自分が生きていく上で


彼は、自分のとても大切な友達で、いま少し不安定な状態にいて、
そんな彼の揺れる気持ちに対して返したメールです。
それを書いているうちに、
なんだか自分にとってもとても大切な事がその中に含まれている事に気が付いて、
ああ、これはもう少し詳しく書いて残しておいた方がいいな、と思ったので
ここにそのメールを改変して残しておきたいと思います。

これは、きっとゲイである人や、
あるいは「自分自身」と言う存在に対して疑問を持つ人みんなが通る道。
そして、それぞれに自分なりの答えを導き出して通ってきた道。
あるいは、これから答えを見つけていく道。
今、ここに書かれたメールの内容は、
こうして今まで自分が生きてきた中で自分が感じて、考えてきた事の
現時点での表れ。
それはまだ完璧な答えではないけれど、少なくとも今の自分の中にあるもの。
今までの日記や、
あるいは以前に書いてきた「想フ事」に重なったりするかもしれないけど、
もう少しだけ自分と言うものが切り出せた気がするので
もし良かったらご拝読下さい。
元が私信ですので、乱文なのは御容赦のほどを。




(以下、メール&追記)

て言うか、誰でもつまづくラインですよね、そこ。
何を隠そう、私もゲイですが(隠してない)
なにげにやっぱり子供は欲しいんですよ。
自分の場合、セックスは男としかした事がないし、
好きになったのも男しかいないといえばいないんですが、
それでもほんのりとした初恋とかは何気に女の子対象でしたし、
やっぱり自分も○君と同じように将来設計、というか
夢みたいなものはあったわけで。
結婚して、子供作って、家族を築いて生きていく、みたいな。
でも、結局現時点ではそれは出来ないわけですよ。
何せここまでゲイせいかつしちゃってますしね。
なのに、この将来を先んじて動く性格が災いして、
老後の事とかを考えると今からとてつもなく不安になったりもする。
挙句の果てには、職業が災いして、
日本でもこっちでも色んなケースを目の当たりにしちゃってる訳で。
大変ですよ、一人身。
大変ですよ、老いてゲイである事。
その難しさをこの年において痛感したりする訳ですよ。
患者を通して。
見えるわけですよ、自分の将来の起こりうる一つの形。
イヤー、欝!
って言うか、ゲイの欝率が高い、というのは、
自分と同じように考える&感じる人が多くて、
常にストレスにさらされてる事が原因なんじゃないか、と思う次第。
多分、それはあってると思う。
だって、辛いもん。この精神状態。




こうした不安になる自分、ぐちゃぐちゃとしてしまう思考に対する
一番の(おそらく唯一の?)解決は、Acceptance。
受容です。
それは、ただ受け入れる事ではなく、
同時に自分に対する「許し」みたいなものが含まれると思います。
難しいんですよ、これ。
誰だって、自分の好きな所もあれば嫌いな所もある訳で。
ストレートの人だって、常に自分を認めるという事は難しい出来事であって、
なかなか出来るものじゃない。
その上さらに、現状では日陰者として後ろ指さされかねない
性的マイノリティとしての自分を受け入れる、というのは
ほぼ不可能なのかもしれませんね。
法的に結婚と言ったリレーションシップも出来ない。
子供も出来ない。
はっきり言って、年をとったら何だかんだ言って
家族の助けが無いと生きていくのは大変。
病院で、目の前で見てるからそれは間違いなく分かる。
でも、それははっきり言って望めないのがゲイと言う種類の人間。
そんな、どこまでも不利な立場であるゲイである事を許して、受け入れて、
自分を認めてあげる事の難しさ。
ほんと、言わずもがなって感じですね。
でも、それをしないと、自分が壊れちゃう。
自分自身が将来に不安を抱えた、
そして社会的にも認められない不安定な存在である事、
生物学的には非生産的な存在である事を認めつつ、
それでもなお自分を受け入れてあげないと、確実に人は狂ってしまうと思う。
だって、そんな存在でも、自分は生きているから。
生きていくには、生きる理由と強さが必要だから。
そして、自分自身を認めて、受け入れて、愛してあげる事が必要だから。
人は、自分自身を嫌いながら、憎みながら生きていけるほど強くは無いから。




ゲイである自分にとっての回答は、
男とか、女とかではなく、それを乗り越えて
自分が誰かを愛せるという事実を認めること、その事が大切なんだと思います。
それは、時に友達に対しても向くかもしれない。
それは、時には本当に誰か一個人に向くかもしれない。
でも、とにかく、誰かを愛する事は大切。
そしてそれは、間違いなく自分の中に生きている。
自分は、誰か一個人を愛する事が出来る。
愛する事で、自分は強くなれる。
その相手がたまたま男だっただけで、
その事実を恥じる必要は無い。




誰かを愛する事。慈しむ事。
どこまでもそれが突き進むと、
例えば修道院の人とかになるのかもしれないけど、
こうして社会の中で生きる私達の場合は
そういうどこか現実離れした逃避的な生活を営む事は出来ませんし、
特に私の場合は自分自身ともっと向き合ったり、
誰かと一緒に現実を歩いていきたいのでそれは出来ません。
そんな「出家しようかしら?」という考えは、
ゲイになる前に小学生くらいの段階で捨てました。
ホントに一瞬あこがれたのよ、そんな生活に。
誰かの幸せを祈って、世界の平和を祈って、
同時にそのための活動をしながら生きていく、そんな生き方。
宗教という枠の中ではあるけれど、それは確実に幸せな生き方だと思います。
そして、そういった生き方によって確実に救われる人もいれば、
人の生き方としては非常にまっすぐで心地よいキリスト教的な考え方や
あるいは柔軟で、静かで、同時にフィロソフィーとしては非常にユニークな
仏教的な考え方の元で出家して生きる事は
自分自身を見つめ、人類を見つめ、
幸せとは、人とは何ぞや?と考えて自分を高めることも出来るので
それはそれで非常にいい事だと思います。
でもやっぱり私には、そんなまやかしの安定や妄信で
自分の生活をごまかして生きるのは無意味。
少なくとも私には。
隔絶された安定の中で、静謐の中で考える事は
同時に目を閉じ耳を塞ぐ事とも同義。
どこまでもそうした環境は、私にとっては「異端」。
私はもっと「生」で誰かに何かをしたいんです。
現実の世界の中で、自分のあるがままの生き方の中で何かをして、
同時に誰かに何かをして欲しいんです。
どこまでも強欲な事は承知の上で、それでもこうして生きていきたいんです。
だから私は、出家とかせずに、
自分なりの生活と考えを作り上げていきたいんです。
やっぱりそれでも時に揺らぐんですけど。
辛いんですけど。
不安になるんですけど。
でも、そんな自分を受け入れる事が出来るようになるために、
そのために何かしてます。
生きてます。
自分自身を現実の中で受け入れる事が出来るようになるために生きてます。




自分は自分が大好きだし、
同時に自分が大嫌い。
でも、いつか、「それでもいいじゃん」と言える日が来るように
出来る限りの事をしてるんです。
傍から見たら、強かったり、うまく物事を割り切ったり、
安定してるように見えるかもしれないけど、
でも、きっと今の段階だけを見たら、
中身は○君と同じようにぐちゃぐちゃとしてる事は変わらないと思うよ。
そんな中で自分が何が出来るか、何をしてるかと言えば、
何をしたら自分が一番好きなれるか、自分を認められるか、
それを探す事に執心してるんだと思います。
それが大切、と言うか、それしか出来ない。
そして最近思うんですけど、
自分を受容するために「する事」と言うのは
きっとある決まった夢とか目標を達成する事ではないのかもしれない。
むしろ、それは「する事」ではなく、
それはもっと、身近なところで発生する出来事の中で「見える」はず。
あるいは、「現れる」はず。
それはすごく極日常の中で現れる小さな物事たち。
そして何も考えずに起こす日常生活行動の中での何気ない出来事たち。
何気ない会話とか、誰かに接する事とか、
その中で自分に生まれた感情とか考えとかが
一番今の自分自身を映し出す。
何気ない日々のカケラは、
自分の「生き方」であったりとか、スタンスであったりとか、
自分自身を一番よく示す。
日々の中で何気なく感じる事が、今の自分自身に対する一番の回答。
だから、
何気ない日常で感じられる幸せとか、安心とかを生み出せている状態が、
成長して安定した自分=自分自身を受け入れる事の表れなんだと思います。
じゃあ、そのために何をしたらいいのか?
…結局は、すぐには何も出来ないのかも。
自分が自分を好きでいるために、
自分が一番正しいと思う事を続けていく事。
自分の心と気持ちに正直になっていく事。
そして、それに従って、自分の生きていく方向性も見定めて歩んでいく事。
ちょっとした自分に対する自信や
少しずつ受け入れられていく自分自身を感じる事が
最終的に自分自身をしっかり受容するためには大切なのかもしれません。
ある意味、悟りの域ですね。

ものすごく長くなりましたが、とりあえずはこんな感じで。

(以上 私信を元に改変)



最後の章の最後の10行くらいは、
○君へのメールでは書けなかったというか、思い浮かばなかった事です。
改めて私信を見直してみるというのも、こうした追記が出来るので面白いもんですな。
今回、この私信を自分なりに見直して追記した事で、
少し自分の考えと言うものがまた整理されたかも。
同時に、自分の考えって、いつもこんな感じでぽわ~んとしているんだなー、と
今回改めて痛感。汗。
そして最近、昔よりも自分の言いたい事がまとまらなくなってきたり、
自分自身が今何を言おうとしているのかが掴めなくなる事が多くなってきた。滝汗。
もー、だから超乱文だけど許いてね。
でもね、そんなボケボケした頭の中でも少しは思うところはあるわけで
不完全でも、そうした事を改めて拾い上げてみる事は
生きていく上では結構大事な事なんですよ。
少なくとも自分みたいなタイプの人間には。
皆さんも一度やってみるとよろし。

はあ、久しぶりになんか疲れた。
でも、ちょっとすっきりした。

                              22, Aug, 2004

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