群馬県山田郡大間々町高津戸城祉2



要害神社と高津戸城の由来

高津戸城は、堀河天皇の御代(みだい) 寛治年中(一〇八〇年)頃山田七郎平吉之が創立した。
その後、十代目の則之は桐生国綱によって滅ぼされた。天正六年(一六五一)六月のことである。里見家の七代義連の三男氏連が仁田山八郷(高津戸、須永、東、西小倉、上、中、下仁田山、名久木) に入ったのは、建徳二年(一三七一)で国綱の娘が氏連の正室となりその縁で仁田山八郷を国綱から任された。
 仁田山城は、以前は山田氏の居城であった。また、氏連より四代後の宗連は、越後の上杉謙信に攻められ自刀した。天正二年(一五七四)九月のことである。
 房州の里見実尭(勝広)は、仁田山に住む一族の宗連の許しで身を寄せていたが宗連の没後桐生に移って桐生氏の客分となるが、実尭は二子勝政と勝安を上杉謙信に託した。
 ところがこれが桐生親綱に誤解され元亀元年(一五七〇)三月二〇日に詰め腹を切らされた。
 上杉謙信の元にいた兄弟は
、親の仇を討ちたいと天正四年(一五七六)一〇月に高津戸城に隠れ、その翌年五月二日用命の砦を襲ったが念願果たせず由良国繁の怒りを受けて天正六年九月一八日無念の涙を流し討ち死にした。里見随見勝政二八歳、弟の勝安二五歳の若さであった。兄弟の墓や山田氏の墓は要害山のふもと 阿弥陀堂に静かに眠っている。
 要害神社は、その昔金毘羅宮に呼ばれ、自音寺第七世の住職高海上人が四国の金毘羅宮に参籠(さんろう)していた時、不思議にも夢中に金毘羅神王の尊容を拝した。又、要害山の山姿が象頭山(しょうずさん)に似ていることからこの地に祠を建立して神王を奉安した。
 この金毘羅宮(現要害神社)は、霊験あらたかで近郷近在の老若男女の参詣者でにぎわったと文政五年の自音寺の古記録に残されている。

  昭和五六年四月一九日
  要害神社氏子一同



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