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中国地方に住んでいた私には「盆地」という言葉に狭い土地という固定観念があります。奈良盆地は広い…。平城京から秋篠寺までは地図で見ると近いのですが、歩くと距離がありました。途中でバスかタクシーを利用したくなったほどですが、住宅街の道でタクシーは通っていないしバスもどの路線に乗ればよいかわからない。先に言っておけば帰りはバス停まで向かったのですが、バスの頻度が少なく結局歩きました。そもそも「健康のため歩く事」を目的としているのに遠すぎると文句を言うこと自体に自己矛盾があるのです。愚痴を言わずに本題に戻ります。秋篠寺は大極殿の西にあります。近鉄の大和西大寺の駅を過ぎ、少々わかりづらい道を歩きます。どのガイドブックを見てもバスの利用を勧めています。しかし方向音痴の私がどうにか到着できたので大丈夫、歩けます。駅からは20分程度だったような記憶があります。平城京から駅までの距離が単調で長かったこと、駅の周りで少し方向を見失った事が遠く感じた原因かもしれません。秋篠寺の歴史は古く、奈良時代、776年といいますから長岡京に遷都する(784年)の少し前ですね。Wikiによりますとどうもこのお寺も怨霊信仰と関係がありそうですが、そんな歴史の疑問を解きに来たわけではありません(笑)五木寛之さんの旅行記にこのお寺の伎芸天立像の美しさが説明されていました。仏像に全く興味がもてないのですが、本尊である薬師三尊像ではなく、こちらを選ばれていることに興味があり足を運んでみました。そんな話をしておきながら、当然のことですが仏像の写真はありません。そこが私のBlogのよいところ、興味がありましたら「是非見に行ってください」(笑)さて私は何日か旅に出てきます。息子の卒業記念旅行です。週末に戻ります。
Mar 29, 2011

火縄銃の轟音、近くにいる子どもたちが耳を押さえ後ろを向いています。大人でも無意識の驚きの声がもれ聞こえます。街が振動する程の轟音です。現代のような爆音慣れした日本人でもこれほどに驚くのです。戦国時代に始めて登場した火縄銃、しかも織田信長は列に並べて一斉射撃しました。堺の祭り、わずか2丁ほどの同時発射でこの音ですから、殺傷力をはるかに超えた轟音による威嚇力がどれほど戦場で役にたったか、生音を聞けば誰でも想像ができます。戦国時代の武士は完全な職業軍人ではありません。農家をしながら農閑期に集まり領地を広げる戦争をしています。そのためお互いを殺傷すると労働力が失われてしまいます。戦争は大将の首をとる事が目的であり大量殺戮が目的ではありません。そのため相手が敗走する威嚇が重要だったようです。鎧は実用性より派手で威圧的になり、槍は遠くからでも目立つほど長くなり、轟音の火縄銃が登場したのでしょう。負け戦は「敗走」であり、必ずしも殺されることではなかった、相手を逃がすか降伏させれば勝ちだったのです。降伏した証が大将の首でした。本能寺、信長は意地でも首を渡さなかった理由です。もちろん火縄銃には十分な殺傷能力があったそうです。しかし当時の戦いは戦場が広がりすぎないよう、また背後を取られないよう谷間や山の斜面に陣を取ります。この轟音は山を跳ね返り谷間を駆け回り一段とすごい音になったでしょうね。こういうことって、火縄銃の音を聞くまで考えた事がありませんでした。とてもよい体験でした。しかしうるさすぎる…鼓膜が破れるかと思いました。話が変わって娘は足が速いので、リレーではアンカーとして逆転優勝するほど活躍するのですが、徒競走ではスタートのピストル音が怖くて耳をふさぎ、前に進むどころか怖くて後ろに下がるので負けてしまいます。親ばかとしてはそのくらいがかわいいのですが(笑)
Mar 28, 2011

大極殿は二つありました。天皇家は平城京から一度遷都して、その後もどってきます。二つ目の大極殿は戻ってきてから建てたのでしょう。二つ目は中心より少し東に位置し、いまでも敷石が残っています。大極殿といえば天皇の住処です。その跡地にレプリカとはいえ、新しい建造物を作ってしまうことに日本の歴史を壊す行為を心配したのは私だけではないはずです。建築者の言い訳として「第二大極殿のほうが遺跡としてしっかり残っていたため」、第一大極殿にレプリカを作ったと言うかもしれません。でも本当にそれだけでしょうか。二つある…というと伊勢神宮。式年還宮、20年毎に本殿を建て替える行事ですが、似ていますね。伊勢神宮は天皇家の宮で有史以前から続きますが、還宮がはじまったのは690年だそうです。平城遷都に近いですね。伊勢神宮をまねたのでしょうか…私はそう思っていません。長くなりますから抜ける人はここで…写真も大した事はないし(笑)天皇家には歴史に残せない伝承があるはずです。天皇家のプライベート情報なので秘密のままで構いません。ただ個人的な想像として奈良時代の天皇家には陰謀が渦巻き、クーデターが何度も起きていました。「一つ目の大極殿には住めない」という明確な理由が存在し、二つ目の大極殿を建造したと仮定すればどうでしょう。理由は宮内庁であればだれでも知っている事かもしれず、第一大極殿の上をレプリカで「封印した」のかも…冗談ですよ。勝手な考察遊びです。さらに言えば逆かもしれません。天皇家は第二大極殿から逃げるように遷都しています。この度、第一大極殿を豪華に修復することで「こちらが正当な大極殿」と言いたかったかもしれませ。いえ、なにも理由など無かったかもしれません(笑)とにかく歩く距離が長いせいか、二つ目の大極殿に向かう人は観光客の1割程度…。私の場合、次の目的地に向かうために朱雀門まで戻るより大極殿側に抜けたいと道を探していたらたどり着いただけです(笑)第二大極殿、殺風景なコンクリートの台があるだけ、目の前には広く開ける原野があって、ここが奈良市の中心部?と疑いたくなるほどでした。遺跡だから残しているのか、住む人や工場を誘致する人がいないのか。それともやはり祟りが…これ以上長くなるわけには…(笑)さあ奈良まで来ているのですからもう一箇所尋ねてみます。
Mar 27, 2011

アオザイという女性の民族衣装は体のラインを強調します。ベトナムで太っている人の割合は低いようで、衣装の装飾より体系でおしゃれを楽しんでいるようにも見えます。これを不思議に感じています。ベトナムは料理がおいしい国です。水が豊かな熱帯雨林気候で食料にあふれ、貧富差が少ないため誰も食に困ることなく、しかも日本と同じく…いえ日本以上に米文化の国です。フランス文化の融合で料理の味と種類は世界的に有名です。それなのになぜ太らないのか…ここからは予測に過ぎません。まず肉食が少ないこと、もしくは鶏肉が主体である事が一つです。そして辛い食べ物が多く唐辛子をよく食べること。更に気温が高くカロリー消費が多い事が原因かもしれません。ベトナムでは日本やシンガポールほど交通手段が発展しておらず、徒歩や自転車の利用率が高いですから健康的なのかもしれません。アオザイをたなびかせてベトナム風の傘をかぶり颯爽と走る女性の姿が目に浮かぶようです。日本人のスタイルがよいと言えないのは、正座に大きな原因があるとも言われています。またベトナムに比べれば日本の食事は質素でした。そのため腸が長くなり栄養が少ないものからでも栄養が摂取できる優れた内臓を持っていました。脚の直線が崩れ(和服だから関係なかった)、胴が長くなった原因です。日本人が太ったのは、戦後に大きく食生活が変わったせいではないでしょうか。肉食、ジャンクフード、甘いドリンク…吸収率がよい日本人の腸が高カロリーの食事をしてしまうと一気に太ってしまいます。また車と公共交通機関の発展から歩く距離の減少が大きな原因となっているのでしょうね。ベトナムに行けばやせられる…残念ながらそんなことはなさそうです。
Mar 26, 2011

この日は本当に天気がよくて、美しい蒼穹を楽しむ事ができました。大極殿から朱雀門を望めば逆光です。つまり正午頃です。朱雀通りは南に伸びる道ですから。写真の基本中の基本は、逆光写真を狙わない限り順光になるように回り込む事です。このような大きな建造物ですと回りこむのは大変です。例えば大阪城など巨大すぎて回り込むことなどあきらめてしまう場合もあります。天皇は常に太陽のスポットライトを浴びていたのです。一方で南からの光がまぶしいので御簾を降ろしたのかもしれません。私が写真撮影と行くとき天気を見て場所を決める場合が多いのですが、奈良や京都では予測が外れる事がよくあります。奈良と大阪南部は距離的に近いのですが間に山があり天気が大きく異なります。京都も同じで、大阪で晴れていたのに京都に近づくにつれて曇天となる場合も少なくありません。琵琶湖がある滋賀はもっと大きな差です。出かける時、蒼く晴れている日でも旅先の天気だけは神頼みです。日ごろの行いがよほどよかったのかこの日は最高の一日でした。20年ほど前にこの平城京跡地まで来た事があります。奈良でシルクロード博が開かれていた時です。その時の平城京跡はまさに草原でした。多分、大極殿のあるあたりに立って眺めたのだと思います。当時は写真に興味など無く、記録は記憶に頼るだけです。天気は曇天で人もおらず寂しい雰囲気が漂っていました。2011年となって遷都1300年の記念行事が終了し、今の平城京がどのようになっているのかはわかりません。以前の様に人のいない野原の中に遺跡のよう建物だけが残っているのでしょうか。空が広いこのあたりでは、一段と空の蒼さが目にしみました。
Mar 25, 2011

朝鮮半島の民族服、チマ・チョゴリはチマと呼ばれる巻きスカートと、チョゴリと呼ばれる上着から構成されます。今でこそアジア女性のスタイルは「やせている事」が美の象徴の様になってしまいました。しかし古来、朝鮮半島ではふくよかな女性が美人と考えられました。そのため、どんな体系の人でも太って見えるのがチマ・チョゴリです。日本でも和服では「さらし」をまいて少しふくよかにしますね。太っている事は、健康、裕福、安産の象徴だったのかもしれません。最近、少し太っている方が長生きと言う研究結果も出ましたね。昔は本能で知っていたのでしょう。カラフルな原色で彩られるチマ・チョゴリ、この色使いは最近の文化だそうです。和服も成人式などを見ますと派手です。私が子どもの頃、近所には毎日和服を着た方が多く、祖母もよく和服を着ていました。サ○エさんは今でも黒電話、縁側、雨戸、土の庭、格子戸のような扉、デジタル化されないテレビ、そしてカツオ君やワカメちゃんのお母さんであるフネさんは今でも和服です。フネさんが着ている和服、普段着の和服は地味で渋い色使いです。今は和服を普段着に使わないため、生活感の無い派手な和服ばかりが目立つようになりました。チマ・チョゴリも同じかもしれません。日本の朝鮮学校の制服はチマ・チョゴリでしたね。色合いは白と紺色などで清潔感にあふれます。普段着はこの制服の色合いに近いのかもしれません。ただ韓国の映像を見れば学生さんでもチマ・チョゴリの制服姿は見かけません。韓国では日本の和服同様、普段着としてチマ・チョゴリは完全に消えつつある文化なのかもしれません。ただ正装としての文化はしっかりと残るでしょうから、絶滅を危惧する心配はなさそうです。堺のパレードでも女生徒の皆さんがいつもとは違うカラフルな姿で民族舞踊を魅せてくださいました。最近の韓国発の女性アイドルを見ても現代風なスタイルの良さで人気です。チマ・チョゴリ体型では無いですね。
Mar 24, 2011

奈良時代、決して長くはありません。710年から75年程度、昭和世代には昭和より少し長い程度と考えればわかりやすいかもしれません。ただし当時の人たちの寿命は短く、75年は今よりも長い時間に感じられたことでしょう。それだけに装飾は月日と共に激しく変化していったのでは無いでしょうか。多くの人が集まる都に、新しい仏教技術が伝来し続けています。そして東大寺という日本経済を圧迫しそうなほどの国家事業をなしえるだけの豊かさを持っていました。同時に平城京の建築も続いています。それこそ高度成長期の日本と似ていたのではいでしょうか。最近になって奈良時代には十分な貨幣が存在し、商取引に使われていた可能性もあるそうです。貨幣は祭祀用に使われた可能性もあるそうですが、いずれにしても貨幣を作る事が出来るほど当時の日本は地下資源が豊富で、温暖な気候のため植物もいくらでも育ちますから、金属や布を使った装飾の余裕があったでしょう。冠位十二階など色で官位をあらわすくらいですから、鮮やかな色が装飾に使われたことでしょう。仏像も作られた頃は色鮮やかであった事が最近の科学技術でわかってきたそうです。色がはげ、地の色を見て仏像のわびさびを感じる現代人の感覚は奈良時代の人の目には奇異に映るかもしれません。平城京の家々も、白壁、瓦や茅葺のしっかりした家だったのではないでしょうか。現代の京都の町屋ほどまでは行かないにしても、江戸時代の建築と奈良時代の建築に大きな差があるとは想像できません。そもそも質素な色使いは武士社会、特に江戸時代に流行りました。それより前は今の神社の色合いでわかるように、朱色ではなかったにしてもカラフルに彩られていたかもしれません。タイムマシンの登場が待たれるところです。過去には戻れないと思いますが…
Mar 23, 2011

統一朝鮮の理想、それは李氏朝鮮の時代の国の形を求めています。朝鮮半島の統一、歴史の上で時間がかかりました。朝鮮半島を初めて、そして唯一統一したのが李氏朝鮮です。国土は今の北朝鮮と韓国を合わせた地域にほぼ一致します。その王朝はなんと500年以上も存続していましたが日本により滅亡させられました。李氏朝鮮の歴史はほとんど知りません。勉強不足は確かですが言い訳をさせてもらえれば、日本の歴史にも詳しくありません。世界史も全くダメです。こうやってBlogを書きながら少しずつ歴史の勉強しているところです。そんな私が李氏朝鮮に対して知っているのは、最初はしっかりした国だったのですが時代を追うにつれ腐敗が進んだのだそうです。「日本軍の所業だった」と怒られるかもしれませんが、李氏朝鮮の問題点を書いてみます。宋学…つまり風水による差別が激しく虐殺が起きた事、また識字率が低くハングル文字を広げたのは日本軍だったなど李氏朝鮮は民主的な政治ではなかったようです。いわゆる王朝と言うか一党支配にありがちな、今の北朝鮮に近い封建国家だったようです。ただそれが悪いのではなく、日本でも封建時代、差別が激しく戦国時代と言う不幸もありました。李氏朝鮮はそんな時代の国家でした。今度は韓国を基準とした民主的な統一国家が生まれるといいですね。
Mar 22, 2011

日本の古墳(例えばキトラ)に四神の絵があることから奈良時代より前に四神の考え方が日本に伝わっていた事は明確です。平安京は四神、風水の考え方が取り入れられていた事は確かなのですが平城京はどうなのでしょうか。ここで四神とは青竜、朱雀、白虎、玄武の事です。大極殿の内装にも採用され描かれていました。朱雀と鳳凰は同一視されますが、細かくは異なります。中心となる建物に鳳凰が採用されることをよく見かけます。例えば平等院や金閣寺の鳳凰が有名ですね。大極殿に置かれている御簾のレプリカの上にも鳳凰がいます。鳳凰は平安を意味し、南を意味する朱雀とは異なります。青竜は東の神でその姿から流れる水と春を意味し、朱雀は南の神で、湖沼と夏を意味します。白虎は西の神で秋、そして大きな道を意味し、玄武は北の神、冬、その形から丘陵を意味します。平安京はこの4つの地理的特徴を備えた京都の地に作られました。しかし平城京とはどうも合致しません。朱雀門があることから長安をまねた事は間違いないとして、あまり風水を意識したとは考えられません。そこで疑問は本当にこの大極殿の内装に四神を描く事が相応しいのか…少し疑問に感じました。まあ否定もできませんし、観光目的の復興ですから細かい事は気にしなくてよいのですが。これらの四神は昭和から平成にかけて大復活してきた存在です。その理由はアニメーションであり、ゲームです。手塚治虫氏の漫画、「火の鳥」も鳳凰、もしくは朱雀を感じさせます(フェニックス、不死鳥ともごちゃ混ぜではありますが)。特に鳳凰編は奈良時代を舞台としています。しかし昭和に復活するまで忘れられた存在かというとそんな事はありません。会津の白虎隊は有名ですし、鳳凰はどの時代にも装飾として使われてきました。平城京、四神を描くと平安京との差がわからず今ひとつのような気がしたのは私だけでしょうか。
Mar 21, 2011
みんながみんないろんな考え方があって、みんな間違えた行動はしていないと感じています。だから、ここでは私の個人的な誓い。人を説得するつもりもなければ、同感してもらえない事は多いと思いますが…募金は大切、今はみんなが大量な募金をしているのですが私はどちらかと言うと細く長く…義援金は2カ月を過ぎると激減する傾向があるので。日本人は一体感があります、それはとてもいい事です。ただ不思議と、私まで被害者意識を持ってしまい、なんでも自粛してしまいます。しかし、私が被害者ではない事は明確です。私は被害者を助け、励ます立場です。私がしなければいけないのは笑顔を忘れない事、元気である事、人を責めない事…政府も、東京電力も、そして彼らを責める人たちも…。経済が回らなくなれば復興の障害になります。私がしなければいけないのは貯金を取り崩しても、将来の不安が多少増えても消費して経済を回す助けを微力でもする事。ただ、消費の仕方を考えなければいけません。今は内需、関東や東北の企業が助かるような買い方をしなければいけないと感じています。円高で海外の物が安くても、値段が高くても国内の物を買わなければ。ただ買占め傾向にあるものは買わないようにしないといけませんね。日本のあり方について、いつか将来、考えなければいけない。原発と温暖化の問題、日本の政治の問題、いろいろあります。でもただ一つ今のうちにはっきり書いておきたいのは、自衛隊に対する考え方は今のうちに明確にします。自衛隊に対して軍事の事だけを考えていた自分に反省、彼らは海外でもいろんな援助をしてきた…その情報を十分に噛み砕けていなかった。自衛隊は本当に日本を守ってくれる組織なのですね、今回やっとわかりました。自衛隊の方たちがいなかったら、今日本がどうなっていたか、どれほど被害が広がっていたかわかりません。自衛隊が合憲組織になる事を全面的に支持していきたい、二度と迷いません。
Mar 20, 2011

日本の扇子、扇ぐための存在です。大きさは20cm程度、ヨサコイや日本舞踊で踊りの小道具としても使われます。ただしあくまで小道具で主役になる事はありません、主役になるにはサイズが小さすぎます…何故か。朝鮮半島、中国でもそうかもしれませんが踊りのための扇子はサイズが大きく派手に飾り付けられています。扇子を使う踊りでは人より扇子が踊っているようにさえ見えます。日本で扇子は、便箋の役割として広まったようです。和歌を書いて愛しい人に贈る…恋文なのに誰かが扇ぎ始めたのでしょうね、湿度が高く暑い日本で扇ぐという行為は自然な動きでした。そして日本では扇ぐ方向で扇子が進化し世界各国に輸出されるほどになったそうです。サイズも扇ぐ、持ち歩くことを目的として進化しました。また日本の扇子には紙が貼られ、そこに美しい絵がかかれるキャンバスともなっています。しかし気温が日本より低い韓国などでは仰ぐという需要が弱く、踊りの道具として進化をしたのでしょう。サイズは大きく、派手で立体的な装飾が施され踊りの主役になりました。パレードの中でも強く印象に残る美しい踊りでした。ちょっと脱線しますが、日本でも扇子が踊りの主役のように使われた時期(場所?)がありましたね。私と同じ世代の方であれば懐かしいジュリアナというキーワードを書けば十分でしょう。あまり上品な踊りではありませんでしたが。扇子って円の三分の一、角度にして120°程度だそうです。なぜでしょうね。四角形の黄金比と同じくに最も美しい角度なのかもしれません。
Mar 20, 2011

玉(ぎょく)はヒスイの玉をあらわし、玉座という名称からわかるように天皇や皇帝をあらわす場合もあります。そもそも王という字に点がついただけですから、王様に付随するものという意味はなんとなく想像できます。将棋でも王将の対極は玉です。再生された平城京にも玉が並んでいます…がもちろんプラスチックか何かでしょう。輝きがかなり安っぽい(笑)王家を飾るには陳腐ですが、昔は本当の宝が飾られていたかもしれません。日本の歴史の大きな財産は正倉院だと感じています。校倉造の宝物庫は時代を乗り越えて宝物が保管されてきました。発掘品とは違い保存されてきたものです。ただし正倉院は本来、東大寺の倉庫なので天皇家の玉(装飾品)までは残っていません。大極殿にあった玉座のレプリカはとてもよくできています。いろんな資料を元に再現されたのでしょう。天頂に輝く黄金の鳳凰はまさに天皇の荘厳さを感じさせてくれます。畳文化の日本における椅子、いえ畳文化だからこそ人より高い位置に座する椅子という存在で高貴に感じたのでは無いでしょうか。日本では今でも職級によって椅子を使い分ける会社が多くあります。私も入社した頃は「肘掛付きの椅子」が管理職を意味していました。今ではエルゴノミクスの観点からみんな同じ細かい調整が効く椅子に座っています。玉、特にヒスイの勾玉は奈良時代以前にも使われていました。大量に見つかりますが銅鐸などと共に見つかることから高貴な職位の装飾品だったのでしょう。色や形やサイズが身分を表していたのかもしれません。もしくは今の勲章の様に当時の支配者、まだ天皇では無いかもしれませんが、例えば卑弥呼(日巫女)から授与されるものだったのかもしれません。何人かが当時の服装を着ていましたが、全員奈良時代の服装を着て大極殿に上れば一段と当時の情景を味わえたのでは無いでしょうか。
Mar 19, 2011

日本と朝鮮半島には歴史に残っていない共通祖先説があります。天皇家は朝鮮半島と日本(九州)の両方を有していたのではないかという仮説があります。もう少し私見を言えば本来は朝鮮半島南部が首都であり高句麗や新羅の攻勢に会い日本に逃れてきたという考え方です。ただこのとき朝鮮半島の一部と日本は一つの国であったのであり日本が朝鮮半島の民族から侵略されたという言い方はおかしいと考えています。移動しただけです。それでも朝鮮半島から移住してきた人数は当時の日本の人口の数十パーセントを締め、急激な人口増のため食料が減って文字(食品管理)が必要となり農業が栄えたのでは無いかという説には納得がいきます。いわゆる弥生文化の流入です。ここで重要なのは朝鮮半島から私達は、現在の朝鮮半島の民族とは異なるかもしれないと言う事です。蒙古班が一つの証拠です。しかし両国の文化の多くには共通性が見られます。もちろんアジアはどこも少なからず中華文化を受け継いでいます。中国の文化が朝鮮半島と日本に別々に伝わり進化したため似通った文化が生まれたのかもしれません。チマチョゴリ、和服という文化は二つの国が分断されて夫々に進化したものです。だから大きく違うのですが、パレードで踊られていた朝鮮半島風の舞を見て感じたのは京都の祇園などで見かける舞妓さんの総見での踊りに似ているということでした。マスゲーム的要素は日本には少ないのですが、踊りの動きに類似性が無いでしょうか。これはアメノウズメが天照大神の岩戸の前で踊った姿…正確に伝承されているかどうかはわからないにしても、和風な踊りに共通性を感じます。踊りは地域により大きく異なるものでこの二つの踊りの共通性は十分に文化の共通性を感じさせてくれるものです。両国の間に悲しい歴史があったのは事実で消しようが無いのですが、朝鮮半島と日本は共通の文化や考え方を持つ似通った民族です。韓国とは関係改善が進み、これからもより一層の友好関係が築けそうです。竹島、独島の領土問題はじっくり話し合うとして国民としては好ましい隣人関係になれそうです。北朝鮮とは大きな壁がありますが、本来であればやはり気心が知れる国民文化なのかもしれません。政治を憎んで人を憎まず、人的交流を通じて北朝鮮とも健全な関係が築けていければいいですね。
Mar 18, 2011
すべきではない事、情報の拡大…かなり反省(笑)nanasuguさんのように端的に必要な事だけをまとめるのがよくて、私のように既に過剰な報道の繰り返しはいけないな…と言う事で反省。今回の震災について書くのはこれで最後にして、完全通常営業に戻ります。みんなが旅したくなるような、小さな目標ができるような、そんなページを続けるのが私の役割だと信じて。だから最後にしますが、すべき事。募金。ああ、情報の拡大(笑)一人10円でも10億円、一人100円だと100億円、10万人に1万円が届く計算。1千円だと10万円が届く!このくらいまで誰でも無理が無いですよね。長期戦になる可能性があるので無理ない範囲で長くサポートしていきたいですね。早く暖かくなりますように。
Mar 17, 2011

ガラス張りですね、仕方が無いですね。さすがに奈良時代に建材としての透明なガラスはありません。床には消防法の関係もあってコンクリートも多用されています。しかたない、しかたない。ただ、大極殿の形は比較的オリジナルに近いものと信じています。見ての通り、東大寺の大仏殿に近い雰囲気がありますよね。大極殿は天皇が鎮座する場所(住処は別でしょうが)と言う印象がどうも持てません。大極は太極から来た言葉だそうで、万物の根源と言うような意味があるようです。建物の中央にある飾りは寺院などでときどき見かけます。宝珠の形をしており真下には天皇陛下がおられるわけです。しかし記念行事のためとはいえ、良くこれだけの巨大建造物を再現できたなと驚きます。予算不足が叫ばれていた博覧会でしたが、大成功に終わったのはせんとくんのおかげばかりではなく、この不況の時代に打ち勝つ迫力のある建物が建った事に「関西もやればできる」と感じました。まるでパワースポット、元気が宝珠に向かって集まってくるかもしれませんから。
Mar 17, 2011

人が踊るのはなぜでしょうか。動物の世界で踊りは求愛を目的とする場合が多いようです。人間の場合も否定できません。目立つことで異性の興味を引く事は一つの目的でしょう。しかしそれだけではない、楽しさだけを求めて踊る踊りのほうが今は多いのではないでしょうか。踊りというのは音楽につられた自然な体の動きからはじまり、今は分岐し発展をしています。技術を競う踊りとしてバレイやブレイク・ダンスなどがあります。日本では広義の盆踊り…エイサー、ヨサコイ、阿波踊りなどを含めますが、宗教的な要素を含みながらも楽しむ踊りがあります。盆踊りのように国の文化に強く結びついた踊りもあります。フラメンコ、コサックダンス、日本でも他に歌舞伎や能から舞妓さんの踊りまで。そして韓国でもいくつか民族的な踊りがあります。帽子の上のリボンを首だけで振り回す踊りや扇子を使った踊りは良く見かけます。タップダンスなどは足を使った踊りですし、タイ等の民族舞踊は指先や目線の動きが重視されます。他にも世界各国にいろんな踊りがあってどれも個性的です。人間の腕と足は2本ずつしかありません。関節の動きも制約されています。それなのにどうしてこれほどまで数え切れない種類の踊りが生まれてきたのでしょうか。衣装が踊りに大きなバラエティを与えていることも間違いありません。ここからは朝鮮半島の踊りを…いえ写真は動きが無いので衣装を楽しんでいただきます。フィギア・スケート、シンクロナイズド・スイミング、新体操。これらは踊りでは無いかもしれませんが、人間の動きというのは本当に多彩ですね。
Mar 16, 2011
今日、関東から出張してきている人を含めみんなで話しました。関西の私たちができること。それは私たちがいつもどおりに過ごすことなのだろう、それが一つの方法なのだろうと言う事です。神戸で地震があった時、私たちは関東の暮らしをみて悔しいとは思いませんでした。当時感じたのは早く関東のような生活に戻ろうと言う事でしたし、関東の経済力で大きく助けてもらいました。今関西ができる事、落ち込んだり、心を痛めすぎたりすべきではないのだと感じています。決して変なパニックにならず、「これが日本人の生活スタイルなのだ」という目標を私たちが示す事も一つの援助なのでしょう。またいつか、東南海地震が起こった時、私たちは健全な関東の経済力に助けてもらわないといけません。それが地震国、日本に住む私達日本人の性であり互助なのでしょう。東京も含め、最悪のケースに準備しながら、できるだけ東北を含めた日本の経済を支える事が被災地の大きな励みになるのだ、明るく元気に生きて行く事が大切なのだと感じています。私たちが引っ張っていきますから、一緒に頑張りましょう。
Mar 15, 2011

平城京が長安の都を模倣したのは有名な話です。皇帝、日本では天皇が北に位置し南を向きます。理由は簡単、南を向いた皇帝に日が当たり神々しく見えるからです。漢字でも北にある肉(月)を「背」と書きます。皇帝、天皇の背中はいつも北を向いているからです。天皇から見て左が左京、右が右京であり、現代の地図とは左右が逆になります。天皇の目の前には朱雀が滑走するような朱雀大路が広がります。平城京へは710年に遷都ですが、その頃には未完成の都市だったようです。また平城京から一度遷都してから戻ってきたりしています。そして784年には完全に廃棄されます。表向きの理由は先日説明したとおり治水であり、寺院の荘園支配が影響と学びました。しかし日本の歴史にはタブーがありますし、正史の歴史書に書いていない事を想像してはいけません。歴史書は勝者が編集したものであり正しいわけが無いからです。正直なところ、最近はタブーとは言えません。天智天皇と天武天皇のつながりは明らかにおかしくクーデターであろうと言う事は誰でも推測できる事です。いろんな本でも書いてありますし、最近はテレビ番組でほのめかしています。その天武天皇の血筋から天智系が取り戻したのは光仁天皇であり、その子桓武天皇が天武の香りが強い平城京を捨てます。桓武天皇の次は「平城」天皇であり、平城京への再遷都を画策します。この辺りの背景は私には想像もできませんが何か大きな謎が潜んでいるような気がするのですよ、コナン君。
Mar 15, 2011
情報の整理だけ。福島第一発電所、今は現実的で効果的な安全対策が必要です。水素爆発=健康被害とはなりませんが、外出は控えできるだけマスクを使ってください。マスクは再利用せず廃棄できるもののほうがいいはずです。対応期間は距離によりますが、水素爆発後数日の注意で十分のはずです。風向きには十分に注意してください。飛散距離は何十キロに及ぶかもしれませんが、濃度は十分に低くなります。それでも雨が降ってきたときには雨に当たらないよう注意してください。特に降り始めの少しの間は危険です。特に生活の負荷となるほどの対策では無いですから、将来の健康のためにちょっと用心深いくらいになったほうがよいはずです。今、義援金も必要ですが、一方でシステムの負荷を最小限にする事も重要です。物的支援も必要ですが運輸能力が制約となっているので政府/自衛隊に任せましょう。個人ベースの物的支援を集めると物流に大きな負荷となります。企業からの大量移送が効果的、供給元はまだ現時点では供給できるものがあるので早まらないようにしましょう。今私たちができる事は、復興を手助けするため力をためておくこと、支援に余分な負荷をかけないこと、そして何よりもエネルギー(電力だけではなく、ガスやオイルも)節約、健全な地域からの経済的/物質的バックアップです。私たちの無駄遣い防止が関東以北への供給増加に役立ちます。義援金ですが、残念ながら義援金詐欺も起きています。確実な機関に対して、分散して募金する事が防護策となります。義援金を届けるにもコストがかかります。かかるコストが小さいところほど義援金が困っている人の手に多く届きます。大規模な募金サイトを選択するとよいはずです。あまりこんな話をすべきでは無いかもしれませんが、被災地でがんばっている企業を優先的に使う事が小さな一つの援助です。同じスーパーやコンビニでも無理してでも全店営業している企業、例えばイトーヨーカドーなどは支援する価値のある企業と感じます。がんばっている企業で買い物をすれば多少企業にお金が入って被災地への援助がしやすくなるかもしれません。もちろん、どこの企業もできる限りの事はしています。こんな判断材料で企業を選択する事はよくないとは思いますが、私たちにできる数少ないこととして。千葉の工場での火災、同じような業種で働いているので知っている範囲で。LPG火災なので有毒ガスはでません。これ以上の延焼が無ければ大丈夫です。爆発炎上するとかなり距離があってもやけどしますから近づかないように。また不完全燃焼(黒煙)はあるので、NOxや煤は多少でます。排煙は直近より燃焼場所から少し距離を置いたところで着地します。洗濯物に注意と、スモッグには注意してください。喘息がある方は風向きによっては注意されたほうがよいと感じています。目が痛い場合一過性ですが、目薬は効果的です。計画停電の延期は東電を責めるのではなく私たち国民を誉めるべきと感じています。当然止まらないほうがよいのですからね。多分エアコンの節約や調理器具の節約など個人レベルでも努力し、企業も多大な努力をしたからこその成果でしょう。正直ある程度、犠牲を払っています。私は「さすが日本人」と誇らしく感じました。ただ企業が本格的に動き始める来週以降は一段と苦しくなるかもしれませんね。ほとんど報道の繰り返しです。あまり役に立たずに申し訳ないのですが、何らかの役に立てば。
Mar 14, 2011

東日本の計画停電、本日10時までは見合わせるみたいですが、電車も信号も止まるそうです。そんなことでは会社や学校を休めない日本人、本当にお気をつけて出勤してください。ヘルツ帯が違う関西は関係ないかもしれませんが、私たちのところでもできるだけ節電に努めます。奈良時代の衣装がなぜ今の時代でもわかるのか、それほど難しい問題ではありません。絵画が残っているからわかるのです。中にはカラーが推測できるものもあり、考古学的な遺跡もあります。再現の質はかなり高いのではないかと感じています。いくつか特徴があります。着物のような上下がつながったものではなく、セパレートタイプであること。スカートの丈が長いうえ、腕まで隠れるような長尺である事です。これは現在のイスラムで見られるような肌を見せない服装ではないでしょうか。肩に半透明のスカーフをかけていますが、もしかすると頭や顔を隠すためのものだったのかもしれません。顔を隠しても透けて見えるのですから。ただし、これらは貴族の着物であり一般の人たちが着ていた服は異なるのでしょう。この時代、服の色が身分をあらわしていた事もわかっています。冠位十二階です。紫は後期の色で、このようなオレンジの色は中間程度の階級を示します。もちろん冠位はユニフォームであり、みんながみんな服装の色を限定されていたわけではないはずです。ただ明確なのは、この当時に十二階の色の違いを染色できる技術があったと言う事です。本当にこのくらい派手目の服装でみんな歩いていたのかもしれません。
Mar 14, 2011
東日本、関東の方、大変ですが頑張ってくださいね。もう寝ておられる方、明日の朝には停電になるので困る人も少なくないはずです。皆さんが知っておられる事ではありますが…信号も止まるそうです。車の運転には本当に気をつけてください。冷蔵庫、炊飯器、トースター、電子レンジなどはダメなのでご飯の準備にはご注意ください。コンビニはできるだけ営業してくれるそうですが、やはり温めるのは難しそうです。電話も、携帯も、基地局が止まればやはり使えませんのでお気をつけて。パソコンもだめかもしれません。連絡できる事は今晩の内、早めがいいですね。以外と水が止まります。気をつけてください。電車は動きそうですが、短い路線は止まったり、一時停止する事もあるかもしれません。もう7時間後から始まります。始まってみないとわからない事は多いと思います。細かい事ですが、冷凍庫にドライアイスが入っていれば少し冷蔵庫も持つかも。
Mar 13, 2011
政府の言っている事に間違いやごまかしはなく、それ以上の事はそれほど心配しなくてよいのですが、広島出身者として、あくまでも予防として一応書いておきます。放射線と放射能は異なります。放射線がいくら低くても、わずか埃のような放射能、つまり放射性物質が体内に入れば健康被害を与えます。風向きは北に向いているように見受けられます。大部分は海に抜けると思いますので外出まで控える必要はないと考えますが、外套着の埃は家に入る前に外で払い、すぐに手洗いをしてください。できればマスクをされた方がよいと思います。放射性物質は比較的粒子の大きい物質ですから、そのような基本的な対処は希薄な放射能にかなり効果的です。また野菜や果物を食べるときには十分に水洗いが効果的です。問題は福島第一原発の3号炉です。プロトニウムが使われていますから、一号炉より危険です。もし、水素爆発が起こった時、放射性物質は一過性ですから一応念のため一日か二日は家から出ない事が効果的です。さすがに万が一、圧力容器が壊れた時、どうしたらよいのかわかりません。政府の指示に従って行動してくださいね。今言うべき事ではないのですが、日本に再び被爆者が生まれた事は実に残念でなりません。私達、広島出身者としてわずかでも原子力の怖さを知っている者がもっと何かできる事が無かったのか…今は反省すべき時ではないのですが悔いはあります。
Mar 13, 2011

私にできる事は、少しでも被災された皆さんに貢献できる道をつないでおくことと考えています。そのため、Blogの更新を続けます。Yahooの募金はYahooポイントが使えるそうです。これだったら銀行に行かなくても余分な小さなポイントがあまっている人でも募金できますね。もう2億円以上集まっています。Yahooトップページの検索ボタンの下「被災地支援のための緊急災害募金」から進めます。フィッシングなどのリスクを避けるためリンクではなくスクリーンショットにしています。お手数をおかけします。そもそも、遣隋使と遣唐使がいつ切り替わったのかと言う事はあまり重要ではありません。当時の仏教は今でいう「ハイテク技術」でした。最新技術の収集、つまり仏教の習得が永遠の課題でした。国の名前など日本にとっては何でもよかったのです。貿易は漢の時代から始まっていた、だから「漢字」なのでしょう。単に歴史が残っていないだけです。隋の時代まで貿易が途切れていた理由は中国が混とんの戦争時代となり仏教どころではなくなったからです。唐が弱体し、菅原道真が「行かない」と駄々をこねた後、中国はまた混乱します。その混乱をまとめた元はモンゴルの国であり、中華…仏教国ではない事から日本は交易していません。明の時代になれば遣明船が復活します。再び儒教を含め、日本は中国からハイテク技術を習得する事に必死でした。日本と中国の仲は良かったのか…難しいところですね。中国は日本を属国だと思っていました。日本はどうか…中国をうまく利用しようとしていたような気がします。いずれにしても今の日本と中国の関係よりは良かったかもしれません。ただし、残念なことに日本は朝鮮半島と仲が悪く、九州や沖縄から黄海を横断するルートだったので事故は多かったみたいですね。そうはいっても事故が多すぎる…船舶技術が低かったのか…いえ多分「欲張り過ぎ」です。まあここは、あまり深入りしません。
Mar 13, 2011

こんな事態の時ではありますが、いつも通り更新する方が良いように思い更新する事にしました。朱雀門から大極殿までは1キロ近くあり、今では殺風景な野原が広がります。見かけるのは時々走る近鉄電車くらい。しかし奈良時代はここが政治の中心地、多くの建造物が立ち並んでいたのでしょうね。いまでも奈良時代から残る建造物はあります。法隆寺などがよい例です。それらの建設物から推測すると、当時の建造物は弥生時代とは大きく異なる、瓦まで使われた現代と比べても遜色ない木造建築だったのでしょう。出雲大社は長い間、日本の歴史の中で最も高層の木造建築であったと言われていますが、奈良時代より前に建てられているのです。奈良時代の建築技術は高度でもおかしくありません。当時の朱雀門からの景色、多くの人と周辺の建造物で大極殿などは見えたとしても屋根の部分だけだったかもしれません。奈良の大仏を作る力を持っていた天皇家です。きっと多くの建造物が二つの建物の間を埋め尽くし、忙しく走り回る人たちであふれていたのではないかと想像してみます。いろいろ、今回の地震の風景と重複する文章になってしまいました。まずは一人でも多くの人が救助され、安全と健康を確保され、それからみんなの助けを借りて一日でも早く以前以上に活気のある復興が進む事を祈願しております。
Mar 12, 2011
多くの地域の皆さんが大きな被害に遭われているかと思います。また交通網の混乱で家に帰るまで長い時間がかかった方も多いと思います。まず皆さん、自分の安全を完全に確保された上で、Blogの更新により安全をお知らせいただけると嬉しいです。皆様、御家族、お友達の安全、また被害に遭われた方の一刻も早いいつもの生活への復帰をお祈りしています。
Mar 11, 2011

そもそも宗教とは何か?この質問に笑う人がいるかもしれませんが、意外と大きな研究テーマだそうです。日本には仏教と神教があり、キリスト教も伝わっています。また武士の世界では儒教が倫理として用いられました。これらを統括する宗教という言葉は驚いたことに明治時代に作られたのだそうです。日本には宗教と言う考え方さえもなかったのです。日本ではどの宗教にも「教」つまり教えという漢字が使われます。ではどのような教えなのか。英語のReligion「再び神と結びつくこと」を意味するそうです。儒教などは神とは無関係ですからReligionではありません。しかし日本の宗教とReligionはニュアンスが違います。その差は「宗」という漢字で発生しています。この漢字は「教説の中心となる根本的な趣旨」、あるいは「教義を奉じている一団」という意味だそうです。噛み砕いて言えば同じ教えに賛同する一団ということになります。そのためキリスト教のような Religion でもよければ儒教のような倫理観でもよい、神教のような特に根幹となる明確な教義が無くてもよいわけです。共通の教えさえ信じていれば宗教なのです。更に言えば占いの様に多くの人が信じる術(血液型占いや占星術)を原始宗教とも言います。海外で魔女は狩りの対象になった歴史さえあるのに、占い日本で極端に人気が高いは科学的根拠のない「教え」なのです。つまり英語のReligionと日本の宗教は根本から違います。もちろん中には仏教やキリスト教のような宗教を信じる方もいらっしゃいます。では残りの大部分の日本人は無宗教でしょうか…私は違うと感じています。日本には道教や儒教を基本とした道徳があり、誰もが困ったとき「神頼み」をする神教が根付いています。日本のマナーが良いのはReligionと呼べない宗教を日本人が無意識に守り続けているからです。日本国憲法も一つの宗教的要素を持っているかもしれません。初詣、お盆、クリスマス、更に言えば七夕の御願い。日本人はいろんな宗教のよいところを集めて使う特殊な集団のようです…ご都合主義ともいえますが(笑)
Mar 11, 2011

朱雀は四獣の一匹で、南の位置を指します。南を向いて座る天皇の目線の前にある朱雀門は平城京の中にある平城宮の南門になります。平城京自体の南門は羅城門とよばれ、ここよりも遥かに南にあります。つまり皇居に当たる政治の中心地がこの朱雀門から遥かに北に見える大極殿までとなるのです。平城京は平安京よりもはるかに面積が広く、興福寺、東大寺、薬師寺、唐招提寺なども平城京の内側となりますが、奈良の地理がわからないとわかりにくいですかね。朱雀門から朱雀大路が南に向かって伸びて行き、今の大和郡山市辺りまでが平城京だったらしいのです。広い面積なのですが大部分が寺院勢力に占領された事と、水道、特に下水処理の都市設計が甘かった事を名目上の理由として74年で廃棄されています。朱雀門がどのような景観だったのか、歴史的な資料が残っているとは思えません。朱雀門の景観は今中国などに残っている歴史的建造物や寺院などから想像した姿なのだと思います。しかしそれでも神々しく、あたかも遥か昔からここに建っていたような荘厳さを感じます。いろんな面でこだわって設計された事は有名で、今後何百年もこの場所に残っていくのかもしれません。今は私が住むマンションより遥かに新しい、新築建造物ではあるのですが。
Mar 10, 2011

我が家にも来た一輪車、自転車のような左右だけのバランスの悪さだけではなく、前後に対しても安定しません。その為、自転車には無い特別な動きができる一方、乗り手を選びます。誰でもが乗れるものではなく、移動手段としては向きません。一輪車のように世の中には面白い乗り物がいろいろ開発されています。一度乗ってみたいのはセグウェイ、一輪車のようにバランスが悪い存在をコンピュータ制御でバランスを取ってくれるので誰もが乗る事ができます。移動手段としても利用できますが、残念ながら日本の融通の利かない法律のため、乗る機会はなさそうです。一輪車気分が味わえて楽しいはずなのに。電気を動力にした乗り物が増えてきました。電気自動車が主流になる事は難しいとして、原動機付自転車、つまり小型電動バイクは現実的です。残念ながら都会では危険な原動機付自転車ですが、郊外では二輪用の専用道路を用意するなど法律の整備で、利用しやすい乗り物として自動車の代わりとなるくらい普及してほしいと願っています。専用道路で思い出すのは自転車事情。近所の子供たちも私の息子も自転車で事故を起こしてくれます。オランダを参考に自転車専用道路や教育、制度の整備の必要性を国がわかってほしい…あ、今の政府にそんな能力はないか。まずは日本の無政府状態を解決しなくては(笑)
Mar 9, 2011

歴史は人類が文字を書き始めてからはじまります。文字が現れる前は記録が残らず、神話に過ぎません。エジプトや中国などには4000年を超える歴史がありますが、これは解読できる文字があったからです。島国だったこともあって日本には文字の伝播が遅く、歴史はまだ1300年ほどしかありません。かろうじて中国に日本の記述があります。魏志倭人伝ですが、内容はかなり差別的で怪しくいろんな議論を呼んでいます。日本に中国の文化が入り最初の中国式の「京」が建立されたのは藤原京に落ち着いているようです。その藤原京から遷都したのが平城京で当時はこの漢字を「ならのみやこ」と読んだことは過去に何度か紹介しました。皆さんもご存知の通り西暦710年、2010年からちょうど1300年前のことです。この不況の時代にあって平城京遷都1300年をどのように祝うのか、紆余曲折があったようです。遷都クンが出てきたときは「大丈夫?」と心配になりましたが驚くことに250万人の入場予想を遥かに上回る入場者に恵まれたそうです。入場無料だった事も大きかったですね。もう終わってしまいましたが、再び奈良の地に現れた平城京を紹介します。
Mar 8, 2011

関西は「笑い」です。いえ、敬意をこめて「お笑い」と言うのが一般的です。お笑いは関西では高度な文化であり芸能です。関西のお笑い文化は関東でも広がっていますが、歴史の重み、関西の人に言わせれば東とは少し違うのでしょう。ちなみに私は広島出身ですから違いを評論することなどできません。関西の笑顔は自然です。朝の挨拶でも作り笑いを見かけません。それが関西の大きな魅力になっています。ではなぜ笑顔が自然なのか…笑顔とは笑いの過程だからではないでしょうか。しばしば笑う習慣がある関西で笑いを作る過程の笑顔が自然になったのではないでしょうか。パレードに参加されている皆さんは、みんな素敵な笑顔です。暑い時期ではありませんでしたが、いろんな演技をしながらパレードするには体力が必要です。それでも疲れた顔を見せずみんな自然な笑顔で進んでいきます。関西で笑顔はリラックスした、無表情に近いほどに自然な表情なのでしょう。ただ笑顔ながら「しんどいわぁ」などといううめきが聞こえてきたりします。
Mar 7, 2011

バンガロールでの滞在は2週間でした。シンガポールに移動してオフィスに出社してから日本に帰りますのであと3泊。さて出国チェックの話。すでに少し説明してきたのですが、入国以上に面倒でした。出国チェックはインド軍が行い、融通が利きそうにありません。スパイスがついたお菓子は持ち出す事ができませんでしたし、いちいち小さなパッケージまで開けさせられるなど簡単には通してくれませんでした。やはりここでもカメラがネック、かなり質問されました。パソコンのほうが値段は高いのに…出国チェックの後、免税店でお金を使いたかったのですが、インドらしいものは少なくほとんどがアメリカン。小さな空港ですから仕方が無いですね。支払いはドル(一応ルピーも利用可能)特に買うものも無く、結局シンガポールで大半のルピーをシンガポール・ドルに変えることになりました。一応、よくあるマグネットとキーホルダーだけ買いましたが他のお土産はどれも大きく重く、3日分の鞄、クリーニング・フル活用で乗り切ってきた私には収納場所が無く、とても買えませんでした。このまま帰国するならともかく、まだシンガポールに行くのですから。バンガロール空港のラウンジは「たいしたこと無い」と聞いていたのですが意外と楽しく、インドのスナックやカップヌードルが食べ放題。カップヌードルは日本でも最近手に入るマギー。ただのカレーヌードルではなくインド風でおいしかったです。ただホテルから空港までの移動が予想より早かった、つまり予定していたラッシュがなかったのでラウンジ滞在時間が長く、日本語の新聞なども無いですから退屈でした。幸いマレーシアの同僚が後から来たので(私より1時間遅いフライト)雑談しながら時間をすごしました。さてこれで、もうこないかもしれないインドを後にしました。
Mar 6, 2011

私が高校の頃は、体育会系の応援団と言う印象が強かったチアリーディング、最近はスポーツとして演技を競う雰囲気となってきました。動きは空中を浮遊しているようで、組み上がると3次元、体操クラブを見ているようですがフォーメーションを組むと言う面では体操よりすごい面もあります。一方で幼稚園や小学校のチアボーイ、チアガールはポンポンを振ったり、旗を振り回したり、行進したりと可愛いです。ただ目の前を子供たちが通過すると観客の背後を子供たちの両親がビデオを持って駆け回ります。かなりのスピード、怒号で、可愛さの裏に醜い争いが(笑)大阪でチアに力が入り始めたのはUSJの存在かもしれません。USJのショーやパレードはアクロバティックなものが多く、チアで有名になったような肩書を持っていなければ入れません。実際にUSJを引退したスタッフが演技指導をしている教室は大阪には少なくありません。小さな子供でも見ているだけで驚きますよ。
Mar 5, 2011

宿泊の最終日、仕事から帰ってみればベッドの上に置いてあった私の名前が刺繍されたクッションはプチ・サプライズでした。うれしいのですが持って帰るのは大変、収納に苦労しました。しっかりしたクッションで、今でも家で補助枕にして使っています。空港に向かうためホテルの部屋を出ますとこの2週間掃除などを担当してくれていたホテルのスタッフが二人並んで待ってくれていました。そして素敵な笑顔でのあいさつとともに大きなキャンドルをお土産にくれました。これまた収納に困る巨大さ、心遣いはありがたいのですが…。2週間の出張に3泊用のキャリーバックとデイバックだけできて、その中にパソコン2台と巨大なカメラ及びレンズを入れているほうが悪い(笑)服はクリーニングの連続で乗り切ったのですが、こんな高級ホテルでも料金はシンガポールより圧倒的に安く、3分の一程度の値段だったでしょうか。シンガポールだと一回のクリーニングで5000円から10000円飛んでしまいますからね、高いです。日本もですけどね。そんな時は思わず自分で洗ってしまいます。インドでは会社持ちにしても心が痛まない程度の値段でした。帰りはホテルのリムジンです。片道6000円ですからインドにしては驚異的な高額。タクシーだと2000円程度と聞きました。しかし安全最優先、会社からはホテルのリムジンを使うように指示されていましたから気兼ねなく使います。会社が安全に超神経質なのは理由があるのですが、それは私たち従業員にとって良い事です(屋台やレンタカーが使えないなど悪い事もあります)。片道約1時間、大阪であれば財布を持つ手が震えてしまいそうな距離ですから、まあ6000円でも悪くは無いです。空港まで送り届けてくれて荷物を空港のチェックイン・カウンターまで運んでくれます。一瞬の贅沢でした。さていよいよ出国です。
Mar 4, 2011

最近は大和ミュージアムのおかげで知名度が上がった呉市。第二次世界大戦の頃は日本最大級の海軍の港でした。戦後は人口が三分の一以下になったにもかかわらず、造船業が経済を引っ張り再興しました。呉のもう一つの産業と言えば海上自衛隊です。自衛隊と言えば学生の頃は体験入隊に放り込まれたり、防衛大学の試験を受けたりしましたが、日ごろはあまり存在を感じずに過ごしていました。その一方で自衛隊の施設を安く使う事が出来たり、自衛隊のクラブ活動を楽しむ事が出来たりと、軍隊と言う印象より地域に密着した産業のような存在でした。呉少年合唱団に入っていた私としては、呉自衛隊の音楽団は身近な存在でした。演奏発表会ですれ違う事が何度かありましたが、残念ながら一緒に演奏する機会には恵まれませんでした。堺のパレードで呉自衛隊の音楽を見かけて懐かしい昔の知人に出会ったようでした。素敵な演奏でしたよ。
Mar 3, 2011

アジアは今、いろんな国が発展してきました。マレーシアやシンガポールに始まり、インド、フィリピンなどはITでの飛躍が著しく、これらは既に発展途上国の領域を外れてきています。韓国や中国も言うまでもありません。もうひとつ、目覚ましい発展に驚くのはベトナムです。なぜ驚くのか…ご存知の方が多いとは思いますが、ベトナムの歴史は平和ではありません。フランスの占領に始まり、日本の大東亜共栄圏、アメリカとソ連の長期にわたる代理戦争、結局社会主義国に落ち着きました。しかし中国やソ連のような極端な社会主義ではなく、融和的な社会主義路線を取ります。日本は民主主義ですが多くの公共事業を持つ国であり社会主義的な色彩も強いのでベトナムは日本に近いのかもしれません。ベトナム出身の友人が何人かいるのですが(結婚式に招待されたほど…行けませんでしたが)誰もがみんなフレンドリーで、付きあいやすく、国民性が日本人のように柔らかいのです。ベトナム戦争があったのに…なんて言えば日本では第二次世界大戦があったのに…と言われるでしょうか。中国との国境を持ちフランス支配を受けた事で中華フレンチと言う特別な料理スタイルを持ちますし、多くの世界遺産を持つ国ですから観光旅行に行ってみたい場所です。いつか必ず…それまでは日本でベトナム料理屋さんでも行って気持ちを高めておきます。写真はインドのベトナム料理店。
Mar 2, 2011

最近、あまり写真加工の話をしていなかったのでちょっと深入りします。ちょっと…です。今回は写真の加工前後を4枚紹介しています。わかりやすいように過激に加工しました。そもそも写真は見たままの姿を完全に写せるわけではありません。写真が見た目ほど美しくない場合もあれば見た目以上にきれいに写る場合もあります。デジタルカメラの場合、大きな原因はホワイトバランスですが、焦点深度や機種差(主に彩度とコントラスト)もあります。それ以上に面白いのは人間の目自体が不正確だということです。「錯覚」というといいすぎですが、人間の脳は感情というフィルターで見た目以上の美しさを感じます。美しい景色の中にいるときに人間は景色を無意識に加工しています。青い空は実際より蒼く見えているのです。夕焼けは実際よりオレンジに輝きます。不幸な時は不思議に色を失います。その姿を写真に撮影すれば印象とは大きく異なります。そこで私たちの印象に写真を近づける必要が出てくる…それが加工です。加工には大きく分けて二つの方法があります。一つは写真撮影のときに行なう加工、焦点深度や絞りでも色が変わりますが、最近のデジカメはモード撮影やホワイトバランスがあります。これらは全て撮影時の加工です。今はAuto撮影がありますが、Auto自体がある意味加工です。これを機種差と言っています。ソニーやカシオはキリッと、キャノンはふんわりと写ります。ニコンが一番ナチュラルかな?プロの方がRAW写真を用いるのはカメラによる補正を最小限にしたい、自分の技術で勝負したいからです。プロの方は現実を心象分補正して映すのです。ただこの技術習得には時間がかかります。週末カメラ好きには無理な技術です。一方で事後の調整が今の主流です。フイルムの時は現像時にいろいろ細かく頼んだり、現像してもらう店を選んだりしていましたね。フジよりはサクラのラボが私は好きでした。フジは青っぽい、サクラは赤っぽい。プロは自分で現像して調整します。しかしデジタルの今はパソコンを使い誰でも簡単に加工ができるようになりました。プロの技術を競うのであれば加工は邪道かもしれませんが、最近はコンテストでも加工部門があります。加工は撮影の一つの分野と切り分けたほうがいいですね。私の場合は、自分の目が錯覚した風景に近づけることを目安としています。皆さんが実物を見たときに近いと感じるように。シャドウを強くし彩度を少し上げたとき私の心象風景に近くなります。シャドウを強くするのは不要な物を消す効果ですが、人間の目は不思議で視界に入っていても不必要な情報を削除する機能があります。写真を見ると「こんなもの、あったっけ?」と思う事は少なくありません。いらないものを削って残った映像は彩度が上がります。その現象を写真加工で再現しようとしています。なお私は古いものを見ると高いコントラストの印象が残るため、コントラストを上げます。蜷川実花さんの色鮮やかな写真にはいつも感動します。彼女は写真加工を否定しないはずです。パソコンが全盛の今、加工という表現力を持って写真を化粧する技術を競う事は写真の一つの大きな楽しみとなっています。
Mar 1, 2011

ロック系の音楽が好きだった私にとって、ジャズはいつも近くにいるのにすれ違う隣人のような存在でした。いえ、過去形ではなくこれからもそうなのでしょう。大学時代にバンドをしていた頃、クラブの練習部屋の隣はジャズの同好会の練習部屋でした。お互い爆音で練習していましたが、あまり気になりませんでした。仲は悪くなかったのですが付き合いはありませんでした。軽音楽部とは仲が悪かったのですけどね(笑)ニューオリンズに行った時、たった数日の事ではありますが、町の中にあふれるデキシーの音色に魅了されました。モダン・ジャズは苦手なのですがスイングなど古典的なジャズ、ビックバンドは好きでした。コルトレーンなどいくつかのジャズCDも持っていますし良く聞いていました。今は音楽自体をあまり聞きませんが…そんな中でジャズ・ダンスだけには縁がありません。音楽が好き=リズム感がよいと言う事ではありません。自分に踊りの才能が無いことくらい小学校の頃には痛感させられました。だからジムでいろんなダンスのクラスがあっても、ジャズのクラスにも見向きもしません。それでもパレードに出ている皆さん暗い楽しく踊れたら…とうらやましく思う事もあります。
Mar 1, 2011
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