オキナワの中年

オキナワの中年

堀辰雄事典三項目



森鴎外 もり おうがい(文久2・1・19~大11・7・9〈1862~1922〉)
 小説家、評論家。本名、林太郎。石見国鹿足郡津和野町(現・島根県鹿足郡津和野町)生まれ。代々津和野藩典医の家柄で、鴎外もその影響から東大医学部を経、陸軍軍医となる。明治17(1884)年から五年間ドイツに留学し衛生学などを学ぶ。帰国後公務に従事しながら、訳詩集「於母影」(明22)、小説「舞姫」(明23)などを発表、翻訳「即興詩人」(明25~34)は、原作以上と評価が高い。一方で坪内逍遥と「没理想論争」を展開し、明治中期の文学史を形成した。明治40年陸軍軍医総監へと地位を上りつめた後も、「阿部一族」(大2)「高瀬舟」(大5)などの代表作を発表する。晩年は「渋江抽斎」(大5)など史伝物に新境地を開いた。夏目漱石と並び、近代日本の二大文豪とされ、後代に与えた影響は大きい。
 堀が鴎外に直接言及しているものとしては、まず「病床雑記」(昭6、『全集』第四巻)および「狐の手套 3」(昭8、『全集』第三巻)があげられる。いずれも「即興詩人」に言及したもので、前者では「僕のこの小説を愛読すること、既に十数回に及べり。されどその都度かかる小説を一生に一度でいいから書いてみ見たしとの念願新たに起こらざることなし」と最大級とも言える賛辞を述べ、後者では「病気をするとこの本を手に取るのがいつの間にやら習慣みたいになつてゐる」と、心細い病床にあってこの作品に引きつけられる心情を吐露している。ただしいずれも完璧とも言える鴎外の翻訳に対して、挫折してしまった中野重治訳に対する哀惜の情に比重がおかれており、その点注意が必要である。「幼年時代」(昭17、『全集』第二巻)の註四では、「渋江抽斎」の中から常泉寺についての記述を引用し、「そのころ私は十二三になつてゐた。丁度毎日のやうにその常泉寺のほとりで遊んでゐたので、此処を読んだときは云ひ知れずなつかしい気がした」と述べている。文学テクストと自己の過去との関連づけ、あるいは同じにように幼時近隣にすんでいた鴎外と空間を共有したことについての意識など、堀の発想法を考える上で興味深い。第三者の評価としては、萩原朔太郎の「同人雑記」(『四季』昭11・6)がある。朔太郎は「狐の外套」中の「軽井沢日記をよんで、僕はふと森鴎外の「青年」といふ自伝小説を思ひ出した。(中略)かつての森鴎外をもつとスマートにレフアインし、その野生をを取つて趣味性を加えたやうな、若き秀才のインテリ青年をイメーヂされた」と述べている。表面的な影響関係はそれほど顕著でないが、東京大学卒業、向島界隈での生活経験など、両者の伝記的な重なりも多く、また鴎外信者でもあった芥川経由の受容も考慮に入れるべきである。
〔文献〕竹内清己「堀辰雄における森鴎外の位置」(『文学論藻』平9、71号)(大野隆之)


泉鏡花 いずみ きょうか(明6・11・4~昭14・9・7〈1873~1939〉)
 小説家、劇作家。本名、鏡太郎。石川県金沢市生まれ。彫金職人清次の長男として生まれる。鼓打ちの娘だった母から草双紙を聞き育つ。九歳で母と死別。北陸英和学校で、英語を学ぶ。尾崎紅葉「二人比丘尼懴悔」に感激、文学を志す。上京し、一年間放浪の後、紅葉に入門、内弟子となる。明治二五(1895)年、「夜行巡査」「外科室」が〈観念小説〉として注目を集め、新進作家の地位を確立する。しかし本来の個性は明治三〇年代以降の独特の語りを用いた幻想小説において開花したと言え、「高野聖」(明33)「草迷宮」(明41)などがよく知られている。その一方「歌行燈」(明43)や「日本橋」(大3)など芸能、風俗に材を取った作品は次々と舞台化され、人気を博した。自身の劇作も多く、「夜叉ヶ池」(大2)「天守物語」(大6)等は現在でもしばしば上演されている。自然主義を軸とする近代文学の中で、一時期冷遇されたが、その特異な幻想世界は現代文学にも大きな影響を与えている。
 谷田昌平作成の年譜(『全集』別巻二)中の堀自身の書き込みに、中学時代の読書として蘆花、藤村、鏡花をあげている。理系を志し、未だ文学的に出発する以前の堀の読書環境の中に鏡花があったことは、注目に値する。鏡花の昭和期の作品は無視されがちであるが、その中で「貝の穴に河童の居る事」(『古東多万』昭6・9)が比較的注目されるのは、堀の同時代評「貝の穴に河童ゐる」(『新潮』昭7・11、『全集』第二巻)による部分が大きい。ナンセンスや滑稽性でとらえられがちなこの妖怪譚について、堀は「どうも気味悪くなつて来てしかたがなかつた」と述べる。さらに上田秋成の『春雨物語』を引き合いに出し、そこに日本文学固有の「奔放な、しかも古怪な感じ」を指摘している。萩原朔太郎の談話を引きながら、怪談とエロティシズムとの関係についてふれている点も興味深い。鏡花研究においてはこの同時代評はかなり注目されているが、逆に見れば堀文学から縁遠いようにみえる、幻想・怪奇に対する独特の発想法を理解するための貴重な資料である。他に「二三の作品について」(『全集』第四巻)で稲垣足穂を評する中で鏡花を取り上げている。ここでは作者の存在が浮上してしまう足穂と、作品がそれ自体独立している鏡花とが対比されている。堀と鏡花の関係を考える上でもう一つはずせないのが、間にたつ芥川の存在だろう。その鏡花礼賛は、理性的な主知主義とみなされる芥川の文学的広がりを示すものだが、同時にその後を追う堀辰雄の、表面的な実作には見出しにくい水脈の一つを暗示している。
〔文献〕村松定孝「鏡花文学批評史考」『泉鏡花事典』(昭57・3、有精堂)(大野隆之)


永井荷風 ながい かふう(明6・11・4~昭14・9・7〈1879-1959〉)
 小説家、随筆家。東京市小石川区金富町生まれ。本名、壮吉。父久一郎は外遊後、官歴を重ねた後、実業界に転じたが、漢詩人としても著名である。母方の祖父は儒学者鷲津毅堂。一高の入試に失敗し、東京高商付属外国語学校に入学するが、芸事の稽古にふけり、除籍になる。荷風の号で投稿をはじめ、巌谷小波の知遇を得る。明治三六(1903)年9月より渡米、「あめりか物語」(明37~ 42)を執筆。四〇年に渡仏し銀行に勤めるが、一年で辞職。帰国後「ふらんす物語」を上梓するが発売禁止となる。「冷笑」(明42~43)で文明批判を展開する一方「すみだ川」(明42)では恋物語を描き、徐々に江戸趣味に傾斜した。四三(1910)年より慶應義塾大学教授に就任。『三田文学』を創刊し、初代編集長となる。慶応辞職後「腕くらべ」(大5~6)を連載。「つゆのあとさき」(昭6)では昭和の新風俗を描き、風俗小説の傑作とされる「■東綺譚」(昭12)を完成した。大正六から死まで続いた日記「断腸亭日乗」は文学関係者のみならず、大正昭和の貴重な風俗資料とされている。
 芥川の死にすら冷淡であった荷風は、フランス文学の後輩とも言える堀に全く関心を持たなかったらしく、「断腸亭日乗」中に言及はない。一方堀の方も荷風にについて、ほとんど言及していないが、深い関心を持っていたことはノート「荷風抄」(『全集』第七巻(下))の存在から明らかである。このノートは基本的に荷風の小説、随筆中から、フランス文学に関わる記述を書き写したものである。写し違いと見られる部分以外、ほぼ忠実に再現されており、堀自身の書き込みはない。ただし詩の訳出部分の中に、荷風訳を自身の訳と差し替えた部分がある。抄出は書簡にも及んでおり、『荷風全集』を相当読み込んでいたことが窺える。堀は昭和二五年にノートの大半を消却しており、「仕事の上で必要と考えられるノオトのみ遺した」(『全集』第七巻(下)解題)とされ、また日本近代文学関係のノートが他には「明治文学」および「芥川龍之介の読書」だけであることから、堀が荷風のフランス文学理解を絶えず意識していたことは間違いない。また「幼年時代」(昭17、『全集』第二巻)の「註三」で、堀は「すみだ川」の曳舟通りの記述を引用し、「ここに描かれてある小径は、ことによると、曳舟通りに近かつた私の家から尼寺の近所のをばさんの家に行くときにいつも通つてゐた小径であるかもしれない」とする。荷風への愛着と、物語との空間共有というロマンティシズムが垣間見える部分である。佐藤春夫を除き、大正、昭和の文壇から敬遠されていたとされる荷風であるが、フランス文学あるいは「場所」の繋がりを経て、堀辰雄にもしっかりと受け継がれていた。(大野隆之) 


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