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東彼杵町南部を流れる江ノ串川に懸かる滝。大樽の滝の落差は20m、小樽の滝の高さは10m。大樽の滝は2段の流れを持つ段瀑で、水量が豊富。小樽の滝は江ノ串川の枝沢に懸かっており、少ない水量で凸凹とした岩をさらさらと流れ落ちる。滝の周辺は河川公園 やすらぎの里として整備されており、公園、植物園、広場、グラウンドなどがある。春は川辺の桜が、初夏は水生植物園で菖蒲が綺麗に咲く。夏は川遊びの場となっている。河川公園 やすらぎの里。川辺は整備がされていて芝生も広がっている。家族連れでアウトドアを楽しんだり、10月中旬だったがまだ暑く、川遊びを楽しんでいる子供もいた。公園の遊具も新しいものとなっている。川を挟むようにして桜の木が連なっており、春になると桜の花が綺麗に咲き、さくらまつりも開かれているそう。川の上流、視界の開けた場所に大樽の滝がある。滝の全景。むき出しになった2段の巨岩を、多めの水量で水が流れ落ちる。一目見ると2段の滝だが、上流の方にはまだ数段の滝が続いているらしい。上段の滝。下段の滝。滝壺。水は濁っていて、水深は結構深いようだ。水生植物園。庭園のように綺麗に整備されていて、東屋がある。水仙や菖蒲が植えられており、梅の木も見られる。季節ごとに様々な種類の花を見れるようになっていて、特に初夏は沢山の菖蒲の花が綺麗に咲く。小樽の滝…があった場所。以前は駐車場から橋を渡り、そこから左へ歩いた丘を登った先にあったそうだが、現在は柵が設けられていて行けなくなっている。川へ下りてそこから岩を渡っていけば滝に行けるとの情報もあったが、軽装だったので諦めた。一目見ておきたかったものだが…↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.31
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虚空蔵山の山裾に広がる棚田。「鬼木棚田」と記されることもある。日本の棚田百選に選定されている。面積は22ha。虚空蔵山の山裾に約400枚の水田が作られており、茶畑もある。棚田は江戸時代中期から開拓されたと言われており、緩やかな山の斜面に石垣で畔を築き、下から何段も重ねる様にして棚田を形成している。1999年(平成11年)に日本の棚田百選に選定された。9月下旬には畦道に沢山の彼岸花が咲き、金色の稲穂と共に美しい秋景色を作り出す。冬は雪景色が美しい。毎年9月には鬼木棚田まつりが開催され、新米や農産物の販売や様々なイベントが行われている。中でも一番の見どころは案山子コンテストで、地元の人々が作った約100体以上のユニークな案山子たちが棚田の道沿いに展示される。棚田展望所。絶好の撮影スポットで、ここから山の斜面に広がる棚田全体を一望できる。鬼木棚田の碑。棚田展望所から見た棚田。緩やかな山の斜面にはまるで階段のように、果てしなく棚田が重なっている。訪れた時は10月中旬。ほとんどの田んぼで稲刈りが終わっていたが、数枚の刈られていない田んぼは一面に金色の輝きを見せていた。棚田展望所からの景色のパノラマ写真。展望所の近くにある小屋。中には案山子が飾られていて、無人販売もされていた。山の斜面で一番高い場所から見下ろした棚田。棚田には水田だけでなく、茶畑もある。実は日本で初めてお茶が伝来したのは長崎県で、日本一古いお茶の産地として知られる。波佐見町は山に囲まれた盆地となっていて、標高の高い場所は朝夕の寒暖差が激しく、茶の栽培に適している。波佐見町で育った茶は「波佐見茶」もしくは「彼杵茶」とも呼ばれ、広域では嬉野茶にも分類されている。山ノ上展望所。棚田の展望所で一番高い場所にある。山ノ上展望所の周辺に広がる茶畑。茶畑と棚田のツーショット。彼岸花。見頃になると畦道に沢山咲いているが、訪れた時はほとんど色褪せてしまっていた。僅かに咲いていた花は綺麗な赤を光らせていた。金色の実りを付けた稲穂。稲刈りが終わり、掛け干しされた稲穂。開田川。棚田のちょうど真ん中、東西を分けるようにしてを流れる川。水田から排出される水はこの川へと流れていき、夏季の稲作では重要な役割を担っている。中ノ川内川。棚田を流れるもう一つの川。棚田に展示されている案山子たち。鬼木棚田まつりが終わった後も、しばらくの間は案山子が棚田の道沿いに飾られている。どれもなかなかリアルに作られていて、人間と勘違いしそう。案山子は普通のものからユニークなもの、はたまた風刺じみたものまでいろいろあって面白い。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.30
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○トンテキセットトンテキ(200g)、キャベツ、ご飯、赤だしたっぷりソースのかかったトンテキ。たっぷり盛られたキャベツはトンテキのソースに浸して食べるとこれまた美味い。おかわり1杯無料。近鉄四日市駅の近くにある、トンテキ、ラーメン、中華料理店。三重県に複数の店舗を構えている。トンテキは四日市のソウルフードで、分厚い豚肩ロース肉をにんにくとラードで蒸し焼きにして、特製ソースを絡めて味付けしたスタミナ料理。ソテーした厚切りの豚肉、黒っぽい濃い味のソース、ニンニクが添えてある、千切りキャベツが付け合わせとなっているの4つの条件を満たしていると"四日市とんてき"に分類されるらしい。肉は切りきれておらず、かぶりついて食べるようになっている。その形状から「グローブ焼」と呼ばれることもあるんだとか。パンチの効いた味と旨みがやみつきになりそう。付け合わせの千切りキャベツをタレに浸して食べるとこれまた美味い。あっという間に箸が進んだ。とはいえ油っこさがすごく、胃もたれには注意だ。ライトアップで一際目立つ店の看板。メニューの看板には名物のトンテキをはじめラーメン、ホイコーロー、ギョウザなど重そうな品目がズラリ。まるでお客さんの腹に挑戦状を突き付けてるみたいだ…↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.29
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読みは「なごのおおくす」。鈴鹿市南長太町の田園に自生する、クスノキの巨樹。県の天然記念物、県指定文化財、景観重要樹木に指定されている。樹高26m、枝張り東西30m、南北35m、目通り直径2.9m、樹齢は不明(推定1000年?)。長太町の田園の中に1本だけ立つ、鈴鹿市のシンボルとも言えるクスノキの巨樹。周囲は田園となっているのでとても見通しが良く、近鉄名古屋線を走る電車からもその雄姿が眺められる。近年は樹勢の衰えが見られ、地元の方々によって枯れ枝の除去や周囲の土壌改良などの対策が進められている。2012年(平成24年)に三重県で初となる景観重要樹木に指定された。2020年(令和2年)に落雷の被害を受け、葉のほとんどが落葉し枝も一部が枯れてしまった為、現在も治療が進められている。かつて木が立っている場所に大木神社があり、クスノキそのものが神社として祀られていたと考えられている。現在も木のそばには式内社の碑が立っている。遠くから見た長太の大楠。広々とした田園の中、そのど真ん中に長太の大楠は立っている。周囲には景観を邪魔するものが何一つなく、一際大きな存在感を放っている。歩いて大楠の近くまで。長太の大楠の全体像。遠くからでも十分大きく感じられるが、近づくとそのスケールに圧倒される。長きにわたって風雨に晒されながらもずっと立ち続けている様子には力強さを感じられる。しかし2020年(令和2年)に落雷を受けた影響で葉がほとんど散ってしまい、小枝が全て裸の状態になっていた。落雷を受けていたとは知らず、本に載っていた写真とは随分違う姿だったので最初に見た時は驚いた。周辺は大楠以上に高い建造物がないため、ここに雷が落ちたらいつかは命中する運命だったんだろうが…避雷針を立てておかねばいつかまた危機に晒されそうだ。式内社大木神社の碑。嘉永年間に書かれた「勢国見聞集」にはこの地にある大楠を大木神社と言い、式内の社であるという記述があり、古くは大楠そのものを神社として祀っていたと考えられている。手前には石灯籠が一対立っており、根元には祠もなく、賽銭箱しか置かれていないことから大木信仰は今も続けられているようだ。近くに置かれていた太い枝。落雷の時に落ちたものだろうか?幹。しめ縄が巻かれている。根元の部分は空洞ができているのか、コンクリートで補強がされていた。根元周辺には新しい芽が沢山生えて葉を付けており、樹勢の回復を感じさせる。天に向かって高く伸び、大きく広がった枝。上部の枝は全体的に裸の状態だが、下部の枝には新しい葉が付いており、少しずつであるが樹勢も回復しているようだ。周囲の田んぼの稲は実りを付けていた。田んぼと長太の大楠。田んぼに水が張られた直後だと、大楠が水鏡に写り美しい光景を作り出す。特に夕方の景色は絶景。曇り空から太陽が姿を現し、後光を浴び光り輝く大楠。偶然写った光景であるものの、どこか神々しさを感じられた。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.28
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○とりめし定食 梅とりめし、小鉢、吸い物、漬物椿大神社名物のとりめし。椿大神社の椿会館の中にある食事処。椿大神社の名物、とりめしが食べられる。早速いただいたとりめしは醤油で味付けしたご飯に鶏肉、ニンジン、ゴボウを混ぜ合わせたもので、見た目は福岡県のかしわ飯に近いが、味はそちらと比べるとやや濃いめといったところ。とりめしは先代宮司の夫人が遠くから参拝してきた参拝者をおもてなしする為に作ったのが始まりなんだそうで、素朴ながらやさしい味がした。とりめし定食は梅、竹、松から選ぶようになっており、竹だとデザートが付き、松だと刺身も付く。メニューは他に茶そば、天ぷら、湯豆腐などがある。椿会館にある売店では「椿とりめし折」として弁当での販売もされている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.26
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三重県鈴鹿市 『椿大神社①』の続き。椿岸神社。主祭神は天之鈿女命(アメノウズメノミコト)で、相殿に太玉命(フトダマノミコト)、天之児屋根命(アマノコヤネノミコト)を祀る。天之鈿女命は猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)の妻神であり、また芸道の祖神として知られ、芸能、縁結び、夫婦円満の御利益がある。社伝によると、紀元前3年(垂仁天皇27年)に猿田彦大神を祀る社を「上椿社」とし、こちらを「下椿社」と称して創建されたと伝えられる。朱塗りの鳥居と社殿が特徴的。扇塚。椿岸神社の境内にある。日本の芸能には欠かせない扇を供養する為に建立されたもので、芸能、儀式、舞に使われた古い扇をここに奉納する。御輿庫。招福の玉。椿岸神社の境内にある。夫婦円満、縁結び、招福導きの玉。この玉を3回撫でながら「祓へ給へ、清め給へ、六根清浄」と3度唱えてお祈りする。かなえ滝。椿岸神社の社殿右手にある小さな滝。参拝者の間でちょっとしたパワースポットになっているらしく、この滝をスマホの待ち受けにしていると願いが叶うと言われているんだとか。ちなみにこの滝の上流には金龍明神の滝があり、そこで流れ落ちている水は神水とされており、万病に効くと言われている。龍蛇神両地神社。御祭神は龍蛇神。大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)の御使神を祀り、災難除け、水難除け、土地災難除けの守護神として仰がれている。かなえ滝より続く境内の清流。茶室 鈴松庵。松下電器産業(現パナソニック)の創業者である松下幸之助が、茶道の発展を祈念し庭園と共に寄進した茶室。1975年(昭和50年)に完成。鈴鹿市の「鈴」と松下幸之助の「松」を取り、「鈴松庵」と名付けられた。松下幸之助社。御祭神は松下幸之助命。先程も触れたが、松下電器産業の創業者である松下幸之助を祀る。松下氏は椿大神社と縁が深く、1966年(昭和41年)より何度も参拝を重ね、同年に開始された昭和の大造営においても巨額の資金を寄付している。1998年(平成10年)の帰霊十年目を迎えた時に、鈴松庵の近くに社殿を造営しここに椿大神社末社として建立された。言わずと知れた経営の神様で、国家繁栄や業績向上の御神徳があると言われている。二宮金次郎像。明治時代に椿小学校に寄贈されたが、経年劣化が進んだことで新たな金次郎像が造られるに伴い、古い像がここに奉安されている。行満堂神霊殿。猿田彦大神の神裔である行満大明神をはじめ鈴鹿七福神の一つである寿老神も祀る。また椿大神社に尽力した役員や崇敬者の御霊も祀り、慰霊顕彰が行われている。椿自彊館。2010年(平成22年)に完成した弓道場。名前の由来は易経に記されている"自彊不息"からきている。さざれ石。行満堂神霊殿前の池。レインボーグループより奉納された可愛らしいカエルの像が奉納されている。教育勅語記念碑。椿立雲龍神社。御祭神は立雲龍神。愛知県に鎮座する高座結御子神社の井戸のぞきに因む龍神を祀り、子育ての神、虫封じの神、腫れ物除去の神として崇められている。亀甲石。天然記念物に指定されている。五輪塔。1583年(天正11年)に発生した山本城攻めで焼き討ちにて亡くなられた御霊の供養塔。中央後列の五輪塔は山本城城主だった山本刑部大輔のもの。椿延命地蔵尊。平安時代後期に作られた三体の地蔵尊を祀る。首から上の病に霊験あらたかだと言われている。椿大神社の神仏習合が垣間見える。清瀬一郎弁護士顕彰碑。椿大神社が鎮座している鈴鹿市の山本町は入道ヶ岳区有地の境界を巡って長い裁判を争い、1945年(昭和20年)に清瀬一郎弁護士の尽力によって山本町が勝訴した。この石碑は清瀬一郎弁護士の大恩を伝える為に建てられたもので、毎年2回、完勝報恩祭が行われている。椿護国神社。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争で殉じた英霊八十余柱を祀る。4月13日に慰霊大祭が行われている。縣主神社。御祭神は倭建命(ヤマトタケルノミコト)、建貝児王(タケカイコノミコ)。方災解除、病魔退散、国家安泰、社会安泰、家庭安泰の御神徳がある。延喜式鈴鹿郡十九座の一つで、かつては川崎村(現亀山市川崎町)に鎮座していたが、1908年(明治41年)に能褒野神社に配祀され、1998年(平成10年)に椿大神社の摂社として遷座した。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.25
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読みは「つばきおおかみやしろ」。鈴鹿山脈の麓に鎮座する、猿田彦大神を祀る神社の総本宮。主祭神は猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)。相殿に瓊々杵尊(ニニギノミコト)、栲幡千々姫命(タクハタチチヒメノミコト)を祀り、配祀に天之鈿女命(アメノウズメノミコト)、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を祀り、前座に行満大明神を祀る。猿田彦大神は天孫降臨の際に道案内をした神として知られ、道の神、導きの神として広く信仰されており、交通安全、旅行安全、無病息災、厄除開運、商売繁昌などの御神徳がある。高山入道ヶ嶽、短山椿ヶ嶽を天然の社とした猿田彦大神が、安住地であった太古の磐座から現在椿大神社が鎮座する御船磐座に居を移したと言われている。紀元前3年(垂仁天皇27年)に倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の御神託によって、高山短山の麓、御船磐座辺りに「道別大神の社」として社殿を造営して奉斎したのが始まりと言われ、日本最古の神社とも言われている(諸説あり)。仁徳天皇の御代に御霊夢により「椿」の字が付いて現在の社名となった。奈良時代に聖武天皇が参拝され、勅願と共に椿の大木に猿田彦大神の神面と獅子頭を彫らせて奉納された。これが後述する獅子神御祈祷神事の起源となっている。1871年(明治4年)に郷社、1927年(昭和2年)に県社に列した。1935年(昭和10年)に行われた内務省神社局の調査によって全国二千社余りの猿田彦大神を祀る神社の総本宮であることが判明。「地祇猿田彦大本宮」と尊称された。1987年(昭和62年)にアメリカ合衆国カリフォルニア州にアメリカ椿神社が創建され、海外での神道普及活動を開始した。現在では地元の方々より「椿さん」の愛称で親しまれ、「神様に呼ばれた人しか行けない」という俗説もあり、導きの神の御神徳を求めて全国からも参拝者が訪れている。毎月1日に月次祭と朝詣り、11日にみそぎ修法会が行われ、1月1日に歳旦祭、2月3日に節分祭、2月11日に獅子神御祈祷神事(丑・辰・未・戌年のみ)、2月21日に祈年祭と厄除大祭、4月に春季例大祭、5月に入道ヶ嶽奥宮大祭、6月に御田植祭、8月に八朔まいり(夏まつり)、9月に交通安全講大祭、10月に秋季例大祭、11月に七五三祭、12月に新嘗祭と師走大祓式が行われている。3年に一度、2月11日に行われる獅子神御祈祷神事は1300年以上の歴史を持つ伝統行事で、舞人が猿田彦大神の神面と天之鈿女命の化身と言われる獅子頭を装着し、厄除と諸願成就を祈念して七段の舞を演じるものとなっており、県指定無形民俗文化財に登録されている。一の鳥居。伊勢一之宮 椿大神社の碑。社号碑。椿大神社地祇猿田彦大本宮と刻まれている。庚龍神社。御祭神は金龍龍神、白龍龍神、黒龍龍神。樹齢400年と伝えられる樅の木に宿る3柱の龍神を祀る。木に宿った龍神が神域全体を守ったという伝承がある。獅子堂。聖武天皇が奉納された獅子頭に由来してこう名付けられた。車祓や交通安全祈祷が行われ、9月にはここで交通安全講大祭が行われている。獅子神御祈祷神事では、ここで祓い清めを行い平安を祈る。手水舎。石で作った可愛らしいカエルの置物が置かれている。二の鳥居。ここから拝殿まで一直線に参道が伸びている。三の鳥居、参道。杉の木が立ち並び、神聖で落ち着いた雰囲気で心が洗われる。杉の木は傷ついたり切られたりしないように保護や整備が徹底されている。四の鳥居。社殿。本殿は総檜で伊勢神宮と同じ神明造。猿田彦大神、瓊々杵尊、栲幡千々姫命、木花咲耶姫命、天之鈿女命、行満大明神の他に合祀された三十二神が祀られている。正面の外拝殿から内拝殿、本殿と続いている。内拝殿から先は外側から見えなくなっている。社務所、授与所。授与品は御札、交通安全守、厄除守、つばき御守、みちひらき守などのお守り、御朱印帳などがある。恵比須神、大黒天。参道の途中に安置されている。恵比寿神は航海安全・商売繁昌の神様で、大黒天は招福開運、五穀豊穣の神様。地球玉の猿田彦大神。国津神として地上を守護する猿田彦大神を表現した像。全国的に見ても猿田彦大神の像は珍しいものなんだそう。高山土公神陵。参道の途中に見られる前方後円墳で、猿田彦大神の御陵と伝えられる。大きさは周囲約300m、幅約50m、高さ約20m。御船磐座。御祭神は猿田彦大神、瓊々杵尊、栲幡千々姫命。室町時代の謡曲「鈿女」にも謡われている神代の神跡で、天孫こと瓊々杵尊御一行の御船がここに到着して繋がれ、この地から九州へ猿田彦大神が先導されたと伝わっている。椿会館。1階に食事処・売店がある。食事処では名物のとりめしがいただけるようになっていて、売店では椿草もち、椿こんにゃく、伊勢茶などのお土産が販売されている。研修、会議、宿泊など様々な目的にも利用できる施設で、神前結婚式や披露宴の受付もここで行われている。参集殿。研修を目的として建てられた施設で、こちらも1階に食事処と売店があり、参拝者の休憩所として利用されている。愛宕社。御祭神は愛宕大権現。本殿裏側にそびえる愛宕山に鎮座している。仁徳天皇の御代に御霊夢によって椿大神社の名になったという伝えから、参道入り口からは氏子より奉納された椿の木が植えられていて、椿のトンネルができている(トトロの森みたいな?)。天正年間の兵乱によって荒廃したが、1985年(昭和60年)に再興した。三重県鈴鹿市 『椿大神社②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.24
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○自家製ぽんずハンバーグ自家製ぽんずハンバーグ(150g)、かぼちゃのスープ、サラダ、ライス(パンに変更も可)自家製ぽんずハンバーグ。黒毛和牛の手作りハンバーグとなっていて、ソースはデミグラスソース、自家製ぽんず、てりやきソースの中から選べるようになっている。かぼちゃのスープ。ほんのりとしたかぼちゃの風味。コーンポタージュに近い感じ。フレンチドレッシングのかかった色鮮やかなサラダ。長岡京市の町中にある、レトロな雰囲気の洋食店。黒毛和牛を用いたハンバーグやステーキ、有頭のエビフライ、グリルチキンなど様々な洋食メニューが揃い、どこか懐かしい雰囲気の店内でゆっくりと食事が楽しめる。中でも一番人気はハンバーグ。こだわりの一品で、肉は筋や脂を取り除いた黒毛和牛のかたまり肉を用い、その肉は店で挽いている。頼まれてから1つ1つ丁寧に手作りしているんだそう。ソースは3種類から選べるようになっていて、今回は和風のぽんずでいただいた。表面は焦げ目が付くほどに焼き、中は肉汁がじゅわり。実に美味しかった。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.21
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京都府長岡京市 『長岡天満宮①』の続き。三の鳥居。錦景苑のすぐ近くに立っている。酒樽奉献舎。京都のみならず全国の様々な銘酒樽が奉納されており、下段には酒瓶も奉納されている。毎年4月には献酒祭が行われている。菅公御歌。"海ならず たたへる水の 底までも 清き心は 月ぞ照らさむ"と記されている。新古今和歌集収録。四の鳥居。拝殿前に立っている。手水舎。市指定有形文化財に指定されている。1913年(大正2年)に祝詞舎として建築されたもので、1941年(昭和16年)に移築されたもの。拝殿。太宰府天満宮の拝殿と似たような造りで、朱塗りであるが豪華な装飾は見られない。1941年(昭和16年)に造られたもの。拝殿から祝詞舎、本殿と続いており、本殿を囲むようにして透塀、築地塀が建てられている。本殿の正面左側には神饌所が建てられている。祝詞舎、透塀、築地塀、神饌所はいずれも市指定重要文化財に指定されている。本殿。府指定有形文化財に指定されている。三間社流造。1895年(明治28年)に建てられ、1941年(昭和16年)に平安神宮から移築されたもの。訪れた時は補修工事が行われていて、残念ながら見ることはできなかった。ちなみに、かつての旧本殿は京都市にある大歳神社へ移築されている。春日神社、八幡宮社。本殿は市指定有形文化財に指定されている。春日神社の御祭神は武甕槌命(タケミカツチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメノカミ)。八幡宮社の御祭神は応神天皇、比売大神(ヒメノオオカミ)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)。中小路宗城大人之像、中小路宗康大人之像。荒廃していた長岡天満宮を再建し、村社から府社にまで昇格させた中小路宗城と、宗城の息子で平安神宮より旧本殿、祝詞舎、透塀を拝領した中小路宗康の像。御神牛。牛は菅公と非常に関わりの深い動物であると知られている。いくつか列挙すると、菅公は丑年生まれであること、左遷される際に牛のおかげで刺客から逃れることができたこと、菅公の死後に牛車で遺体を運ぼうとしたところ途中で牛がひれ伏せて動かなくなってしまい、それが菅公の意思だと考えられその地に太宰府天満宮が創建されるといったものである。こうしたことから牛は菅公を象徴する動物として、各地の天満宮には牛の像が置かれている。紅梅殿。飛梅伝説などからもうかがえるように、菅公は梅をこよなく愛しており、邸宅も紅梅殿・白梅殿と名付けられた。当社において紅梅殿と呼ばれる建物は舞台となっており、祭事の際に神楽が奉納される。白梅殿。こちらは絵馬殿となっている。旧絵馬殿に残されていた、江戸時代に奉納された絵馬の一部が飾られている。社務所、授与所。市指定有形文化財に指定されている。授与品は受験・合格祈願の合格守りやストラップ型の御守り、合格鉛筆などがあり、他に学業御守、肌守、厄除守、交通安全守など様々な種類の御守りがある。新年と夏にはその時季しか授与されない特別な御朱印もある。筆塚。古くなった筆を供養する塚。5月になると筆塚祭が行われ、古い筆を御焚き上げする神事が行われる。長岡稲荷神社。御祭神は倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)、猿田彦命(サルタヒコノミコト)、大宮女神(オオミヤノメノカミ)。五穀豊穣、商売繁栄の神として信仰されている。1900年(明治33年)に創建。松尾竜神、菅竜神、山神社。梅林。境内に隣接している梅林で、約300本の梅の木が植えられている。2月下旬から3月上旬に梅の花が見頃を迎え、3月には梅花祭が行われる。錦水亭。1881年(明治14年)創業の料亭。長岡天満宮に隣接する。八条ヶ池の池畔に数寄屋造りの座敷が6軒あり、四季折々の景観を楽しみながら料理が楽しめるようになっている。春はタケノコを用いた料理を、夏、秋、冬は旬の厳選された食材を用いた京料理が食べられる。料亭で作られている瓶詰のタケノコの佃煮は秘伝のタレで焚き上げたもので評判がよく、店頭だけでなくオンラインでの販売もされている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.20
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菅原道真公のゆかりの地に鎮座する神社。御祭神は菅原道真公。言わずと知れた学問の神様。古くから学問、受験、文化芸術、厄除けの神様として信仰されている。長岡天満宮が鎮座する地はかつて菅原道真公が在原業平と共に詩歌管楽を楽しんだゆかりの地であり、菅公が太宰府へ左遷される途中にこの地に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。それから九州に向かう際に同行したのが乙訓郡開田村(長岡京市の旧地名の一つ)の中小路宗則で、菅公は宗則と別れる際、自身の姿を模した小さな木像を彫った。菅公の死後、宗則へ贈られたその木像を御神体として祀ったのが長岡天満宮の創立だという。応仁の乱では兵火に巻き込まれ、社殿が焼失。1498年(明応7年)に再建されている。古来より皇室の崇敬が篤く、度々寄進造営を受け、1638年(寛永15年)には八条宮智仁親王により八条ヶ池が築造された。その後はしばらく荒廃していたが、明治時代に宮司の中小路宗城が復興。村社から郷社へ列し、さらに府社にまで社格が昇格する。1941年(昭和16年)に平安神宮の社殿が拝領移築され、現在に至る。境内には樹高2.5m、樹齢170年のキリシマツツジの回廊があり、4月中旬から下旬にかけて見頃を迎える。紅葉庭園「錦景苑」はモミジの庭園となっていて、秋は紅葉が美しく夜間はライトアップもされている。毎月1日に月首祭、25日に縁日祭が行われている。1月に歳旦祭、2月に節分祭、3月に梅花祭、4月に献菓祭、6月に御誕辰祭と大祓、7月に七夕祭、9月に名月祭、10月に例祭と氏子まつり、11月に七五三と新嘗祭、12月に大祓と除夜祭など、年間を通して様々な神事・行事が行われている。正面大鳥居。参道入り口にある、総御影石製の大鳥居。2002年(平成14年)の菅公御神忌1100年大萬燈祭を奉賛して1998年(平成10年)に奉納されたもの。土台は2018年(平成30年)の大阪府北部地震の後に補修され、紅梅・白梅が彫刻されている。長岡天満宮の碑。キリシマツツジ。市指定天然記念物に指定されている。樹高2.5m、樹齢170年。参道入り口、八条ヶ池のほとりにある回廊に約100株、全長70mにわたって植えられている。4月中旬から下旬にかけて見頃を迎え、深紅の花が境内を綺麗に彩る。八条ヶ池。1638年(寛永15年)には八条宮智仁親王により築造された池。外周は約1km。広大な池で、灌漑用のため池としても活用されている。池には中国浙江省の西湖に浮かぶ三譚印月の湖上の回廊をモデルとした、檜で造られた水上橋が設けられている。池畔には桜並木が連なっており、4月上旬には桜が見頃を迎え、ライトアップもされている。一の鳥居。中小路宗城宮司の境内整備事業竣工記念碑。1922年(大正11年)に建立された。菅公御歌。"海ならず たたへる水の 底までも 清き心は 月ぞ照らさむ"と記されている。新古今和歌集に収録された歌。長岡天満宮の奉納書初大会に長きにわたって審査委員長を務めた、森岡峻山先生没後10年を祈念して建立された碑。碑には菅公の生涯を通じての至誠の心を表した"以誠接萬事(誠を以て萬事に接す)"の文字が篆書で書かれている。塩田藪柑子、塩田里美夫婦句碑。俳句結社「蟻乃塔会」の主宰である塩田藪柑子氏の古希を記念して建立された句碑。吟道賀堂流長岡京吟詠会の結成20周年記念碑。詩文は主宰であった千阪賀秀氏の作詞によるもの。菅公御歌。"桜花 主をわすれぬ ものならば 吹きこむ風に ことづてはせよ"と記されている。後撰和歌集収録。二の鳥居。1692年(元禄5年)に霊元上皇が当社に寄進された鳥居の一つ。2018年(平成30年)に発生した台風20号によって倒壊し、補修は困難とされ再建はされなかった。解体された二の鳥居は、現在参道脇に安置されている。注連柱。かつて二の鳥居が建っていた場所。中小路宗則翁千年祭紀念碑。長岡天満宮を創立した中小路宗則の千年祭を記念して建てられた記念碑。すぐ近くには千百年祭紀年植樹がある。錦景苑。参道の途中にある、池泉式回遊庭園。中心にある弁天池には石橋が架けられており、池の周りには約100本のモミジの木が植えられ、四阿が設けてある。夏は青モミジ、秋は紅葉が美しく、紅葉の時季にはライトアップがされている。訪れた時は年末で、すっかり寒くなっていたがモミジの木はまだ赤色の葉を付けており、苔生した地面には散ったモミジの葉がかかり、風情ある景色を作り出していた。和泉殿社、白太夫社。和泉殿社の御祭神は菅原定義卿、白太夫社の御祭神は度会春彦命。菅原定義卿は道真公と同じく菅原氏の貴族・学者。度会春彦は道真公の父君である菅原是善が安産祈願をしたと伝えられる神主で、別名白太夫とも呼ばれ、豊受大神宮の禰宜でもあった。右側に見える石碑は長岡大明神社殿旧址の碑。笠松地蔵。境内から出土したと言われる笠松地蔵尊を祀る。京都府長岡京市 『長岡天満宮②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.19
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読みは「むこうじんじゃ」。向日山に鎮座する、1300年以上の歴史を持つ古社。本殿は国指定重要文化財に指定され、拝殿、北門、南門、瑞垣など多くの建造物が国登録有形文化財に登録されている。御祭神は向日神(ムカヒノカミ、御歳神)、火雷神(ホノイカヅチノカミ)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)、神武天皇。向日神は大歳神(オオトシノカミ)の御子神である御歳神のことで五穀豊穣の神として信仰され、火雷神は祈雨と鎮火の神として信仰されている。創建は718年(養老2年)で、1300年以上の長い歴史を持つ。延喜式神名帳では山城国乙訓郡向神社と記載があり、同じ向日山に乙訓坐火雷神社が鎮座しており、向神社を上ノ社、火雷神社を下ノ社と呼んでいた。大歳神の御子神である御歳神が峰に来られて向日山と名付け、この地に長く鎮座され、御田作りを奨励したことが始まりと言われている。向日山に御歳神が長く鎮座したことで、やがて御歳神のことを向日神と呼ぶようになった。火雷神社は718年(養老2年)の社殿新築の際に玉依姫命と神武天皇を合祀している。1275年(建治元年)に向神社と火雷神社が併祭されることとなり、社名も向日神社に改称。向日一帯の総鎮守となった。1418年(応永25年)に本殿の造営が開始され、1422年(応永29年)に完成した。明治時代に入ると府社に列した。現在では「明神さん」の愛称で親しまれ、奈良時代より由緒ある古社として多くの参拝者が訪れ、春は桜、秋は紅葉の名所にもなっている。4月に桜祭り、5月1日に例祭、5月第二日曜日に還幸祭、7月に夏越の祓、10月に御火焚き祭が行われている。大鳥居。江戸時代末期の建立。大鳥居の扁額。正一位向日大明神と記されている。平安時代前期から中紀にかけての貴族で、日本の書道の基礎を築いたとも言われる小野道風の筆によるもの。向日神社の碑。さざれ石。神社ではたまに見かける、君が代にも詠われるさざれ石。この石は岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもの。大鳥居から拝殿まで伸びる、石畳の参道。長めの参道で緩やかな坂道となっていて、時々車も通る。桜並木となっていて、春になると桜の花が見事に咲き誇り、桜の時季は桜祭りも行われる。モミジ・カエデの木も連なっており、訪れた時は年末だったにも関わらず、季節外れとも言える紅葉景色が美しかった。手水舎。国登録有形文化財に登録されている。18世紀後期に再建されたもの。舞楽殿。1625年(寛永2年)に建立されたが、2002年(平成14年)に焼失。翌年の2003年(平成15年)に再建された。拝殿の手前に建てられており、奉納された提灯が沢山掛けられている。拝殿。国登録有形文化財に登録されている。入母屋造の瓦葺で、正面に千鳥破風と唐破風を持つ。1842年(天保13年)に再建されたもの。拝殿の彫刻。本殿。国指定重要文化財に指定されている。三間社流造の瓦葺。拝殿、幣殿と繋がった構造となっている。1418年(応永25年)より造営が始まり、1422年(応永29年)に完成した。室町時代の流造の代表的建築物とも言われ、東京都の明治神宮の本殿は向日神社の本殿をモデルとして建立されたとも伝えられている。祖霊社。国登録有形文化財に登録されている。拝殿とは江戸時代末期に建立された渡廊で繋がっている。1688年(元禄元年)に建立。社務所、参集殿。向日市天文館。舞楽殿のすぐ近くにある。プラネタリウムがあり、観覧料は大人200円、小・中学生は100円。展示室の見学は無料。一定期間中は天体観望会も行われている。勝山稲荷神社。国登録有形文化財に登録されている。御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。社殿は1967年(昭和42年)に大阪から移築されたもの。元稲荷神社。本殿裏の古墳の上に社が建てられている。天満神社。国登録有形文化財に登録されている。御祭神は菅原神、大歳神(オオトシノカミ)、屋船神(ヤフネカミ)。1833年(天保4年)に建立。御霊神社。国登録有形文化財に登録されている。御祭神は伊邪那岐尊(イザナギノミコト)、伊邪那美尊(イザナミノミコト)。元々は向日市に存在した物集女村にあった社で、1877年(明治10年)に移築された。五社神社。国登録有形文化財に登録されている。御祭神は大己貴神(オオナムチノミコト)、武雷神(タケイカヅチノミコト)、別雷神(ワケイカヅチノミコト)、磐裂神(イワサクノカミ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)。岡松、石神、三嶋鴨、賀茂、春日の五社を祀る。江戸時代末期の建立。大鳥居の沓石。向日神社御鎮座千三百年の記念事業で、大鳥居の改修工事を行った際に出土した根石の上にあった沓石。鶏冠木の苑。本殿のすぐ裏にある。かつて本殿があった場所で、後にヤマザクラとカエデの神苑となった。戦前までは土俵があったそう。春日神社。国登録有形文化財に登録されている。御祭神は武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、齋主神(イワヒヌシノカミ)、天津兒屋根尊(アマツコヤネノミコト)、姫大神(ヒメオホカミ)。元々は森本村にあった社で、1878年(明治11年)に移築された。神変大菩薩、勝山身代不動明王、白雲龍王、白玉弁財天女。岩窟の中に役行者(神変大菩薩)の像が祀られている。向日大明神、秀九大明神。増井神社。火雷大神の荒魂を祀る。祠の裏側に火雷大神荒魂を祀る井戸があり、それが御神体となっている。祈雨の際には井戸から神水が汲まれて神事が行われ、また神水は無病息災の御神徳があるとされる。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.13
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平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われる磨崖仏群。「臼杵磨崖仏」と記されることもある。国宝、国の特別史跡に指定されている。凝灰岩の岩壁に彫刻された磨崖仏群で、摩崖仏はホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏、古園石仏の4つの箇所に分かれている。いずれも巨大な凝灰岩を彫って高浮き彫りにしたもので、彫刻のみならず彩色もされている。規模や数量、彫刻の質の高さから日本を代表する石仏群とも言われ、700年以上前にできたものであるため経年劣化が見られるものもあるが、多くの磨崖仏が良い保存状態で残っている。磨崖仏造営に関する資料は何一つ残っていないため、誰がどのような目的で作ったのかは不明。磨崖仏の様式などから平安時代後期、一部は鎌倉時代に作られたものと言われている。山岳仏教の衰退によって存在が忘れ去られたことで長らく風雨に晒され、劣悪な環境から多くの磨崖仏が削られ、一部は頭部が剥落したものもあった。中でも古園石仏の大日如来像の仏頭は1993年(平成5年)に保存修復がされるまで下の台座に置かれたままだった。1913年(大正2年)に京都帝国大学によって発掘調査が行われ、1952年(昭和27年)に国の特別史跡に、1962年(昭和37年)に国の重要文化財に指定された。1980年(昭和55年)から14年間に及ぶ保存修復工事が行われ、1995年(平成7年)に摩崖仏として全国初、彫刻として九州初となる国宝に指定された。拝観料は大人(高校生以上)550円、小人(小・中学生)270円(団体割引有)。個人旅行の観光客向けの無料ガイドあり(要予約)。臼杵石仏事務所・石仏観光センター、駐車場。拝観料は事務所で払い、入場券を貰う。すぐ近くに臼杵せんべいで知られる後藤製菓があり、せんべい作り体験や工場見学ができるようになっている。国宝・特別史跡臼杵石仏の碑。ホキ石仏第二群第第二龕、九品の弥陀像。9体の阿弥陀如来像が刻まれている。中央の一尊だけは裳懸座(仏像の裾が垂れ下がった台座のこと)に座している。平安時代末期に作られたものと言われている。ホキ石仏第二群第一龕、阿弥陀三尊像。中尊にどっしりとした阿弥陀如来像が彫られていて、彫刻技術が見事で臼杵石仏の中では最も優れた石仏の一つとなっている。平安時代後期に作られたもの。石仏群は風雨に晒されないよう、保護が徹底されている。ホキ石仏第二群もかつては石仏の上に小さな屋根が設けられていただけで、更に地下水や表面温度の変化によって著しく風化が進んでいたという。1983年(昭和58年)に保存修理が行われており、以後も日本における代表的な石仏群を後世に残すために市が保存管理に努力している。ホキ石仏第一群第四龕、地蔵十王像。中尊に地蔵菩薩を配し、左右に5体ずつの十王像を配している。左脚を下ろして座する地蔵菩薩は古い様式で珍しいものだそうで、彩色もはっきりとしている。鎌倉時代に作られたもの。ホキ石仏第一群第三龕、如来三尊像。中尊に金剛界大日如来、左に阿弥陀如来、右に釈迦如来が並ぶ。いずれの仏像も台座に裾が大きく垂れ下がっているのが特徴的で、台座の前面には経文や願文を納めたと思われる丸・四角の穴がある。平安時代末期に作られたもの。ホキ石仏第一群第二龕、如来三尊像。ホキ石仏第一群の中心的存在である阿弥陀如来。三尊とも見事な彫刻技術で彫られていて、ホキ石仏第二群の阿弥陀三尊像と共に臼杵石仏で最も優れた石仏の一つとなっている。平安時代後期に作られたもの。ホキ石仏第一群第一龕、如来三尊像。中尊に釈迦如来を配し、脇侍菩薩立像を左右に配している。彫刻はやや簡素なものとなっている。平安時代末期に作られたもの。石造五輪塔。国指定重要文化財に指定されている。「中尾五輪塔」とも言われる。大小二基の五輪塔で、阿蘇溶結凝灰岩で造られている。大きな方は1170年(嘉応2年)、小さな方は1172年(承安2年)の銘が刻まれている。山王山石仏。中尊には大きな如来座像を据え、左右には如来座像を配している。珍しい形式なんだそう。他の石仏と比べると童顔に見え、どこか和やかな雰囲気。「隠れ地蔵」とも呼ばれている。平安時代後期に作られたもの。訪れた時は秋。石仏の目前にあるモミジの木は綺麗に紅葉していた。金剛力士立像。国宝に指定されている。古園石仏と同時期に、参道の山門の金剛力士像として彫られたものではないかと言われている。2017年(平成29年)に国宝に追加指定された。古園石仏。13躯の石仏で構成された臼杵石仏の中心的存在で、中尊に大日如来像を配していている。かつては風化が進んで荒廃した状態で、大日如来像の仏頭は1993年(平成5年)に保存修復がされるまでの間、長きにわたって台座の前に安置されていた。平安時代後期に作られたもの。訪れた時は保存修理が行われていて、一部の石仏に苔が生えないように紫外線照射がされていた。ちなみに臼杵駅前には大日如来像のレプリカがあり、こちらは保存修復がされる前から仏頭が繋がった状態であったことから、願を掛けると首が繋がる、会社でクビにならないという俗説が生まれた。満月寺。臼杵石仏を作らせたと言われる真名野長者の発願を受け、石仏を彫ったと伝えられる蓮城法師により創建された寺院。臼杵石仏の守護寺。12世紀に創建され、かつては広い境内を持つ天台宗の寺院だったものの、17世紀に一度廃寺となっている。現在の寺院は1951年(昭和26年)に復興されたもの。木原石仏。満月寺の境内にある、地中に埋まった仁王像。古くは像の鼻を削って飲むと疫病に効くという言われがあり、2体とも鼻の部分が削りきられてしまい無くなっている。真名野長者夫妻像、蓮城法師像。満月寺の境内にある。伝説によると真名野長者が臼杵石仏を作らせ蓮城法師が石仏を彫ったと言われているが、伝説と石仏が彫られた年代が異なる為、実際はどうであるのか定かではない。石仏梵鐘。平和を祈願し、1988年(昭和63年)に造られた。宝篋印塔(日吉塔)。国指定重要文化財に指定されている。日本最大の高さを誇る宝篋印塔で、日吉塔という名前は満月寺の守護社である日吉社から付けられたものだと考えられている。塔身は彫り抜かれていてその前面に扉をつけていた痕跡があり、台石の格狭間は二連の蓮が彫られた関東式のものとなっている。建立以来この位置を動いていないことが発掘調査によって判明している。13世紀後半に建立されたものだと考えられており、同時期の石造宝篋印塔は非常に貴重なものとなっている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.05
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○うどん柔い麺が特徴的なかけうどん天かすとねぎはかけ放題。七味もある。○たこ焼き焼きたてほくほくのたこ焼き(10個)県道322号線、金辺川沿いにあるドライブイン。1967年(昭和42年)に創業した昔ながらのドライブインで、レトロな雰囲気が漂う。6時半から営業しており、仕事に行く人たちやトラックの運転手、ライダーや旅人なども朝早くから多く訪れている。うどん・そばは立ち食いとなっており、かけ、丸天、エビ天、ごぼう天があるがいずれもワンコインで食べられるお手頃価格。柔らかめの麺が特徴的で、出汁は昔から変わらない伝統の味なんだそう。非常にシンプルな感じだが、これが何故だかクセになる。サッと頼んでズズーッとあっという間に平らげてしまった。ちなみにうどん・そばはお持ち帰りもできるようになっている。たこ焼き店も併設していて、せっかくなのでそちらも買って食べてみた。たこ焼きはオーソドックスな作りだが、ソースが何だか普通と違う感じがした。それもそのはず、一般的なお好みソースでなく、ケチャップを用いた当店のオリジナルソースとなっている。ソースはなしにも変更でき、そのたこ焼きをうどんの出汁に浸けて食べるのが通なんだとか。たこやき屋。たこ焼きは5個単位で買うシステムとなっていて、作っている様子を間近に見れるようになっている。かつては数百個を一度に買う猛者もいたとか…?店内に掛けられている昔のドライブインの写真。昔は立ち食いうどん・そばが屋外にあったようだ。すぐ隣にある、とんこつらーめん猫猫。こってりとした豚骨ラーメンに唐揚げのセットが人気。レトロな外観のドライブイン。店内の雰囲気といい、看板といい、レトロ好きにはこうしたドライブインはたまらない。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.04
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福岡県宗像市 『地島①』の続き。泊港。泊地区にある船着場で、ここにも渡船が発着する。地島ふれあい館。泊港のすぐ近くにあり、船の待合室となっている。地島診療所・なぎさの家が併設しており、島内ただ一つの病院としても機能している。泊地区の町並み。親水広場。海浜沿いにある小さな公園。太田種次郎石碑。地島出身で、朝鮮出漁の創業者である太田種次郎の記念碑。朝鮮出漁は明治時代以降に行われていた朝鮮近海への出漁で、福岡県では1891年(明治24年)に開始され、地島の漁師も関わっていた。朝鮮出漁がピークに達すると朝鮮半島南部に移住漁村の建設が進められ、ほとんどが失敗に終わったが、太田種次郎の経営した入佐村は数少ない成功例であったという。観音堂。竜神様の祠。海岸の岩の上に建てられた小さな祠。祠の中には何故か石が安置されている。泊漁港。釣りスポットで、釣り人が多く訪れていた。防波堤に描かれた絵。離島ではよく見かける。魚、海、ツバキの絵の他に、火を消したかまどの中で暖を取る「カマド猫」の絵も描かれている。殿様波止。黒田藩の黒田長政の命によって築かれたと言われる波止。殿様波止近くに並べられた無数の蛸壺。地島ではお馴染みの光景のようだ。厳島神社。御祭神は田心姫神(タゴリヒメノカミ)、湍津姫神(タギツヒメノカミ)、市杵島姫神(イチキシマヒメノカミ)。宗像三女神を祀る。沖ノ島から安芸国(現広島県西部)の宮島へ勧請がされる際、大風に遭って地島へ立ち寄り、仮屋を建てて大風が止むのを待った。その後、その仮屋に宗像三女神を勧請し祀ったのが始まりと言われている。こうした経緯から、ここでは宮島よりも先に厳島神社が建立されたと伝えられている。元日にのりぞめ、6月第2土曜日に夏祈祷、7月15日に地島山笠(祇園祭)、10月に宮座が行われている。7月の地島山笠(祇園祭)は泊地区と豊岡地区が当番制で行い、当日になると当社から山笠が出発し、集落へ移動する際に山笠を船に乗せて海を渡るようになっており、その光景は地島の風物詩となっている。島に自生するヤブツバキの木。地島には約6000本のヤブツバキが自生しており、それから取れる天然の椿油は地島の特産品となっている。椿油は生産量が少ないものの、品質の良い高級品で食用だけでなく整髪にも用いられる。10月中旬になると椿の実の収穫が始まり、それを島内の加工場で精製し販売しているそう。椿油は道の駅 むなかたで販売されている。島の猫たち。泊漁港の周辺で見かけられる。皆人に慣れているようで、たまに漁港の釣り人のおこぼれをもらおうと集まっているのも見られる。最終便の渡船に乗って本土へ戻った。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.03
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読みは「じのしま」。玄界灘と響灘の境界に浮かぶ島(有人島)。面積は1.57㎢、周囲は9.3km、人口は122人。北西から南東にかけて細長く伸びた形状をしており、島の大半は山地で遠見山、祇園山、猿毛山の3つの山がある。泊地区と豊岡地区の2つの集落があり、それぞれの港に船が発着する。神湊港から渡船で行けるようになっている。1日6便。バスやタクシー、レンタサイクルはなく、移動は徒歩のみとなっている。観光スポットはいくつかの展望台、厳島神社、牧神社などがあり、つばきロードという自然遊歩道が2つある。港は釣りのスポットとなっていて、来訪者の多くは釣りに訪れている。ウニ、ワカメ、アワビなどの漁業が盛んで、島内には約6000本のヤブツバキが自生しており、椿油も生産されている。これら特産品は道の駅むなかたなどで買えるようになっている。島名の由来は厳島神社に祀る市杵島姫神(イチキシマヒメノカミ)の名が慈島(いちきしま、じのしま)に転じてそれが島の名前として呼ばれるようになり、やがて地島という表記に変わったという説がある。1615年(元和元年)に黒田藩が幕府より命を受け、遠見山に番所を設置。黒田藩の黒田長政が参勤交代の際にこの島に立ち寄ったという史実があり、島内には長政公の由来がある殿様波止や殿様井戸がある。1711年(正徳元年)に朝鮮通信使が相島からの航海の途中に、台風に遭遇したためこの島に滞在した記録が残っている。明治時代の初期まで地島村として村政が敷かれていたが、1889年(明治22年)に宗像郡の一部となる。その後の市町村合併によって1955年(昭和30年)に玄海町、2003年(平成15年)に宗像市となった。神湊港。ここから渡船「ニューじのしま」に乗り地島へ。地島には船着場が2つあり、泊港、白浜港のどちらかを選んで乗船券を購入する。釣りに行くなら泊港、西から東へ島歩きを楽しむなら白浜港がおすすめ。ちなみに神湊港からは地島だけでなく大島にも行けるようになっている。泊港を経由して白浜港へ。渡船に乗り約25分、地島に到着。豊岡漁港。船着場のすぐ近く、豊岡地区の漁港。牧神社。御祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)。「牧大明神」とも呼ばれる。豊岡地区に鎮座する神社で、かつての島の氏神だった。9月15日に例祭が行われている。つばきロード(倉瀬遊歩道)。島に2つある、つばきロードと呼ばれる遊歩道の一つ。道沿いには自生のヤブツバキが群生している。ここから約1km歩いた先に倉瀬展望台があり、そこまで歩いていく。道の高低差はそこまでないが、道のりはやや長い。倉瀬展望台。つばきロードを歩いた先にある、島の西端に位置する展望台。展望台からは間近に大島が見え、倉瀬灯台、相島、志賀島などが見える。天気が良いと沖ノ島も見えるようだが、この日は見えなかった。倉瀬灯台。沖合に浮かぶ島に設置された自動式の灯台。夕刻を過ぎると自動で光を点灯し、電球交換も自動でできるようになっている。高台から見た豊岡地区の町並み。ちなみにこの地区は港の名前にも名残があるように、元々は白浜と呼ばれていた。町の人々がこの集落が豊かな岡になるようにと願い、後に豊岡と名付けられた。大師堂。遠見山の麓にある。この近くに沖ノ島展望台まで続く山道があるが、訪れた時は通行禁止になっていた。地島小学校。島内にある唯一の学校。孝女こやの碑。かつてこの島に住んでいた九朗右衛門という人物の娘であるこや(古也)が、大変親孝行な人物だったとのことで、それを後世に語る碑が地島小学校の近くに建てられている。訪れた時は6月。集落にはアジサイが咲いていた。つばきロード(遠見山遊歩道)。もう一つのつばきロード。こちらは途中から登山道となっており、島内で最も高い遠見山を登っていく必要がある。山道の途中に大敷展望台、遠見山山頂には沖ノ島展望台がある。少し道が荒れているので注意。大敷展望台。登山道の400段の階段を登ったところにある展望台。訪れた時は天気があまり良くなく、おまけに雑草が生い茂っていて視界が遮られていたが、天気が良いと北九州方面が見渡せるそう。沖ノ島展望台。地島で最も高い遠見山の山頂にある展望台。天気が良いと沖ノ島が見えるが、こちらも残念ながら見えず。福岡県宗像市 『地島②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2025.10.01
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