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台北市北部にある北投温泉は、台北車站からMRTで約30分ほどの距離にあり、日帰りも十分可能な温泉です。MRT淡水線の北投で乗り換え、北投支線で1駅の新北投を降りると、山麓にある温泉街へと道が続いていました。日本のホテル「加賀屋」が去年の12月に開業したそうです。北投温泉はドイツ人の商人によって発見されましたが、日本統治時代に日本人が温泉旅館を建てたことから、温泉地として発展して来ました。日本統治時代から残る銭湯「瀧乃湯」1905年にこの瀧乃湯の前で発見されたのが北投石で、世界でも北投と秋田の玉川温泉でしか採れないそうです。ラジウムを含む北投石は、末期がんに効くとも言われています。日本統治時代の1913年には公共浴場である「北投温泉浴場」が建設され、現在は「北投温泉博物館」として復元・公開されています。中に入ると、宴会場らしきものもありました。畳と舞台があって、まさに日本の温泉旅館といった感じです。こちらは温水プールです。温泉博物館の近くには露天風呂があるのですが、台湾では水着を着て入るのが基本で、水着を持ていない私は、別の温泉旅館で個人用の内湯に入りました。やはり大浴場の露天風呂に入らないと、なかなか温泉気分は出ないものです。北投温泉は草津温泉と同じく、一ヶ所から各所に温泉が引かれています。「地熱谷」と呼ばれる池が源泉のようでした。地熱谷の入口草津温泉の「西の河原」みたいな雰囲気です。地熱谷日本統治時代は地獄谷と呼ばれていたそうですが、湯気で池の水面が見えないほどでした。山の斜面にそって「温泉路」と呼ばれる細い道が続き、道沿いに温泉旅館が建ち並ぶといった風情で、日本の温泉地には遠いものの、何となく雰囲気はありました。草津温泉と伊香保温泉を足して、20で割ったような感じでしょうか。
2011/01/31
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台湾に来てから、「いつもどこかで誰かが何かを食べている」というのが印象です。話題も食べ物に関するものが多く、中国語のレッスンでも同様で、初回のレッスンでマクドナルドの注文が出来るようになりました。オフィスでは日本人は私だけなので、普段は英語で話しているのですが、意外と難しいのが食べ物のの名前です。寿司・天麩羅・焼肉などはそのままでも通じるのですが、梅干や冷奴、さらには塩昆布や海苔になると、「はて、英語で何と言うんだろう?」といった具合です。(ナメタケやアジのタタキに至っては、私の英語力ではもはや説明不可能で、説明出来たところで得体の知れない食べ物になっていると思います)日本語→英語に限らず、中国語→英語も同じようで、お互いに何の食べ物の話をしているのか、想像がつかないこともしばしばあります。それでも漢字文化圏というのはありがたいもので、漢字で書けば「あ~、なるほど」と、お互いに納得して話が進むといった具合です。そんな中、何やらを食べに行こうと誘われたのですが、その何やらの部分が中国語だったので、全く理解が出来ませんでした。例によって紙に書いてもらったのですが、書かれたものを見ると「魚翅」とあります。「はて、これ何だっけな…」と首をかしげていると、「日本人も食べると聞いたのですが…」とのこと。続けて英語で「Shark Fin」ときて、ようやく「Oh,I see. 明白了。フカヒレね。」フカヒレのおいしいお店が信義區にあるということで、聞けば「日本より安い」とのこと。「Ok,Let's go」と、向かったのが信義路4段にある「吉品海鮮餐庁」です。吉品海鮮餐庁は広東系の飲茶形式のお店で、落ち着いた雰囲気のあるお店です。早速フカヒレを注文したのですが、メニューを見て目が飛び出そうになりました。フカヒレの量によっても違うのですが、彼女たちが注文したのは4枚の一番多いもので、2,500元(約7,500円)です。日本より安いと聞いてせいぜい2~3千円くらいを想像していたのですが、通貨の単位を確認したほどでした。何度見ても円ではなく元だったので、もちろん台湾での1品あたりの最高値を更新しました。(これまでの最高値は1品あたり400元=1,200円くらいだったので、ここで一気に記録更新です)そして出て来たのがこちらです。「どこそこで食べた何とか」と、記憶に残る食べ物はあるかと思いますが、まさにこれがその1品でした。干しアワビの入ったスープが絶品です。他にも色々と注文はしていたのですが、フカヒレ以外は全く覚えていないほどのインパクトでした。ところで日本人としてはここでビールを飲みたいところですが、台湾特に飲茶では食事と一緒にアルコールを飲まないものだと、最近何となく学習したところです。周りのテーブルを見回しても、ビールグラスが置いてあるのは他に1組しかなかったのですが、「ビールを飲んでもいいんだ…」と、ほっとしてビールを注文しました。(アサヒと台湾ビールがあったのですが、迷わず台湾ビールです)これでビールグラスが置いてあるテーブルは2組となったのですが、先のビール組から聞こえてくるのはどうも日本語で、こちらは日本人だけのようでした。どうやらここでビールを飲んでいるのは我々日本人だけなので、もしかしたらとんでもないことかと思い、「日本人はビールが好きだからね~、旅行に行ったら朝からビール飲んでいるくらいだから」と、必死でフォローしながらも「再一瓶」とさらに注文する始末でした。
2011/01/30
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冬は鍋料理が定番ですが、台湾にも「火鍋」という鍋料理があります。台湾では何度か食べたのですが、今回もみんなで火鍋を食べに行きました。信義路四段にある太和殿というお店です。(2階は南無阿弥陀佛と書いてあるのですが、なんのお店なのでしょうか)鍋料理は好きなのですが、実はどうも台湾鍋は少し苦手なのです。台湾火鍋白湯と麻辣の2種類があって、それぞれに合う具材も違うのですが、いずれも辛いのでなかなか進みません。台湾啤酒(ビール)ばかりが進んでしまい、「再一瓶」の繰り返しでした。中国の火鍋はモンゴルが発祥と言われていますが、同じ鍋料理でも随分と違うものだとつくづく思います。(ヤマダモンゴルを思い出してしまいました)それでも鍋を囲んで楽しく食べる、これはどこも共通だと思います。
2011/01/29
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台湾の北部の玄関口が桃園空港ならば、南部の玄関口が高雄国際空港になるでしょうか。国内線ターミナルと国際線ターミナルの2つが並んでいます。台湾の空港は旧日本軍の基地跡が利用されることが多く、高雄国際空港もその1つだとされています。元々は高雄航空隊があった場所とされており、高雄航空隊といえば「大空のサムライ」の坂井三郎さんが最初に零戦に出会った場所でもあります。何か当時の痕跡でもないものかと、空港の滑走路に沿って歩いてみることにしました。高雄国際空港の滑走路は東西に延びているのですが、滑走路脇の塀に伝って歩いて行くと、日本家屋らしい瓦屋根が見えてきました。どうやら軍事施設らしい雰囲気だったので、撮影はやめておいたのですが、台湾では見かけない瓦屋根だったので、日本時代のものかも知れません。また、さらに歩いて行くと民家が並んでいたのですが、日本家屋らしき面影が残っていました。こんな感じの民家がいくつも残っています。さらには倉庫の跡と思われるような建物もいくつか残っていました。高雄航空隊は台南航空隊に移り、さらにはあのラバウル航空隊へと移って行きますが、高雄国際空港の片隅で、零戦の歴史の跡を見たような気がします。
2011/01/28
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台湾で2番目に高いビルが「高雄85大樓」です。ビル全体が「高」の形をしています。その名の通り85階建てのビルで、高さは347mあるそうです。どうしても台北101の2番煎じのような印象があるのですが、実は完成したのは台北101よりも7年早く、1997年に台湾で最も高いビルとして完成しました。今となっては訪れる人も台北101に比べるとはるかに少なく、どことなく「建ててしまった」感が漂っていました。それでも74階の展望台に上がると高雄市内が一望できます。高雄港と旗後半島高雄市内
2011/01/26
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シンガポールは2泊3日の滞在だったのですが、振り返ると色々なものを食べた(飲んだ)気がします。1日目の夜は現地の人に案内してもらって、シーフードのお店に行きました。Fish Market Bistro Bakery場所はどこにあるのかわかりませんが、周りには高級そうな住宅が並ぶ場所にあります。さすがにシーフードが盛りだくさんです。台北から来た私だけが目を丸くしていました。久々に海のものを満喫した後、再びOrchardの方に戻り、サマセット(Somerset)にあるカッパージテラス(Cuppage Terrace)へ案内してもらいました。たくさんのお店が並んでいますが、話に夢中になっていたのか酔っぱらっていたのか、店の名前だけでなく、何を食べたのかよく覚えていません。。ここでも散々飲んだ後、ホテルに戻ってさらに飲むことに。もう飲めないと思いつつも、せっかくシンガポールに来たのでちなみにラッフルズホテルではありません。2日目は日本から来た組と台北から来た私とでチャイナタウンに行き、そこで食事をしようということになりました。「ここがいいんじゃないですか」とお店に入ろうとすると、「もっときれいな所がいい」と言うことになり、再びオーチャードへ戻って中華料理を食べることにしました。(みんな地理に不慣れなので、一旦オーチャードに戻ってから態勢を立て直すのが常道になっていました)オーチャード通りのパラゴン(Paragon)というビルの地下に中華があるらしいので、まずはそこに行ってみました。とある中華のお店に行ったのですが、満席だったので待たなければならず、その間に料理を注文してほしい、とオーダー表を渡されました。中国語と英語で料理名だけが書いてはあり、何を注文するかは私の役目になりました。料理名を見ていて「あれ?」と思ったのですが、「これって台湾の料理じゃないですか?」お店の名前を見ていなかったのですが、看板を見ると「鼎泰豊」と書いてあり、「台湾の店じゃないですか。。。」(太平洋SOGO復興館の地下にあります)それでも他にあてもないので、不公平感を感じながらもここに決まりました。2日目の夜は日本組が帰ったので、シンガポール駐在の日本人スタッフに案内してもらうことになりました。何を食べようかということになったのですが、お互い「中華料理はもういいですね」ということになり、意見が一致したのが日本の居酒屋です。さすがはシンガポールだけあって、日本料理も充実していました。日本人駐在員御用達みたいなビルもあったりして、色々と見て回りながら、最終的にはCuppage Terraceの「たまや」にしました。普通に日本の居酒屋と同じメニューが並んでおり、お通しがひじきだったのに感動する有様でした。枝豆が普通の塩味なのがさらにうれしい限りです。台湾では黒胡椒とオイルで味付けしてあります。えいひれマヨネーズに七味唐辛子をかけて、久々の味です。他にも手当たり次第に注文し、苦手な日本酒なども飲んだりして、久しぶりの日本といった感じでした。なんだかんだと言っていても、やはり日本が懐かしいものです。結局シンガポールで何を食べたかとなると、「なんだかよくわからない」ということになりました。(覚えていないのもありますが)
2011/01/25
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1日目の夜は飲み過ぎて、ホテルに帰って来たのは夜中の2時を過ぎていました。ホテルの部屋から窓の外を見ると、大きな船のシルエットが浮かんでおり、海が近いのかなと思っていました。朝目が覚めて再び窓の外を見てみると船が浮かんでいるのは海ではなくて、ビルの上でした。ところで今回泊ったのはオーチャードにあるマンダリンオーチャードですが、20年前に比べるとオーチャード通りもすっかり変わっていました。ほとんど記憶と一致しませんでした。チャイナタウンを訪れた後、再びオーチャードに戻ってきて食事をしたのですが、日本へ帰国組もまだ時間があるので、その船のあるビルに行ってみることにしました。去年の6月にオープンしたラスベガス資本のホテルで、シンガポールで初めてのカジノもあるそうです。そのホテルの屋上にあるのがSands Skyparkで、宿泊者以外でも入ることができます。20年前は高いビルも数えるほどだったのに、さすがは成長率NO1の国、まだまだ発展していきそうな勢いです。マーライオンパーク海岸近くではさらにテーマパークのようなものを建設中でした。沖合を見ると入港待ちの船で海面が埋め尽くされており、さながらノルマンディー上陸作戦の連合国軍艦隊のような様相でした。
2011/01/24
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シンガポール出張の2日目はオフになったので、日本から来たメンバーと共に少し観光する時間ができました。とは言え、日本組は2日目の午後便で日本に帰る予定のため、あちらこちらと見て回る時間もあまりありません。そんな中、当初はセントーサ島の「Images Of Singapore」を予定したのですが、1日目に夜中の2時まで飲んでしまったため、朝から予定が全く変わってしまいました。ようやく動き出した後、「さて、どこ行くか…」という話になったのですが、何気なく「チャイナタウンでも行ってみますか」と言ったところ、なんと全会一致で中華街に行くことになりました。こちらも春節前です。やはりシンガポールだけあって、きれいな感じがします。それでも路地入ると少し様相が変わってきました。シンガポールではかなり異色なのでしょうが、慣れというのは恐ろしいもので、違和感を感じないどころか、きれいすぎる印象がありました。それでも「匂い」は台湾と同じで、さらには見慣れた光景にふと足を止めてしまいました。台湾香腸(ソーセージ)のある屋台(卵みたいなものと共に、台湾ではコンビニで普通に売っています。。。)香腸の専門店シンガポールにあってはワンダーランドかも知れませんが、見慣れた光景にほっとするのが、なんとも不思議な気がします。
2011/01/23
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台北から香港までは、台湾海峡を渡って飛行機で1時間40分ほどの距離です。台北では朝から雨が降っており、台湾海峡も雲で覆われていました。20年ほど前に香港に降りた時はまだ啓徳空港の時代で、パイロット泣かせの「ホンコンアプローチ」でビルをかすめるように旋回しながら降下していたのを覚えています。1998年に啓徳空港から現在の場所に移されたそうです。さすがはアジアのハブ空港だけあって、各国の航空機が集まっていました。駐機中のキャセイパシフィック航空のB747-400今回もトランジットなので、空港から出ることはなく、1時間の滞在で再びCXに乗って出発しました。キャセイパシフィック航空のB777-300香港からさらに南へ向かいました。
2011/01/22
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高雄大橋のたもとにある天主教?瑰聖母堂から、市内を流れる愛河のほとりを歩いて行きました。何となく広島の太田川の風景に似ている気がします。竜門を登りきった鯉が龍に変わる故事から、登竜門の由来となった龍の像愛河を渡る建國三路にあるのが高雄市立歴史博物館で、日本統治時代の1929年に高雄市役所として建設されました。内部も当時のままに残されていました。エントランスホール廊下階段国民政府になってからも高雄市役所として引き続き利用され、当時の市長室が復元されていました。
2011/01/21
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高雄市内を流れる愛河の河口付近、高雄大橋のたもとにあるのが天主教?瑰聖母堂です。正式には「?瑰聖母聖殿主教座堂」と呼ばれ、台湾で最初に建てられたカトリックの聖堂です。清朝時代にはカトリックは禁止されていましたが、1858年の天津条約後に布教が許可されるようになり、1862年に赤レンガの聖堂が建てられました。1928年にロマネスク様式の聖堂に改築され、現在に至っています。高雄市立歴史博物館にある模型祭壇の中央にあるロザリオの聖母マリア像は、スペインのロザリオから来たもので、140年以上の歴史があるとされています。日曜日でしたが、午後なのでミサは終わっていました。
2011/01/20
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旗後灯台から続く旗後山の山頂には、清朝時代の旗後砲台の跡があります。すでに1720年にはここに砲台があったようですが、日本の台湾出兵に備えるべく、清朝時代の1875年に西洋式の近代砲台が建設されました。イギリス人技師の設計により建設され、アームストロング砲が置かれていたそうです。砲台というより要塞といった感じで、入り組んだ通路によって自由に往来ができるようになっていました。1894年の下関条約で清から日本へ台湾が割譲された後も、清の残兵や台湾現地人の抵抗は続いており、旗後砲台もその防衛拠点となっていたようです。1895年10月、吉野・秋津洲・浪速・八重山からなる日本の海軍艦隊は旗後砲台を砲撃しましたが、旗後砲台の守備兵はすでに砲台を放棄していたため、反撃することもなく砲台は陥落しています。(日清戦争時の浪速艦長と言えば東郷平八郎ですが、この時はすでに浪速艦長を退いていました)
2011/01/19
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旗津半島の北側にある旗後山には旗後灯台が建っており、旗津輪渡の船着き場からも白亜の灯台を見ることができました。住宅地の中を抜けて山麓へと向かい、高雄港を見下ろしながらゆるやかな遊歩道を登っていくと、再び灯台が見えて来ました。1860年のアロー号事件の後、イギリスは清朝に対して開港を要求し、台湾の打狗(高雄)港もイギリスの要求によって開港されました。開港後に海難事故が多発したことから、イギリス人技師を招いて1864年に完成したのが旗後灯台で、台湾で最初の西洋式灯台となりました。日本統治時代の1918年に高雄港が拡張されると、同じ場所に新たに灯台が建設されました。太平洋戦争中も被害を受けることはなく、現在もなお使われています。あいにくの曇り空で、青空に映える白亜の灯台とはいきませんでした。旗後山(旗後砲台)から見た旗津半島と高雄港
2011/01/18
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台北と同じく高雄にもMRTが通っており、南北に走る紅線と東西に走る橙線の2路線が開通しています。(ちなみに台北の悠遊カードは高雄では使えません)その東西に走る橙線の西側の終点が「西子湾」で、旗津半島へ渡るフェリー乗り場の最寄り駅でもあります。旗津半島は半島の名前が付いているものの、高雄港への航路を造るために半島の付け根が切り開かれ、南北に細長い島となっています。そのため旗津半島に行くには、南側の海底トンネルを通るか、北側の「旗津輪渡」のフェリーを利用するしかありません。旗津輪渡のフェリー日本でも見かける前後対照のフェリーですが、1階はバイクと自転車用のデッキになっており、2階が旅客用のデッキになっていました。この手の船は何度も乗ったことがあるのですが、つり革が付いている船は初めて見ました。旗津半島までは片道15元(約42円)で、料金の収受箱にお金を入れて乗る仕組みになっていました。旗津半島までは約10分ほどの距離で、本数も多いために気軽に乗り降りできるようです。フェリーから見た高雄港内旗津半島の岸壁に近づくと、バイクのエンジンがスタートし始め、一斉に岸壁へ向かって降りて行きました。旗津半島側の船着き場近くには、高雄で最も古い廟である「天后宮」があります。天后宮前には、屋台に交じってレンタル自転車やバイクの店が並んでいました。
2011/01/17
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左営府城北門の近くにあるのが龍虎城です。左営府城にはほとんど人がいなかったのに、ここには観光バスが停まっていたりして、有名な観光地なんだと思って立ち寄ってみることにしました。龍の口から入って、虎の口から出るようです。ほとんどが日本人の観光客で、龍の方の上に登った時は、修学旅行の高校生で埋め尽くされてしまいました。塔の上から見た蓮池潭台湾のスタッフに「高雄で龍虎塔に行った」と言うと、誰も知りませんでした。発音が悪かったのかと思い、「ドラゴンの口からか入って、タイガーの口から出るタワー」と言っても、「???」と言った感じです。「あ~あそこね」とわかったのは、日本人とアメリカ人だけだったのは、何としたことでしょうか。
2011/01/16
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1月の中ごろは台湾でも最も寒い季節で、今年は例年に比べても寒いそうです。そこで少しは暖かいところに行こうと思い、高鐡(台湾新幹線)に乗って北回帰線を越え、向かった先は台湾南部の高雄です。高鐡の駅は高雄市の北部、左営区にあるのですが、まずは左営にある鳳山懸舊城(左営旧城)の跡を見て回ることにしました。清朝時代の左営も城壁で囲まれた城郭都市で、現在は城門が残っています。北門「拱辰門」北門から続く城壁も一部残っており、上に登って見ることもできました。城壁(内側から見たところ)城壁(上から見たところ)北門から南側に回ってみると、こちらは環状道路の中に門だけが残っていました。南門(啓文門)建物は後から復元されたものだと思われます。それでも南門の近くを見てみると、城壁の一部らしきものが残っていました。南門からしばらく歩くと、再び城壁が見えてきて、その先には東門がありました。東門(鳳儀門)東門から南門の方へ続く城壁東門にも櫓のような建物があったようで、高雄市立歴史博物館に復元模型がありました。鳳山懸舊城は清朝時代の1722年に築城されましたが、1787年の暴動事件により城壁が破壊されてしまいました。その後の1825年に現在残っているような石造りの城壁が、再び建設されています。亀山と蛇山と呼ばれる小高い山を囲むような城郭になっているため、規模としては相当な大きさがあったようです。
2011/01/15
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台北に来てからはあまり体を動かしていなかったので、台北車站から忠孝復興までの忠孝東路を、西から東へと歩いてみることにしました。MRT板南線だと3駅、距離にして約3kmといったところですが、いつも地下鉄を使っているので、考えてみると地上の様子を見るのは初めてです。ちょうど善導寺駅と忠孝新生駅の中間あたり、金山北路の高架の手前まで来たところで、クラシカルな建物が目に入ったので、立ち寄ってみることにしました。公園広場の中にレトロな建物が建っているのですが、「華山1914創意文化園區」が正式名称のようです。元々は日本統治時代の清酒工場の建物で、1914年に「芳醸社」が清酒の生産のために工場を建てたことに由来しています。台湾総督府の初代長官であった樺山資紀に由来して、この辺りは「樺山町」と呼ばれていましたが、のちに「華山」へと改名されました。戦後は国民政府が酒造を引継いでいましたが、1987年に工場は閉鎖され、その後は放置されたままとなっていました。10年後の1997年には文化・芸術のスペースとして再利用されるようになり、現在の「華山1914創意文化園區」となっているそうです。この建物も酒造施設の1つだったと思われるのですが、中はきれいなレストランになっていました。文化・芸術のイベントのスペースとしても使われているようですが、どこまでをそう呼ぶのかは人それぞれみたいです。
2011/01/13
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台南市内の史跡を見て回った後、再び台鐡(国鉄)の台南駅に戻ってきました。台鐡台南駅は台南最西端の駅で、レトロな駅舎が今も使われています。1900年に開業した歴史のある駅で、現在の駅舎は1936年に完成しました。台鐡と高鐡(新幹線)は接続がなく、台鐡台南駅から高鐡台南駅までは、シャトルバスで40分の距離があります。
2011/01/12
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安平へ行く途中、タクシーの中からクラシカルな建物が見えたので、気になっていました。南大門や孔子廟のある南門路の先は、6本もの道路があつまるロータリー状の交差点があり、この交差点にあるのが「國立台灣文學館」です。正面玄関日本統治時代の1916年に、台湾州庁として建設され、築100年近く経つ建物です。台北の総統府に雰囲気が似ているのですが、設計は同じ森山松之助が手掛けたそうです。台湾に来てから思うのですが、赤レンガの建物とフェニックスはよく似合うものです。
2011/01/11
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日本勧業銀行台南支店は、日本統治時代の1937年に建てられたもので、現在も銀行の建物として使われています旧日本勧業銀行台南支店(土地銀行台南分行)オランダや清朝時代の建造物が残る台南にあっては、昭和初期の建物も新しく感じてしまいます。庶民的な食堂が並んでいた中正路ですが、ここの歩道だけは突然ゴージャスになりました。はるか天井を見上げると、まずは見ないような所にも、ちゃんと装飾が施されていました。ロータスでしょうか。関連の記事旧日本勧業銀行台北支店→こちら
2011/01/10
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17世紀のオランダ統治時代から19世紀の清朝時代に到るまで、台南が台湾の政治・経済・文化の中心地でありました。清朝時代には「台湾府」が台南に置かれ、1725年には防衛のために木製の城壁が造られ、市街地は城壁で囲まれていました。後に木の城壁は石の城壁へと改築され、城壁には14箇所の門が設けられました。そのうちの1つが南大門で、1736年に完成したものです。半円形の城壁に門があり、そのさらに内側にも門がありました南大門(外側)城壁(内側から見たところ)半円形の形から、「月城」とも呼ばれるそうです。石垣で組まれた城壁は、沖縄のグスクに感じが似ていました。内側の「南寧門」南大門と南寧門では門の向きが異なっており、直線で侵入できないような造りになっています。(日本城郭の「枡形門」と同じ機能を果たしているようです)日本統治時代には台湾総督府によって城壁は破却され、現在の南大門は1977年に復元されたものです。現在は「府城南門公園」として整備されています。台北城もそうですが、日本の台湾総督府によって清朝時代の城壁は破却され、都市整備が行われました。
2011/01/09
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安平を見て回った後はそろそろ台南市内に戻ろうと思い、再びタクシーに乗りました。向かった先は南大門なのですが、途中で運転手さんが「南大門には何もないから、会社に行けばいい」というような意味のことを言いました。「おかしなことを言うな~」と思いつつ、「会社は台北にあるし、今日は休みです」という意味のことを言ったのですが、運転手さんも不思議そうに首を傾げていました。どうも会話がかみ合わないと思っていたら、運転手さんが紙に書いてくれたので、ようやく納得です。私が「孔子」と「公司」を聞き間違えていたのが原因で、「南大門には何もないから、孔子廟に行けばいい」と、とてもわかりやすい話になりました。(考えてみると、ピンインも四声も全く違うのですが)南大門と孔子廟は近く、後で歩いても行ける距離なので、まずは孔子廟まで行ってもらうことにしました。孔子廟は台南だけでなく、台北のほか台湾各地にありますが、台南の孔子廟は台湾の中で最初に建てられたものです。東大成坊(東門)扁額に書いてある「全台首学」は、「台湾で一番最初の学校」という意味です。台南の孔子廟は、1665年に鄭成功の息子である鄭経が、諮議参軍(参謀長)である陳永華の提案を受けて創設しました。東側に「国学」と西側に「文廟」が置かれ、国学では講師を招聘して学生を募り、学校としての役割を果たしていたようです。国学の入口にあたる「入徳之門」国学の明倫堂文廟には孔子を祀る大成殿があり、清朝時代の1712年以降、大幅に増改築されたそうです。大成殿大成殿には前庭が設けられて、垣根で囲まれていたようですが、現在も当時の門が残っていました。前提東側の「礼門」日本統治時代には兵舎や公学校として機能していましたが、解説によると「破壊甚大」だそうで、1917年の修繕によって現在の形となったそうです。
2011/01/08
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17世紀前半のオランダ統治時代、オランダはFort Zeelandia(安平古堡)を本拠地として統治していました。ゼーランディアを中心として都市も発展していきましたが、一方で中国大陸から移って来た現地人との軋轢もあって、1652年にはオランダ人と漢人が衝突した「郭一壊事件」が発生しています。この事件を機に、オランダがFort Zeelandiaの東側、Provintia(普羅民遮)に築城されたのが、「Fort Provintia」(普羅民遮城、プロヴィンティア城)です。中国風の建物が建っていますが、建物の土台は赤レンガで出来ていました。現在の建物は後世になって建てられたもので、内部には当時の復元模型がありました。プロヴィンティア城の復元模型また日本統治時代に発掘調査を行ったところ、築城当時の稜堡が出土したそうで、現在も稜堡が残っていました。1624年から続いたオランダの台湾統治ですが、1662年に鄭成功が台湾からオランダ人を追放し、わずか38年で終わりを告げました。赤?楼の庭園には、鄭成功に降伏するオランダ人の像が立っています。鄭成功は明朝の家臣でしたが、清との戦いに敗れて、台湾に移って来ました。亡命政府ながら皇帝から「国姓」をもらったことから、鄭成功は「国姓爺」と呼ばれています。赤?楼にある「国姓爺」鄭成功の肖像近松門左衛門の「国性爺合戦」のモデルでもありますが、鄭成功の母親は日本人で、生まれは日本の長崎だそうです。
2011/01/07
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1858年に清国が欧米列強と締結した天津条約において、清が開港した10港のうちの2港が台湾にある港でした。台北市の北側にある淡水と、台南市にある安平がその2港で、開港後は各国の商館が建設されました。当時の安平港の地図(画像の右下にあるのが「億載金城」です)「洋行」(外国の貿易商社)が建設され、砂糖や樟脳の輸出が開始されました。中でも東興洋行・和記洋行・恰記洋行・?記洋行・徳記洋行が「五大洋行」と呼ばれ、現在は徳記洋行の建物が保存されていました。1867年に建てられた徳記洋行の建物白亜の壁がエキゾチックな雰囲気を醸し出していました。その隣に徳記洋行の倉庫も現存しているのですが、こちらは「安平樹屋」と呼ばれています。壁一面に延びるガジュマルも、樹齢100年を越すと言われています。誰も近寄らなかったためにお化け屋敷のようになっていますが、そのために異様な光景ながらも現存しているのは、皮肉としか言いようがありません。安平樹屋の内部徳記洋行が撤退した後、日本の統治時代には製塩会社が設立され、安平樹屋も製塩会社の倉庫として使われていました。(その頃にはすでに異様な雰囲気だったことでしょう)
2011/01/05
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「台湾新幹線」とも呼ばれる台湾高速鐡路(Taiwan H igh Speed Rail、略称「高鐡」)に乗りました。東海道・山陽新幹線700系車両をベースにした「700T」車両。(製造は川重・日本車輌・日立の日本メーカーです)先頭の形は700系と異なっていますが、これはあのアヒルのような形が不評だったことと、トンネルの断面積が日本の新幹線より大きいため、わざわざアヒルにする必要がないことが理由となっています。それでも車両そのものは、まさに700系新幹線でした。おなじみの700系車両を台湾で見るとは、なんとも不思議な感じがします。高鐡は日本の16両編成より短い12両編成で、商務車(グリーン車)1両、對號座(指定席)8両、自由席(こちらは同じ表記)3両で編成されています。座席配置も3列-2列で、車内の構造も座席の形もまさに700系でした。(座席に付いている回転用のグリップに700系を感じます)台湾高速鉄路はちょうど4年前の2007年1月に開業し、台北駅から高雄市の左営駅までの345kmを結んでいます。将来的には北は南港駅(台北市)、南は高雄駅まで延びる予定です。各駅停車の列車と途中駅を通過する列車があるのですが、「のぞみ・ひかり・こだま」のような愛称はなく、全て列車番号で区別されていました。最高速度は時速300kmで、最速列車だと台北・左榮間の所要時間は1時間36分です。台北・左営間はちょうど東京・名古屋間と同じ距離なのですが、東海道新幹線区間では最高時速が270kmまでしか出せないので、高鐡の700系方がのぞみよりも少しだけ短い所要時間です。値段の方は台北・左営間が1,490NT$(約4,200円)で、東京・名古屋間が1万円以上するのに比べると、こちらは断トツで高鐡に軍配が上がります。車内の電光掲示は中国語(繁体字)と英語で書かれており、「◆○○新聞ニュース◆」のようなテロップはないものの、天気予報は案内されていました。ちなみに車内放送は中国語・台湾語・英語の順で放送され、高鐡の駅では駅員の人にも英語が通じるので、中国語がわからなくても安心して乗れるかと思います。台北駅から板橋駅までの間は地下を走っていましたが、地上に出るとほとんどの区間が高架のスラブ軌道で、スラブ軌道独特の「ヒュンヒュン」という風切音が聞こえて来ました。(ちなみに線路の建設は、TGVのフランスやICEのドイツと、高速鉄道を持つヨーロッパ勢が担当しています)また、台湾では鉄道もクルマも右側通行なのに対し、高鐡では日本と同じ左側通行になっていました。日本の新幹線と同じ車窓から外の景色を眺めていると、時々東海道新幹線に乗っているような錯覚を起こしてしまいます。安倍川を渡る…豊橋・三河安城間みたいな感じ。田園風景に変わって亜熱帯や熱帯の植生を目にすると、「ここは台湾だった」と、また現実に戻りました。実は台湾高速鉄路は民間の鉄道会社で、そのためか台鐡(国鉄)との接続がほとんどありません。台鐡の駅との間には無料シャトルバスが走っていたりするのですが、私の降りた台南駅などは、台鐡台南駅までバスで40分と、空港並みの不便さがありました。それでも日本が誇る「Shinkansen」に出会って、うれしさと懐かしさがありました。
2011/01/02
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明けましておめでとうございます。日本が新年を迎えた後、1時間遅れで台湾も新年を迎えました。台北の12月31日はいたって普通の日で、NHKワールドの紅白を見ていても実感が全くなく、日本だけが年越しをするのではないかと思ったくらいです。年越しの台北101の煙火(花火)を見ようと、忠孝東路まで行ってみたのですが、あまりに人が多いので自宅マンションの屋上から眺めることにしました。屋上から見た忠孝東路。クルマは全面通行止めになっていて、道路中に人があふれています。新年のカウントダウンを迎えた瞬間、101と周りのビルから一斉に花火が上がり、光と音に圧倒される感じでした。画像ではあまり伝わりませんが、あたり一面がパッと明るくなったと思うと、地響きのように音が鳴り響いて、すごい迫力です。ここからは台北101の上の方だけが見えるのですが、花火に包まれて原型を留めていません。しばらく光と音の大演出が続いた後、101には「100 ROC」(Republic Of China)の文字が浮かび上がっていました。2011年は年号で言うと、ちょうど民國100年です。101の花火が終わった後も、あちらこちらでずっと花火が上がったりして、なんともうるさい賑やかな年越しでした。民國100年の記念すべき1年、今年も宜しくお願い致します。
2011/01/01
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