オキナワの中年

オキナワの中年

*神様の失敗/勝連繁雄



 九州芸術祭文学賞佳作/「神様の失敗」/大野隆之/講評/土着と普遍性の実践/性同一性障害の"生"描く

 ここ数年、沖縄文学の土着性と普遍性にかかわる議論が活発だが、その実践として一つの可能性を示したのが、勝連繁雄「神様の失敗」である。

 作品は性転換を行った「健太=ユミ」が故郷「小ガミ島」に突然、帰省するというもので、彼(彼女)をめぐる島民たちの反応、特に家族の狼狽・苦悩が描かれる。近年「性転換」という問題は、単なる奇行から、「性同一性障害」という人「個」の本源的なあり方に対する一つの問いかけとして深化し始めている。しかし、一般の人々にはまだそのような問題意識は薄く、ユミ自身も「わたしはわたしで~す」「神様がわたしを失敗して創った分、わたしに自由の心を与えてくださっているのよ」と断片的な表白しかしない。しかし母の「佐代」は、きわめて感覚的なものながら、主人公に内在する「他の誰の苦悩よりも深い」苦悩を読み取る。それは徹底的に「わたし」として生きることが、絶えず周囲との軋轢(あつれき)を生じてしまう、人間という存在の現在的状況に対する苦悩であると見てよいだろう。

 一方、ユミを迎える島は、既にかつての共同体ではない。例えば島民たちはテレビを通じて、ユミのような存在を既に知っているのであり、その認識はメディアの模倣である。また同級生の一人は「新宿のの店にやってくる客」と同じ様な「汚れた」好奇心を反復してしまう。何よりも聖なる御嶽すら、観光客のゴミで「塵捨て場」のような腐臭を発しているのだ。しかもこれは単に観光客の問題ではなく、「島は汚さんで、お金落として行ってちょうだいよ」という老婆たちの感性にまで確実に広がってしまっている。

 共同体から徹底的に排除されようとする主人公が、腐臭の漂う御嶽で「女」として再生をとげる場面が、この作品の山場となっている。ユミは伝統的な神事で女たちが最後に渡る橋を、軽やかに往復する。神聖な境界に足を踏み入れ、そこから帰還するのである。これはユミなりの死と再生の儀式であると同時に、ゴミに埋もれた神の、再生の瞬間でもあった。換言すれば、この「儀式」は、極めて新しく普遍的な課題と、伝統的な神事が、その切実さにおいて出会う場面なのである。この後、岬で「白鳥の化身」として立ちつくすユミの姿は、彼女の儀式が成就したことの暗示だろう。しかしそれは最もユミに同情的な母親にすら、理解されない。直前まで、世間の規範をはずれた「娘」の幸福を、ひたすら神に祈っていた佐代は、たとえ神が恕(ゆる)そうとも世間が許してくれないという現実認識から逃れることは出来ない。強い親子の情愛を持ちつつも、母にとって娘は、あくまで「どこか遠い場所」にいるのである。そして自分の場所が理解されることの困難を誰よりよく知っているのがユミ自身である。世間の視線を軽やかに受け流し、同級生との思い出が失われていく寂しさを克服しえたユミを、最後に苦しめるのが「親の悲しみ」なのである。末尾のユミの哄笑(こうしょう)は、おそらく東京では克服しえなかった、「変な存在」という自己認識が、この島で乗り越えられたことを意味すると思われる。しかし彼女に、「健太」と以前の「名」で呼びかけずにはいられない佐代の姿が、現在の二人の距離を示しているといえるだろう。

 表題の「神様の失敗」については、現実に同じ問題に苦しむ人々への配慮を欠いているという批判もあるが、「神様の失敗」という言葉が絶えず「幸せ」もしくは感謝の言葉と対になって用いられる逆説的な表現であり、何より作品全般におけるユミの力強い生を読み取り得るならば、無用な誤解は生じないはずである。

 この作品は、九州芸術祭文学賞において最優秀作品無しの「佳作」に選ばれた。作者にとって佳作は二度目である。最優秀作品でないのは残念であるが、この新たな傾向を持つ作品に対する明確な評価には、一定の時間が必要であると思われる。




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