視点


ある日、鉄棒にぶら下がってぐるりと逆さまになった時に気付いた事。
自分が回って、世界は回って見えるのに、実はなんにも変わってない。
逆さまのまんまになっても、実はみんな逆さまじゃない。
自分が回っただけで、あるいは逆さまになっただけで、
結局変わったのは自分だけ。
周りは変わってない。
ビックリした。
「みんなが」回ってると思ってたのに、じつは「みんな」は回ってなかった。
誰もグラっと揺れたりとか、ぐるりと回ったりなんかしてない。
回っているのは自分だけ。
ある日のその瞬間まで、その事に気付かなかった。




きっと誰にでもあるのではないだろうか。
初めて「自分」と「他人」というものを意識した瞬間。
それはとても衝撃的な体験で、ある意味自己が確立した瞬間。
そして、その時ふと気付いた。
こうして今この世界を見ているのは自分だけれど、
この世界をこの位置から見ているのは「自分だけ」で、
このガラスのように映る世界を
自分と全く同じように見ている人は誰もいないと言う事。
今、自分が周りを見渡すと、そこにいるのは友達と幼稚園の遊び場。
その世界を見ている自分。
自分が中心になって世界を見ている。
自分の目から見える限り、この世は自分が「真ん中」にある。
鏡や水に映さないと自分は自分の顔が見れないけど、
友達にはいつも自分の顔が見えてる。
自分に自分の顔は見えていないけど、でも自分は友達の顔をいつも見てる。
わかるかなあ?
すべての人は(自分も含めて)外の世界や他人を見てるけど、
その見え方は一人一人違うのだ。
そして、私は今「ここ」にいる。
「ここ」からこんな見え方をしているのは自分だけなのだ。
ほかの友達はみんな「自分に見られている」のだ。
自分はこの「自分が感じる世界」の中心。

・・・でも、もし自分が居なくなったら?
この「自分が感じる世界」はどうなるの?
みんな他の子もこうやって「自分が感じる世界」の中にいるの?
みんなは自分と同じ「世界」を持ってて、それは絶対に分かり合えないの?
みんなの世界を私は見る事が出来ないし、
自分の世界をみんなも見ることは出来ない。
自分が見ているこの世は自分が「いる事」でこうして見えているのであって、
自分が見てなかったら「自分が感じる世界」はなくなっちゃう。

そんな事をぐるぐるぐるぐる思ってたら、急に怖くなって泣きたくなった。
何でか分からないけど、怖かった。
自分一人しか自分の世界が分からないんだ、と思ったら
なんだかすごく寂しかった。
でも、この時にふっと自分は
この目で見えている事と
他人の目で見えている事は根本的に違う事に気付いた。
自分はプレイヤーで、この画面で見えているのは自分だけ。
みんなあとは違う画面を見ている。
他人には自分の画面を見る事は出来ないし、逆もまた然り。
自分が死んじゃってゲームオーバーになったら、
もう誰もこの画面は見れない。
すごく特別な画面を、私は見ている。




やがて自分は世界の一部分でしかない事、
自分がいなくても世界は動いてて、何の問題もない事、
そして自分が言うなれば単なる世界の「部品」でしかない事にも気付いて、
すごく無常観とか無力感にもさいなまれたけど、
この自分の目で見て、脳で知覚する画面が
自分一人にしか見えていない貴重な物だという
何だか特別なようで当たり前な事実は
強烈に自分の中に印象的な物として植え付けられた。

それは今でも続いてる。

この世界をこの自分の視点で自分が感じるように見ている人は
自分以外に誰一人としていない。
凄くない?
自分にとっては凄い事。
「いる」だけで、私という人間は他人とは違う特別なものになりうる。
人間一人一人の存在は、ただそれだけで貴重でかけがえがなく、
無条件で尊重されるべきものなのだ。
そんなすごさを感じるにつけ、
同時に自分には「他人の視点」が気になり始めた。




自分が見ているように見ている人は誰もいないのと同時に、
自分には他人の感じるように世界を感じる事は出来ないし、
他人の考えも何もかも「そのまま」に知る事は出来ない。
永遠の不理解。
一体、他人の視点とはどんな物なのだろう?
一体、他人には何が見えているのか?
もしかしたら自分なんか見えてない物が見えているかもしれない。
って言うか、少なくとも自分が完全に見えない「私自身」を
彼らは見ることが出来る。
一体自分はどういう風に見られているのだろう・・・。

最初、そんな事は気にしないで
自分は自分らしく生きていればいい、と思っていた。
だから、服も髪も、「外見」に関しては無頓着。
むしろ、わざとそうしてた。
世間知らずな怖さというか、純粋さというか。
とにかく、他人にしか見えない自分の外見を気にするよりも、
自分は他人に見えない自分の内面を、
「中心」にある自分のこの内面を磨きたいと思っていた。
まあ、ソレはやがて崩れる訳なんだけれども。(「服って大切なんですよ」参照)
むしろ最初の頃は、「自分の視点」を強くする事が重要だった。
世界を見ている、そして他人の視点は見られない自分に対し、
少しでも他人より大きくて深い視点を与える事に主眼が置かれていた。
だから自分は勉強が大好きだった。
決して知れない他人の考えならば、
自分は自分で考えをしっかり持って、
少しでもこの不安定な自分を安定させる必要がある。
そのためには「勉強」が不可欠だった。
見る事は、知る事。
知る事は、見る事そのものを変える。
知識に裏打ちされた、物事のより深い観察・洞察。
知る事で見える物は格段に増える。
同じ物でも、それが色んな角度から見れるようになる。
だから、勉強が大好きだった。
知的欲求の充足は、ある意味一種のエクスタシー。
・・・とはいえ全ての分野にではなく、当然好き嫌いはあったんだけど。
数字関係はどうしても好きになれなかったねえ。
数学嫌い。
地理・歴史・生物・化学・国語なんかが大好きで。
ノートの上でちまちま計算するよりも、
得た知識がそのまま生活に反映する物が好きだった。
分かりやすい。
ただの花が、実は色んな部分に分けることが出来たりとか、
お風呂の底が冷たいのは温度による比重の違いであるとか、
季節風が吹くから気候がこんなふうに変わるんだとか、
今の紛争はこういう歴史的背景があるんだとか、
とにかく今までの当たり前の事が
今までとは全く違った事実に生まれ変わってゆく。
って、単なる自分の考え方・捉え方の違いなんだけどね。
ソレはもうドラマチックな変化で。
視点が変わるだけでこんなに世界は鮮やかに生まれ変わっていく。
よりエキサイティングに、より彩り強く、
そしてさらに興味深く。

だから、今でも「知る事」は大好き。
むしろ、私は知るために生きている、と言えるのかもしれない。




そして今。
自分一人の勉強では知れなかった楽しみを見つけている。
それは他人と関わる事。
色んな人と関わって、色んな話をして、
今まで決して知れないと思っていた
他人の視点に立った話を聴く事が出来るから。
そこには本人の考えや経験を伝えるには壁となる
「言葉」という障害と
それでも捨てきれない「私」という個人の視点・バイアスが存在するから
その人が感じるまま100%を受け止めることは出来ないのだけれども。
それでも色んな人の考え方を知る事で、
また新しい視点が自分の中に生まれてくる。

自分が絶対に知れない他人の視点。
それは永遠に手の届かない物で、
それに対する強い好奇心。
それに少しでも近づき、新しい知識が得られる可能性。
学ぶ事と触れ合う事、その両方が私に与えてくれる気付き。
視点を増やすことが出来る、その可能性に
自分はただ嬉しくて仕方がない。




あの幼稚園の遊び場で感じた
自分が世界の中心でないことを知った時の悲しさと怖さ。
それでも自分が自分であると言うだけで特別と言う事実。
それを今でも胸に抱えながら、
今はただ自分がこうして
あの時以上に色んな事を知れたことを幸せに思う。
絶対に知り得ない視点のあることを悲しくも思うけど、
誰かが自分の知らない事を知っている事実に畏敬の念を感じ、
そしてそれに近づける可能性がある事に嬉しくなる。
自分がまだまだ変われるという事実に、その可能性に嬉しくなる。

今はまだ、道の途中。
これからも自分の視点をより高く、広く、深い物に変えていきたいと心の底から願う。

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                                改 21, 08, 03   

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