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2012.08.16
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日は盆休みで、長男が帰って来ました。
 朝7時半に家を出て病院へ向かおうとしたところへ車で到着しました。
 丁度良いところだったので、病院へ送って貰いました。
 夕方に次男も呼んで、夕食を4人で摂りました。
 土産のモモのショートケーキも食べて満腹でした。

今日の午後には娘が会いに来て、ケーキやらクッキーやらを食べながら
 長男との久し振りの一時を過ごしました。
 っと言うことで昼オケは取り止めにしました。






昨日は終戦の日でした。
 終戦記念日とは言いたく有りません。

そこで「蒲田で受けた空襲の記憶」を少々書きます。
 小生は昭和9年に東京府東京市蒲田区矢口町で生まれました。
  目蒲線の矢口渡駅近くです。
 当時は蒲田と矢口の間に道塚駅がありましたが、炊けたあとはなくなりました。
 その後、蒲田区原町へ移転しました。
  蒲田区は大森区と統合して現在の大田区になりました。

東京大空襲と言うと浅草近辺での昭和20年3月10日を指します。
 蒲田の空襲は余り記録がありません。

昭和20年4月15日 京浜空襲
 主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も空襲を受けました。
   B29・202機による空襲です。(死者841名、焼失6万8400戸)

当時、原町から道塚国民学校へ通っていた4年生でした。
 当日、夜中に焼夷弾による爆撃を受けました。
 庭の防空壕に入っていましたが、照明弾で昼間以上に明るくなりました。
 父が逃げようと、家族7人を連れて逃れました。
  火のない路地を探して多摩川の川辺へたどり着きました。
   そこは畑の中で、肥料の臭いがしていました。
 第二国道の多摩川大橋は当時木造で、端から焼け落ちて行きました。
  多摩川大橋の下流側へ逃げた人は相当数亡くなりました。
 逃げる途中、空を見上げると地上の炎で明るく悠々と飛ぶB29の機影が見え、
  焼夷弾が花火のように燃えて散って振り降りて来るのも見えました。

夜が明けて、自宅へ戻る途中には
 崩れた防空壕からよじ登る状態で黒こげになった人
 貯水池に浮いている人
 第二国道の道端に黒こげの状態で焼けたトタン板を掛けられている人
  などなど沢山の死骸が見られました。
 多摩川の土手からは羽田の海が見え、綺麗に焼け野原と化しました。

自宅の防空壕は潰れていて跡形もありません。
 地下に埋めた米や粉ミルクの缶詰は真っ黒焦げになっていました。
 勿論、家も跡形もなく燃え尽きていて、着の身着のままの状態になりました。
 前の工場に山積みされたコークスは燃えたぎっていました。
 周りには不発の焼夷弾が地中深く穴を開けて突き刺さっていました。

矢口国民学校に軍隊が常駐していて、そこで握り飯や乾パンを支給されましたが、
 廊下に山積みされた死体の臭いで食物が喉を通りませんでした。

そこで2・3日過ごし、火災の延焼を防ぐ為に強制撤去された家の畳などが
 置いてある残された家に移りました。
 夜になると折れた木の電柱の上からチョロチョロと炎が上がっていました。
 壊れて水が垂れている水道へ水を汲みに行くと、艦載機の機銃照射を受け
  道に伏せて逃れました。 怖かったぁ。
   今でも怖かった記憶が鮮明です。

暫くして、父の会社の指示で群馬工場へ疎開しました。
 国民学校4年生から新制中学校2年の2学期まで群馬県にいました。
 その後、横浜の母の実家の近くにバラックを建てて貰い、そこへ移転しました。

群馬県では虐められて学校にも録に行けませんでした。
 夏休みに一人で先生に勉強を教わりました。
 食べ物も手に入らない毎日で、弟は栄養失調でお腹が出っ張り、
  回虫が沢山お腹にわいて死ぬ寸前でした。
 主食の配給では赤ザラメやデンプンが支給されましたが、
  主食とは言えません。

簡単ですが記憶を辿ってみました。
 家族全員が無事であったのが何よりと思っています。






処で、NHKの朝ドラ「梅チャン先生」の最初のシーンが蒲田の焼け跡からです。
 終戦の玉音放送を学校の校庭で聞いています。
 当時、学校があんなに綺麗に残っている筈はないと思います。
 住んでいる家も家具もそんなに残っている筈はないと思います。
 食事にしても楽しそうに食卓を囲んで食べています。
  兄弟でも食べ物を奪い合ったくらいです。
 人もまばらだった筈です。
  優雅で現実とはかけ離れているような話になっています。
    まぁ、ドラマだからでしょうけれど・・・。




















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Last updated  2012.08.16 17:18:07
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Re:空襲に遭った記憶(08/16)  
言葉にできないくらい、悲惨な出来事だったんですね。
空襲の話は、こちらでも終戦前夜から当日の朝まで続いた土崎空襲の話など、悲惨だったことがいい伝えられています。

だんだん、戦争の話をしてくれる人が少なくなってきています。
ぎりぎりのところで生死が分かれたり、人間の運命がいろいろに振り分けられた時代だったんですね。

私たちには想像もできないことがたくさんあったのでしょうね。

息子さんたちとの再会、よかったですね。
我が家はこの夏も全員そろうことができなかったのですが、子供たちが大きくなるとそれぞれに予定が入ってしまい、そろうのも難しいですね。 (2012.08.16 20:34:16)

Re:空襲に遭った記憶(08/16)  
Ryoko-f  さん
こんにちは(*^_^*)

大変な経験をされていたんですね。
まさに地獄のような状況だったことが伺えます。話に聞いても、もう私も想像すらできません…。
今の若者がそんな経験をしたら、皆PTSDになってしまうでしょうね。
戦争を経験されている方々の精神力の強さに感心します。

義母は東京大空襲の次の日に銀座の会社まで出社したといっていましたが、そのあたりは被害がなかったのでしょうか?

悲惨な経験をされた方も多くの方は経験を語らずです。
父も、機銃掃射で追いかけられたり、家を焼夷弾で焼かれた経験があるのですが、話すのをいやがります。
義母も、東京に住んでいたので、ある程度状況は見ていたのではないかと思いますが、やはり話をそらしてしまいます。
戦争の怖さや悲惨さは私では説明できません。
やはり経験された方々が、子供や孫の代に語り継いでいかないといけないと思いうのですが…。
テレビで悲惨な記録を流すのも必要だと思います。若者たちは、それから目をそむけてはいけないのですが…。
なかなか、ダメですね。皆具合が悪くなってしまうようで…。

連休は、お子様たちがあつまられたようで、楽しいひと時が過ごせたようですね。
よかったです。
私は、お墓参りと、昨日、久しぶりに実家に顔をだしてきました。
(2012.08.17 14:50:58)

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