ワインをコレクションしていてつくづく思うのは「ワインは買うより開ける方が難しい」と言う事だ。買うのは、今や実店舗に行く必要も無いので原資が有れば買える。勿論超人気ドメーヌなら争奪戦に勝利したり、コネを使って手に入れる必要が有るが、ま、最近はオークションも多々有り、大抵のワインはお金次第だ。ただ、その買ったワインを開けるのは勇気がいる。勿論世の中にはキリギリス的にさっさと開けてしまう人も居るが大抵のワインファンは小心者で、高価なワインや希少価値の有るワインを「いつかその時が来る」と信じて後生大事にセラーで保管することになる。ワインが高価になればなるほど、そのいつかその時のハードルが高くなり結果、年々ワインを開けるのが難しくなる。
ところが歳をとり、新卒で買って中々飲めずに何年も大切に保管していたワインがセラーの中で事切れているという経験をし始めた。人と同様、ワインにも永遠の命は無いのだ。 東海林さだおの名著の中に食べようかなと思っていてまだ大丈夫だからと冷蔵庫で大切に取っておいて結局腐らせてしまい、冷蔵庫が緩慢な食品腐敗庫になってしまっているという話が有ったが、自分のセラーも同様、緩慢な葡萄酒劣化庫になりつつあるのかもしれない。
何はともあれ、自分と同じ様に、昔買ったセラーのワインも段々定年に近づいている。ワインをセラーの中で孤独死させるのも可哀想なのでこれから徐々にそういう定年間近のワインを開けて行こうかなと思う。
その1本だが、ワインはまだ生きていた。色の割にシェリーも出ず果実よりもミネラルが前面に出て透明感溢れ、やはり CdB とは違う良さを感じる。一級でそれほど大きなスケールは感じないが、やはりこのアペラシオンの最高峰、輪郭にぼやけたところは無い。とは言え、とうにピークは超えて緩慢な死を迎えただろう事は自明で、今開けて良かったと思う。
ちょっと話が逸れるがこの Riedel のラベル、今でこそ Riedel はワインテースティングの定番のグラスになっているが意外とその歴史は浅く、ブレークしたのは確か 90 年代前半でこの頃は西海岸でワインインポーター、兼ワイン屋もやっていたように覚えている。実際筆者がワインを始めた 80 年代後半当時はテースティングは大抵 INAO を使っていた。 90 年代前半に Wine Specator や Robert Parker 氏のお墨付きを貰ってブレークしたのだが、その際、 RK 氏に匹敵するこれも稀代の贋作師 Hardy Rodenstock 氏とタイアップして d ‘ Yquem 用に特別にグラスをデザインして d ’ Yquem の御当主をゲストに大々的に 1784 年から 1991 年まで 125VT 垂直テースティング、御当主からムッシュ・ディケムと呼ばれる程大成功だったようでこの贋作師のデザインによるグラスが今も Sauternes として使われている。今考えてみるとこの昔の d ‘ Yquem も多分贋作によるもので、 RK 氏が贋作でワイン会を開き御当主をゲストに迎えたのもこれから学んだ様な気もする。
脱線してしまったが、古参のワインファンならセラーの中のワイン 1 本 1 本がその人と人生を共にし、思い出が詰まっているだろう。その 1 本を開けて味わうのはワインでは無くその人の人生だ。それはオークション等で買う即物的な古酒とは全く違うものだ。人生も大団円を迎えた今、思い出に浸りながら思い切って手持ちのワインを開けて行こう。棺桶にはワインは入れられないのだから。
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