリカからの最後通牒」「ハル・ノートは日本に戦争を仕掛けさせるための陰謀的な挑発」かどうか「ハル・ノート悪人説」の原点は次の3点1.東郷茂徳外相の回顧録「時代の一面」に出てくる言葉2.インドのパル判事が東京裁判での意見書で引用した言葉3.スチムソン陸軍長官の日記の中に見える「この覚え書きをもって日米戦争を決意したというハル長官自身の言葉」1.について1941年12月1日の御前会議で東郷はハル・ノートについて詳しく説明実際は「中国および仏印から一切の軍隊・警察を撤収すること」「重慶政府(蒋介石政府)のみの承認」「日独伊三国同盟を太平洋地域に適用しないこと」を「満州国の放棄」「南京政府(汪精衛政府)の否認」「日独伊三国同盟の否認」と解釈。「撤兵を要求されている"China"に満州を含まれていると判断」2.について「真珠湾攻撃の直前に米国政府が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国にたいして矛をとって経ちあがったであろう」はブレークニー弁護人が東京裁判で述べた言葉を、パルがそのまま引用したもの。3.についてそもそもは、1941年11月26日にハルがスチムソン陸軍長官に電話をかけた際のハルの発言。「私はこのことから手を洗った。あとはあなたとノックス、陸海軍の手中にある」(スチムソン日記の中にある言葉)この時点ではアメリカの軍当局者(誰だろう?)は、対日戦の準備が充分に整っていないとハルに伝えている。一方、ハルは用意していた暫定協定案を手交しなかった。→何故か一方ハル・ノートには最恵国待遇による通商条約、資産凍結の廃止、円弗為替の安定などの項目も含まれている。対米戦争をどの時点で日本が決意したか-公式には1941年11月5日の御前会議「同年12月1日までに、もし甲案・乙案で妥結しなければ、対米戦争をすることに決定していた」真珠湾に向かう機動部隊が単冠湾を出航したのは1941年11月26日の午前6時ハル・ノートが野村大使に手渡されたのは日本時間の11月27日午前7時頃。ハル・ノートを論議した12月1日の御前会議で交渉打切りを決断し、翌日山本五十六は「ニイタカヤマノボレ1208」を打電した。つまり、ハル・ノートが機動部隊の引き返す機会を失わせ、真珠湾攻撃を予定通り決行させた切っ掛けとなったことは事実である。しかし日本側はハル・ノートによってアメリカ側が日本の最終案を拒否されたので予定通り攻撃命令を下したのであり、ハル・ノートの内容が過酷であったのでやむなく攻撃命令を出したのではない。結局、ハル・ノートが来ても来なくても真珠湾攻撃は行われ、日米は開戦したのである。
2011年06月29日
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ちょっとしたきっかけで、日米開戦前夜について、つまり1941年の情勢について調べています。といっても、国立国会図書館の一次資料をガッチリ調べる、と言った本格的なものではなく(本来は時間かかってもそうすべきですよね)、後年の論評をあっちこっち読み散らかす程度ですが・・・この日曜、近所の図書館でケネス・J・ヘイガン、イアン・J・ビッカートン著 高田馨里 訳 大月書店「アメリカと戦争1775-2007 『意図せざる結果』の歴史」の当該部分を読みましたが、なかなか面白かったです。正直、自分は「ハル・ノートは事実上の最後通牒と解するべきか」とか、「アメリカ側は日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたのか」とかについては、あまり興味ありません。つか、それって自分ごときが核心部分に迫ることが出来るテーマじゃないっすもん。自分にとってもっとも興味がある点は1.日本はいつ「対米戦争は不可避」という判断をしたのか2.開戦前の想定では、開戦後に一体どのように講和に持ち込むつもりだったのかの2点です。今回の「アメリカと戦争1775-2007~」は、直接その部分について書かれているわけではありませんが、真珠湾攻撃によりアメリカの戦略優先順位がナチス・ドイツから日本に変わってしまった、という部分は「なるほどなあ」と思いました。一部、重複した下りがありますが、アメリカの戦争毎に章が独立しているので、部分読みでも十分に面白い本でした。ケネス・J・ヘイガン、イアン・J・ビッカートン著 高田馨里 訳 大月書店「アメリカと戦争1775-2007 『意図せざる結果』の歴史」 より序文「戦争はあなたが望むときに始めることができる。しかし戦争はあなたの望みどおりには終わらない」-ニッコロ・マキャヴェリ「私は繰り返し強調するが、戦争は決して『他の手段をもってする政治の継続』ではありえない。逆に、戦争とは、政治的手腕や想像力の破壊的失敗、すなわち享受すべき平和的政治手段を選択肢から強制的に排除するものにほかならないのだ」-コフィ・アナン国際連合事務総長、二〇〇六年八月十一日P.280二〇〇六年、戦争は国策遂行のための適切な手段であると臆せず主張するエリオット・A・コーエンとジョン・グーチという二人の影響力のある戦略分析家でさえ、異なる言葉遣いを用いながらもアメリカ合衆国の戦争の歴史を誤読している。P.180極東では、大統領は日本に対する石油禁輸措置を講じた。ローズヴェルトは、この政策が日本による太平洋のアメリカ権益への攻撃を引き起こし、それによってアメリカによる報復の機会を生み出すだろうと十分承知しており、実際そうなると信じていた。P.183ローズヴェルトはこの攻撃(真珠湾攻撃)を完全な奇襲攻撃として描き出したが、実際には日本の攻撃は一九四一年末に実現しそうなシナリオであることを熟知していた。P.184真珠湾は、歴史的に最大の戦争におけるアメリカ合衆国の戦略的優先順位を変更することになった。ヨーロッパ戦線を最優先するという参戦以前に確認されたイギリス政府との合意に反して、アメリカ合衆国は日本を敗北させることに新たな重要性を見いだした。P.189アメリカ合衆国が最優先すべきだったのは対ヒトラー戦争のはずであったが、しかし真珠湾攻撃が、アメリカ人にとって第二次大戦のすべてを変えた。真珠湾攻撃は、すべてを飲み込む巨大な感情の渦のごとく、アメリカ国民、アメリカ政府、米軍を日本に釘付けにした。
2011年02月01日
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