人を呪わば穴二つの諺があります。
本多正純は、激しい権力闘争に勝っても、岡本大八のわいろ事件のだまし取った金額が6000両という莫大な金額だったので、裏で手を引いていたのではとの風聞がながれ、幕閣内で孤立を深めていきました。
正純の父、本多正信は、将軍秀忠付きの年寄、正純は家康の側近で、政敵、大久保忠隣を失脚させ、幕府内では、強い影響力をもっていましたが、反面、政敵も多くいました。
家康に「自分の友」と呼んでもらえるほど信頼が厚く、ゆるぎない地位をもっていた本多正信、その力の陰にいた正純でしたが、元和2年(1616年)家康と正信がなくなると威信はゆらいできました。
家康の遺命として、自身を小山5万3千石から、宇都宮15万千石と加増、前任の奥平忠昌を下総古河藩へ10万石から11万石へと移封しました。これは加増の形ですが、左遷で周囲から反感をかいました。
そこでおきたのが、正純の宇都宮城釣天井事件で、寝所に釣天井を仕掛けて、日光に行く途中に泊る徳川秀忠を圧死させようと画策した容疑です。鉄砲の秘密製造。石垣の無断修理などの嫌疑が、幕府よりつきつけられました。
挙句、所領は召し上げられ、先代よりの忠勤に免じて出羽由利郡に5万5千石をあたえられました。が、謀反に真実覚えがない正純は、これをことわりました。
秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は、出羽横手への流罪となりました。ここに寂しく寛永13年(1637)、73歳で一生を終えました。
正純謀反の証拠は、調査して何もありませんでした。秀光も確認しました。閣僚の謀略であったとも、宇都宮から転封された奥平長昌の祖母の加納御前の恨みよるものともいわれています。加納御前は亀姫で、徳川家康の長女です。
加納御前の娘は、大久保忠隣の嫡子大久保忠常の正室です。ここに、かつて正信・正純に改易されためぐりがやってきたようです。