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オキナワの中年
オキナワの少年試論マイナー文学の視座から
「オキナワの少年」試論
―〈マイナー文学〉の視座から―
大野 隆之
一 はじめに
平成七年度下半期の「豚の報い」(又吉栄喜)にひきつづく形で、平成九年度上半期の芥川賞をやはり沖縄からの「水滴」(目取間俊)が受賞した。双方とも作品そのもの質ならびに、本土の文学の活気のなさを反映した正当な受賞であると思われるが、同時にここ数年間の、沖縄に対する社会的、政治的関心という要素を否定することは出来ない。とくに「水滴」が候補作品にあがる過程には、読み手の側の沖縄に対するあらかじめの関心が不可欠であったようにも思われる。この沖縄文学が抱える政治的課題の絶えざる先行という宿命をより極端な形で経験し、現在は殆ど顧みられることのない作品がある。東峰夫の「オキナワの少年」がそれである。
「オキナワの少年」は沖縄復帰直前の昭和四六年下半期の芥川賞を李恢成「砧をうつ女」と同時に受賞した。在日朝鮮人と沖縄人(ウチナーンチュ)(1)が、同時受賞したという事態はきわめて象徴的であり、政治的であるといえる。それは同時に経済的な出来事でもあって、とくに受賞後東に対する執筆依頼が、「沖縄をテーマに」という一点に集中した(2)のも、出版が営利事業である以上ごく当然のことであろう。そして復帰後「沖縄関係の出版物が、潮が引くように書店から姿を消」(3)す過程で、この作品も埋もれていく。当初からこの作品は復帰騒ぎの中で消費され、やがては忘れさられる運命にあったともいえるのかもしれない。
だが東自身が「この一作で「沖縄を書き尽くした」」と考える作品の質自体はどのようなものだったのか。同時代の選評を中心とする読解は、一部を除ききわめて浅薄なものでしかない。たとえば少年の船出を「沖縄から日本への脱出としたほうが現実感がもっと出たのではないか」(4)という船橋聖一のようなとんでもない読み間違いは論外としても、比較的丁寧に読んだと推定される丸谷才一ですら自己の評価するこの作品の文体が、近代日本文学における希有な特性をもっていることに気付いていたかどうか大変疑問である(5)。一方でこの作品の内実を掘り起こそうとする試みが、すでに沖縄をよく知り尽くしているウチナーンチュ自身の手によるものであるか、あるいは全くの他者であるアメリカ人であったというのもあまりに象徴的であるといえよう。それは東京を中心とする大和という特殊状況を普遍とするヤマトゥンチュ(6)の感受性の象徴であり、その感受性を無反省に前提とする近代現代文学研究をも象徴している。
以下論述にあたっては、本稿は本土の読者を対象としているので、県民にはありふれた知識であっても、必要と思われる点は詳述した。また聞き取り調査については、個人名を上げず、簡単な経歴のみを付した。
二 近代沖縄文学は〈マイナー文学〉か
ドゥルーズおよびガタリは『カフカ』(7)において〈マイナー文学〉という概念を提案し「少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学である」と定義し、その三つの特性をあげている。1、「言語があらゆる仕方で非領域化の強力な要因の影響を受けている点」2、「すべてが政治的だということ」3、「すべてが集団的な価値を持っているということ」。
本来欧米の文学理論を無批判に導入し、任意の日本文学作品に当てはめるという行為は、きわめて安易な方法であり、つつしまねばならぬ誘惑だと考えられる。またドゥルーズ/ガタリの仕事が通常の意味における文学理論であるかどうかについても意見の別れるところであろう。しかしあえてこの概念を導入するのは、日本の文学研究の状況下にあっては、このような視点がほとんどなかった、ということであり、にもかかわらず、在日文学をはじめ問題自体は厳として存在するということである。その中にあって古くから民族と言語の葛藤が常に存在し、文学表現もその渦中に置かれていたヨーロッパの概念を先達とするのは、その限りにおいて容認されると考えられるのである。
〈マイナー文学〉という概念を導入するにあたっては、二つの大きな問題がある。ひとつは論者の政治的位相にかかわる問題である。後述するように、沖縄においては過去も現在も、たとえば「国家」というものの性質が本土のそれとは全く異なっている。それは少なくとも現在の本土におけるような絶対的(必然的)、かつ抽象的(あるいは空疎)なものではない。「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世」という歌にもあるとおり「国家」は相対的(偶発的)にそうであるにすぎない存在であるにもかかわらず、絶えず徹底的な具体として個のすぐ傍にあった。このような状況は先にあげた〈マイナー文学〉の諸特性に関わることなのだが、この問題を単に作品の内部にのみ封じこんでおくことはほとんど至難である。絶えず読者に、あるいは論者になんらかの政治的な立場を要求する。これは「すべての表現は政治的である」というように宣言すれば回避されてしまうような抽象的な問題ではない。読むこと語ることが絶えず具体的な政治として噴出してしまうような場なのである。この問題について、本稿では、中立や、客観という位置が本質的には虚妄であることを十分に知りながら、あえてその位置に固執するという立場を選んだ。したがって、〈マイナー文学〉という概念が、沖縄の近代現代文学にまるのまま適応されるという立場はとらない。すなわち沖縄文学が、「少数民族」の文学であるという立場はとらない。同時にかつての「皇民」という概念にあらわれたような、無前提な同一視もしない。これがきわめて「日本」的な仕方であることを自嘲しつつも、今のところそうせざるをえないのである。
もうひとつの問題とは〈マイナー文学〉という概念は、その範囲のとり方によっては、日本近代文学の、就中その言語表現の確立期において、そのまま当てはまる可能性があるということである。日本民族を少数民族であると考えるものはおそらくいないだろうが、近代文学の確立期においては、あたかも少数民族が他の言語で文学をするような仕方で、独自の小説言語を紡いでいった、そのような観点もあり得るのではないか。だとすれば他の〈マイナー文学〉と日本近代文学との同一性と差異はどのようなものであったのか。これを魅力的な観点とみるか、あるいは〈マイナー文学〉という概念を拡大しすぎであるとみなすかは、意見の別れるところであろう。この問題についても本稿ではこれ以上ふれない。
九一年のインタヴューにおいて東は「カフカのような夢想譚を書くのが目標です」と語っている。おそらく東は〈マイナー文学〉という概念は知らないはずで、感性的な直感が自己とカフカとの類縁性を告げたのであろう。「オキナワの少年」という作品とカフカの作品は、表面上「動物」というモチーフの多用を除けばそれほど類似していないが、表現と内容の両面をめぐって、先に挙げた〈マイナー文学〉の定義に驚くほど当てはまるのである。
三 ウチナーグチとヤマトゥグチ
「オキナワの少年」の表現上の特色として、会話および一部の心中思惟に沖縄方言をもちいたことがあげられる。このことが沖縄の文学者にとってどれほど大きな衝撃を持って迎えられたかという点については、既に様々の形で論じられている。会話文に方言を用いるというのは稀という程のものではなく、読書好きならいくつかすぐにあげることが出来るだろう。しかし問題は方言一般についてではなく、かつての「琉球語」を祖とする沖縄方言であるという点である。この問題については二つの側面から論じることが出来る。
一つ目は言語的な質の問題である。念のために述べるならば、この作品に用いられているのは、「純然たる沖縄の方言」ではなく「ウチナーグチとヤマトゥグチがチャンポンになりながら育ってる新しいウチナーグチ」である(8)。現在ほぼ最終段階にある約八十年間のウチナーグチ消滅の歴史の、ほぼ中間の段階と考えて良いだろう。純粋の沖縄方言をヤマトゥンチュが理解するのはきわめて困難である。なぜなら「沖縄方言」という用語と「琉球語」という用語のさす実態は、全く同一であり、言語学的には、ヨーロッパ諸語どうしの差異よりもはるかに大きな差異をもっているからである。当然のことだが、方言と諸言語とを分かつ客観的な基準は存在せず、それを決定するのは政治だけである。
もうひとつの問題はウチナーグチが背負った歴史的、政治的な、きわめて苛酷な宿命である。母語を用いると場合によっては殺されるというような状況は、少なくとも日本本土ではありえなかった。この全般的な歴史的政治的コンテクストについては、既にさまざまな形で論じられているので詳述は避けるが、本稿に必要で、かつ本土ではあまり知られていないと思われる点についてのみ若干触れることにする。
一点目はアメリカの占領政策とそれに対する沖縄側の反応についてである。あまりにも悲惨だった沖縄地上戦を正当化するため、また沖縄統治を円滑に進めるため、当初米軍は沖縄戦を、日本によって抑圧された「少数民族」の解放と位置付けようとした。その政策のひとつとして、放送および教育の現場で沖縄方言を用いよという指示をだしたのである(9)。これに対し現場は不可能であると回答した。本当に不可能であったのか、すなわちウチナーグチを基礎とし、新たな公的なことばを形成する道はなかったのかという疑問は残る。アメリカの政策を人の弱みに付け込むものとして断罪することは可能であるが、少なくともその意図を理解することは可能である。これに対しウチナーグチでの教育、放送を不可能であると回答した現場の感覚は、本土の人間には理解しにくい。現に現在ではほんのわずかの時間ではあるが、方言だけのラジオ番組が放送されているし、その中には方言だけのニュースすらある。全く聞き取れない音声の中で、外来語と専門用語だけが聞き取れるという奇妙な印象を与える番組であるが、これは現在の日本語(いわゆる共通語)のあり方と同じ構造であるとみて良い。すなわち最初から欧米的な理念をもった教育や、学術的な議論を可能とするような言語が明治日本にあったわけではなく、必要に迫られて作ったのである。真に沖縄アイデンティティーに目覚め、戦略的にアメリカの政策を受け入れたなら、公的、学術的、教育的なウチナーグチを生み出すことは技術的には可能だったのではないか。
二点目は標準語励行運動、およびいわゆる方言札は、戦後占領下においてもかなり後まで続いたということである。具体的な証拠は数少ないが、私の聞き取り調査によれば(四〇代の女性、久米島出身)少なくとも復帰前後の中学校くらいまでは行なわれていたようである(?)。
以上二点の事例は、近代沖縄における徹底的な同化政策の力と沖縄のアイデンティティーの複雑なあり様をかいま見せている。全島校長会は十分な議論も経ずに一九五〇年には既に「日本復帰」の決議を行っている。そして復帰が実現するまで、「日本国民教育」が徹底して行われることになる(?)。戦前皇民化のための最も重要な機関であった学校は、戦後平和憲法下の日本へ、というように表面上の理念こそ変更したものの、相変わらずヤマト化という機能を維持したのである。この原因はアメリカの占領政策の過酷さ、繰り返される米軍人の犯罪等ももちろんあると思われるが、それだけならば独立論も十分に成り立つ。それ以上に重要なのは公式の「知」はすべてヤマトから来るものであり、ヤマトゥグチを使えることが、すなわち知識人としてのステータスであり、同時にアイデンティティーでもあったという、戦前戦後の沖縄教育界、言論界の状況そのものではないか。聞き取り調査においては、教師は家庭でも決してウチナーグチを使わなかった、という証言もある(祖父、父と二代教員が続いた学生)。いわゆる方言論争(?)が提示した構図は、敗戦というきわめて大きな激動を経た後も基本的には変わらなかったのである。その結果として現在の沖縄があるのであり、このことをどう評価するかは、ヤマトゥンチュにはきわめて難しい問題である。
作品中では以上のような事情は、正確に反映されている。文字言語であるゆえアクセントまでは分からないが、「安里先生」は決してウチナーグチを使わない。その場面では少年達も標準語で話している。子供同士の会話においても、特定の条件下では、ヤマトゥグチが用いられる。たとえば絵画を通して主人公「つねよし」と親しかった「恵三」は、数学へと関心を移すと同時に、大人びた言葉遣い、標準語を用いるようになるのである。このアレゴリーが示すものはきわめて明瞭であろう。理性的で公式なものは絶えずヤマトにあり、沖縄には感性的で私的なものしかありえない、という先述した図式が、少年達の人間関係にまで反映しているのである。モチーフ的には売春を営む家庭、とくに父親からの脱出という部分ばかりが目に付いてしまうが、学校に対する違和という部分にも注目しなければならない。少年は学校で嫌なことがあると「やまがっこう」と称し自然に逃げ込むのであるが、学校がヤマトゥグチを強要し、「日本国民教育」を実践する場である以上、そこからの逃避は無自覚のうちに既に政治的な行為なのである。
以上のようなウチナーグチとヤマトゥグチとの対立は作品全体の表現構造そのものを形成していると見なすことが出来る。
(ヒヤヒヤヒヤ! 我あがベッドで犬の如し、あんちきしょう らがつるんで居んど!)
ぼくは心でそう叫びながら、外に飛び出していったんだ。家 にいると、うめき声やギシギシベッドのきしむ音が聞こえてく るから、逃げよう!(二)
この引用に見るように、少年の本来の感性はかっこでくくられた部分の様であると考えることが出来る。これに対して地の文は学校で強要されるヤマトゥグチを元に、きわめて意識的に構成されねばならない文体であった。ウチナーンチュとしてのそれ以外の言葉では表現し得ない独自の感性が、強要された公式の言葉から形成された意識的な地の文に取り囲まれる。逆に会話と一部の心中思惟が地の文の人工性を照らし返す。この意味で「オキナワの少年」は、従来一部の例外をのぞき「日本文学」の矮小な模倣に陥りがちだった沖縄文学の〈マイナー文学〉性を明瞭に示す最初の作品群の一つとなった(?)。同時に地の文はヤマトゥグチで会話文はウチナーグチというスタイルは、その後の沖縄文学においていわばひとつのスタンダードな形式となっていくのである。
「オキナワの少年」の地の文の形成過程にはもう一つ問題がある。それは一見すると特定の作品内現在から発されているかに見える地の文の語りに含まれる時間の厚みのようなものである。
まず作品内の現在時であるが、伊佐浜の強制土地収用についての記述があるため(二三)、これを基準にするなら、この作品の舞台は一九五五年以降ということになる。これに対して「先生によばれたことは中学生になって初めて」(一二)という部分から、少年は中学一年生らしく、四八年に六・三・三制が施行されているので、年齢は一二、三歳であると推定されよう。少年は「六つぐらい」の時にサイパンから引き上げて来ており、マリアナ諸島からの引き上げは一九四六年始めにはほぼ完了しているので、これらのことを総合的に解釈するならば、作品内現在は、五一、二年頃だという事になる。ちなみに作者東峰夫は一九三八年生であり、これを基準ににすれば作品内現在は五一年前後という事になるが、この場合六歳で引き上げるのは無理である。ここで重要なのは作品内の時間を限定することではない。この作品の背景はある特定の限定された時間ではなく、五〇年代はじめから中頃までのある幅を持った時間であるという事なのである。
表現における認識の枠組みという観点からいえば、時間の幅はさらに広がる。たとえば「アジ演説」(八)という語が、この時点の少年の語彙にあった可能性は低いし、「月曜日であったのか朝礼の鐘が鳴って」(一一)というような記憶を辿るような表現もある。もちろんこれらは逸脱的な表現であり、作家の未熟さ故のミスであるとも言えるのであるが、そのようなミスが生じた背景には、この作品の地の文そのものの成り立ちがあると考えられる。すなわちこの作品の語りは、表面上あくまでも少年の〈今・ここ〉に密着するような形式を取りながら、実はその後この少年が辿ることになる歴史性や、認識の枠組みを内包しているということである。とするならば、「こん如売る商売は、ほんとにすかんさあ」(一)という感性的な表白と、「女が借金で縛られて身動きできないなんて、それは奴隷とおんなじじゃないか。借金を入れて女を連れてくるというのは人身売買じゃないか」(七)という秩序だった倫理性の間には、一定の距離を想定しうる様に思われる。おそらくここで行われているのは、少年の一人称という形式を取る作品にしばしば生じる、少年の感性に大人の知識、論理が混入するという現象であるが、同時にそれが個人の問題に還元できない、ウチナーグチとヤマトゥグチという対立において生じている点で、きわめて特徴的である。いわばひとりの少年の精神の中に、異なった歴史性を持つ二つの集団が対立葛藤しているといっても過言ではないのである。ただしこの対立葛藤は、一つの方向性を持っている。作品前半ではかなりみられるウチナーグチによる心中思惟は、後半にいくに従って消滅してしまう。これは支配的な地の文に少年本来の感性が犯されていく過程とみることが出来、同時に「オキナワ」の辿ることになる一つの道を象徴しているのである。
四 「男性」性について
マイケル・モラスキー氏は「オキナワの少年」における性の構図について、「男という性は外国の占領者によって体現されている」こと、そして沖縄の男達は「実質的に女達を奴隷化し、その男達を今度はアメリカの占領者が支配する」「父権支配の二重構造」として論じた(?)。自然=沖縄=女性が、アメリカ=男性に蹂躙されていく過程としてこの作品を捉えた氏の視点はきわめて優れたものである。しかしながら「父権支配の二重構造」についてはやや疑問が残る。「沖縄の男達」に本当に父権が存在し得たのであろうか。
この作品において大人の男達の影はきわめて薄い。つねよしの家のバーも、実質的に運営しているのは母親であり、「もの食う業のため」と商売の現実的正当性を主張するのも母親である。これに対し父親は子供達の行儀作法に細かい口出しばかりする一方、新聞を読むことで、字の読めない母親に対してかろうじて優位を保とうとする矮小な存在として描かれている。行儀も「文字」もヤマト的な価値の維持を指向しており、そのアイデンティティーのあり様を典型的に示しているのが、「起床ラッパではねおきる大和魂の兵隊の如し元気よくおきりよ」というせりふであろう。これは相当以前から反復されているようで、少年が「バネじかけで起き」るほど、既に身体化されてしまっている。作品全体の中では見えにくくなっているものの、沖縄アイデンティティーの困難性を考える上で、この父親の存在は重要だと思われる。なぜならこの父親は、表面上のこととはいえ、子供を教育する中で、敗戦によって完全に崩壊した、帝国臣民としてのアイデンティティーを持ち出しているからである。この父親は、戦後サイパンから引き上げてきた人物であり、直接沖縄戦を体験していない。それ故沖縄全体に一般化することは出来ないが、南洋への移民、兵役、本土への疎開や出稼ぎなど、沖縄戦を経験しなかったウチナーンチュは無視できない数字にのぼるのである。懸命の努力にも関わらず今なお一般住民戦没者数すら確定できない状況であるため、正確な数字を上げることは難しいが、戦前五五万人程度で推移していた沖縄の人口は、悲惨な地上戦を経て、終戦直後には本島のみの数字で三三万人程度にまで激減している。先島地方の人口を加えても四〇万人をわずかに越える程度だろう。それに対し一九五〇年の調査では、今度は七〇万人近くにまで増加しているのである(?)。この時期の自然増は一万五千人程度だったので、沖縄戦で九死に一生を得た人々にせまる人口が逆流したという計算になる。そのような様々の体験を経た人々によって占領下沖縄の歴史は形成されていったのである。それ故この作品における父親像も又、特殊な例外と見なすわけにはいかないし、また個人の資質にのみ帰着するわけにもいかない。聞き取り調査に依れば、敗戦後も旧日本軍人としての武勇を語る人物もいた(九州地区に出稼ぎ)と言うことだし、又沖縄以外で敗戦を迎えた人ほど、沖縄差別が少なくなかったにも関わらず、日本に対する思慕が強かったようである。私の聞き取り調査の中で、この時期の思い出として、一九四九年の湯川秀樹のノーベル賞受賞を誇らしく思ったという証言もある(関西地区に疎開)。また南洋移民の中には、外地で苦労する中で改めて「日本人」であることを確認するというというケースもあり得たのではないか。とするならば、父の「大和魂」を糾弾することは誰にも出来ない。「皇軍の本性をあますところ無く見てきた沖縄住民が戦後間もない時期、日本人一般を”ジャパニー”と怒りのこもったひびきをもたせて呼称していた」(?)というのは事実であるに違いないが、それほどの激戦地にいて、なおかつ生還できた人々は残念ながらそれほど多くはない。後年明らかになるような日本軍の様々な残虐行為は、むしろ少数者の胸のうちに秘められたと見るべきであろう。前節で述べたように、復帰運動に最も大きな影響力をもったのは学校であると思われるが、それを支える一般住民もまた決して少なくはなかったのである。
日本に思慕をもつ人々、殊に少年の父親のような人々が、占領下において誇りを保つことはきわめて困難なことであったと思われる。父親は「親のいゆし聞からんな!」としきりに繰り返すのだが、それは自らの権威がもはやわずかも残っていないことを十分知っているからに他ならない。米軍で雑役をしている彼には、女達を守って戦うことももはや出来ないし、たとえ文字が読めようともその力を発揮する機会はないのである。モラスキー氏の論理のうち、「父権支配の二重構造」に疑問を呈さざるを得ないのはそれ故である。作品中には借金で女性を縛り付けるというモチーフが強調されており、現実にそのようなケースも少なくなかったのであるが、五〇年前後のコザでは夫が妻の、子供が母親のポン引きまがいをするような、極端な状況すら稀ではなかった。「実質的に女達を奴隷化し」というより、女達の犠牲無しには生きていけないという、父権の完全な崩壊とみなすべきではないだろうか。この観点から見たとき、前節で見た少年の女達に対する倫理的な同情、商売への反感を、父親の示す例えば新聞を読む行為と同じ論理で読むことが可能になる。少年の生存は母親がいうようにミチコーとヨーコが性を売ることによって成立しているのであり、本来上位者の感覚である同情を持つ資格は、少年にはない。実際少年の正義感の虚妄性をあざ笑うかのように、女達はあけすけな猥談を繰り返す。内面は描かれていないため断定は出来ないが、全編中で女達が悲しみのニュアンスのようなものを示す場面は一ヶ所しかない。これをすれっからしとみることももちろん可能であるが、むしろどうしようもない状況を何とかして楽しんでしまおうという、女達の現実感と力強さを読むべきだと思われる。その一方、あらゆる意味で「男性」性が無価値で空虚なものとなってしまったのがコザという町なのであった。そのような状況下で、射精という、少年の身体において生じ始めた「男性」性をどのように正当化すべきであるのか。
まずごく普通の成長譚であるならば、反感を持ちつつも結局は「父」になるという、いわゆるエディプスの物語が考えられるが、その父は反逆以前に空虚なものであり、いわば「死せる父」でしかない。大日本帝国はもはや存在しないのであるから、これは選択肢として成立しないのである。そこで考えられるのは次に示す三つの選択肢である。
一つ目は学校教育の与える、新しい「日本国民」としてのアイデンティティーであり、友人の恵三や委員長達が辿る道である。多かれ少なかれ違和感を持ちつつも、現実の戦後沖縄の多くの少年が辿った道が、事実上この選択肢であった。
二つ目は「アメリカー」になることである。しばしば占領下沖縄は「異民族支配」と呼ばれるが、アメリカ民族というものは存在しない。そもそもアメリカはあらゆる民族を吸収することで成立している国家なのだから、ハワイを例に挙げるまでもなく、可能性としてはない道ではなかった。しかし少年の中ではちょっとした発想としてすら生じていない。これはおそらくアメリカが圧倒的な強者であり、絶対者であったことを反映していると思われる。ウチナーンチュは少なくともアメリカに対しては、複雑な感情を持たずに済んだのであり、現在でも事件があると、アメリカそのものに対してよりヤマトに対して怨恨が向けられるのもそれ故であろう。
最後の選択肢とは、現実のオキナワをすべて否定し、政治的諸力を免れた世界へと向かうことであり、その世界は自ずと幻想の「琉球」に重なる。モラスキー氏も指摘するとおり、この作品の結末の無人島への船出はそのような文脈で読まれるべきだと思われる。感性にとって最も自然な、ウチナーンチュになるということが、家族や仲間と別れたった一人で逃走するという形でしか成立し得ない所に、この少年の悲劇があった。さらに重要な点は、右に上げた三つの選択肢が、少年個人のアイデンティティーの選択肢であるのと同時に、占領下沖縄に与えられた選択肢でもあった、という点である。少年は「オキナワの少年」であるのと同時に、いわば「オキナワ」そのものなのである。このように読まなければ、東のいう「ひどい現実」の内実は理解できない。
この作品の内容は、現実の沖縄で生じた数多くの事件や事故と比べるとそれほど悲惨ではない。映画化される際には、より悲惨さを強調するために、無垢な少女の初店や、石川市宮森小学校における米軍機墜落事故(一九五九年)が付け加えられていた。実際に東自身が見聞きしたことの中にもより「ひどい」事があったに違いないのである。おそらく東のいう「ひどい現実」とは個々の事件そのもの以上に、自らの生が様々の政治的諸力の中に引き裂かれる「オキナワ」という状況そのものだったのではないか。少年はそこから船出するわけだが、その試みが挫折することは、作品の表現構造の中で既に予告されている。なぜなら先に分析したとおり、この作品の地の文は沖縄的な感性が犯されることによってしか成立しないのであり、したがって作品の成立そのものが少年の試みの挫折を内包していると言えるからである。現象的には沖縄には書くべき事が無数にある。しかしおそらく主観的には、本質は「書き尽くし」てしまったということではないのか。
五 おわりに
九一年のインタヴューの最後で、「納得のいく本が出せるまでは、(沖縄には、大野注)戻らない」といった東峰夫はその後も沈黙を守っている。これは作家の沖縄に対する複雑な心情に基づくものであり、他人がおいそれと口出しをする問題ではないのかもしれない。
しかし作品中の次のような箇所をみると、作家自身のウチナーンチュとして運命を暗示しているような気がしてならない。
(シオマネキを、大野注)家にもって帰りたくなった。けれど ……この小蟹は……潮気のないところではすぐに死んでしまう んだ。(二五)
東と沖縄との確執についてはさらに調査をし、稿を改める必要があるが、その後多くの沖縄の作家達は沖縄を離れることなく執筆を続けている。これも個人的な生活上の問題に帰着できるのか、それとも風土、文化環境を含めた必然的な現象であるのか、予断を許さない。さらに現在でも急激に進行中である、いわゆるヤマト化の中、沖縄の文学が独自性を保ちうるのか、これについても現在の所全く判らない。ただ一つ言える事は、残念ながら沖縄のおかれている政治的な困難は、今後も相当将来まで続くであろうということだけである。
注(1) 本土の日本人に対して沖縄の人々さすときに用いる。県内では現在でもごく一般的な語彙である。
(2) 黒沢充「それから」『朝日新聞』一九九二、二、一〇~一七。インタヴューを構成した連載記事。インタヴューの時期は写真の日付から九一年末であったと推定される。以下東自身の発言は全てここから引用した。
(3) 『沖縄の県民像』沖縄地域科学研究所編、ひるぎ社、一九八五、九、一五
(4) 芥川賞選評『文芸春秋』一九七二、三
(5) 文学界新人賞選評『文学界』1971、12。
(6) ウチナーンチュと対応する本土の人々をさす言葉。現在ではやや文語的で公式的な発言の場合に使われる。一般的にはナイチャー(内地人)という表現が多用されるが、本来ナイチャーという言葉はある種の悪意を込めた呼び方だったため、ヤマトゥンチュを用いることにした。
(7) ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『カフカ』宇波彰/岩田行一訳、法政大学出版局、一九七八、七、一〇。
(8) 座談会「沖縄学の今日的課題」における外間守善氏の発言。『文学』一九七二、四。
(9) この経緯に関しては仲程昌徳氏の論文に詳しい。仲程昌徳「文学作品における沖縄の言葉」『近代沖縄文学の展開』三一書房、一九八一、一、三一。
(10) 目取間俊の芥川賞受賞後のインタヴューにも同様の経験が語られている。「目取間俊氏に聞く」『文芸春秋』一九九七、九。
(11) 福地曠昭『教育戦後史開封』閣文社、一九九五、五、一、など。管見の及ぶ限り沖縄の戦後教育についての資料は当事者達の手によるものが多く、国旗掲揚運動などが誇らしく描かれている。これに対して批判的な視点は大城立裕の暗示的な発言を除けばほとんどない。
(12) 一九四〇年沖縄に訪れた柳宗悦が、沖縄における「標準語励行運動」を批判し、これに沖縄県学務部が反発したため起こった論争。最近では花田俊典氏がこの問題を新たな視点で取り上げている。花田俊典「沖縄方言論争三考」『日本近代文学』第五二集、一九九五、五。
(13) これ以前にも霜多正治の試みや、大城立裕の「亀甲墓」(一九六六)など先駆的な試みはあった。とくに「亀甲墓」は、沖縄文学に表現のもう一つの可能性として重要な作品である。
(14) マイケル・モラスキー「占領と性と沖縄のアイデンティティー」『占領と文学』㈱オリジン出版センター、一九九三、一〇、一五。本稿がこの論文から学んだ点はきわめて多く、作品論の範囲においては本稿はこの論文の補遺といっても過言ではないほどである。あわせて参照いただければ幸いである。
(15) 戦前および一九五〇年の人口については国勢調査、また終戦直後の人口については沖縄諮詢委員会社会事業部の調査によった。
(16) 同注(3)
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