顕正会の誤りについて

顕正会の誤りについて

平成十二年 元旦勤行の砌


                              平成十二年一月一日
                              於 総本山客殿

 立宗七百四十八年新春、あけましておめでとうございます。

 御参詣の信徒御一同には、遠くあるいは近くより この元旦に当たり、はるばる総本山に御参詣になり信行倍増をされることは、まことに有り難く存ずるものであります。

 ただいまは、本年最初の丑寅勤行において、仏祖三宝様への御報恩の御祈念、広宣流布の御祈念、そして参詣信徒皆様方の本年における一層の信行倍増、一切無障礙をお祈りいたしました。まことに御苦労さまに存じます。

 各寺院において、新年を迎えるに当たり鐘を打ちますが、これは「除夜の鐘」と申します。かねて皆さんも御承知のとおり「除夜」とは夜を除くと書きますが、すなわち、前年の一切を除いて、新しい年を迎えるという意味で「除夜」と言うのです。これは前年における様々な罪障の元である百八煩悩を救うために、百八つの鐘を打つということになっております。しかし、煩悩というものの考え方からいたしまして、日蓮正宗の百八煩悩の除夜の鐘と他門流の鐘とは、その意義において大いなる違いがあると思うのであります。

 百八というのは、一往、無漸、無愧、悔、嫉等の十纏の迷いと、さらに身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見という思想的な迷いが三界にわたって存するので、これが八十八使となり、それに本能的な迷いが貪、瞋、癡、慢とありまして、それがやはり三界の上において十種、存するのであります。そこで、それを全部足して百八になるというのが、百八煩悩についての『大智度論』の説であります。そのほかにも たくさんの百八に成ずる説がありますが、これが一往、代表的なものと思われます。

 これは小乗仏教を中心として説いた煩悩であり、我々の正しい極大乗の教えからするならば、さらにそのそれぞれの煩悩のもっと奥に、本体としての無明の煩悩が存するということを、よく知らなければならないのであります。その本体とは、すなわち見惑、思惑等の奥に塵沙の惑があり、塵沙の煩悩のさらに奥に無明という煩悩が存するのであります。この無明の煩悩が、実は自分の命の全体に関する迷いであります。

 しかし、それが極大乗の法華経の教えによるならば、この無明はそのまま法性、すなわち妙法蓮華経の体であるということが示されておるのであります。そこに法華経の無明即法性という、一切の迷いがことごとく妙法の理において悟りの性質として存するのであり、その原理を正しく応用していくならば必ず、その身そのまま、当体において真の悟りと幸せが存するということが示されております。それが法華経の真実の教えであるということが考えられるのであります。

 その上から考えるならば、我々は皆、煩悩を持っており、それによって多くの社会の人々が悪事をなし、様々な悩みをもって不幸の底に沈んでおる姿が存するのであります。しかし、それが正しい煩悩即菩提ならびに無明即法性という道を知るならば、この妙法を正しく信行することにおいて必ず、そこに妙法の光が顕れてくるということが示されております。

 特に、その具体的な道をはっきりとお示しくださったのが本仏日蓮大聖人様でありまして、御一生の御化導において三大秘法という尊い教えを示され、その上に我々がその本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る唱題の行において必ず、無明即法性として一切の煩悩がそのまま浄化されるところの煩悩即菩提の道が開かれておるのであります。

 しかし普段、煩悩が充満し、堕落の心のなかに生活をしておる人々は、たとえ信心に入っても、わずかな唱題で済ませたり、あるいは朝晩の勤行を怠ったりするような形においては妙法の命を正しく開くことはできないのでありまして、自分が納得いくように、自分の信心の上において、しっかり命懸けで唱題するところに、おのずと尊い無明即法性の悟りが開かれてくることを確信しなければなりません。

 また、それによって本当に充実した立派な境界を得た時、多くの人々の苦悩にあえぐ姿を見れは、おのずとそれを正しい信仰に導こうとするところの、折伏という心と行動が必ず現れてくるのであります。

 今、宗門は宗旨建立七百五十年の佳節に向かって、僧俗一丸となって三十万総登山の目標達成のために精進をしておりますが、その元はやはり本当に真剣な唱題によって自らの心を開き、また、他を導いていくところをはっきりと体験されていくことが、一人ひとりの信徒の方々において必要と感ずる次第であります。

 その意味において、昨年の「出陣の年」、本年、そして来年と三カ年があり、その次はいよいよ立宗七百五十年の佳節でありますが、この三カ年において本年は、目標達成のために最も大切な時期と思うのであります。故に、本年こそ大いに正法の護持興隆に前進をすべき、また、しなければならない所以が存すると確信するものであります。

 さて、皆様も御承知のように、一昨年より正本堂の解体が始まりまして、昨年の五月乃至、六月においてことごとく解体が終了いたし、きれいな広場に変わりました。そして、いよいよ本年より、奉安堂が建立されるという運びに相なっておるのであります。

 この正本堂を解体したということについては、色々と疑問のある方もあるかと思いますが、一昨年の客殿の落慶大法要の最後の時に、私がほぼ、その理由を申し上げてあります。すなわち、一時、宗門の信徒として正法護持興隆に功績があったかと思われるところの創価学会の在り方のなかで、特に過去から現在において、第三代の会長としておった池田大作という大謗法者の誤った見解が、種々の形ではっきりと現れてきたのであります。そのようなところから、この正本堂の存在が謗法の固まりと言ってもよいような意味に変わってきたのであります。

 したがって、清浄なる本門戒壇の大御本尊様御安置の場所としてふさわしくないということを私は確信いたしまして、この客殿落慶の時をもって直ちに御戒壇様を現在の奉安殿にお移し奉りました。そして、そのあと無用の長物となった正本堂については、もはや存在の価値がありませんし、そのまま置いても朽ちるばかりでありますから、思い切ってきちんと取り払ったのであります。そして、新しく御戒壇様を荘厳し奉るところの立派な堂宇を、僧俗一致の広宣流布に向かう信心修行と供養の精神において建立すべきであるということを考えておるのであります。

 また、それについて皆さんにお諮り申し上げましたところ、僧侶の方々、信徒の代表の方々の大いなる賛同を得まして、昨年から本年、また来年において、奉安堂の建立の御供養を募り、皆様方の真心の御供養によるところの立派な、清浄な、また、大きな堂宇を造って、未来における広宣流布の発足の起点として考えていきたいと思うのであります。

 池田大作は、正本堂の着工大法要において、『三大秘法抄』の文を引いて、もったいなくも、正本堂が『三大秘法抄』に示されるところの戒壇であるということを、はっきりと申しました。これは大聖人様の広大無辺な日本乃至、世界の一切衆生、人類救済の目標としての広宣流布戒壇建立の意義を、自分の我意、我見、我欲の見解をもって、まことに小さく貶めた考え方であります。のみならず、池田大作はさらにその前においても、会長就任ののちでありましたが、「戒壇建立ということは形式の形式であり、従の従の問題である」というような狂った見解を申しました。まさに大聖人様の御一期の一切の御化導を括られた本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇という三大秘法、そのなかでも特に戒壇に対する唯一の正しい御指南をいかに貶め、軽んじていたかということが実に明らかであります。

 これらの謗法を一切捨て、振り払って、私どもの建立する奉安堂は、大聖人様の『三大秘法抄』の尊い戒壇建立の御指南、すなわち御本仏の無窮の大慈大悲による広布への実現に向かって、これから一歩一歩、僧俗が共に和合して進んでいく、その護法の志をもって建立するところのものであるということを、ここに申し上げたいのであります。

 その意味において、皆様方も一紙半銭でも、この奉安堂の建立ということの意義を深く弁えられて、無理のない形において、できる限りの御報恩の御供養をされまして、皆様と共に立派な奉安堂を建立していきたいことを心より念願するものであります。

 それがまた、一人ひとりの心のなかに巣食う貪欲、瞋恚、愚癡、特に貪りの心をもって、わずかな金銭も、自分のためには使っても仏法のためには惜しむという誤った貪りの心を打ち破りながら、本当に清浄な信心の行業をもって成仏の境界を得ていくところに仏法の修行の非常に大切な所以が、この奉安堂建立に存することを申し上げる次第であります。

 どうぞ本年もまた、皆様方にはいよいよ信心に住せられまして、宗旨建立七百五十年に向かっての着実な信行の歩みと、御精進をなさることを心よりお祈り申し上げまして、一言、新年の言葉とする次第であります。

 おめでとうございました。

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