幸せだと感じる心






心というものは自分の感じ方ひとつで幸か不幸かをきめてしまうものだと思っていた。
幸せになりたいなら人に望まず自分の努力と心の持ち方で切り開いていこうと思っていた。
純粋にそうやって幸せという階段を登りつめた人はたくさんいるのだろう。
たしかにそれも一理あるとは思う。
でも私はついにわかった。
自分の幸せを感じる心が小さなつかえのために凍りついていたこと。
ついに幸せというものがどこにあるかがわかった。
心の中…それも自分の気持ちの持ちようではなくてのどにささった小骨のような小さな小さな
心配事が消えたとたんに自分の周りのすべてのものが色鮮やかに変化した。
すべての空気があたたかく私を包んでくれる。
こんな経験は初めてだ。

知らない人が何気なくあなたを見たら何を思いますか?
私の顔に何かついているのかしら…何、あの人失礼ね…私どこか変なのかしら…
ここに来るんじゃなかった。

こういう感じ方をしていたら心を開くことができない。人の視線が恐く自分に自信が持てず
隠さなければならないたくさんのことを背中をまるめて隠して歩いていると、常にこのような感じ方に
なってしまう。

知らない人と視線があったらこう感じます。
どこかで会ったことがある人かしら…近所の人かもしれないわね…目礼しておきましょ、
知らなくてもいいじゃない…それとも今日のメイクがうまくいったのかしら…
私もまだまだイケテルかな?ガッハッハー。

これが今の私。
ある日、子供の頃からの胸のつかえがこの歳になってはじめてすっきり取れたその日、
私の物の考え方が180度変わってしまった。
病気のことも運命だし、“私ちょっと病気しちゃってのんびりやってんのよー”と周りの人に
大きな声で言える。もっとおせっかいにも“ちょっとあなた早く検査に行ったほうがいいわよ、
私なんて切っちゃったんだから可愛そうでしょ、デザートおごってー”という具合い。
人との付き合い方も構えて付き合っていた時は自分の弱さを見せないかわりに人も私に弱さを
見せない。
だから本当の姿で付き合うことがない上っ面だけの付き合いに過ぎなかった。
格好をつけてどうする。人間はそれほど変わりはないのだから何でも話して楽になれば
何でも聞いてもらえるし何でも聞いてあげられる。
自分が知らないことや素敵な話も耳にすることだってできる。

人が喜ぶ顔を見て心から幸せに感じることができる今。
私ができる小さなことを喜んでくれる人がいるという今。
欲しかった物を買った時の喜びでもなく、何でも買えるお金が入った時の喜びでもなく、
仕事で成功して欲しかったタイトルを得たときの喜びでもない。
今まで生きてきてこんな種類の喜びを感じたことがない私はとまどいさえ感じた。
“ありがとう、助かったよ”
“こんなこと知らなかったー教えてくれてありがとう”
“大変なのにやってくれてありがとう”
“うれしい”
わたしこそありがとう、うれしい、幸せです。
人が喜んでくれる顔って見ていて自分も幸せになるものだなんて、人の幸せや喜びを妬む気持ちを
持っていては一生味わえないよろこびなのかもしれない。

病気をしたという事実は、私が唯一“健康”を失ったということ。
あと私が失ったものは何だろう。考えてみたら何もない。
愛情をもって私に接してくれる夫を心から信頼し、日々成長する一人娘を可愛く思い、
贅沢は出来ないけれど普通の暮らしを続けていられること。
家族で花を植えること、家族で散歩にでかけること、家族で掃除をすること、娘の成績表を見て
一喜一憂すること、ペットのシャンプーを協力してやりあげること、お笑い番組を見ては大きな口を開けて
バカ笑いをしあうこと、帰宅が遅い夫の夕食が結局無駄になった時に“ごめんごめん、まーちゃんごめん”
と必死に謝る夫を微笑ましく思うこと。
そのどれもが日常であって大切なことで本当に失いたくないものだ。
健康であっても他のものを失っている人もいるはず。
だから人は皆平等に生きているはずだと思える。
辛いことや悲しいことを背負って大切なものを失わないように努力しながら生きているのが
人間なのかもしれない。
みんな同じじゃない。
そうだったんだ…私だけじゃなくてみんな同じだったんだね。
辛かったら私の肩をかしてあげるよ、その代わり私がつらい時は肩をかしてね。
肩を寄せ合い寄り添って助け合って生きていくことこそが幸せな生き方だったなんて知らなかった。

人は一人では生きていけない。
寄り添って生きているから幸せなのだと思う。






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