細川家の記録はある時から光秀と信長の間に隙間風が吹き始めたのを見逃していない。
「光秀の屋敷に信長が来臨した時、(信長が光秀の)広間が十八畳なのを「広過ぎたり」と気に入らず、午前を召し上がらずお帰りになった。
「(信長様は)全体、自分より人が勝っていることは嫌いだ」ということだった。
信長公の座敷は八畳より広いものはなかった」(綿考輯録)。
信長は鋭い。
光秀の忠義は見せかけで、本当は主君よりも自分を輝かせたい男なのではないか。
そう見抜いた節がある。
本能寺の変の直前、光秀と信長は「密室」で言い争った。
それは「二人だけの間での出来事」であったと宣教師フロイス「日本史」は記す。
光秀が口答えしたので、信長が「怒りを込め一度か二度明智を足蹴にした」。
この時なんで言い争ったのかはわからないとフロイスは言う。
近年見つかった証拠でいえば、四国の戦国大名・長曾我部氏への外交方針であったかもしれない(「石谷家文書」)。
この史料には、こう書いてある。
本能寺に清玉は僧20人で駆け付けた。
しかし表門等は明智軍がいて近づけない。
清玉は「裏より垣を破りて寺内へ」入ると、本能寺には、もう火がかかっていた。
「傍らを見ると、墓の後ろのやぶに(顔見知り武士が)10人余り打ちより、卒塔婆のようなものをくべて」、火で何やら焼いている。
清玉が「信長公は、いかがされた」と問うと、その武士が「切腹あそばされ、ご遺言で「死骸を敵に取られるな。首を渡すな」と言われた。
しかれども死骸を抱いて立ち退こうにも四方は、みな敵…。
ただいまこれで火葬にし灰となして敵に隠し、我々はその後、切腹してお供しようと存ずる」というので、清玉は「骨を取り集め衣に包み」、本能寺の僧が退去するふりをして明智勢を欺き、無事、信長の骨を持ち帰った。
渡部昇一の世界史最終講義 2024.11.25
日本国史 上 2024.01.17
昭和史七つの謎と七大事件 2024.01.03