オキナワの中年

オキナワの中年

久志芙沙子「滅びゆく琉球女の手記」


2000/12/05 


 二十世紀も終わりだということで、県内でもこの百年を振り返るさまざまな試みがあった。その中でそれほど派手な扱いは受けないが、しばしば久志芙沙子について言及されている。最近この久志について調べる機会があり、わずかながら新しいことがわかったので報告したい。
 今世紀を振り返るに当たって、なぜ久志芙沙子というほとんど無名の女性に一定の光が当てられるのか、まずその概略を述べたい。
 昭和七(一九三二)年『婦人公論』六月号に久志芙沙子(発表名義は富佐子)の「滅びゆく琉球女の手記」の連載が開始された。が、直後に「沖縄県学生会」および「沖縄県人会」から抗議を受け、「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」という一文を残し、連載は中断されてしまう。この「釈明文」における独特の主張が、久志について記憶の最も重要なポイントとなっている。
 抗議は、沖縄の内実を洗いざらい書き立てている点、作中、東京で成功した主人公の叔父が沖縄出身であることをひた隠しにし、故郷を見捨てている点、さらに沖縄県民を「民族」という言葉で表現した部分がある点、以上三点に向けられている。特に三点目が重要で、「民族」という言葉により、沖縄県民が、アイヌ人や朝鮮人と同一視される事への危機感が大きかったようである。
 これに対して久志は、民族の序列という発想自体を批判し、「人間としての価値と、本質的には、何ら差別も無い、お互いに東洋人だと信じております」と、歯切れよく切り返している。その他の部分も「学生会」側の抗議を、ほとんどすべて跳ね返してしまうような明快なものであり、「釈明文」というよりも「反論文」といった印象を与えるものである。
 戦前の沖縄をめぐる、差別もしくは筆禍事件はいくつかあったが、沖縄県側の姿勢は基本的には一貫していた。人類館事件(明治三十六年)のような明らかな人権侵害においても、方言論争(昭和十五年)のように沖縄の固有性を中央の文化人が称賛する場合においても、県当局もしくは県マスコミの主張は「同化」主義の立場からなされた。久志に対する「学生会」の抗議も、人類館事件のおりの「是れ我(沖縄県民)を生蕃アイヌ視したるものなり」という主張の反復であるとみることが出来る。
 この中で、久志の「釈明文」にみられる発想は極めて特異なものであり、よって現在でも先駆的な思想の持ち主としてとらえられているのである。なぜ一人の女性がこのような思想を持ち得たのか、ということが問題となるのだが、この点は久志が没落士族出身であったこと、女性であったこと、また「学生会」という組織の役割、さらには久志の主張が表面的には、帝国臣民の平等をうたった当時の国家の建前に案外近いこと、など多角的に考えるべきであり、ある程度の分量を要するものである。したがって、ここではより基本的な、久志の執筆した作品の全リストについて紹介したい。
 現在、県内でも容易にみることが出来る資料は四点である。まず「滅びゆく琉球女の手記」の第一回分(推定で全体の三分の一に当たる部分)および「釈明文」は『沖縄文学全集』に収録されている。また復帰後の「インタビュー」および「四〇年目の手記」は、一九七三年『青い海』二六号でみることが出来る。『青い海』は県内の多くの図書館が所蔵している。問題はこれら以外の作品または手記である。
 戦後初めて久志に言及したのは金城朝永の「琉球に取材した文学」であったが、その中で「この事件の余燼(よじん)のまださめやらぬ頃、引き続いて、芙沙子女史の別の短編が同じく『婦人公論』に堂々と載せてあった」と述べている。金城のエッセーはその冒頭に述べられているように、戦災で消失した資料を「覚束ない記憶を唯一の頼り」で復元しようとする試みであり、実際に誤りも多い。しかし一つか二つかを誤ることは考えにくいので、もう一作あったという可能性は捨てがたい。もう一点、久志自身は「インタビュー」のなかで、「滅びゆく琉球女の手記」以前に読者欄に投稿が載った、と述べている。残念ながらこれらについての先行研究が発見できなかったため、調査を行った。
 まず事件後の作品であるが、昭和九年まで追跡したが、それらしいものは発見できなかった。一方の投稿の方は、かなりの可能性で久志が書いたと思われるものを発見できた。『婦人公論』昭和六年五月号「日記の抜き書き」がそれである。「入選実話 年上の女・年下の男」というコーナーの一つとして掲載されており、署名は単に「ふさ子(東京)」のみである。しかし語彙(い)や文体の特徴から、ほぼ久志の作品だとみてよい。内容は大学生と同棲(せい)する、離婚経験のある年上の女性の苦悩を描いたもので、「実話」と銘打ちながら、インタビューと照合すると、完全な虚構と思われるものである。一応幻の処女作発見といったところだが、残念ながら沖縄についての記述は全くない。他の二編の投稿と比べると明らかに水準は上で久志の才能を感じさせるし、また後の「釈明文」につながる独特の気丈な態度をうかがわせる部分があるが、久志の評価をかえるほどの作品ではない。
 金城朝永が言及したもう一つの作品というのが、実はこの「日記の抜き書き」をさすのではないか、というのが現時点での推測である。金城は実際には昭和七年の「滅びゆく琉球女の手記」を昭和六年の出来事としている。戦争をはさみ、二つの作品の掲載の順序についての記憶が逆転した、と考えれば、すべての資料のつじつまが合うのである


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