江戸東京ぶらり旅

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彰義隊<上野公園>

彰義隊 」(しょうぎたい)のお墓があります。「戦死之墓」の字は,神田お玉が池の玄武館という道場で,千葉周作さんから剣道を習った 山岡鉄舟 さんによるものです。

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<概略>
 江戸時代のラストシーン,実質それまで日本を支配してきたのが徳川家。この支配権は京都の天皇にお返しします,というのが1867年の「 大政奉還 」でしたね。これで徳川幕府はなくなりました。時代は明治,新政府ができました。そのときの将軍が慶喜さん,ラストショーグンです。もう権力を失ったのですから上野の寛永寺で謹慎,そのとき彼を護衛していた人たちが中心になって「彰義隊」が結成されたのです。ちなみに,寛永寺は徳川家にとっては最高に大切なお寺,徳川家や慶喜さん自身のお墓は谷中霊園の寛永寺所有の敷地にありますよ(写真下)。だから,彰義隊も寛永寺のあった(中心は現在噴水や東京国立博物館のあるところ)上野の山に立てこもって,薩摩・長州の連合軍である新政府軍と戦ったのですね。1868年7月4日のことでしたが,この「 上野戦争 」(「戊辰戦争」と呼ばれる悪あがきの一部),彰義隊はこの日の内に敗北,消滅してしまいました。

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<少し詳しく>
 京都でのこと,「 鳥羽伏見の戦い 」勃発。これが悪あがき,戊辰戦争の序幕。旧幕府軍と新政府軍の最初の衝突でした。慶喜さんは大坂城を脱出して上野の寛永寺へ。それで新政府軍は政府軍を江戸ヘ向かわせたのです。

 江戸城ではあれこれ議論。勿論旧幕府の人たちがですよ。小栗忠順さんや 榎本武揚 さん,政府軍と徹底抗戦しようとする過激派,いやいや音便にやりましょうという恭順派と対立しました。そんな不毛な議論をしている間,1868年4月5日,新政府軍の参謀である 西郷隆盛 さんと,旧幕府陸軍総裁の 勝海舟 さんの会談で,
 「こらんください,西郷さん。この江戸,戦争になると火の海になりますよ。慶喜さんたちの命さえ保証してくれるなら,江戸城をあなたたちに開放するよう,旧幕府の連中を説得しますから。あなたたち新政府軍が江戸城を攻撃するのは是非おやめください。」などとNHKの発祥の地,愛宕山に登って訴えたのでした。

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 結果,慶喜さんは水戸で謹慎,江戸城が無血開城されました。これで幕府は完全消滅ですね。これに我慢ならない抗戦派の人々や一橋家の家来たちは「 彰義隊 」を結成。彰義隊の中の強硬派は旧新選組の残党などを加えて寛永寺に集結, 北白川宮能久親王 を擁立しました。

 新政府軍は長州藩の大村益次郎さんが指揮しました。大村さんの像は靖国神社にありますね。大村さんは武力で彰義隊を殲滅させようとし,あちらこちらの逃走経路を遮断しました。7月4日,新政府軍側から宣戦布告,午前7時頃に正門の 黒門口 (上野広小路周辺)などで両軍は衝突。新政府軍は,今の東京大学敷地内から不忍池を飛び越える威力のあるアームストロング砲などで砲撃を加えたのです。彰義隊は西郷隆盛銅像付近から応射しましたが,基本は槍と刀。ついに黒門口の防備が破れ,午後5時には戦闘は終結,彰義隊はほぼ全滅したのです。戦闘が行われた黒門は荒川区の 円通寺 に移築されて,弾痕の残った柱などが保存されています。また日暮里あたりのお寺に逃げ込んだ彰義隊もいて,門にはやはり弾痕が残っていますよ(写真:経王寺)。

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 こうして江戸は東京と改められました。戊辰戦争の前線は北上,やがて函館へと移りました。最後の最後,悪あがきは「 五稜郭戦争 」で終わりました。土方歳三さんもここで亡くなりましたね。でも榎本武揚さんは後に新政府の要人になりましたよね。徳川将軍家は石高73万石に減らされ駿河国に移されたのです。そして北白川宮能久親王ですが,北の丸公園にある国立近代美術館工芸館は,旧陸軍近衛師団司令部の建物を利用したものですが,この敷地内に彼の騎馬像が立っていますよ。戊辰戦争後彼は許され,やがて陸軍中将,近衛師団長となったのです。運の良い人,悪い人がいるものですね。


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