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NHKの朝ドラだ。再放送を時々見ている。奥茨城のシーンを見ると、これにあこがれたんだなあと、脱サラしたころのことを懐かしく思い出す。まず、家族の暮らしがあって、次にその暮らしを成り立たせるために仕事がある。暮らしと仕事の関係をそんな風に感じる。就職して、結婚して、子育てしてという普通の順番とは少し違うような気がするのだ。価値観の違いなのか、単に順番の違いなのか、時代や地域の違いなのか。。。
2017.08.26
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友人のイベントに参加してきた。古民家を改装したバーを貸し切り、プロのキーボードプレーヤーである友人にあらかじめ歌い曲をリクエストして歌うという企画だ。なんと、これで30回目だと言う。一度行ってみたかったが、広島市内で平日の夜なので、さすがにキツイ。先日は、東広島で大学講座の合間の日だったので、チャンスだと思い、急遽参加した。会場はアットホームな雰囲気。でも、思った以上に出演者のレベルが高くてちょっとあせった。お盆のライブでも歌ったプレシャスロードを歌った。ゴスペルだ。ーもう、人生終盤。これまで精一杯やってきて、もうボロボロになった。だから、神様、あとは、私の手を持って導いてください。ーざっくりいうとこんな内容の歌詞だ。なんだか、妙に心に響いて、最初に聞いたとき涙が出てきた。能天気に生きているようにみえて、けっこうたくさん傷ついているんだなあと、自分のことを再認識した(笑)まあ、そんな思いもこめて熱唱。この友人とも久しぶりにゆっくり話せて、行って良かったと思う。実際、孫までできて、この先何年あるかは別にしても、どう考えても人生終盤である。と、いうか、ほぼ、一巡りさせてもらったような気になっている。ここから先は、まさに生きているだけで丸儲けの気分である。で、あるなら、ほんの少しでも自分の殻を破るほうに舵をきっていきたいと思う。
2017.08.26
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昨夜、地域のBBQ大会。20数年前の新年会の様子を上映していた。私たちが来る直前くらいの映像だ。半分くらいの人は、もうお亡くなりになっている。いろいろな事を思った。私たちが最初に入植した口和町の本谷という集落は、山間の本当に小さな集落だったから、とてもフランクだった。いきなり、ずっと、ここに住んでいたかのような扱いだった。そこに比べると、ここはなかなか、よそから来たものには壁を感じるようなことがたくさんあった。たとえば、お葬式も講中という組織があり、そこの正式メンバーになるためには、私が見習いとして働き、それを皆が認めれば私の息子の代に後見人を立ててお伺いを立てる必要があると。口和はそんなものはなく、いきなり当たり前のように地域の人と一緒にお葬式を手伝った。地域の祭りも、まず、氏子になるかどうか、聞かれた。簡単になりますと答えたら、ちょうど瓦の吹き替えの寄付を集めていた時期で、いきなり数十万円の寄付と言われ、とりあえず保留します(笑)口和ではそんな面倒な話は一切無く、みこしを担ぎ、お酒を飲み、だったから、ちょっと面食らった。それで、正式な氏子ではないけれでも、地域の若い衆なので、みこしを担いだり山車を作ったりということは手伝うという位置づけとなった。実に面倒なことである。私も困ったが、地域の人も困ったと思う。どちらも他意はないのだが、なんとなく風習のようなものが障壁になった。それが地域性というものかもしれない。勿論、ここでのけ者にされたとか、そういうことではなく、むしろ格段によくしてくれた人たちに恵まれたから、縁もゆかりも無いこの地でここまでやってこれたわけだ。私が言いたいのは、人がどうこうではなく、風習と言うかしきたりというか、そういうものの地域性である。どちらにしても、随分、難しい波をかいくぐって来たんだなあというのが、今の率直な感想だ。その時、その時の選択が正しかったのか?と思わないでもないが、今思い返しても、やっぱりそうするしかなかったような気もするし、そんなこと考えるより、とにかくここまでよくたどり着けたものだと、そのことに感謝する。そんなことを少し振り返った一夜だった。
2017.08.20
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急にエンジンがかからなくなった。プラグを換えたけど火花も出ないので、農機具屋さんへ。30歳くらいの若い人だったが、見ている目の前で修理。テスターも使わず、スイッチが原因と探り当て、中古の部品と取り替えて修理終了。20分くらいだろうか。3千円から5千円くらいかなと胸算用。千円と聞いて吃驚するやら申し訳ないやら。田舎暮らしを始めたころの感覚を懐かしく思い出した。汗まみれになって草を刈る。重労働だ。作物を育てたり、暮らしていくために必要な作業だが、直接お金になるわけではない。機械の調子が悪くなると、目の前で農機具屋さんが治してくれる。必要最小限の修理代で済むように工夫してくれているのがわかる。そうやっている間にも、近所の農家が、たいがいは汗まみれになって訪れてくる。そういう、雰囲気がとても新鮮で、好きだった。地に足の着いた仕事をしている人たちの空間といったらいいだろうか。労働対価というのだろうか、直接物を生産する人が一番低く、そこから離れれば離れるほど高いのが、今の世の中の仕組みかなと思う。でも、それだけでは計れない価値も確実にあると思う。多分そこに魅かれてこの暮らしに入ったのだろうと思う。そんなことを少し思い出させてもらった。
2017.08.19
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昨日、ほぼ終日孫たちとゴロゴロしてすごした。実に贅沢な時間だった。 少し考えただけでも、それがどれだけすごい幸運に恵まれた結果であるかがわかる。 まず、双子の孫が、どちらも無事産まれ、ここまで順調にすくすくと育ってくれていること。 これがどれだけ奇跡的なことであるか、少ししか勉強していない私にもよくわかる。 母親である長女の産後の肥立ちが順調であること。 夫婦仲がよく、旦那も子育てにとても協力的であること。 この旦那も脱サラし、地域おこし協力隊と言う不安定な身分でありながら、とりあえず今はちゃんと生活できているらしいこと。 私も妻も健康で、岡山まで手土産持って車でいくくらいの経済力?はあること。 この中のどれか一つが欠けても昨日の時間は成り立たないし、他にも条件は無数にあるだろう。 そのことをきちんと感じ取り感謝することが、人としての基本なのだろうと思う。これは、目標どうこう以前の話であると思う。 55才を目前にして、やっと気が付くことができた。少し遅いような気もするが、とにかく感謝である。
2017.08.18
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目標と目的と手段について考えてみた。 幸福に生きるということをとりあえず最大の目的としてみる。どういうのを幸福というかというと、私の場合、どれだけ充実しているということかなと思う。 何かに夢中になって時間を忘れる。そういう時間の割合が高いことが幸福ということかなと思う。 具体的な目標を持つということは、そういう充実した時間を持つための手段だと考えるとすっきりする。 目標に向かって何かをしているプロセスそのものが充実した時間なわけだから、プロセスが目的そのものだといえる。 実に単純明快だ。 ところが、これが私の悪い考え方の癖で、目標を達成するまでは、目標を達成するためだけの時間と考えてしまう。そうすると、たまたま目標を達成できたそのごしばらくの時間だけが安心して満足できる時間ということになってしまう。 そして、それ以外の非常に貴重な出会いや時間を心ここにあらずで、無駄にしてしまうのである。 失敗した後、必要以上に落ち込んでしまうのは、この考え方の癖が原因だと今更ながらに気が付いた。 まさに本末転倒で、それなら、目標を持つことそのものをやめるほうが賢明である。 こんな簡単なことになぜ今まで気が付かなかったのだろうか? この悪い癖のために、目標をもつという、本来、日々の生活に彩を加えてくれるはずのものが、日々の目を曇らせる方向に働いてしまったわけだ。 今、ふと気が付いたのだけど、発達障害の子供には、勝負に異常にこだわる子が多い。なんでもないジャンケンに負けただけでも、それこそ全人格を否定され、人生のすべてに負けたと感じているのではないかと思うほどパニックになる。 私の考え方の癖もよく似ているのかもしれない。 この悪癖を少しでも治していきたいと思う。
2017.08.18
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今朝から孫とゴロゴロしている。 貧乏性の私は、天気もいいのにこうしていると、妙に落ち着かない。 罪悪感すら感じてしまうのだけど、これ程、幸福で贅沢な時間も無いとも思う。 それをしっかり感じとれるようになることが大切なのだと思う。
2017.08.17
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岡山の孫に会いに来た。随分しっかりしてきた。人見知りも始まったのか、私の顔をじっと見つめた末に泣き出したりもする。 笑顔や、おしゃべり?も。 しっかり顔を売り込んでおこうと思う。
2017.08.17
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恒例のライブ。高校時代一緒にバンドをやっていた仲間が盆と正月に広島でライブをする。それがちょっとした同窓会のようでもある。いつのころからか、そこにゲストとして呼んでもらえるようになった。私は、もともと下手だったし、その後もバンド活動なんてしていないから、素人もいいところである。それでも、呼んでもらえるのが嬉しくて安請け合い。最初は当時少し習ったピアノを披露すると宣言するも、当日のリハーサルで恐れをなして、ドタキャン。次はボーカルでゴスペルを歌い、その翌年はベースで参加、当時一緒にやっていた曲を弾いた。ベースに触ったのは30数年ぶりである。昨年は唯一弾き歌いのできる唱歌の「ふるさと」今年はプレシャスロードというゴスペルを歌った。とても、人前で歌えるようなレベルではないのだが、みんな優しくて暖かい拍手をくれる。本当に幸せな男だと思う。
2017.08.15
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10数年同じアングルで写真を撮っている。風景は変わらないが、人は変わっている。子供たちは大人になり、大人は確実に歳を拾っている。父母はこの坂を一気には上れなくなった。私が学生のころ、今は亡き祖母を背負ってあがったことがある。そのときの祖母と、今の母と年齢はどうなのだろうとふと思った。こうして皆で墓参できることを幸福に思う。
2017.08.15
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午前中、畑仕事。と言っても後片付けだから、草を抜き、マルチをはがし、押さえの瓦を集め、また草を抜き、、、という単調でしんどい仕事。しかもこの暑さの中で一人。以前の私なら30分も持たなかったろうと思う。でも、今の私は。気が付いたら3時間もたっていた。地道な作業、単調な作業をもっとも苦手としていた私が、随分変わったものだと思う。今の粘りがあれば、私の農業ももう少し変わっていたかもしれない。小さいころからじっとしているのが苦手で、今思えばADHDの気もあったかもしれない。でも今は、平気で何時間も机についていられる。この落ち着きが学生時代にあれば私は研究職を目指していたかもしれない。(笑)なんにせよ、人は変われるのだと思った。
2017.08.08
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とりあえず2007年の写真を片っ端から印刷してみた。A4両面に、4枚から6枚ずつなので、どんな画像か確認する程度である。子供たちは小中学生。私は出稼ぎといいながら、小学校に行き始めたころではないかと思う。妻や子供たちと、マラソン大会に行っている写真がとても多い。両親とも一緒に行っている大会もある。小学校に出始めたことである程度お金の余裕もでき、両親も元気。子供たちも一緒に走ろうといえば喜んで付いてきてくれた。多分高速道路が千円均一かなにかで、家族の小旅行もかねてたくさん遠出をした時期だと思う。家族で海に行っている写真も多い。田んぼの写真もたくさんある。みんな、とても幸せそうである。写真というのはどうしてこう幸福そうにみえるのだろう。なんだか胸がいっぱいになってくる。とりあえず、自分のやってきたことは間違いではなかったのだ。そう、思わせてくれた。
2017.08.07
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今日は朝から台風の影響で大雨。予定していた畑の片付けは早々にあきらめ、物思い三昧。雨のおかげで、室温25度。快適である。雨のおかげで、落ち着いて家にいることができる。今日一日は、こうして文章を書くこと、webで情報を集めること、本を読むこと、そしてたまりにたまっているデジカメ時代の写真の縮小版の印刷。フィルム時代の写真は、アルバムに入っているから、何度か見返している。スマホ時代の写真は、いつでもスマホで確認できる。昨日、入植した当初の時期のアルバムを妻と見た。私もまだ青年の面影を残している。(笑)で、見ているうちに当時の心境を少し思い出した。今の自分の価値観からこの時代のことを思い返してはいけないなと思った。うまくいえないけど、20数年前の私は、20数年分成長する前の私ではなくて、別の価値観や思いを持った人だということだ。だから、20数年前の自分に今の私が教わったり勇気つけられたりすることはたくさんあると思った。デジカメ時代の写真は、ブログでアップしたもののほかは、見ることも無くデータのまま埋まっているものがほとんどだ。子供たちが、小、中、高の時代。私自身は経済的にも精神的にも追い込まれていた時期のものだ。見るのが怖いような気もする。(笑)さて、webで情報収集をしていて少し気が楽になったことがある。それは、私と立場は違えど、将来設計について悩み考えている同年代の人がたくさんいるということである。これまでは、立場が違いすぎて、同年代の人を参考にすることがほとんどできなかった。私と同じように30歳くらいで脱サラしてIターンで就農してという人はそんなにはたくさんいなかったから、相談したり、同じような悩みを打ち明けあったりということもなかなかできなかった。でも、今の私は。定年を控えている人や、あるいはそれまでに、リストラの可能性がある人の境遇にかなり近いのではないかと思う。それだけでも、随分気は楽なのだ。(笑)なるべく、先入観をもたずに、幅広く考えていきたいと思う。
2017.08.07
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もう1度、0に立ち戻ってみようと思う。もうすぐ、55歳。普通の人でも、定年後のことを考える時期だと思う。私は実に不安定な綱渡りをしてきたけれども、非常に幸運なことに、借金も無く、オンボロではあるが、住む家もあり、自家用の畑や果樹を植えられる程度の山もある。勿論、退職金もないし、蓄えも僅かなものだが、上二人のこどもは自立しているし、3人目も来春就職。末娘の学費を払う分くらいはある。退職金が無いのををカバーするくらいの生活技術を持っている自負もある。(笑)そして何より、健康だ。理由があって、田んぼはお返したし、長年借りていた畑もお返しする予定で今整備している。つまり、農業も含めて一旦、0に戻るということだ。幸い、農機具もすべて、借金なしで、そのときの手持ちで買えるものしか買っていないので、これも0である。事業は撤退するときのほうが難しいと聞くが、失敗を繰り返してきたくせに、どちらかというとプラスを残したまま終えることができるのは非常に幸運だと思う。勿論、0に戻ってみようというだけで、具体的なプランがあるわけではない。しかし、十数年前、子供たちをかかえながら、貧乏のどん底に追い込まれ、農業だけで暮らしていけないと、必死で活路を見出そうとしていたときの苦しさを考えれば、気は随分楽だ。結局、自分は自分のやりたい職業を見つけることには失敗したのだと思う。見つけられなかったから、暮らし方を軸にして考えた。打ち込める職業が思いつかなかったから、立派な親父になろうとしたのである。立派な親父や、充実した暮らしのイメージがなぜか私の場合「北の国から」に重なってしまい、だから、田舎にくらし、家を建て、田畑を耕した。職業としての農業ではなく、暮らしとしての農業だったともいえる。勿論、今の小学校の先生はとても好きだし、できれば正規の職員になりたい。だから、採用試験も受けている。続けられるだけ続けていきたいと思っている。しかし、それもあと5年である。今の自分の立場で、職業というか、残りの人生ずっと続けていける仕事を、自分の長所や得意なことを発揮できることを軸に、見つけたいのだ。普通、20代、30代でやることを、今一度リトライする。遅すぎるという見方もあると思う。でも、逆にいうと。普通の人が定年退職後、お金より暮らしを優先させてやることを、私は20代から40代にかけてやったと考えることもできる。そのことに、後悔は全く無い。失敗の連続であったにもかかわらず、ここにこうして元気でいられて、新たなスタートに思いをはせることができるということに、感謝するのみである。
2017.08.07
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これまで私たち家族と弟家族が、実家に帰省していた。我が家が6人、弟家族が5人。子供たちが小さいうちはまだよかったが、大きくなってからは大変である。なるべく負担にならないよう気をつかってきたつもりだが、特に母は大変だったと思う。今年は、我が家の娘夫婦+赤ちゃん2人。どう考えても実家に一堂に会するのには無理がある。気丈な母もしんどそうだ。長女の結婚出産が世代交代の良いきっかけになっているのだと思う。私は長男のくせに、父母に甘えっぱなしできたということなのだろう。どういう形にすれば父母が喜んでくれるのか、弟夫婦とも話し合ってみようと思う。
2017.08.07
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午後、妻と一緒に音戸の墓掃除。初めてである。これまでずっと父母がやってくれていた。何とも思っていなかったが、先日、ポツリと母が、掃除、墓参り、後片付けと3度もいくのはしんどいともらした。うちの墓は、人一人やっと通れる細い山道を上ったところにある。かなりの急坂で、私でも息が切れることもある。おまけに水も持ってあがらないといけないから、考えて見れば父母がきついというのは当然だ。もっと、早くに申し出るべきだった。妻と二人掃除をしながら、こうやって少しずつ世代交代をしていくのかなと、ちょっとしみじみと思った。
2017.08.07
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イソップ物語のアリとキリギリスに現代人をみたてて語った本だが非常に面白かった。アリさんを象徴する言葉が、安定、ブランド、現実、お金、権威、組織、規則、競争、キリギリスは、自由、変化、面白い、理想、新しい、個人前例が無いからやらないのが、アリ。無いからやるのがキリギリス。笑ったのは、「卒業するアリ、中退するキリギリス」アリは一度始めたことは終わらせることに意味があると考え、キリギリスは、過去のしがらみにとらわれず、今ベストと思うことをやる。だから、キリギリスの職歴は次から次へと変化する。私はまさに中学生のころからキリギリスだ。面白いのは、その典型的キリギリスの私が、アリさん社会の典型とも言える、農村に自ら入り、勤勉、粘り強さといったアリさん的資質が最も要求される農業を始めたことだ。その中でも特にその資質が要求される有機無農薬に取り組んだのだから、うまくいかないのも当然といえば当然だ。それで想像だにしなかった強烈な貧乏に深く傷ついたキリギリスは、反動でひたすら安定を追い求めた。それが10年前の私の姿である。そして、まさにアリさん的価値観の総本山である公立小学校の臨時教諭となる。そして、5年前、年齢制限が撤廃されたのを契機に、採用試験を受け続け、落ち続けているわけである。数年前の面接で、圧迫面接というより、パワハラではないかというような面接を受けた。エリートのアリさんの前に、キリギリスがのこのこ現れたようなものだったのであろう。私の経歴を見て、「自分のような公務員には、あなたのような無計画な生き方は理解できない。」とはっきり言われたが、これは、アリさんのキリギリスに対する率直な意見だと思う。自分のやってきたことを分析するにはもってこいの視点だと思った。この視点でもう一度自分の将来を考えて見たいと思う。
2017.08.06
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今朝もつらつら妻と話していて、自分の人生、失敗の連続だったなと。。。高校受験、大学受験、就職、、、農業を始めてからも、稲作の失敗、最近の採用試験の失敗シリーズ。明るい気持ちで迎えられた春のほうが少なかったような気もする。しかし、これは先日写真館で撮ってもらった写真。長女夫婦と妻、双子の孫、彼らの愛犬。失敗の連続であった私の人生の、しかしこれも紛れも無い事実である。私のネクタイは曲がっているが、間違いなく幸福の一コマである。f感謝するばかりである。
2017.08.06
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午前中、勤務校の、町内PTAのユニカール大会。そのまま、音戸の墓掃除に行くつもりだったが、昨晩、傷心のためあまり眠れなかったせいか、しんどくなって帰宅した。 こうして文章を書いているときが一番心が落ち着く。 凹んだ時は、妻にポツリポツリ、感想を言う。妻もよく聴いてくれる。本当にありがたいと思う。 結婚してから、不安定を絵に描いたような生活の連続だったから、最近の不合格シリーズ以前も、稲の不作など、年に1度はこんな光景を繰り返してきたように思う。 でも、そのおかげで、子供たちはしっかり自立し、妻とも手を取り合ってこれたのかもしれないと思う。 なんというか、こういうときに、じっくりこれまでのことを振り返り、これから先のことを時間をかけて話してきた。もちろん、そこで具体的な将来像が描けるわけではない。でも、なんとなくお互いどうありたいかの確認をしてこれたような気がするのだ。 情けない話だが、私が5年後10年後のビジョンを描く前に、5年後、10年後はやって来て、暮らしのステージはどんどん移っていった。 それでも、なんとかやってこれたのは、本当に幸運だったと思う。 さて、これからである。 これからの人生、まさに生きているだけで丸儲けの心境である。もうちょっと、のびのびと将来を考えて見たいと思う。
2017.08.05
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教員採用試験である。年齢制限撤廃後5度目のトライも不合格。すべて敗因は面接。受け答えがどうこうではなく、実は経歴、年齢で門前払いではないのかとも少し思っている。40才過ぎて、教員免許の認定試験で3回。採用試験で5回、計8回不合格を経験した。少し成長したと思えることがある。これはうまく使えば長所でもあると思うのだが、僕はこの手のことに全身全霊を打ち込む傾向がある。だから、それに失敗すると、全てがアウトと思ってしまう。人生が終わったかのごとく凹み、思いつめてしまう。それは、大きな間違いであるし、傲慢ですらあると、今は思えるようになっている。先日読んだアドラー心理学の本に同様のことが書いてあったような気がする。つまり、例えば結婚したい思っている人が、それができていない現状は、仮の人生だと考え、現実に正面から向き合おうとはしない。。。大切なのはゴールで、過程は過程でしかないと考える。まさしく自分はこのタイプだったなと思う。今は少し別の考え方を持っている。大切なのは、「今」。「今」を充実させる手段としてゴールがある。この考え方は、僕をとても楽にしてくれた。つまづくたびに、人生が終わったかのごとく嘆き苦しんだことが嘘のようである。そして、つまづきっぱなしだった私が、ここまでやってこれたのも不思議だ。感謝、感謝である。
2017.08.04
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