徳島市 蔵本町 地福寺

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弘法大師の言葉ー11~20


 物の貴賎は師の別くと別かざるとなり」

(性霊集 李?が真蹟の屏風を進つる表)

道が興ったり廃れたりするのは、時流に乗れるか乗れないかである。
物の価値はそれを見る人の能力による。

ものの見方・考え方の重要さというものが良くわかります。

ある人がピンチと考える同じ状況をある人はチャンスと考えます。

人の短所はすなわち、長所の裏返し。

困った時、苦しい時はこの言葉を思い出しましょう。

その時こそ、人生最大の飛躍のチャンスかも知れません。

「昧金の面を照すことは必ず瑩払を待ち、童矇の眼を開くことは
 定めて師訓に因る」

(性霊集 藤の真川が浄豊を挙するがための啓)

掘り出したばかりの暗い金の面を輝かせるためには、磨き払うことが
必要であり、幼い子供の眼を開かせる(教える)には、先生の教えが
必要である。

才能を開花させるにはそれなりの方法が必要となってくるという
ことでしょう。

そのためには自分の考えだけでなく
他人の意見も受け入れる必要があります。

他人の意見を受け入れることは、自分を認めること。

自分が認められない人は、他人も認められないものです。

とかく歳を取ると考え方に余裕がなくなります。

いつまでも他人の意見に耳を傾けたいものです。

弘法大師の言葉ー13


テーマ:日本の習俗、文化、宗教について書こう(924)

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「巨石は重くして沈み、蚊虻は短くして飛ぶ。しかりといえども、
巨石船を得つれば深海を万里に過ぎ、蚊虻鳳に附きぬれば、
高天を九空に翔る。」

(性霊集 人の官を求むるがための啓)

大きな石は重くて沈み、蚊やアブは少ししか飛べない。しかし、
大きな石といえども船があれば、深い海をどこまでも進め、
蚊やアブもおおとりにつけば、空高くどこまでも飛べる。

人は縁というものが大切です。

個人の力などは、大したものではありません。

しかし、良縁があれば、それを生かして自分の実力以上の
仕事が出来ます。

一方で、何かを成し遂げれたとしても、それは自分の力だけでは
ありません。

いつも謙虚に、日々感謝して生きていきましょう。


「時至り人叶うときは道無窮に被らしむ。人と時と矛盾するときは
 教すなわち地に墜つ」

(性霊集 越州の節度使に与えて内外の経書を求むる啓)

時を得て、人が叶う時には、道は行き詰ることはない。人と時が
矛盾している時には教えは地に落ちる。

時節を得るということの大切さを説かれているのでしょうか?
現代のように目まぐるしく時が進む時代においては、時を得る
ことが重用になってきます。

しかし、時を求めて、次々に自らの立場を変えるのはどうでしょう?
時流に流されることなく、自らの立場を保持していれば
流れが変わり、時を得ることもあります。

「人はその親を親とし、家はその子を子とせん。
 百穀畝に盈ち、万民街に満たん」

(性霊集ー桓武天皇の奉為に太上御書の金字の法華を講ずる達親)

人はその親を親として敬い、親はその子を子として導く。
作物は田畑一杯に実り、街は人で賑わう。

最近は子供の権利が過剰に保護されているように思います。
親と子が対等の権利を持っているかのように思えます。
確かに、子供が虐待されるようなことがあってはいけません。

一方で、親と子の関係は対等ではないでしょう。

親が子を保護し導き育てる、子は親に敬意を払う。
そういう関係が必要に思います。

現代日本では街に人は満ちているかも知れません。

しかし、田畑に作物が満ちているでしょうか?

人間が生きるために必要なものはお金ではありません。
食べ物です。

親が子を育てて、成長した子が親になり、また子を育てる。
親に導かれた子が、成長して親になり、また子を導く。

親が食べ物を子に与えれば、子は成長します。
親に食べ物を与えられる子は親の言う事を聞くのは
当たり前でしょう。

もっと単純に生きていきたいものです。


「遠くして遠からざるはすなわち我が心なり。
 絶えて絶えざるはこれ吾が性なり。
 水澄む時はすなわち至らずして至る。
 鏡磨ける時はすなわち得ずして得」

(精霊集ー天長皇帝故中務卿親王の為に田及び道場の支具を捨てて橘寺に入るる願文)

悟りは手の届かない遥か遠くにあるように思うけれども
本当は自分の心に求めるものである。
仏性は自分の心から離れているように思えるけれどもそうではない。
水が澄んでいる時は底にある物が自然と見える。
鏡が磨かれている時は自然に自分の姿を映す
(ように悟りに至ることができる)

悩んでいる時は、その原因が外で起こった出来事のように
思えます。でもそうなんでしょうか?

同じ問題が起きた時、人は果たして同じ反応をするのでしょうか?

ある人が悩んで今にも死にそうな状態に陥った時、
ある人は最大のチャンスが訪れたと歓迎する。

問題は外にあるのではなく、自分の心の中にあるのです。

一生懸命水の底の魚を見ようとしても、濁っていてはいくら目の良い人でも
見ることはできません。
同じように曇った鏡も同様です。

しかし、水が澄んだり、鏡を磨いたりしたら、
自然に見えるようになります。

悩んだり苦しんだりしている時は、どうしても前が見えません。
それがほんの僅か見方を変えるだけで、水が透き通るように
物事が見えるようになります。

この時期は、入学式・入社式、人生の明暗が分かれる時期に思えます。

人生は他人との勝負ではありません。
自分の人生です。

自分が負けていると思っている人は、よく考えてください。

人生に負けはありません。
生きている限り勝っているのです。

「仏心は慈と悲なり。大慈は楽を与え、大悲は苦を抜く」

(精霊集ー天長皇帝大極殿において百僧を屈してあまごいする願文)

慈悲の慈とは相手の幸福を望む心であり、
悲は苦しみを除いてあげたいと思う心です。
仏様の心とは相手に思いやりを持って接するということです。

和顔施というものがあります。
相手ににっこりとほほ笑みかけることです。

慈悲の心で、相手の幸福を望んだり、苦しみを除いてあげることは
難しいでしょうし、思うだけでも大変かもしれません。

ただ、何は無くても相手に微笑みかけるぐらいの気遣いは
持ちたいものです。

「自他平等にして妄執を断割し、怨親斉しく沐して禍を転じて福とせん」

(精霊集ー藤中納言大使のための願文)

自分と他者とは本来は分けることのできないものであり
同じものである。(自分が存在している)という捕らわれの
心を断ち割って、敵も味方も同じように法雨を浴びて
(仏教の教えを聞いて)禍を転じて福とする。

普段はどうしても自分と他者を分けて考えてしまいますが
自分と他者は本来は分けられないもので、
自分に接するように他人にも接してあげたいものです。

仏教の教えはすべての人に平等な教えであり、
その教えを聞くことによってすべての禍を除き
幸福になれるとお大師様は説かれています。

さて、仏教の教えを聞くと
なぜ幸福になれるのでしょうか。

その前に、禍とはなにか、幸福とは何かを
考える必要があります。

我々はとかく悪いことが起きると禍、良いことが起きると
幸福と思いがちですが、その良いこと、悪いことの判断は
誰がしているのでしょう。

実は自分なのです。

自分が悪いと思っていることが禍、良いと思っていることが
幸福なのです。

でもそれは本当なのでしょうか。

ことわざにも「禍福は あざなえる縄のごとし」といいますが
良いことがあったからと言って、それが幸福につながるとは
限りません。それどころか良いことと思ったことが
禍の引き金になることも珍しくはありません。

高額の宝くじに当選した人が、それによって不幸な人生を
歩む話はよく聞きます。

自分が禍に見舞われていると思ったら、よく考えてみましょう。

それは、本当に悪いことばかりですか、むしろ、物事を
転換させるチャンスであることが多いものです。

禍は見方によっては福でなのです。


「三曳の自性は他に因って造らず。一同の本覚は何ぞ縁を待って起らん」

(精霊集ー藤大使亡児のための願文)

自分と仏と衆生が本来平等であるということは、他者によって
造られるものではなく、自ら悟るものであり、本来存在する
悟りを得ることは、他者の縁を待つのではなく自分で得るものである。

悟りは他者から与えられるものではなく、自分で習得するものであると
お大師様は説かれています。

まず、何かを為すにあたって重要なことは自分が意識すること。

意識することによって、そこに目が向くようになるのです。

生きていくにあたって、様々な困難が起きてきますが、その原因は
外にあるのではありません。その問題を意識しているのも
問題が困難だと感じているのも自身です。

外部の原因を排除しようとして、仮に成功したとしても
再び同じ問題が持ち上がってきます。したがって根本的な
問題解決には自身が変わっていくしかありません。

自分自身が変わることによって解決した問題は、
再び同じような困難が待ち受けていたとしても
前と同じように解決への道筋を取ることは難しくはないでしょう。

「宝珠(ひ:石偏に非)に在れども瑩かざればすなわち雨宝の功なし
智鏡心に処すれども縁なきときはすなわち利物の力を闕く。」

(精霊集ー和気の夫人法華寺において千燈料を奉入する願文)

如意宝珠は鉱石中にあるけれども、磨かないと宝の雨を降らす
効果はない。それと同じように人の智慧の鏡も心になかに
あるけれども機縁がなければ、物を切る力(人を救う力)が
発揮できない。

人の縁の大切さ、努力の大切さというものを感じる文章です。

たとえどんな才能があったとしても、それを発揮できる機会が
無ければそれを開花させることはできませんし、そのためには
それ相応の努力も必要になってきます。

座って待っているだけでは状況は変わりません。

とりあえず、一歩を踏み出して、目標に向かって努力しましょう。

それがたとえ実を結ばなかったとしても、自分が努力した事実は
無くなることはありません。

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