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里見義弘が北条氏政を迎え撃った三船山の戦いは、里見義弘にとってはまさに乾坤一擲の戦いだったかも知れません。千葉県君津市と富津市にまたがる三舟山の遠景1563年の第二次国府台合戦で、里見義弘(房総連合軍)が北条氏政に敗北を喫すると、房総各地の豪族の離反を招くこととなりました。特に正木時忠や土岐為頼などの離反が痛手で、それによって房総防衛ラインが崩されると、里見氏は上総の大半を失う結果となっています。そしてついに北条氏政は里見義弘の佐貫城を攻略すべく、水陸両軍を率いて上総へと進出、三船山で激戦が繰り広げられました。その三船山の山頂部を目指して、北条軍と同じ北側から登り始めました。この季節の房総半島らしく、ここでも道の周りににスイセンが咲いています。戦国時代の房総に思いを馳せていると、道の途中に意外な看板がありしました。八重の桜は時々観ていたくらいなので、どのシーンだったのか見当もつきません。房総の命運を賭けた古戦場も、現在はハイキングコースが整備されていて、割と楽に山頂にたどり着くことができました。山頂部には展望台があり、東京湾と対岸の横須賀を見渡すことができます。山頂部には平坦な土地が延々と広がり、砦というより本丸から三の丸が入ってしまうほどの広さがありました。三舟山に陣取った北条軍は1万人とも言われていますが、そんな大軍が駐留するには十分すぎるほどの広さです。北条軍の総大将、北条氏政が本陣を置いていた北側山麓とにかく山頂部は平坦で、城郭を築くにはむしろ不向きかも知れません。唯一の起伏、土塁のような盛土が目立ちすぎるほど、平らな土地が広がっていました。戦死者を弔う塚だとも言われています。そんな広大な山頂部の片隅には、過去の激戦を物語る碑がひっそりと建っていました。1567年の三船山の戦いは、北条氏政にとっては房総制圧のまたとない好機だったと思われます。北条氏照(氏政の弟)が別働隊を率いて、里見義堯(義弘の父)のいる久留里城へ進攻し、さらに北条綱成が水軍を率いて東京湾から進攻するという、まさに総力戦でした。一方、佐貫城の里見義弘軍は2,500人しかいませんが、籠城することなく果敢に討って出て、北条氏政のいる三船山近くまで進出してきました。里見義弘が佐貫城を出てくると、北条軍は三船山を降りて里見軍に攻めかかりました。しかしながら北条軍が攻め寄せると、里見軍は逃げるように退却して行きました。「国府台の敗戦で里見は怖気づいている」と見た北条軍は、逃げる里見軍をさらに追撃していきました。実はこれが里見義弘の作戦で、三船山の周囲にある「障子谷」という沼地に北条軍を誘い込むのが目的でした。障子谷付近霧が立ち込める中、北条軍は沼地に足をとられ、次々と里見軍に討たれていきました。里見義堯・義弘にしてみれば、国府台での北条軍の攻め方を逆手にとって、溜飲を下げたことかも知れません。さらに里見義弘は、正木憲時の別働隊を、北条軍の背後にある八幡山から攻め込ませました。背後も襲われた北条軍は、続々と沼地へとはまって討たれていきました。この「三船山の戦い」で北条軍は敗走、里見義弘は再び上総と下総を奪還しました。一方の北条氏康・氏政にとっては、唯一領土の縮小を伴う敗北であったと言われています。【楽天ブックスならいつでも送料無料】北条氏康 [ 菊池道人 ]価格:740円(税込、送料込)【楽天ブックスならいつでも送料無料】里見義堯 [ 小川由秋 ]価格:740円(税込、送料込)
2015/01/22
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意外にも江戸時代の東京湾には鯨が入ってきたようで、鋸南町の勝山地区は「関東唯一の捕鯨史跡の里」と呼ばれています。かつては鯨の通り道であった浮島付近(大黒山展望台より)いさなとる 安房の浜辺は魚偏に 京といふ字の 都なるらん江戸時代の1805年に太田蜀山人が詠んだ歌で、「いさな」は勇魚と書くのですが、クジラ(すなわち魚へんに京)の意味だそうです。江戸時代の勝山では「鯨組」の組織で捕鯨を行い、里見水軍の血を引く3組57船500人の大組織だったようです。鯨組の統率は代々「醍醐新兵衛」を名乗り、大黒山の中腹には初代醍醐新兵衛の墓所がありました。初代醍醐新兵衛は、日蓮上人や伊能忠敬と並んで、千葉県8聖人に数えられています。醍醐家の菩提寺である妙典寺醍醐新兵衛率いる勝山の捕鯨は、統制された組織で大掛かりに行われていたことがうかがえます。遥か洲崎(館山)に見張りを置き、クジラが東京湾に入って来ると、勝山までは烽火で知らせていました。戦国時代に安房勝山城のあった八幡山は山見方と呼ばれ、館山の烽火を発見すると山見方より烽火やホラ貝で鯨組の船団に合図を送ったと言います。八幡山(山見方)から見た勝山港八幡山の北側にある大黒山山頂には魚見台があり、ここから沖の船団に旗で合図を送っていました。かつての魚見台跡には、怪しげな建造物が建っていますが。戦国時代の房総半島南部では、沿岸警備のために里見義堯が強力な里見水軍を組織化しました。対岸の三浦半島に拠点を置く北条水軍を退け、浦賀水道の制海権を有するまでになった里見水軍ですが、残念ながら江戸時代初期に里見氏とともに歴史の幕を閉じました。それでも勝山の捕鯨史跡を訪ねてみると、その1世紀後になっても、里見水軍の歴史が受け継がれているような気がします。烽火での連携や、クジラを追う操船技術など、まさに安房の沿岸警備隊のスピリットでしょうか。大黒山山頂から見た東京湾潮流はもとより、海底の地形まで熟知していなければ、到底及ばない芸当だと思います。上がったクジラは、食用のみならず燃料や肥料などの余すところなく使われていたようで、可知山神社には鯨の供養碑である「鯨塚」が建てられていました。意外な東京湾の捕鯨史跡に出会い、何となく散策してみた安房勝山でしたが、今も漁師町らしい雰囲気が随所に見られます。いさな通りこういう街並みにノスタルジーを感じるのですが、ふと子供の頃に少し住んでいた瀬戸内海を思い出しました。かつての瀬戸内海には村上水軍、浦賀水道には里見水軍と、何となくかぶる部分があります。そうなるとサカナを食べたくなるのですが、勝山漁港には漁協直営の食堂「なぶら」があります。(釣りをする人間にとっては、ネーミングに魅かれてしまうのですが)勝山漁港では朝・夕と2回のセリが行われるそうで、今回は朝獲れの方にしてみました。どうもこの日はあまり上がらなかったようで。その日によって変わるメニューもあるのですが、時には鯨料理も出るようです。
2015/01/21
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江戸時代の鋸南町には、安房勝山藩1万2千石が置かれていました。戦国時代に安房勝山城があった八幡山の、そのすぐ北側山麓に江戸時代の陣屋が置かれていたようです。安房勝山城から見た「旧陣屋エリア」(きょなんおさんぽマップより)その旧陣屋エリアに降りてみたのですが、江戸時代の藩庁の面影はなく、何となく歩いている感じでした。ちょうど道端で老婦人がひなたぼっこをしていたので、「江戸時代のこの辺りに陣屋があったそうなのですが…」と声を掛けてみました。聞けば、まさにこの「勝山港通り商店街」が陣屋前の大通りだったそうです。そして、現在の美容室のある一角が旧陣屋だったとのことでした。さらに江戸時代、陣屋前の通りは葬儀の列が通ることを許されておらず、浜の方で葬式がある時は、「仲町」を迂回していたそうです。そのため、仲町は「弔い町」と呼ばれていたとのこと。やはり郷土史については、地元のお年寄りに勝るものはないと思います。強いて難を言うならば、耳が遠いことと、同じ話が何度も出てくることでしょうか。仲町のお葬式のくだりが3回目に出て来た時、丁重にお礼を述べて立ち去ることにしました。かつての勝山陣屋の辺りは住宅地に変わっていますが、陣屋のあった裏手には恵比寿山と呼ばれる小高い山があり、古峯神社が祀られていました。北の大黒山に対し、南は恵比寿山と呼ばれているようです。恵比寿山は自然の山だと思いますが、山頂付近には洞穴のようなものも見えていました。江戸時代の陣屋付近だと、物見台や有事の詰め丸にもなりそうです。旧陣屋時代から続くと思われる井戸【楽天ブックスならいつでも送料無料】大名の日本地図 [ 中嶋繁雄 ]
2015/01/20
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大黒山展望台から見ると、安房勝山城のあった八幡山は、戦国城郭に最適な立地にあるように思います。この稜線を見ると、ここに築城したくなるのも納得です。勝山の北側には佐久間川が流れ、天然の水堀の役目をすると共に、背後は岩場の海岸線となっています。佐久間川(河口付近)大黒山展望台を後にすると、今度は八幡山を目指して海岸沿いを行くことにしました。かつては里見水軍の拠点であった現在の勝浦漁港対岸の北条水軍の来襲に備え、里見義堯は南房総沿岸の防衛強化を行うと共に、水軍力の強化に努めました。かつての勝山港も、そんな里見水軍の基地の1つだったと思われます実は7年ほど前にも八幡山を目指したことがあるのですが、その時は崩落の危険ありとのことで、立ち入り禁止となっていました。安房勝山城の遠景道順を尋ねがてら地元の人に聞いてみると、現在は登れるとのことです。遊歩道と書かれた標識に従って行くと、両側にいきなり切岸が現れました。岩盤の斜面を切岸状に削るのは、房総の戦国城郭に特有の築城術ですが、戦国城郭の遺構かどうかまではわかりませんでした。(江戸時代の勝山藩の時のものかも知れません)さらに斜面を登って行くと、今度はもっと巨大な切岸が現れました。人工的に掘削されたようにも見えますが、もしもこれが城郭の遺構ならば、相当強力な防護設備となります。この大切岸から目を転じると、樹木で覆われた向こう側に腰曲輪のような削平地が見えていました。画像にすると何が何だかわかりませんが、肉眼では確かに人工の削平地があります。それにしても、この季節は落葉で城郭の遺構がはっきりとわかるはずなのですが、常葉樹に覆われた南房総についてはそのセオリーが当てはまりません。大切岸の上部は広い削平地となっており、ここは曲輪の跡だと思われます。咲き揃ったスイセンの花に、ここでも南房総の冬を感じました。この曲輪からは西側の眺望が開けていて、浦賀水道の対岸にある三浦半島がよく見渡せます。浦賀水道の交通量がいつになく少ないように感じたのですが、ちょうどNYK(日本郵船)のコンテナ船が中の瀬航路を北上していました。遠目にコンテナを見る限りでは、40フィートコンテナだと思うのですが、積荷も少ないように見えます。北アメリカ西海岸の港湾ストの影響は、まだまだ続くのでしょうか。曲輪から眼下に目を向けると、勝山港に出入りする船舶の様子がはっきりと見えました。対岸は三浦半島、かつての不審船であった北条水軍のスパイ船についても、その動きが逐一見えたことでしょう。曲輪の先には鳥居があって、さらに道が続いていました。先に続く道を登っていると、途中にタヌキのような小動物が現れ、こちらを警戒して振り返りながら、藪の中へ消えて行きました。茶色い動物だったのですが、顔は白くて目の周りが黒く、さらに太い尻尾に縞模様があったのを覚えています。ほんの少しの時間のことで、さらには呆然としていたので撮影はできませんでしたが、「ラスカル??」不思議に思って後で調べてみたのですが、私が見たのはまさにこれでした。なぜ南房総の勝山にアライグマがいるのか、全く意味不明です。その先には物見台のような削平地があって、小さな社殿があったのですが、もはや城跡探訪どころではありませんでした。安房勝山城は、この辺りの豪族で曲亭馬琴の南総里見八犬伝にも登場する安西氏の築城だとされています。源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れて来た時、安西氏が砦を築いたのが始まりとされていますから、平安時代から何らかの城跡があったことになります。安西氏は「安房の西」に由来し、対岸の三浦氏とは友好関係にあったようです。戦国時代になると里見氏の支配下となり、勝山城は対岸の北条氏に対する重要拠点として機能していました。(まさかのアライグマの出現に、城の歴史も吹っ飛んでいます)
2015/01/19
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館山方面からJR内房線または国道127号線を北上していると、安房勝山あたりの左手に怪しげな建物が見えてきます。ピラミダルな頂上部に入母屋の屋根が見え、夜間はご丁寧にライトアップまでされています。この山は大黒山と呼ばれ、標高75mの頂上までは遊歩道が整備されています。南房総は水仙の季節となり、遊歩道沿いに水仙がなびいていました。見た目にも急な斜面を巻くようにして登って行くと、山頂部の作平地に到着しました。「天守」と呼ばないのが良心的ですが、あくまでも「大黒山展望台」です。(万木城にも同じものがあったのですが、あちらも「展望台」だったと思います)それでも安房勝山は城郭と無関係ではなく、戦国時代には里見氏配下の城郭があり、江戸時代には安房勝山藩の陣屋が置かれていました。大黒山から見下ろすと、勝山漁港の向こうに、安房勝山城のあった八幡山を望むことができました。かつて安房勝山城のあった八幡山と勝山漁港すぐ北側を川が流れ、背後は海に面しているため、こちらの方が築城に適しているように思います。さらには天然の良港にも恵まれ、水軍基地としても申し分なさそうです。大黒山も物見台や烽火台として機能していたと思われますが、東京湾の方に目を転じると、三浦半島を間近に見ることができました。里見水軍にしてみれば、浦賀水道を挟んだ対岸の宿敵、北条水軍の動きがよく見えたと思います。三浦半島南部に目を向けると、富士山の雄大な姿を望むことができました。画像にすると迫力はありませんが、肉眼では山頂部剣ヶ峰のギザギザまではっきり見えます。さらには富士山の右側には、雪を戴く南アルプス、農鳥岳・間ノ岳・北岳の白根三山を見ることができました。南房総の標高75mから、高さで日本1、2、4位の山が同時に見えるとは、思ってもいないラッキーです。(一昨年の仙丈ケ岳では、ガスに覆われて北岳が見えなかったので)この日は天気も良く、また周囲に高い山がないため、まさに大パノラマといった感じでした。伊豆半島天城山と伊豆大島観音崎と横須賀の方向房総半島の内陸部に目を転じると、双耳峰を持つ富山の山容があり、伊予ヶ岳の山頂も顔をのぞかせていました。天守型の展望台には閉口しますが、海から近いために標高の割に眺望は抜群で、実は穴場的なスポットかも知れません。
2015/01/18
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京急蒲田から羽田空港の間に穴守稲荷駅があります。羽田空港まで京急の各駅で行くことはないので、気になりながらも降りたことはありませんでした。京急穴守稲荷駅前にある「鳥居」現在の穴守稲荷神社は、京急の穴守稲荷駅から歩いて5分ほどのところにあります。現在の穴守稲荷神社拝殿穴守稲荷神社の創建は江戸時代の1804年のことで、元々は現在の羽田空港の敷地内にありました。現在の京急空港線も、元は「穴守線」として、穴守稲荷神社の参詣客などを運ぶのが目的で作られた経緯があります。終戦後に羽田飛行場がアメリカ軍に接収されると、拡張のためGHQによって穴守稲荷神社境内の社殿は取り壊されてしまいました。それでも大鳥居だけは、撤去しようとすると死傷者が出たりして、空港の敷地内に残されていたそうです。終戦から50年以上も経った1999年に、ようやく鳥居が移転されました。元々の穴守稲荷があった羽田空港B滑走路(RWY04/22)の方向この日の"Tokyo International Airport"のATISをモニターしていると、磁方位270度の方角からかなり強い風が吹いているようでした。さらにインバウンドは、B滑走路(RWY22)と新しく出来たD滑走路(RWY23)のパラレルアプローチでした。D滑走路が出来る前、こんな日はB滑走路1本で着陸していたため、離着陸ともに大混雑していたのを思い出します。ターミナル管制と滑走路管制をモニターしているだけでも、以前に比べればかなり余裕があるような感じがして、D滑走路の新設で発着回数が増えるのもうなづける気がしました。現在の羽田空港は多摩川の河口付近にありますが、江戸時代の多摩川河口付近には干潟が広がっていたようです。歌川広重「名所江戸百景 はねたのわたし弁天社」描かれているのは玉川弁財天ですが、その向こうに穴守稲荷神社がありました。歌川広重のみならず、200年後にここから国際線が発着するとは、想像もできなかったことでしょう。現在の多摩川河口付近
2015/01/13
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金杉橋から古川沿いに400mほど下流へ行くと、現在の海岸線に行き着きました。視界が開けると、レインボーブリッジの向こうに大井のガントリークレーンが見渡せます。現在の隅田川の河口は判然としませんが、日の出埠頭と月島3号地の間が河口の一つになるでしょうか。対岸の月島ちょうど海上保安庁の巡視船が停泊しており、その手前を水上バスが通り過ぎて行きました。幕末の古地図で見ると、隅田川の河口ははるか上流部にあり、永代橋の先はすぐ海が広がっていたようです。東京港の数ある埠頭や桟橋の中で、日の出埠頭は最も歴史が古いそうです。現在は東京湾クルーズや水上バスの発着場となっています。東京湾クルーズの御座船「安宅丸」水上バスでは浅草行があるようで、日の出→浅草だと約40分、片道780円とありました。倍くらいの料金かと思っていたのに意外と安く、浅草までは船で帰ろうかとも思いました。それでも単に移動手段として考えるならば、電車に比べてずっと割高なので、ここは見送りとなりました。ところで、歌川広重が芝浦の風景を描いていて、おそらく隅田川河口付近の海側から俯瞰したものだと思われます。歌川広重「名所江戸百景 芝うらの風景」描かれている石垣は浜離宮や芝離宮だと思うのですが、広重独特のデフォルメなのか、位置が判然としませんでした。東京ガス本社の敷地には、石垣の跡が残っていました。松平氏の屋敷の護岸だとされていますが、石の積み方からして、江戸時代も前半の方だと思います。オフィスビルの中にいきなり石垣があるのは奇特ですが、広重が描いた石垣の一つかと思うと、なんだか感慨深いものがあります。
2015/01/12
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三連休の真ん中の日、JR山手線を浜松町駅で降りてみました・閑散としたコンコースの寿司屋で軽くつまんで一杯呑んだ後、コンコースから芝離宮を眼下に見つつ、足を向けたのは芝浦方面でした。現在はウォーターフロントエリアとしてオフィスビルが立ち並ぶこのエリアも、江戸時代は静かな漁師町だったようです。かつての東海道、現在の第一京浜(国道15号線)をしばらく行くと、渋谷川を源流とする古川に架かる金杉橋に行き当たりました。品川宿付近の旧東海道は東京湾の海岸線沿いをを通っており、当時の金杉橋も海岸線に近かったことがわかります。幕末の絵地図金杉の地名の由来については諸説あって、金色の杉のような大木が沖合から夜の目印になったとか、金洲崎が金杉になったとか言われています。いずれにいても海岸にまつわるもので、海に近かったことがうかがえます。歌川広重「名所江戸百景 金杉橋芝浦」かつての金崎橋の上流、将監橋との間の河岸には、時代劇などにも登場する金杉河岸がありました。現在の金杉河岸古川の上を首都高の環状線が通っています。金杉橋の下流部は湊町と呼ばれ、幕府御坊主の拝領屋敷が並んでいたようです。金杉橋から古川沿いを海に向かって歩いて行くと、100mほど行ったところにかつての海岸線の名残がありました。現在は東海道本線・山手線・京浜東北線・東海道新幹線と、その上を東京モノレールが通っていますが、明治になって鉄道が開通した時、線路は海の上の築堤を通っていました。この低いガードにも、かつての海岸線の名残を感じます。現在の海岸線はずっと先にあり、首都高の浜崎橋JCTで古川が海に続いていました。すぐ目の前は東京湾です。
2015/01/11
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